趣味で短歌を始めてから、もう3年経つ。はじめは友人とふたりでやっていたのが、だんだん人数が増えて会になり、同人誌も出した。とても楽しい。
短歌の活動をやっていくなかで、昨年の年末に、とあるオープンの歌会へ参加したことがある。詠草(自作の短歌)を提出し、それに評をもらって、リーグ戦形式で優勝者を決めるという歌会。
はじめは、6~7人のグループで歌の評を行う。みんな歌歴が長いだけあって、上手い歌が多かった。
グループ内で順番に歌を発表する、その最後に、私の歌が取り上げられた。すると、誰もなにも言わないうちから、ひとりの歌人が「興味がない」と言った。
グループの司会の人がフォローしてくれて、他の歌人の人たちからは、いろいろなフィードバックをもらった。ただ、「興味がない」と言った人は、終始興味がなさそうだった。
詠草に対して、評をするのが歌会の趣旨なのだが、「興味がない」というのは「短歌の評」なのだろうか。ずっと考えていた。
「興味がない」という評、もしかしたら、いろんな意味合いがあるのかもしれない。私は、歌歴が浅い。たいして上手くもないという自覚もある。そういう点を指して「興味がない」つまり、歌会のテーブルにのせてよいレベルではない。そういう意味かもしれないと考えたりもした。
ただ、やはり「興味がない」は「興味がない」でしかないだろう。私の歌を、読む気がない。そういうふうにしか、私には受け止められなかった。
「興味がない」は、評ではないだろう。「評」とはなにか。定義によると、”物のよしあしを公平に判断して言いあげる。しなさだめする。その文章。”らしい。「興味がない」と言った歌人は、私の歌を読んですらいない。評をしていない。
「興味がない」が許される「歌会」という場、私は幻滅してしまった。もう二度と参加したくないし、参加することはないだろう。読まれない歌を詠んでも、むなしいだけだし。
短歌の評、わりとこういうのが多い。自分の心に引っかからなかったから、わからない。背景がわからなかったから、読めない。嫌いだから、読まない。客観的な評価の基準もないし、批評理論もないようなものだ。
いや、短歌の批評理論、あるのかもしれない。私の勉強不足かもしれない。あったら、すみません。ただ、批評理論があったとして、それを実践している人は、限りなく少ないように思える。結局みんな、自分の好き嫌いやフィーリングで、歌のよし悪しを判断している。
「興味がない」の話にしたって、たぶんなにか気に入らないところがあって、「興味がない」というリアクションになったのだろう。歌に対して、その程度の評価基準しかない。
「読めない」という問題も、深刻だと思う。背景がわからない、それで読めないなら、歌のバックグラウンドを知ればいいだけの話なのに(今ならなんでも簡単に調べられるし)、「わからない・知らないから読めない」という評価が、まかり通ってしまっている。
「よき詠み手」と「よき読み手」は、ぜんぜん違うものだと思う。「よき詠み手」は、たくさんいる。歌集は、何冊か持っている。どれもいい。先に書いた歌会のなかでも、参加した人たちから出てきた歌は、どの歌も感性で「いい!」と思った。
ただ、「よき読み手」は、ほとんどいないように感じる。歌を批評的に読める人、いるのだろうか。というか、歌を批評する方法はあるのだろうか。また「興味がない」の話に戻るが、「興味がない」は、批評的態度なのだろうか。
歌会などをやると、だいたいの場合で「詠み手=読み手」というかたちになる。総合誌などで選者を務めてらっしゃる人、本人が歌人である場合がほとんどだろう。ただ、繰り返しになるが、「よき詠み手=よき読み手」ではない。
たとえば小説であれば、作家と批評家は明確に別れている。作家には作家の作法があり、批評家には批評家の作法がある。対して短歌は、作者と読者の境界が、ほとんどない。「作者=読者」であることが、一概に悪いことだとは思わない。しかし、「批評家の不在」については、いいことだとは思わない。
乱暴な言い方になるが、現代短歌には文字通りの「評」なんて、存在しえないのではないか。あるのは、好き嫌い、「私はこう読みました」という解釈、「こういうストーリーがありそうですね」という類推、「私はこういう印象を持ちました」という感想だけなのではないか。理論的な評は、上から下まで存在しないのではないか。
コレはグチなんだけど、短歌読者のムカつくところは、読んだら「評」を出したがるところ。さっき「よき読み手はいない」と書いたが、それでも一言言いたがるところ。またまた話が戻って恐縮なんだけど、「興味がない」も「一言言ってやろう」精神のあらわれな気がする。
最近、古語で短歌を詠んでいるが、どこかへ出す気はしない。出したところで、どうせ誰も古文をわからない、誰もちゃんと読めないだろうし。それでも、出したら出したでなにか言われるだろうし。想像しただけでムカつく。
「興味がない」という「評」をいただいてから、評について考えて、短歌評もいくらか読んだ。結論、まずは選者(読み手)個人の興味をひかないと、評に取り上げられることはない。評価のテーブルにのらない。これは当たり前のことだ。誰だって、興味のないものは読まない。私だってそう。
歌会でいただいた「興味がない」という「評」は、じつにわかりやすい例だと思う。私の歌は、あの歌人からしたら、箸にも棒にもかからない、程度の低いものだったのだろう。そう考えれば「興味がない」のにも、納得はいく。
ただ、歌会という、互いの歌を評価しあう場所において、評の段階で「興味がない」という発言をされたことについては、いまだに頭にきているし、納得していない。根に持っているので何度でも言うが、「興味がない」は、「評」ではない。
歌を詠むのは、あいかわらず好きだ。自分の好きなように、楽しく歌を詠んでいたい。なので、歌会も公募も、全部やめた。「評」されたくない。他者からの評に対して、自分が理屈で納得できるならともかく、今はまったくできそうにない。
歌会でもらった「興味がない」という「評」のおかげで、「短歌の評」というものの価値が、よくわかった。「短歌の評」すくなくとも、今の私には理解できないし、なんの価値も見いだせなさそうだ。
「評」に価値を見いだせないのに、「評」に一喜一憂しながら歌作をするのは、イヤだな。選者・評者・読者の好き嫌いやお気持ちに寄せて歌を詠むことが楽しいとは、どうしても思えないし。
みなさんは、どういうお気持ちで歌作をされているか知らないけど、私は「楽しい」ことをいちばん大事にしている。そして、「評」は楽しくなさそうだ。
「評」という、よくわからない、得体の知れないものには、振り回されたくない。「歌で名を成したい」とか「歌で認められたい」とか、そういう野心もないし。これからは、第一に楽しく、のびのびと、孤独に、歌作をやっていきたい。