“ウコン”の花:
生薬の“ウコン(鬱金)”は、一般に「肝臓にいい」と聞くが、それは“秋ウコン”を言い、いま咲く“春ウコン”の方は薬効も違うらしい。上にアップしたのは昨日、畑の脇の藪の中で見つけた花。地主のおばさんに聞くと、“ウコン”だという。珍しいのでアップしておいた。
さて、“ウコン”とは全く関係のない話だが、工藤晃著『エコノミスト、歴史を読み解く』(新日本出版社)を読んで、こんにち国歌とされる『君が代』の由来に新たな視点が当てられていることを知った。著者は「『君が代』の生誕史全体にわたって、従来の通説(注:『古今和歌集』由来説など)を再考するといったものではない」としながらも、次のように言っている。
<…私のこの一文は、最近私たちがおこなった調査にもとづき、当時大山(注:大山巌(1842~1916)は鹿児島出身。陸相・参謀総長を努め、日露戦争では満州軍総司令官)が、大山に限らず彼のまわりの薩摩藩の若い武士たちが愛唱した「君が代」は、もっと別の歌であった可能性が見えてきたことをあえて提唱することにした。もちろんこれで決着がついたなどとは思わない。しかし、この問題をめぐってまだ多くの真実がかくされていることはまちがいないと思う。>
著者は偶然に、新村出編『広辞苑(第4版)』(岩波書店)で、『君が代』の歌詞が「江戸時代の隆達節(りゅうたつぶし)の巻頭第一にあるものと同じ」とあるのを見た。“隆達節”は「江戸初期の流行歌。泉州堺にある日蓮宗顕本寺の僧隆達(1527~1611)が創めた小唄。1600年ころに流行、近世小唄の源流をなした。隆達小歌。」(『広辞苑』)という。
いろいろ調べていくと、隆達ゆかりの寺・堺の顕本寺に行きつく。ここには隆達の墓があり、現住職夫妻は“歌謡の元祖”隆達の顕彰のため心血を注いできたといい、戦前顕本寺にあった隆達の屏風がボストン美術館にあって、この返還を求めて努力するもかなわず、その屏風の「写し」が寺に存在することを知る。
屏風は六曲一双で、自由奔放な遊里の風景が四面分に描かれ、両側に隆達の筆による書がある。1602(慶長7)年、隆達75歳。最初の[一面]第一首が『君が代』の歌詞と同じの「君が代は千代に八千代にさざれ石の岩ほとなりて苔のむすまで」である。
他には、
[一面]
・おもいきれとは身のままか誰かはきらむ恋のみち
・雨の降る夜の独り寝はいずれ雨とも涙とも
[二面]
・人は知るまじ我が仲を頼むぞ側の扇も帯も
・この春は花にまさりし君持ちて青柳の糸乱れ候
[三面]
・花を嵐のちらすような雪に袖うち払ひ誰かおりやらうぞの
・悋気(りんき)心か枕な投げそ投げそ枕に咎はよもあらじ
[四面]
・月もろともに立ち出でて月は山の端に入る我は妻戸に
・そなた忍ぶと名は立ちて枕並ぶる間もなやの
などの「恋歌(ラブソング)」が並んでおり、『君が代』の「君」は明らかに親しい人、愛する人を指している。(参照:「日本共産党大阪府委員会:“君が代”のルーツが堺の寺に!?顕本寺の僧創作の隆達節」2007.05.25)
これらの調査結果を踏まえ、著者の工藤晃氏はこう言っている。
<明治初年にどんなどさくさで始まったにせよ、その後の「君が代」の国歌への昇格の過程で、明治政府の権力者どもによる天皇制イデオロギーのでっち上げの進行―軍人勅諭から教育勅諭へ―とともに、これまで民衆が大事にしてきたこの歌の中身が抜き取られ、代わりに天皇制賛歌と忠君愛国の歌にすり替えられてしまったことは、重大な欺瞞である。
我々の結論は次の通りである。
第一、以上述べたところから、「君が代」は国歌にふさわしくないと考える。付け加えて言えば、酒の席などで歌っていた歌を、子どもたちに厳粛な顔をして歌わせるのはいかがなものか。
第二、「君が代」問題は、日本の文化のあり方にかかわっている。日本の古典芸能を大事にする立場から、「君が代」の問題を再考しなければならない。いつの日かまた、隆達が隆達節の第一に「君が代」をおいた平和を愛する心を考え、隆達のこの心が復元される日が来ることを願うものである。>
民主国家の国歌として、戦前の「天皇制」を引き摺る天皇讃歌の『君が代』が不適切であることは、良識ある国民なら否定しようもあるまい。『君が代』信奉者はそのルーツを『古今和歌集』などに結びつけ、権威付けしようとしているようだが、薩摩藩で盛んに歌われていた江戸時代の「恋歌」が元歌だったというのが真相のようだ。若い世代の人たちが、自分たちにふさわしい「国歌」を創作してくれることを望むばかりである。
ちなみに、作曲家・水谷川忠俊氏(近衛秀麿(文麿の異母弟)の子息)は『君が代』の曲は「二十一世紀の若者にふさわしくない」と断じているが、もっともなことである。わたしも改めて言うが、この陰陰滅滅たる歌を歌おうとは思わない。
「君が代のひみつ」:http://www.geocities.jp/polaris721/amato-network-miyagawa01.htm
(参照:「わたしは“君が代”を歌わない: http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/m/200702
生薬の“ウコン(鬱金)”は、一般に「肝臓にいい」と聞くが、それは“秋ウコン”を言い、いま咲く“春ウコン”の方は薬効も違うらしい。上にアップしたのは昨日、畑の脇の藪の中で見つけた花。地主のおばさんに聞くと、“ウコン”だという。珍しいのでアップしておいた。
