「東京裁判史観(自虐史観)を廃して本来の日本を取り戻そう!」
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する。
( 心が臨界質量を超えるとは → http://tinyurl.com/5kr6f )
( 東京裁判史観とは → https://tinyurl.com/ugz9qah )
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《 いま注目の論点 》
★地上イージス断念 猛省し防衛体制を見直せ――産経新聞
★米、対中政策に「力の平和」――古森義久さん
★米中対立 5G規格に飛び火――塩原永久さん
★反警察運動 全米デモ不都合な真実――島田洋一さん
★小池氏が出馬表明 疑惑に答え都の未来語れ――産経新聞
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真珠湾攻撃に踏み切る前、日本はABCD包囲陣による経済封鎖を受けて、鉄鉱石一つ、石油一滴入手できない状態でした。そこにアメリカは「ハル・ノート」を突きつけてきます。シナ大陸からの即時撤退、日独伊三国同盟の破棄、反日的蒋介石政権の承認など、日本政府がのめるわけがない要求ばかりでした。実質的な最後通牒と言えるものです。これでは、日本が「卑怯な騙し討ち」を行う理由などどこにも見当たりません
◆なぜ、泥縄(どろなわ)式の「真珠湾攻撃」を決断したか
『日本史から見た日本人 昭和編』http://tinyurl.com/mzklt2z
【 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p354 】
ここで注目すべきことは、アメリカにある日本資産、イギリス領土全土にある日本資産、オランダ領インドネシアにある日本資産が凍結され、日英通商航海条約の廃止通告を受けて2ヵ月も経ってから、ようやく日本は開戦準備の決断をしていることである。アメリカは、これよりさらに2年前の昭和14年(1939)の7月に、日米通商航海条約の廃棄を通告してきているのだ。
日本が、いよいよ開戦もやむなしとしたのは、昭和16年(1941)11月5日であるが、まだ一筋の望みをつないでいた。だが、11月26日にハル国務長官から、今までの日米交渉の経過をまったく無視した強硬な提案、いわゆるハル・ノートを提出してきた。これは、実質的な最後通牒であると日本側は認識した。
これは日本側だけの認識ではなく、日本を裁いた東京裁判において、パル裁判官は現代の歴史家の言葉として、次の一文を引用している。
「……真珠湾攻撃の直前に〔11日前に〕、米国国務省が日本政府に送ったものと同じような通牒〔ハル・ノート〕を受け取った場合、モナコ王国やルクセンブルグ大公国でさえも、合衆国に対して戈(ほこ)を執(と)って起(た)ちあがったであろう」(『パル判決書』下・講談社学術文庫・441ページ)
それでもまだ、一縷(いちる)の望みを野村大使の外交交渉に託し、アメリカ側の譲歩が得られる場合は、すでに真珠湾攻撃に向った連合艦隊も途中で引返すことになっていた。
なぜ、日本がこれほどまで対米開戦を躊躇したかと言えば、海軍が嫌がったからである。その海軍が開戦の肚を決めたのは、石油がなくなることが明らかになってからである。なぜ、石油がなくなるような事態まで行ったかと言えば、まずい外交の繰返しによって、ずるずるとそこまで引きずられたとしか言いようがない。なぜ、そこまで外交がずるずるとまずくなったかと言えば、つまり、昭和5年(1930)の統帥権問題に戻ることになる。真珠湾の奇襲(スニーク・アタック)は国際的に悪名が高く、「日本人はずるい民族で、何をやるか分からない」という印象を世界に与え、また、アメリカ人全体の意見をまとめて、戦争に突入させる力があった。
しかし、その海軍はそんなに以前から準備していたわけでない。海軍が大戦突入の研究にとりかかったのは、実に昭和16年(1941)の6月、つまり、開戦半年前からであり、真珠湾攻撃の図上演習は3ヵ月前の9月、しかも、そのための魚雷や、大型航空母艦の洋上補給のやり方などは、その後の2ヵ月間に工夫され、準備されたのである。また、飛行士の養成も、年間たった100名以下の養成計画でやってきていたのであるから、日本海軍の真珠湾攻撃計画は、よく言えば急速、世間なみの表現で言えば泥縄式だったのである。
日本が全面的共同謀議で戦争を計画した、という東京裁判の論告要旨がナンセンスなものであったことは、言うまでもない。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
私が、アメリカの大学で教えていた時、クラスで真珠湾攻撃の話を
したことがあった。
石油問題に触れて、「首を絞められて――チョーキングで――、気
絶しそうになった時、その寸前に一撃――パンチング――を与えた
のが真珠湾(パール・ハーバー)攻撃であった。チョーキングとパン
チングは、どちらが悪いかと言ってもはじまらない」という趣旨の
ことを言ったら、何人かの学生が席を立って退席した(アメリカ人
は、野次や暴力で発言を止めないで、退席するということを、この
時に体験した。その後、別のテーマで国際会議の基調演説をした時
も同じ体験をした)。
しかし、何人かの学生は、あとで私の所にやってきて、「どうして
小さい日本がアメリカを攻撃してきたのかと思っていたが、よく分
かった」と言い、「サンキュー」とまで言ってくれたものだった。
ところが、その頃(1960年代後半)、アメリカに行って教えて
いる若い日本人の先生は、この石油のことを知らず、ひたすら日本
のみが突如攻撃したのだと思いこんでいた。日本人とは、理由もろ
くになく、突如、真珠湾攻撃するような邪悪な民族であるというイ
メージは、戦時プロパガンダによりアメリカに普及しているらしい
