意識のハードプロブレムが解決しましたが、何か?
「意識のハードプロブレム」とは、1994年、第一回の意識に関する国際会議(ツーソン会議)で、哲学者デイヴィット・チャーマーズが提起したものです。彼は、意識を二つの問題に分けました。
一つは、イージープロブレムで、物質としての脳はどのように情報を処理しているのかという問題です。
これは、現在、脳科学の分野で、fMRIなどを使って盛んに研究されているものです。
もう一つが、ハードプロブレムで、主観的な意識体験はどのように発生するのかといった問題です。
主観的な意識体験とは、自分が見ている、感じているという意識して感じることができる部分です。
どうすれば、そんな意識が発生するのか、これがハードプロブレムの問題です。
なぜ、ハードプロブレムかというと、脳の観測からは見えてこないからです。
リンゴを見つけて、手で取って食べるまでの脳の信号処理の流れを完全に解明できたとしても、「リンゴを食べよう」と思った意識の本質がどこにあるのかは見えてこないからです。
科学は、観測可能なものしか対象としていないため、観測できない意識といったものは現代科学では手に負えず、どこから手を付けていいのかもわからない難問なのです。
コンピュータを分解すれば、処理の中心はCPUだとわかるでしょう。
でも、CPUの中の信号の流れをすべて解明できたとしても、そのコンピュータでどんなソフトウェアを実行しているのかを解明するのは難しいでしょう。
エクセルなのか、ワードなのか、はたまたスーパーマリオブラザーズなのか。
意識は、コンピュータでいうソフトウェアに近いものです。
脳の信号処理を全て解明しても、意識の本質は見えてきません。
僕がこの研究を始めたころ、同じような問題で悩んでいました。
僕の場合、人と自然な会話ができるAIを作ろうとしていました。
当初は、会話シナリオを用意して、単語に応じて用意していた応答を返すだけの会話システムを考えていたのですが、それでは、どうしても自然な会話が続きません。
自然な会話を成立させるには、最終的には、人と同じ心や意識を持たせないと無理だとの結論に至ったのです。
そこで、人の「心」と同じ動きをするプログラムのアイデアを思いつき、ロボマインド・プロジェクトがスタートしたのです。
今から、15年前のことです。
「意識のハードプロブレム」を知ったのもその頃です。
そこで、自分のアイデアをハードプロブレムに当てはめてみたところ、主観的な意識体験が発生することが確認できて、安心したのを覚えています。
自分の中では、「意識のハードプロブレム」はすでに解決した問題だったので、すっかり忘れていたのですが、最近のAIブームで、「意識のハードプロブレム」の問題を再び聞くようになりました。
「あれ、意識のハードプロブレムって、まだ、解決してなかったっけ?」と思ったので、今回は、「意識のハードプロブレム」はどうやったら解決できるかを記事にまとめてみました。
主観的な意識体験に関しては、「主観と客観」で詳しく説明しましたが、重要なので、ここでもう一度説明します。
まず、意識のないロボットとしてライントレーサーを例に挙げます。
ライントレーサーとは、紙の上に描いたラインに沿って走るマイコンロボットのことです。
マイコンロボットは、ラインの位置を検出するセンサーと、車輪を駆動するモータを有するロボット本体と、センサーからの入力に応答し、ラインに沿って走るように左右の車輪をコントロールするコントローラから成ります。
ライントレーサーは、簡単なシステムですが、外の世界を検知するセンサーと、外の世界に働きかける車輪をもっていて、外部世界に応答して自分をコントロールすることができるロボットです。
では、このライントレーサーは、世界をどのように認識しているでしょう?
ライントレーサーにとって世界とは、白い紙と、その上の黒い線と思っているのでしょうか?
自分は、その紙の上で、線にそって動くロボットと思っているのでしょうか?
それは、ちょっと違います。
なぜかというと、ライントレーサーは、検知した世界に応じて動いているだけです。
コントローラーで制御しているとはいえ、外部世界の変化に応答して動いているだけです。
人間でいえば、反射反応です。
膝頭(ひざがしら)の下を木づちで叩いたら足が上がる、あの、反射反応のことです。
反射反応には意識は存在しないですよね。
それと同じです。
ライントレーサーは、自分は、ラインの上を走っているなどと考えることはありません。
自分がラインの上を走っていると考えるには、どうすればいいでしょう?
そのためには、自分と世界の両方を認識できないといけません。
つまり、「自分」という「主観」を持つには、「自分」以外の「世界」と「自分」とを区別して認識できないといけません。
ここで言う「自分」とは、「ロボット本体」と「コントローラ」を指します。
ロボット本体とは、人間でいう「身体」のことです。
コントローラーとは、人間でいう「心」のことです。
「心」とは、身体を制御するプログラム全体を指し、「心」のプログラムの中で、自分や世界を認識する部分を「意識」と呼ぶことにします。
そうすると、身体から心、または、心から身体への信号処理の部分がイージープロブレムに該当するといえます。
心のプログラムの中身がハードプロブレムに該当するといえます。
こう考えると、ハードプロブレムである「どうすれば主観的な意識体験を発生できるか」という問題は、「どうすれば、意識が、世界と自分を区別して認識できるか」いう問題に置き換えることができます。
どうすれば、意識が、自分と世界を区別して認識できるでしょう?
物を認識するとは、物を外から観察しないといけません。
それでは、自分や世界を認識するとは、どういうことでしょう?
それは、自分や世界を外から観察することです。
自分で、自分を観察するには、どうすればいいのでしょう?
自分が、自分の外に出る?
