『髪カーテン』
「風間さん、お目覚めかしら?」
深夜に防衛任務があったために、本部の仮眠室で睡眠を取っていた。意識が浮上してゆっくりと目を開くと、ベットの縁に手をついて、加古がこちらの顔を覗き込んでいた。彼女の髪がちょうど自分の顔の横にかかっており、それが柔い檻のように感じられた。
「……加古か。何故覗き込んでいる?」
「ここに来たらあなたを見つけたものだから。あどけない寝顔が物珍しくて、つい眺めてしまったの。嫌だったかしら?」
「別に不快でないから構わない。ベッドを使うなら退くぞ」
「いいえ、大丈夫。貴方を探していただけだから」
「何か伝達事項でもあったのか?」
「いいえ、ただソロの申し込みをしたかっただけよ。風間さん忙しいでしょう? だから予約しておきたかったの」
「そうしなくとも今日なら戦えるぞ」
「あら本当? それはツイてるわ」
心なしか弾んだ声音でそう言った後、加古が顔を上げたので、それに合わせて起き上がる。体を解すように動かすと微かにパキリと骨の鳴る音がした。目を完全に覚ますのに戦いは丁度いい。向かい合う体勢となった彼女を見やると、口角がゆるりと上がっており、瞳の奥がチカチカと燃えていた。そんなに楽しいものなのか、自分との勝負が。その光に目を細めそうになりながら、ベッドから床へと足をつけた。
『アップルパイ』
遠くで暮らす親戚から大量の林檎が届いた。これだけ多いと食べきれないから誰かに分けてきて欲しいと、母に頼まれ、まず人数がいて扱いには困らないだろうと玉狛支部へ行き木崎へ渡し、次に本部へ足を運んで諏訪と雷蔵に押し付けた。それでもまだ、預けられた赤い果実は余っている。自隊の隊員は全員本部にいなかったので今回は分ける事を諦めた。どうしようかと思案していると淡い金の長髪を持つ、背筋の伸びた人物の顔が脳内に浮かんだ。
本部と大学の中間地点にほど近い所にある、比較的新しそうに見えるマンションが、彼女の住まいだった。メッセージアプリで連絡は入れたが、返信がなかったので在宅している可能性は低いだろう。いなかったらドアノブに掛けてしまおうと考えながらチャイムを鳴らした。しばらく待っていたが、やはり返事や物音の類は聞こえない。袋をかけようとしたその時、それを見計らったかのように携帯が振動した。通知を確かめると、『あと十分ぐらいで着くから中に入っていてちょうだい』という文面が表示されていたので、袋を持っていた手を一旦ドアから遠ざけて、ジーンズのポケットからキーリングで纏められた鍵の束を取り出した。今まで自宅と自転車のものしかついていなかったが、この部屋のそれを、つい最近家主から差し出されたのだ。そういう出来事が起こりうる関係であるし、信頼の証とも言えるものを貰えて、少なからず心が高揚したのを覚えている。これを使うのは初めてだと気づきながら、鍵を穴へと差し込み、扉を開いた。
ひたひたとフローリングに足を張りつくのを感じながら歩を進め、リビングへ辿り着く。部屋の電気をつけて、ローテーブルの上に袋を置き、洗面所に向かって手を洗う。テレビを見る気も起こらず、半端な時間であるので手持ち無沙汰だ。ソファに座っていると、いつの間にか意識が現実から遠のいていった。
目を覚ますと、体が横たえられており、薄い毛布がかけられている。室内には熱せられたバターの匂いがぶわりと広がっており、鼻がひくりと動くのが分かった。誰がそうしたかなんて答えは一つしかない。起き上がって頭を動かすと、キッチンに加古が立っていた。
「風間さん、おはよう」
「……ああ、すまん。寝ていた」
「大丈夫よ。寝ている間に貴方から貰った林檎でアップルパイを作っていたから。むしろ風間さんにとっての退屈な時間が減ったから良かったんじゃないかしら?」
「……そうか。そろそろ出来上がるのか?」
「ええ。いい匂いがするでしょう?」
会話が終了した時、オーブンが高らかに終わりを告げた。加古は鍋つかみをつけてパイを乗せた鉄板を取り出し、布巾の上に置いた。ジュッという布の焼ける音が微かに響く。
置かれたものを見るために近づくと、丸い細く切られたパイ生地が格子状に乗せられており、煮られた林檎が透けて見える。その縁を彩るように三つ編みにした生地で囲まれた、整った見た目のアップルパイが鎮座していた。表面がてらてらと輝いており、彼女の言う通り、芳しい匂いを、キッチンからリビングにかけての一体にまき散らしている。なるほど、これは美味そうだ。
「食べてもいいのか?」
「勿論。貴方がくれた林檎だもの。ただ少し冷ますから待ってもらうけれど」
「それぐらい構わない。加古の料理は大体美味いからな」
「あら、意味深ね?」
『大体』の部分を殊更強調して話すと、更に笑みを深くした加古が首を微かに傾げてみせた。
料理の片付けを手伝うと、待ち時間はすぐに過ぎ去り、実食と相成った。型から外され、皿に乗せられたアップルパイがナイフで切り分けられていく。その手際の良さに感嘆の溜め息が漏れそうになる。そして切った勢いのまま、小さな皿に一切れのパイを器用に置き、予め出しておいたフォークが添えられた。さらに紅茶の茶葉の入ったティーポットを一度揺らしてカップへ注がれる。菓子とは異なる芳香が鼻腔を刺激した。
「はい、どうぞ。召し上がってちょうだい」
「……いただきます」
フォークを手に取り、全体の四分の一ほど切って口へ入れると、パイの軽やかな食感と林檎の優しい風味や後味に残るシナモンがわずかに香って心地いい。匂いから予想してはいたが、それを上回る味と言える。
「どう? 口に合ったかしら?」
「今まで食べたアップルパイのなかで一番美味いな」
「それは光栄だわ」
「お前も食べてみればいい」
「風間さんもそういうことするのね」
「……ああ、たまにはな」
アップルパイにフォークを刺して加古の口元に差し出した時、彼女にしては珍しくやや驚いたような顔をしてみせた。そこで今自分が行っているのは俗に言う『あーん』だということを思い出した。そのような意図はなかったのだが。アップルパイが美味くて気づかぬうちに心が弾んでいたのかもしれない。そんな自分をおかしく思いながら、パイを味わう加古を尻目に湯気のたつ紅茶を呑んだ。