し、戦後の日本でも、日本性悪説を教える教育の中では、戦前の石
油問題という明白なことも、子どもに教えられることはないようで
ある。
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する。
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★地上イージス断念 猛省し防衛体制を見直せ――産経新聞
★米、対中政策に「力の平和」――古森義久さん
★米中対立 5G規格に飛び火――塩原永久さん
★反警察運動 全米デモ不都合な真実――島田洋一さん
★小池氏が出馬表明 疑惑に答え都の未来語れ――産経新聞
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真珠湾攻撃に踏み切る前、日本はABCD包囲陣による経済封鎖を受けて、鉄鉱石一つ、石油一滴入手できない状態でした。そこにアメリカは「ハル・ノート」を突きつけてきます。シナ大陸からの即時撤退、日独伊三国同盟の破棄、反日的蒋介石政権の承認など、日本政府がのめるわけがない要求ばかりでした。実質的な最後通牒と言えるものです。これでは、日本が「卑怯な騙し討ち」を行う理由などどこにも見当たりません
◆なぜ、泥縄(どろなわ)式の「真珠湾攻撃」を決断したか
『日本史から見た日本人 昭和編』http://tinyurl.com/mzklt2z
【 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p354 】
ここで注目すべきことは、アメリカにある日本資産、イギリス領土全土にある日本資産、オランダ領インドネシアにある日本資産が凍結され、日英通商航海条約の廃止通告を受けて2ヵ月も経ってから、ようやく日本は開戦準備の決断をしていることである。アメリカは、これよりさらに2年前の昭和14年(1939)の7月に、日米通商航海条約の廃棄を通告してきているのだ。
日本が、いよいよ開戦もやむなしとしたのは、昭和16年(1941)11月5日であるが、まだ一筋の望みをつないでいた。だが、11月26日にハル国務長官から、今までの日米交渉の経過をまったく無視した強硬な提案、いわゆるハル・ノートを提出してきた。これは、実質的な最後通牒であると日本側は認識した。
これは日本側だけの認識ではなく、日本を裁いた東京裁判において、パル裁判官は現代の歴史家の言葉として、次の一文を引用している。
「……真珠湾攻撃の直前に〔11日前に〕、米国国務省が日本政府に送ったものと同じような通牒〔ハル・ノート〕を受け取った場合、モナコ王国やルクセンブルグ大公国でさえも、合衆国に対して戈(ほこ)を執(と)って起(た)ちあがったであろう」(『パル判決書』下・講談社学術文庫・441ページ)
それでもまだ、一縷(いちる)の望みを野村大使の外交交渉に託し、アメリカ側の譲歩が得られる場合は、すでに真珠湾攻撃に向った連合艦隊も途中で引返すことになっていた。
なぜ、日本がこれほどまで対米開戦を躊躇したかと言えば、海軍が嫌がったからである。その海軍が開戦の肚を決めたのは、石油がなくなることが明らかになってからである。なぜ、石油がなくなるような事態まで行ったかと言えば、まずい外交の繰返しによって、ずるずるとそこまで引きずられたとしか言いようがない。なぜ、そこまで外交がずるずるとまずくなったかと言えば、つまり、昭和5年(1930)の統帥権問題に戻ることになる。真珠湾の奇襲(スニーク・アタック)は国際的に悪名が高く、「日本人はずるい民族で、何をやるか分からない」という印象を世界に与え、また、アメリカ人全体の意見をまとめて、戦争に突入させる力があった。
しかし、その海軍はそんなに以前から準備していたわけでない。海軍が大戦突入の研究にとりかかったのは、実に昭和16年(1941)の6月、つまり、開戦半年前からであり、真珠湾攻撃の図上演習は3ヵ月前の9月、しかも、そのための魚雷や、大型航空母艦の洋上補給のやり方などは、その後の2ヵ月間に工夫され、準備されたのである。また、飛行士の養成も、年間たった100名以下の養成計画でやってきていたのであるから、日本海軍の真珠湾攻撃計画は、よく言えば急速、世間なみの表現で言えば泥縄式だったのである。
日本が全面的共同謀議で戦争を計画した、という東京裁判の論告要旨がナンセンスなものであったことは、言うまでもない。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
私が、アメリカの大学で教えていた時、クラスで真珠湾攻撃の話を
したことがあった。
石油問題に触れて、「首を絞められて――チョーキングで――、気
絶しそうになった時、その寸前に一撃――パンチング――を与えた
のが真珠湾(パール・ハーバー)攻撃であった。チョーキングとパン
チングは、どちらが悪いかと言ってもはじまらない」という趣旨の
ことを言ったら、何人かの学生が席を立って退席した(アメリカ人
は、野次や暴力で発言を止めないで、退席するということを、この
時に体験した。その後、別のテーマで国際会議の基調演説をした時
も同じ体験をした)。
しかし、何人かの学生は、あとで私の所にやってきて、「どうして
小さい日本がアメリカを攻撃してきたのかと思っていたが、よく分
かった」と言い、「サンキュー」とまで言ってくれたものだった。
ところが、その頃(1960年代後半)、アメリカに行って教えて
いる若い日本人の先生は、この石油のことを知らず、ひたすら日本
のみが突如攻撃したのだと思いこんでいた。日本人とは、理由もろ
くになく、突如、真珠湾攻撃するような邪悪な民族であるというイ
メージは、戦時プロパガンダによりアメリカに普及しているらしい
し、戦後の日本でも、日本性悪説を教える教育の中では、戦前の石
油問題という明白なことも、子どもに教えられることはないようで
ある。