2003年トイレで副社長と一緒になり、その場で来年の組織の内示をもらった。
「ここで?」と思ったが聞いてしまったものは仕方ない。
SS執行役員が私の上司になるらしい。
SSさんは釣り仲間でよく一緒に釣りに行く仲だったので特に嫌でもないし、社内で唯一尊敬できる人だったので、「まぁなるようになる」とくらいしか思っていなかった。
それよりも、組合員課長を一年やって、来年から部長になるというプレッシャーのほうが大きい。
今年の上司は、万博担当、総務への異動となる。
いろいろありましたが、お世話になりました。
37歳で部長にしてもらうわけだが、たぶんあの会社ではかなり若い部長になるので手放しでは喜べない。給料が上がるのはうれしいが、大きな責任を負いたいとは思っていなかった。
年が明けて、マーケティング部の部長職を拝命し、年上の部員もいる中で奮闘した。
上司であるSSさんは自由にやらせてくれるタイプの人間だが、一言だけ注意をしてくれた。
「お前はいきなり部長になって、まわりの人間がお手並み拝見と言う目で見ているから気をつけろよ」と。
人間関係を保つことに興味がない私にとっては非常に苦しい立場だったが、なんとか営業の店長や取締役たちともうまくわたりあうことができたとは思っている。
折りしも、愛知万博が開催されており、前年に万博会場のパビリオンのスタッフローテーションが決まっていたので、管理職で唯一、万博の会場で接客スタッフとして対応したことが多少の息抜きにはなったと思う。
いろんな国の人や楽しんで商品を使ったりしてくれる現場はなにか楽しいものだ。
前年に事務局となって進めた中期計画の初めの年であり、なんとしても売上、利益ともに計画通りに進めなければいけないということもあり、なりふり構わず立ち回った年でもあった。
深澤直人氏やナガオカケンメイ氏、柴田文江女史などの著名なデザイナーとの仕事も増え、中部圏と首都圏を行き来する毎日だった。
米国の万年筆メーカー「パーカー」との共同開発を推進したり、キャンペーンを推進したり、webを利用した販売促進を展開したりとかなり中身の濃い活動をがむしゃらに推進した時代でもあった。
とにかく目標を達成する。これだけを目指して寝る間も惜しんで仕事をした。
とにかく自分に厳しかった。部下から見るとなんと怖い上司だろうと思っていたと思う。
やると決めたらどんな手を使ってもやる。やらないと決めたらてこでも動かない頑固上司だったと思う。
しかし、この頑固さがのちに社内の摩擦を生むことになる。
つづく