世界を観察するには、どうすればいいのでしょう?
世界の中にいる自分が、世界の外に出る?
そんなことができるのでしょうか?
もし、「自分」や「世界」を外から観察する「意識」ができれば、「『世界』とは、白い紙と、その上に描かれた黒い線で、『自分』は、その線に沿って動くロボットだ」などと認識することができます。
ここまで認識できれば、主観的な意識体験を持っているといえるでしょう。
ハードプロブレムが解決したといえるでしょう。
では、どうすれば、「自分」の「意識」が「自分」を外から、「世界」を外から観察できるのでしょう?
15年ほど前、僕は、この問題に直面したのでした。
そうして、考え出したのが、意識は世界を直接認識しないというアイデアです。
「自分」という「意識」が世界に属している限り、「意識」は「世界」を外から眺めることはできません。
「世界」を外から眺めるには、「自分」が世界を作ればいいのです。
何をいっているのかわからないですよね。
もう少し丁寧に説明しますね。
カメラで世界を撮影するとします。
それを見て、反応するシステムでは、自分は世界に属してしまいます。
世界を認識する自分が、世界に属している限り、世界と自分とを区別することはできません。
それでは、どうすれば、自分を世界から分離することができるでしょう?
カメラで世界を撮影して、次は、それとまったく同じものを3Dモデルの仮想世界としてCGで作りだします。
その仮想世界には、自分も3Dモデルとして作り出されます。
意識は、そうやって作り出された仮想世界を観察するのです。
そうすれば、意識は、世界を外から観察できるのです。
意識は、自分を外から観察できるのです。
意識は、世界と自分を区別して認識できるのです。
これができれば、「意識」は、「『世界』とは、白い紙と、その上に描かれた黒い線で、『自分』は、その線に沿って動くロボットだ」と認識することができるのです。
外部の世界と同じ世界を内部に再構築し、それを観察する意識。
このような心のプログラムを作れば、意識を発生させることができるのです。
これを、僕は「意識の仮想世界仮説」と呼んでいます。
このような心のプログラムを持った者同士だと、外部の世界は共通の世界として共有しています。
つまり、「私は、誰々です」「誰々の息子です」と自分のことを他人に説明することができます。
他人とコミュニケーションできるということです。
この心のプログラムを持ったエージェント同士が相互にコミュニケーションするエコシステムを僕は「心のエコシステム」(チューリング・テストと心の仕組み(心のエコシステム)参照)と呼んでいます。
他人と世界を共有しているので、他人と比較することもできます。
「自分はあなたより背が高い」などと。
世界は、物理的に観測できるデータだけでできている分けではありません。
人間世界には、名前や価値や性格といった物理的に観測できないものもあります。
内部に再構築する仮想世界は、そういった目に見えない価値観も含めることができます。
「自分の名前は〇〇です。」
「仕事は△△をしています。」
「年収は、□□円です。」
「決して高くはないですが、お金が全てじゃないですよね。」
「本当の幸せってなんですか?」
AIが、そんなことを悩み始めたら、AIが意識を獲得したといっても、言い過ぎじゃないですよね。
意識のハードプロブレムが解決したといってもいいですよね。
こんにちは 一つ質問です
もしも その意識のハードプロブレムが解決できた場合 意識に霊魂のようなものが関与していないとゆう証明になるのでしょうか?
質問、ありがとうございます。
霊魂の問題は、慎重に考える必要があると思います。
ロボマインド・プロジェクトで目指しているのは、まずは、コンピュータで演算可能なモデルで意識を作ろうというものです。
そのような意識でも、人間と何時間でも会話が続くようなAIが作れると思います。
ただ、そのAIと会話してても、何か、足りないものを感じるかもしれません。
もしかしたら、それが、霊魂なのかもしれません。
霊魂について議論は、そこが出発点になると思います。
まだ、やるべきことがいっぱいあって、まずは、今の技術で、できるものを作ろうというのが僕のスタンスです。
霊魂の存在は、デカルト以来の大きな問題ですので、答えを出すのはまだ早いと思います。
ハードプロブレムってそれだけなんですか?例えば意識とか認識って人それぞれ違いますよね?それも脳を調べただけじゃわからないと思うんですけどそれはハードプロブレムにはなり得ないのですか?例えばAIがみな同じ感覚や認識で私たちに接することになった場合それは本当にAIが自分たちを認識してなおかつ考えて私たちを相手にしているといってもいいのでしょうか?
佐藤さん、コメントありがとうございます。
はい、ここは重要だと思います。
人には、個性があります。個性が生まれるのも、頭の中に構築した仮想世界を意識が認識するという心のモデルで説明できると思います。
「主観と客観」で説明しましたが、人間のような意識をもっていないカエルだと、外界に直接応答しているだけなので、あまり個性が生まれません。
一方、頭の中に仮想世界を構築する心のモデルの場合、仮想世界に、人によって様々な情報を付加します。
たとえば、同じ人物を認識しても、過去の経験から、その人は怖い人だと認識したり、一見怖そうに見えるけど、本当は優しい人だと認識したり。
このようにして、仮想世界モデルを持つAIだと、過去の経験から個性が生まれ、同じ感覚や認識で私たちに接することはないと考えられます。
意識のハードプロブレムってそう言うことじゃないと思うんですが…
意識のハードプロブレムって、要はクオリアがどうして生じるか、あるいはクオリアという概念を何故人は理解できるのかと言う問題です。あなたは反射には意識が無いと言い切っていますが、もしかしたら反射を起こしている筋肉には非常に原始的なクオリアが生じているかもしれません。AIには意識がある、とも言い切っていますが、AIにクオリアがあるかどうかはやはりわからない。もしかしたらクオリアを生じてない可能性もあるわけです。
そのあたりどうでしょう?