さて、“ウコン”とは全く関係のない話だが、工藤晃著『エコノミスト、歴史を読み解く』(新日本出版社)を読んで、こんにち国歌とされる『君が代』の由来に新たな視点が当てられていることを知った。著者は「『君が代』の生誕史全体にわたって、従来の通説(注:『古今和歌集』由来説など)を再考するといったものではない」としながらも、次のように言っている。
<…私のこの一文は、最近私たちがおこなった調査にもとづき、当時大山(注:大山巌(1842~1916)は鹿児島出身。陸相・参謀総長を努め、日露戦争では満州軍総司令官)が、大山に限らず彼のまわりの薩摩藩の若い武士たちが愛唱した「君が代」は、もっと別の歌であった可能性が見えてきたことをあえて提唱することにした。もちろんこれで決着がついたなどとは思わない。しかし、この問題をめぐってまだ多くの真実がかくされていることはまちがいないと思う。>
著者は偶然に、新村出編『広辞苑(第4版)』(岩波書店)で、『君が代』の歌詞が「江戸時代の隆達節(りゅうたつぶし)の巻頭第一にあるものと同じ」とあるのを見た。“隆達節”は「江戸初期の流行歌。泉州堺にある日蓮宗顕本寺の僧隆達(1527~1611)が創めた小唄。1600年ころに流行、近世小唄の源流をなした。隆達小歌。」(『広辞苑』)という。
いろいろ調べていくと、隆達ゆかりの寺・堺の顕本寺に行きつく。ここには隆達の墓があり、現住職夫妻は“歌謡の元祖”隆達の顕彰のため心血を注いできたといい、戦前顕本寺にあった隆達の屏風がボストン美術館にあって、この返還を求めて努力するもかなわず、その屏風の「写し」が寺に存在することを知る。
屏風は六曲一双で、自由奔放な遊里の風景が四面分に描かれ、両側に隆達の筆による書がある。1602(慶長7)年、隆達75歳。最初の[一面]第一首が『君が代』の歌詞と同じの「君が代は千代に八千代にさざれ石の岩ほとなりて苔のむすまで」である。
他には、
[一面]
・おもいきれとは身のままか誰かはきらむ恋のみち
・雨の降る夜の独り寝はいずれ雨とも涙とも
[二面]
・人は知るまじ我が仲を頼むぞ側の扇も帯も
・この春は花にまさりし君持ちて青柳の糸乱れ候
[三面]
・花を嵐のちらすような雪に袖うち払ひ誰かおりやらうぞの
・悋気(りんき)心か枕な投げそ投げそ枕に咎はよもあらじ
[四面]
・月もろともに立ち出でて月は山の端に入る我は妻戸に
・そなた忍ぶと名は立ちて枕並ぶる間もなやの
などの「恋歌(ラブソング)」が並んでおり、『君が代』の「君」は明らかに親しい人、愛する人を指している。(参照:「日本共産党大阪府委員会:“君が代”のルーツが堺の寺に!?顕本寺の僧創作の隆達節」2007.05.25)
これらの調査結果を踏まえ、著者の工藤晃氏はこう言っている。
<明治初年にどんなどさくさで始まったにせよ、その後の「君が代」の国歌への昇格の過程で、明治政府の権力者どもによる天皇制イデオロギーのでっち上げの進行―軍人勅諭から教育勅諭へ―とともに、これまで民衆が大事にしてきたこの歌の中身が抜き取られ、代わりに天皇制賛歌と忠君愛国の歌にすり替えられてしまったことは、重大な欺瞞である。
我々の結論は次の通りである。
第一、以上述べたところから、「君が代」は国歌にふさわしくないと考える。付け加えて言えば、酒の席などで歌っていた歌を、子どもたちに厳粛な顔をして歌わせるのはいかがなものか。
第二、「君が代」問題は、日本の文化のあり方にかかわっている。日本の古典芸能を大事にする立場から、「君が代」の問題を再考しなければならない。いつの日かまた、隆達が隆達節の第一に「君が代」をおいた平和を愛する心を考え、隆達のこの心が復元される日が来ることを願うものである。>
民主国家の国歌として、戦前の「天皇制」を引き摺る天皇讃歌の『君が代』が不適切であることは、良識ある国民なら否定しようもあるまい。『君が代』信奉者はそのルーツを『古今和歌集』などに結びつけ、権威付けしようとしているようだが、薩摩藩で盛んに歌われていた江戸時代の「恋歌」が元歌だったというのが真相のようだ。若い世代の人たちが、自分たちにふさわしい「国歌」を創作してくれることを望むばかりである。
ちなみに、作曲家・水谷川忠俊氏(近衛秀麿(文麿の異母弟)の子息)は『君が代』の曲は「二十一世紀の若者にふさわしくない」と断じているが、もっともなことである。わたしも改めて言うが、この陰陰滅滅たる歌を歌おうとは思わない。
「君が代のひみつ」:http://www.geocities.jp/polaris721/amato-network-miyagawa01.htm
(参照:「わたしは“君が代”を歌わない: http://blog.goo.ne.jp/inemotoyama/m/200702
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『君が代のひみつ』で検索しましたら、ヒットしましたので、コメントさせていただきます。
空海のいろは歌にも興味がありまして、検索しましたら君が代に関しても記事がありましたので、今後の研究にお役に立てましたら是非見てみてください。
ユダヤのヘブライ語で読み解くと謎が解けるかもしれません。