私はこれで会社を辞めました 第14話 | 半世紀少年乃皮膚筋炎間質性肺炎闘病日記
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半世紀少年乃皮膚筋炎間質性肺炎闘病日記

2017年に皮膚筋炎(抗ARS抗体陽性)と間質性肺炎(非特異的間質性肺炎(NSIP))を発症。
2018年、憩室炎で2ヶ月連続入院。
妻と娘、息子、犬、猫、みんなに支えられて生きています。
2019年、独立して商品企画コンサルタントになりました。


テーマ:

シビックのリモコンエンジンスタートが

効かない。

アイドリングストップの条例で

スマートキーからの

エンジンスタートを禁止する

自治体もあるようなので

この地域はそれなのかと思ったが、

ホンダディーラーの店長に聞いてみた。

答えは「忘れてましたー」って爆笑

本日設定して貰いにいきました照れ

 

さて私が会社を辞めるまでの物語再開します。

 

2005年に部長にしていただき、

周りからのお手並み拝見の雰囲気の中、

どうにかさまざまなプロジェクトを

進めてきました。

 


海外部門に行った尊敬する唯一の上司の

頼みで海外の代理店へのプレゼンを

しぶしぶ承諾しました。



 

私はこれで会社を辞めました 第14話です。




 

名古屋、大阪、福岡で開催する単独見本市の合間をぬって海外の代理店会議でプレゼンテーションする準備を始めた。



この代理店会議、私がCIのプロジェクト事務局をやっていた1992年に名古屋キャッスルで第1回を開催し、当時もこの会議の準備をしたので、なんとなく流れはわかっている。



そんなに難しく考えずに資料を作った。

海外のことは会長が中心だったので会長に流れを説明。「国内のことなんか話しても海外の人たちは面白くないぞ」と言われ大修正。



SS執行役員は国内のことをと言っていた、ちゃんとコンセンサスをとっておいてよぉプンプン



こんなことは日常茶飯事なので、気にせず約30分のプレゼンを完成させ、一路マレーシアに。



マレーシアの工場のデザイン部門には以前面倒をみた開発のNT君が責任者として赴任していた。

(彼はのちに2回部下になる)


工場内はお見せできないが、

倉庫はこんな感じ照れ




現地スタッフと打ち合わせを実施し、会場であるクアラルンプールに移動。


オッサンたちと一緒がイヤだったので

社用車で移動爆笑

トヨタイノーバかな?

ドライブインでは普通に猫もいます照れ




会場はクアラルンプール中心街と空港の間のリゾート地。




海外の皆さんお手並み拝見の私のプレゼン。

SS執行役員からは「とにかくゆっくりな」

英語になると急にはやくなる人が多いので聞き取れなくなるとアドバイスいただいた。


アジア諸国の場合、どちらも第二外国語で

あることが多い英語でコミュニケーションを

するわけなので当たり障りない単語が

ベストなわけです。


極力簡単な英語を使うのだが、一般の人からすれば変わった単語が多いだろう。


VulcanizingとかDyestuffとか普段は使わないような業界内での専門用語が多くなる。


こんな感じです。


プレゼンは何事もなく終了。


海外部門の人間は驚き、

SS執行役員は自分が連れてきた助っ人の本番強さを誇示し満足そう爆笑


全体としては大成功の会で社長もご満悦の様子。

夕方から50人くらいのお客さんと食事だが、ゆっくりしていられない。


日本で国内営業の単独見本市が始まるのだ。



夕刻に皆さんを見送り、一人で帰国。KL空港からチャンギ空港、深夜便で帰国した。



1993年に海外部門に転属の予定だったのと。

(上司の許可がでず取りやめになったが)

CIで海外の商品パッケージやカタログのデザインやVI(ビジュアルアイデンティティー)を監修したこともあり、海外の人間より海外の商品のことは知っている。


国内はスタンプが中心の会社だが、海外は筆記具が中心のため、国内外の社員の商品知識は共有できていない。数少ない両方の商品を詳しく知っている人間だった。

そういう面でSS執行役員は期待したのだろう。





帰国後、国内の見本市に参加。



1日数千万円の商談をする会で展示商品を持って各地にドサ周りをする感じだ。

おかげで各地方の営業マンや店長とも親しくなり、部長になったときのお手並み拝見感は薄くなってきた。

営業部門から認められ、頼りにされている感じがし始めるころだった。


社内の人脈が整いはじめたころ、水面下で進めていたプロジェクト佳境に入ってくる。



つづく