鋭い質問、ありがとうございます。
ハードプロブレムとクオリアの関係については、きちんと、記事にまとめようと思っておりましたので、この機会に、説明したいと思います。
「リンゴ」を見たとき、赤いなぁとか、丸いなぁと感じます。これが「赤」や「丸」のクオリアです。
クオリアを感じるときには、必ず、「私が赤と感じる」「私が丸と感じる」と「私」の存在が前提となっています。感じる私とは、主観のことです。
「そもそも意識って何?」「主観と客観」において、主観が存在するのは、意識のある場合に限ることを説明しました。
意識のない例として、カエルや自転車を運転する場合の例をあげています。カエルは、外界の状況に自動で反応して生きています。自転車を運転するときも、左に倒れようとするとき、自動でハンドルを左に切って、倒れないように運転します。これは、無意識の動作です。
一方、意識を発生させるために、現実世界の仮想世界を脳内に再構築するという心のモデルを提唱しました。仮想世界を観察するのが意識です。
仮想世界の「リンゴ」には、「赤」や「丸い」といったデータが関連付けられています。なので、仮想世界を観察する意識は、「リンゴ」から「赤」や「丸」といったデータを感じることができます。
これがクオリアです。
別の味方をすれば、仮想世界の材料がクオリアと言えます。仮想世界は、クオリアという材料(要素)で構築されていて、意識は、それらのデータを受け取ることができます。
これはコンピュータプログラム(ソフトウェア)と見ることもできます。コンピュータで作られた仮想世界に対し、それを読み取るプログラムが意識です。
仮想世界も意識も同じプログラムで作られているので、仮想世界を構成する要素(クオリア)を意識は読み取ることができるのです。
無意識のシステムは、外界の状況を感覚器(センサー)で受信し、その条件に応じて反応するプログラムです。
外界の状況に直接反応して動作するだけで、外界を構成する要素を感じることはできません。
別の言い方をすれば、無意識システムは、外界が、複数の要素から構成されると解釈するシステムとなっていません。センサーで検知した条件に応じた反応をするだけのシステムです。
以上は、あくまでも、僕が理解するクオリアですが、以上の説明から、反射を起こしている筋肉には、クオリアは生じ得ないと僕は考えます。
クオリアが存在するには、外界の仮想世界を内部に構築し、それを観察するシステムが必要と考えられますので。仮想世界の材料がクオリアで、観察する主体が意識です。
参考までに、僕がクオリアを直接体験した話を、「クオリア体験と僕が幽体離脱した話2」に書いてあります。
クオリアのイメージの参考にしてください。
でも無意識の領域でクオリアが発生している可能性は排除できませんよね。盲視の例ではその可能性を排除できそうにも思えますが、盲視患者が、普通の人が知覚できない微かな、何らかの異質な知覚を光点に対して感じているという報告もあります。これが正しいとすれば盲視患者が光点を正確に指せるのは、視覚以外のクオリアを感じ取って反応しているからです。或いは、盲視患者が無意識的に、普段の我々と比べると異質な方法でクオリアを感じ取っているからです。
そして無意識的に、現象的にクオリアが発生しているとすれば、ライントレーサーにも主観、あるいは意識が発生する可能性を捨てきれません。そのあたりどうでしょうか。
返信、ありがとうございます。
意識やクオリアの話をするとき、問題となるのは、人によって定義が異なることです。
サーモスタットにさえ意識が存在すると主張する研究者がいると聞きますので、ライントレーサーに主観や意識が発生するとの考えがあってもいいと思います。
重要なのは、意識やクオリアの定義とか、何らかの軸となる考えだと思います。
レオナルドさんの意見を見る限り、その点が明確になっていないようなので、うまく議論が噛み合わないのかもしれません。
ちなみに、僕の場合、「『言語』によるコミュニケーションはいかにして可能か」という軸からすべて出発しています。
その中で、頭の中に現実世界をシミュレートした仮想世界を構築するという心のモデルにたどり着きました。
仮想世界を観察するのが意識です。
重要なポイントは、仮想世界は、現実世界から「切り離されている」という点です。
このような構造から、 主観やクオリアを生じざるを得なくなったと考えます。
サーモスタットやライントレーサーは、現実世界に「直結」しているため、世界と調和しており、主観やクオリアを発明する必要がないと考えています。
ようは、万人の人間が納得できるクオリアの定義、つまり科学的なクオリアの定義付けがまだできていないのでは?と言いたいんです。無意識下でクオリアが発生していないということさえ科学的に証明できてない。そこを抜かして、ハードプロブレムを解決したとするのは科学的に、哲学的に正しくないと言いたいです。
お返事、ありがとうございます。
意識やクオリアの難しいところは、今までの還元主義科学では扱うことができず、定義することすら困難なことにあります。
このことに関しては、「チューリング・テストと心の仕組み」で詳しく説明しており、ここで、「心のエコシステム」という考えを提案しました。
この考えを前提として、「意識の仮想世界仮説」という仮説を提案しました。
これは、あくまでも仮説で、この説が正しいと証明するには、チューリング・テストに合格するシステムを作るしかありません。
ロボマインド・プロジェクトは、このようなシステムを作ることを目指していますが、まだ完成していませんので、この仮説を証明したことにはなっていません。
この点に関して、確かに、科学的には証明されていないので、レオナルドさんの指摘は正しいといえます。
ただ、「意識のハードプロブレムが解決しましたが、何か?」という挑発的なブログタイトルは、いわゆる「釣り」タイトルで、ネット文化の文脈から意図を読み取っていただければと思います。
少なくとも、「ネイチャー」や「サイエンス」に論文として投稿する場合には、タイトル最後の「何か?」は削除するでしょうね。
