「突破力」で社会を切り拓く全方位ドクター
大阪大学 寄附講座教授
内閣府 規制改革推進会議委員
内閣官房 健康医療戦略室 戦略参与
森下 竜一(医学博士)
大阪大学大学院で臨床遺伝子治療学の教鞭を執る森下竜一先生。大学発のベンチャー企業にも携わり、さらには内閣官房「健康医療戦略室」戦略参与を務めるなど、ひとつの肩書に留まることなく、幅広い分野で活躍されています。森下先生とお話ししているとその頭の回転の速さもさることながら、発想の広がり、切り口の鮮やかさ、繋がりのないものを有機的にコンバインしていくバイタリティなど、圧倒されるばかりです。先生に学生時代の思い出や現在の仕事の内容、これから求められる医療人像について伺いました。
官僚志望から一転、医師の道へ
ー医師を志したきっかけを教えてください。
両親が岡山で開業医をしており、父方の祖父と母方の祖父母も医者で、私は3代目になります。父親が日本医科大学出身ということもあり、医学部へ行くんだったら東京だろうということで、東京の私立高校を受験したんです。それで武蔵高校に進学することになりまして…。ですが、最初から医者になりたいと思っていたわけではなく、当時はちょうど高度成長期の頃で官僚がかっこよく見えて、官僚になろうと思っていたんです。でも最後の最後に親から説得を受けて方向転換し、最終的に慶応と阪大(大阪大学)を受けて、阪大へ進みました。
ーそれで医学部へ進まれたんですね。学生時代はどのように過ごされましたか?
いわゆるガリ勉タイプではなく、毎日実験しながら遊びも楽しむ…という生活でした。ゴルフやマージャンもずいぶんやりましたよ(笑)。国家試験の勉強もギリギリになってからしました。今と違っておおらかな時代で、楽しい学生生活でした。
ーその後は大学院へ進まれたんですね。
大学卒業後、第四内科(老年医学)の大学院に入りました。私の場合、実家で病院を開業していたこともあり、早く医学博士になって、いずれ岡山へ帰ってもいいなと考えていました。ちょうどその頃、分子生物学が流行り始めていて、阪大の医局ではできないということで、大阪医科大学へ国内留学しました。大学院卒業後は、アメリカのスタンフォード大学へ留学。年齢で言うと28~31歳の時ですね。そこで行なっていた遺伝子医療の研究で成果が出て、帰国後もそのまま研究畑へ進みました。
ー留学時代も含め、印象に残っていることはありますか?
恩師に恵まれ、研究そのものも面白かったですね。阪大では、のちに老年医学会の学会長や阪大の附属病院長を歴任された荻原俊男先生にお世話になりました。この先生が、とても自由度が高い人で、結果を出せば、そのほかのことは比較的好きにさせてくれたので、実験の合間に遊びに行き、また戻って測定する…なんてことをしていました。 アメリカでは遺伝子治療の研究をしました。スタンフォード大の恩師Dzau 教授には大変かわいがってもらい、哲学やダイナミックな考え方など、多くのことを学びました。とりいう言葉は私の胸に響きました。技術や研究が進んでも、それが患者さんなり社会に還元されないと有意義とは言えない。そのことを強く意識するようになりましたね。最初に研究成果が出た時に、スタンフォード大学の知的財産部にすぐ連絡しろと言われ、特許を出すことの重要性も教わりましたし、その研究成果をベンチャー企業に移転し、大規模臨床試験がブリストルマイヤーズと提携して始まるなど、ダイナミックな先端医療の実用化の過程を見させてもらいました。
その後、Dzau 教授は、スタフォード大学医学部長、ハーバード大学医学部長、デューク大学学長を務め、アメリカの医学研究のトップInstitute of Medicine の会長やオバマ大統領の医学顧問を務めるなど大変な出世をされました。いわゆる中国人一世の方でしたが、ものすごく頭の良い方で、今でも私のメンターです。
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