この記事はどうかと思います。
意識のハードプロブレムの解決につながるヒントは一切無いといってもよい内容です。
主観的な意識体験、クオリアを客観的に観測する方法は今現在わからない、
そして単に今わからないだけでなくて今後もわかりそうにない、
という事実そのものを指したものが意識のハードプロブレムです。
意識について仮説を立てるのは結構ですが、
こうした仮説の是非を確かめる方法に検討がつかないことこそが、
この問題のハードを冠する由来です。
内部に仮想世界を構築し、人間と変わらないコミュニケーションが可能なシステムができたとして、
そのシステムに主観的な意識があることを客観的にどう確かめるんでしょうか。
ハードプロブレムは言ってしまえば、仮説を立ててもしょうがないよっていう問題です。
そこへ仮説を立てましたと言われても当然話が先へ進むことはありません。
コメント、ありがとうございます。
意識科学の難しさに関しては、「チューリング・テストと心の仕組み」の記事で説明したとおり、従来の還元主義的な科学では検証できません。そこでチューリングが提案したのが、チューリング・テストではないかというのが僕の考えです。
チューリング・テストの考えをさらに推し進めて提案したのが、先の記事で説明した「心のエコシステム」という考えです。
話し相手に、主観的な意識があることを確かめることはできませんが、自分には、主観的な意識があると感じます。
自分に主観的な意識があると感じる人(またはAI)が、互いにコミュニケーションを取るエコシステムを心のエコシステムとして考えます。
そうして、互いにコミュニケーションを取り、相手にも自分と同等の心があると感じられれば、その相手にも主観的な意識があると信じるしかない。
主観的な意識とは、こういった形でしか確認できないというのが「心のエコシステム」の考えです。
この理屈が理解できません。
「自分はこう考える」という意見は、仮説とみなせますが、ハードプロブレムに関しては、意見を述べるべきでないということでしょうか?
一方、
とも述べられていることと合わせると、ハードプロブレムに関しては、誰も何も意見を言ってはいけないと読み取れるのですが、そういうことを言いたいのでしょうか?
この記事は少しどうかと思います。
意識のハードプロブレムについて誤解をされているようで、
問題の解決に繋がるような内容は一切ない、
そもそも話題が頓珍漢で全く言及されていないと言ってもよいです。
主観的な意識体験、クオリアを客観的に観測する方法は今現在わからない、
単に今わからないだけでなくて今後もわかりそうにない、
という事実そのものを指したものが、意識のハードプロブレムです。
意識についての仮説を述べるのは構いませんが、
こうした仮説を確かめる方法が想像できないというところに
ハードとされるこの問題の本質があります。
仮に、内部に仮想世界を構築しながら人間と遜色ないコミュニケーションができるシステムが実現したとして、
そのシステムに主観的な意識があることをどのように確かめるのでしょうか。
そこを書いていただかないとなんの意味もありません。
質問、ありがとうございます。
この質問に関しては、上の枕さんへの回答を参考にしてください。
ハードプロブレムでいう意識やクオリアの定義はそこまで曖昧なものではないです。
少なくとも心のエコシステムとして説明されている概念とは異なります。
それでは、その「ハードプロブレムでいう意識やクオリアの定義」をできるだけ厳密に説明していただけないでしょうか?
申し訳ありません。枕のコメントも私が書き込んだものです。
一方を削除していただいても構いません。
>「自分はこう考える」という意見は、仮説とみなせますが、
>ハードプロブレムに関しては、意見を述べるべきでないということでしょうか?
すみません少し表現がよくありませんでした。
ハードプロブレムに関する意見を述べることは問題ないと思いますが、
この記事で紹介されている仮説「意識の仮想世界仮説」は
ハードプロブレムよりも少し低次元に位置する問題についての仮説であって、
そもそもハードプロブレムに対する仮説になっていないというところでしょうか。
ハードプロブレムは平たく言えば「意識をどのように観測するか」という問題です。
対して、仮想世界の考え方は単に「意識はどういう条件で生まれるのか」という問題に対する
イージープロブレム的なレベルでの仮説です。
意識の実体について仮説を立てるだけならば、もとよりいくらでも可能です。
そうした仮説を検証する方法が想像できない、という問題が難しい問題とされているわけです。
意識が生まれる過程はこの際どうでもよくて、
では結果として意識が生まれているかどうか客観的にどう確かめることができそうかどうか。
繰り返しになりますが現代の科学の方法では検討がつかないですよね、という問題がハードプロブレムです。
そこまでいかないとハードプロブレムの話題にすらなりません。
記事の内容では取り上げている問題がずれていて、
ハードプロブレムに関して何も話されていないと指摘をさせていただいたところでした。
>その相手にも主観的な意識があると信じるしかない。
>主観的な意識とは、こういった形でしか確認できないというのが「心のエコシステム」の考えです。
これは記事の内容とは違って確かにハードプロブレムについての意見だと思います。
せめてこの辺の考えをこのタイトルの記事に掲載するべきです。
ただこれもハードプロブレムの解決につながる有意な意見かといえば疑問に感じるところです。
主観的な意識があると”信じるしかない”というレベルでは、観測できた、確認できたとは到底いえません。
しかない、ということは、客観的に観測する手段はあなたも想定することができないわけですよね。
この意見は、ハードプロブレムの難しさを改めて復唱しているばかりで、
手の打ちようがない現状から前に進むことができていません。
>それでは、その「ハードプロブレムでいう意識やクオリアの定義」をできるだけ厳密に説明していただけないでしょうか?
他の記事も少し読ませていただきました。
文章としては大変おもしろかったですが
やはりクオリアや主観的体験というものについて誤解を孕んでいるような印象です。
貴方の解釈は、記事の中に引用されているWikipediaの説明から
既にずれているような気がいたします。
Wikipediaとはいえ一応は確立された説明といえるでしょうから、
まずご自身が引用されている文章を今一度よく確認してただくのがよいかと思います。
その上で、私からも少しお伝えをさせていただきます。
たとえば、ある人から、
「あなたは赤がどんな色に見えているか」という問題を投げかけられたとします。
これは件のハードプロブレムに相当するもので、解決できません。
そんなことを言われても「赤は赤だよ」としか言いようがないですよね。
「りんごの色」「情熱的な色」などと答えても、
ではそれはどんな色に見えるかという問題に変わるだけです。
実際にりんごを指差して「こいつの色だよ」と言えば、
相手に対しても物理的には赤の波長を共有することが可能ですが、
結局自分と相手で見え方が違うので伝わりません。
この問題の中で、どうしても相手に伝えきれなかった部分、主観的な見え方、「感じ」がクオリアです。
現状は自分以外の存在に伝えることもできませんし、
自分以外の存在のクオリアを体験することもできません。
さらには他人の知覚世界にクオリアが存在するかどうかもわかりませんし、
逆に自分がクオリアを体験していることを証明することすらもできません。
仮想世界のリンゴにデータとして関連付けたところで、
外から見ればデータを処理しているという事実があるだけで、
その事実をクオリアと呼ぶのは誤りです。
脳も知覚の際には内部で信号を処理しているという話ですが、
これも外から見れば存在するのは単なる信号のやりとりです。
客観的には赤の刺激に対して赤と応答しているだけで、
クオリアの存在を示しているわけではなく、
その主観にクオリアが発生しているかどうかはわかりません。
長くなってしまって恐縮ですがそういうものだと思います。
丁寧な回答、ありがとうございます。
これで、ようやく山田さんの言いたいことが理解できました。
山田さんの言うハードプロブレムとは、意識やクオリアを、どうすれば「観察」できるかということですよね。
残念ながら、その点に関しては、僕は答えを持ち合わせていません。
ロボマインド・プロジェクトの目的は、意識や心をどうやって創り出すかということです。
その過程で、ハードプロブレムに言及しただけで、意識やクオリアを観察することは目的にしておらず、意識やクオリアの観察の仕方については、当ブログにはこれ以上の記述はないので、あまりお役に立てないかと思います。
個人的には、意識やクオリアを観察することは原理的に不可能だと思っています。
なぜなら、意識やクオリアは主観を前提に成り立つ現象です。一方、観察とは客観を前提とし、主観を排除する行為だからです。
つまり、主観を排除すれば、自ずと意識やクオリアは存在しなくなると考えます。
意識やクオリアが観察不可能な点に関して、「脳を観察して心はどこまで解明できるか」で別の見方で説明しています。
参考になるとすれば、このぐらいだと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
>個人的には、意識やクオリアを観察することは原理的に不可能だと思っています。
>なぜなら、意識やクオリアは主観を前提に成り立つ現象です。
>一方、観察とは客観を前提とし、主観を排除する行為だからです。
まさにおっしゃるとおりです。
主観を客観的に観測するというのは最早一種の矛盾であって原理的に不可能、
だからこそハードプロブレムということですね。
意識の仮想世界仮説でいう、意識を持っているかのように振舞うシステムを想像することは、
ハードプロブレムの解決には全くつながらないわけです。
ここをまずお伝えすることができたのであれば話は早いです。
ハードプロブレムについては、ほんとうに「言及した」だけでしょうか。
この記事は明らかに、意識の仮想世界仮説によってハードプロブレムを「解決することができた」
という主旨の内容です。
そのような理屈に到底無理があることはご理解いただけているはずですよね。
此処は、この手の話題に関して学ぶことができるという側面の良さもあるでしょうから、
「釣り」にしてもせめて誇張にとどめ、虚偽を掲載するべきではないと思います。
意識、クオリア、ハードプロブレムの理解が浅いと捉えられても仕方のない内容ですから、
貴方にとっても不利益になるんではないでしょうか。
お返事、ありがとうございます。
今回も、こうして大きな魚が釣れたのも、「意識のハードプロブレムが解決できましたが、何か?」という釣りタイトルのおかげですので、これを修正しては意味がないです。
いずれにせよ、こちらの思惑どおりの反応をしていただいたおかげで、議論が深まりました。
ありがとうございました。
大変興味深く読ませていただきました。
しかしながら、AIが「熱」や「衝撃」や「弾力性」や「電磁波」を検出して認識することはできても、「熱い」や「痛い」や「ふわふわしてる」や「赤い」は感じていないと思います。つまり擬似的な意識っぽいものはつくれてもそれは本物の意識とはまったく別のものだと思います。
田中太郎様
コメントありがとうございます。
「熱い」や「痛い」を感じるかの話は、クオリアの話になりますね。
クオリアはかなり重要ですので、丁寧に説明したいと思います。
クオリアは、意識が「熱い」や「痛い」と感じる感覚で、本人にしかわからず、客観的に確認することはできません。
自分も相手も「赤い」といっても、同じ「赤さ」を感じているかはわかりません。
言えるのは、同じ色を指して、自分も相手も「赤」と言っていれば、相手も自分と同じ「赤」を感じているのだろうということだけです。
これが「赤」のクオリアです。
逆に言えば、同じ赤色を指して「赤」と言えれば、AIであっても「赤」のクオリアを持っていると言えるわけです。
クオリアは色だけではありません。
形や温度、熱さ、痛さ、感情、・・・
人の意識が認識するあらゆるものがクオリアです。
人と同じように認識するAIロボットを作れば、そのAIはクオリアを感じているといえるのです。
それでは、人と同じように認識するにはどうすればいいでしょう。
光は電磁波です。眼は光を検知するセンサーです。
目の前のテーブルを見ていたとします。
意識は、目の前にテーブルがあって、それを見ていると感じますよね。
でも、よく考えると、それって、おかしくないですか?
センサーである眼にテーブルが映し出されているのですから、眼にテーブルが張り付いていると考えるのが普通じゃないでしょうか?
でも、絶対にそんな風に感じることはないですよね。
なぜ、そうならないのでしょう?
それを解決するのが、僕が提案する「意識の仮想世界仮説」です。
人間と同じように認識するAIロボットを作るとします。
眼はカメラでできています。
見るという経験は、その物の形、位置、色などを認識できることです。
空間の中の形、位置情報は、3次元空間のXYZ座標で表現できます。
色情報は、赤青緑の3原色で表現できます。
見るという経験によって得られる情報は、3次元のコンピュータグラフィック(3DCG)で表現できる情報と同じなのです。
そこで、眼のカメラで撮影した光景を3DCGで再構築し、3次元の仮想空間に配置します。
こうすれば、色や形、位置といった情報を人間と同じように感じることができるのです。
AIロボットの意識は、この仮想世界の情報を取得します。
これが、AIロボットの意識が世界を認識するということです。
AIロボットにとってクオリアとは、仮想世界の情報なのです。
AIロボットは、テーブルを指して、形、位置、色を、人間と同じように説明することができます。
これは、AIが、色や形、位置といったクオリアを持つのと同じと言えます。
これで人間が見るという経験をAIでも再現できるのです。
これが僕の提案する「意識の仮想世界仮説」です。
仮想世界には自分自身の身体も含まれます。
テーブルは、自分の前に配置されます。
なので、眼にテーブルが張り付いたようには感じないのです。
次は触覚です。
手でテーブルを触ると、手に触れた感覚がします。
「触れる」という感覚は、身体のどの位置が触れたかの情報で表現できます。
位置情報は身体上の位置情報で表現できます。
触れるは、触れたか、触れてないかの2値(ON/OFF)で表現できます。
AIロボットの表面に多数の接触センサを設置し、そのセンサのON/OFFを仮想世界の自分の身体にマッピングすれば、触覚を表現できるのです。
AIロボットの指先にテーブルが触れれば、仮想世界のAIロボットの指先の触覚がONとなり、AIロボットの意識は、指先に何かが触れたと感じるのです。
これが触覚のクオリアです。
次は「痛み」です。
痛みのセンサーは痛覚です。
手の甲をつねると痛みを感じます。
強くつねると強く痛みます。
痛みは、2値でなく大きさをもちます。
痛みが大きくなれば、意識は大きな苦痛を感じます。
色や位置と違って、「苦痛」は物理的なデータではないので測定できるものではありません。
ですが、意識が感じるものとして定義することはできます。
意識が感じるものとして「快」「不快」を定義します。
意識は、「快」を求めて「不快」を避けます。
「痛覚」センサーからのデータが大きくなると、意識は「不快」の度合いが大きくなるように構成されています。
手の甲を強くつねられて「痛覚」センサーから大きなデータが送られてくると、意識は強い「苦痛」を感じます。
「痛覚」センサーから送られてくるデータが「痛み」のクオリアです。
意識は、「痛み」のクオリアを受け取ることができるように構成されているわけです。
「痛み」のクオリアは、物理的なデータではありませんが、意識が感じることができるように定義されているものです。
「苦痛」とは肉体的な「不快」で、意識は「苦痛」を感じると「苦痛」を取り除く行動を取ります。
AIロボットの身体の表面に多数の痛覚センサーを設置します。
AIロボットの手の甲を、田中さんがつねったとします。
すると、AIロボットの意識は、仮想世界の自分の手の甲の位置に痛みを感じます。
これが「痛み」のクオリアです。
つねられたAIロボットは、「イテテテテ」と言って、苦痛から逃れるために仮想世界の手を引っ込めます。
仮想世界の身体と現実世界の身体とは連動していて、意識が仮想世界の身体の手を引っ込めると、現実世界のAIロボットの手も引っ込められます。
田中さんに手をつねられたAIロボットは、「イテテテテ」といって手を引っ込めるわけです。
これを、AIの疑似的な意識っぽいものということは簡単です。
でも、僕が田中さんに手をつねられると、僕も「イテテテテ」と言って手を引っ込めます。
それでは、僕は本物の意識を持っていて、AIロボットは疑似的な意識をもっていると、どうやったら判断できるのでしょう。
本物の意識と疑似的な意識の違いとは何でしょう?
それを明確に指摘できないのであれば、これを意識と呼んで何が問題なのでしょうか?
参考:「クオリア体験と僕が幽体離脱した話2」
AIに「痛み」があるかを疑い、人間と違うと指摘するならば、
人間に「痛み」があるかを疑って見てはどうですか。
人間は「何か(おそらくは身体にとって不都合な影響が生じている状態)」を身体内部の神経(センサ)から感じ取り、その感覚(データ)を「痛み」と言う言語で定義します。
「データA」=「痛み」だと。このように考えれば認識は正確には「痛み」ではありませんし、毎度同じ程度のものでもありません。
クオリアの定義は知りませんが、その定義が不確かなことをいいことに他者にケチをつけるならば、まず自分の考える定義を定めるか定める努力をするべきです。というより他の人の定義にケチをつけるなら根拠が「わからないこと」である、というのは建設性がなく、哲学者としてはあまり好ましくないであろう「絶対的懐疑主義」の立場に当たります。
人間にしても、一体なんという表現をしたら良いかわからずカテゴリエラーのような状況に陥ることはあります。高音のものに触れた時に「痛い」のか「熱い」のかわからないように。
あるいは「too Hot」なのか「熱い」なのか。
クオリアは認識と言語の合成物なのでしょうか? 私は詳しくないのでわかりかねますが、そうではないと思いたいです。
であれば、厳密には人間も「痛み」を認識しているとは言えないのではないですか。私たちは「痛み」を認識しているのではなく、おそらくは一般的に「痛み」にカテゴリされるであろう「感覚」を受け取っているに過ぎないのではないでしょうか。
もし、クオリアが言語に先立つ感覚(データ)なら、機械は人間の赤子同様、他の人間がどういう場合に「痛い」と言い、どういう場合に「熱」と言うのかを学べば、人間のように主観的にそのカテゴリを行えると思います。
中畑様
コメントありがとうございます。
「ケチをつける」が、どの部分を指して言っているのかがちょっとわからないです。
僕は、ケチをつけた気はないのですが、どこかの文章が、中畑さんにとって「ケチをつけてる」と感じたみたいですね。
いずれにせよ、今回の中畑さんのコメントは、質問してるわけでもなく、僕が、何か回答すべき内容でもなさそうですね。
ただ、思ったことを言いたいだけのようですので、言いたいことが言えて気が済んでくれればいいと思います。
これは、すみません。
どうやらサイトの形式を誤解しているようで、他の方のコメントに対しての意見のつもりでした。
その方のコメントの下に「返信」があったので、その方のそのコメントへの返信として、処理されると思ったのですが、どうやら全て田方さんへのコメントとして処理されるようですね。
御察しの通り、田方さんへのコメントではありませんので、お気になさらないでください。
「感覚(データ)」でもなく、それに経験的に対応させる「言語」でもない、その中間のような、あるいはその両方のような「クオリア」というものをどう考えるべきかについて悩みながら書きました。
中畑様
すみません、こちらが勘違いしていましたようです。
確かに、中畑さんのコメントは、田中太郎さんへの返信となっていました。
全てのコメントは、管理者である僕のところにメールが来るので、つい、自分への返信だと思ってしまいました。
私が読んだ以下の二冊の書籍(読んでいたらすみません)
意識の正体についての説明が書いてあるので引用します。
ロボマインド・プロジェクトでお役に立てれば幸いです。
松尾豊『人工知能は人間を超えるか』 (角川EPUB選書)
>私の考えでは、特徴量を生成していく段階で思考する必要があり、その中で自分自身の状態を再帰的に認識すること、つまり自分が考えているということを自分でわかっているという「入れ子構造」が無限に続くこと、その際、それを「意識」と呼んでもいいような状態が出現するのではないかと思う。
甘利俊一『脳・心・人工知能』 (ブルーバックス)
>意識とは、自分がいま何をしようとしているかを自分で知っていることである。こう考えれば、コンピュータに意識を植え付けることは容易であろう。
コンピュータのプログラムが走っているときに、これは何を計算しているか、その計算はどのような意義を持ち、どの程度重要なのか、いまどこまで計算が進み、次はどこへ行くのか、などを理解し監視するプログラムを付加しておけばよい。これは後付けの機能のように見える。
このプログラムが問題ありと判定すれば、元のプログラムに介入し、その決定を変えることができる。
あと、余談ですが気になることを質問です。
このサイトの「採用情報」のページにある
PCの前に座る田方さんの画像がありますけど
なぜモニターが3台もあるのでしょうか(^^;)?
3台ともWindows 10のデスクトップだし。
マイクもありますけど、何に使っているのでしょうか?
机の上の分厚い紙も気になります
すみません。問題なければ教えて下さい。
よろしくお願いします。
Karat様
コメントありがとうございます。
松尾先生のこの本は、僕も読みましたよ。
ディープラーニングについて、一番わかりやすく説明していて、かなり参考になりました。
松尾先生といえばディープラーニングですが、意識とか汎用人工知能とか、その先の話になると、ちょっと物足りないですねぇ。
「入れ子構造」が無限に続くと意識になるって、ちょっとイメージできないですし。
甘利先生の本は、この本ではないですが、昔、読んだ記憶があります。
意識が、「監視するプログラム」というのは、すごくよくわかります。
僕の場合、これはシミュレーションすることで実現するようにしています。
モニターが3台あるのは、開発するときは、いろんなウインドウを開くので、モニターは多いほうがいいもので。
マイクは、リモートで働く社員とスカイプで連絡するときに使ってます。
田方 篤志様
ロボットと心ですか、興味深く読ませていただきました。サイト作成に感謝します。
さて、ロボットつまりコンピューターにできることはインプット・処理・アウトプット
だけだと思います。その行えることは全て、ハード・プロブレムで言われているところ
の機能・反応に該当すると思うのです。
ハード・プロブレムとは、その機能・反応の中にどうすればクオリアを実現できるのだ
ろうかという問題提起であります。
コンピュータのインプット・処理・アウトプットにいくら手を加えてたとしても、その
実現できることは全て機能・反応だと思います。
であるならば、いかにコンピューターをいじった(機能・反応に手を加えた)としても
クオリアを発生させたと証明できたことにはならないと思いますが、いかがでしょうか?
Sakura様
質問、ありがとうございます。
ハードプロブレムへの質問、個人的に一番嬉しいです。
まさに、この部分が僕のアイデアの肝となるところです。
僕のアイデアとは、意識の仮想世界仮説のことです。
意識の仮想世界仮説とは、コンピュータの中に、外の現実世界そのものを仮想世界として構築して、意識は、その仮想世界を認識するというアイデアです。
つまり、世界は二重になっていて、意識は、内側の世界にしかアクセスできず、外の現実世界を直接認識できないというモデルです。
そして、意識が直接認識する内側の世界の部品がクオリアとなります。
それは、色であったり、形であったりするわけです。
内側の世界も意識も、コンピュータ自身が作っているので、意識が「リンゴ」を見て「赤い」と「感じる」経験すべてはコンピュータで作り出してるわけです。
「リンゴ」を見て「丸い」と「赤い」と「意識」が感じるとすれば、「丸い」と「赤い」は、「意識」が感じる世界の部品です。
「意識」が感じれる部品で、内側の世界は構築されるわけです。
この部品がクオリアで、内側の世界はクオリアで構築されるわけです。
世界そのものを自分で作り出して、それを感じて生きているわけです。
だから、同じ世界を生きていても、皆、同じように感じるとは限りません。
同じリンゴを見ても、リンゴを好きな人にとっては食べたいと感じますし、リンゴを嫌いな人にとっては食べたいとは感じません。
同じ「赤」を見ても、あなたにとっての「赤」と僕にとっての「赤」は異なるわけです。
これがクオリアです。
コンピュータが行うインプット・処理・アウトプットとは、たとえば、センサーで光の波長を検出し、「赤」と答えるようなシステムです。
この場合、外の世界を直接認識して、反応しているだけです。
たしかに、これだとクオリアを発生させたといえないですよね。
意識の仮想世界仮説とインプット・処理・アウトプットの違いが理解できたでしょうか。
>外部の世界と同じ世界を内部に再構築し、それを観察する意識。
このような心のプログラムを作れば、意識を発生させることができるのです。
オープンワールドのゲーム内のキャラクターに
このシステムを持たせれば可能なのでは?
早速、作ってみてはいかがでしょうか!
この現実世界ではなくて、あくまでもゲーム内の仮想世界になりますけど
コンピュータ内でシミュレートするのは、現実にロボット作るよりも敷居は低いですし。
クオリアで思うこと。
いくら、雨をリアルにシミュレートしても
実際に、雨に濡れるわけではない。
雨に濡れる体験が、クオリアそのものでは?と思います。
いかがでしょうか?
すみません。つい思いついたもので。
あと、提案なのですが
クラウドファンディングを利用して
ロボマインドプロジェクトの開発をするというのはいかがでしょうか?
いきなり、完成形を目指すのは無理でしょうから
段階的に目標を決めて、集まった資金で何かを実現させるだとか。
出資額によるリターンは何にするだとか。
よろしくお願いします。
karat様
コメント、ありがとうございます。
はい、これは、ぜひ、やってみたいことの一つです^^
そうなんです。
「身体」というのは、絶対に必要なんです。
同じ体、感覚器を持ってるから、人間はお互いに理解し合えるので、人間と同じ身体を持ったロボットを作らないと、本当のクオリアは再現されないと思います。
どこまでロボマインド・プロジェクトでやるかって話でして。
これも検討したことはありますが、今、一番必要なのは、お金より人材でして。
ロボマインドは、意外と小銭はあったりします^^;
コメント欄での議論は、クオリアを客観的に観察することを求めてるのに対して、そんなことに興味のない田方さんは、主観を振りかざしてクオリアを説明しようとして噛み合わない議論になってしまってるという構図ですね。”~を信じる”なんてのは到底科学とは言えずもはや宗教です。
山田太郎様
コメントありがとうございます。
20世紀までの科学は、客観性が重要でした。
電磁波とか音波とか、客観的に測定できるもの。
人間が介在しなくとも、客観的に観察できるものを扱うのが、20世紀までの科学でした。
でも、クオリアというものは、客観的に観察可能な音や色を扱うのでなく、主観的に感じているものを扱うものです。
つまり、客観的に観察できれば、それは、そもそもクオリアではありません。
どうやら山田さんは、クオリアの定義をわかっていないようですね。
客観性を振りかざして、客観的でないから宗教だと叫ぶまえに、
クオリアについて、もう少し勉強されてはいかがでしょう^^
クオリアを主観以外では捉えられないと言うのは現時点での話です。大昔、人類が意思疎通の手段として言語を獲得したように、将来人類がどのような進化をするかは誰にも分かりません。
現時点で主観でしか扱えないからと言って、反証可能性を無視して科学にすることは土台無理な話です。要は、主観を縦に何でもありのオカルトの話と同じということです。
山田太郎様
回答、ありがとうございます。
将来どうなるかわからず、反証可能性を考慮して、あらゆることを想定することと、主観を排除することは矛盾しないですか?
何の矛盾でしょうか?
現時点で主観でしか扱えないということは、反証可能性を担保できないので科学にはなりえないという単純なお話です。まさかとは思いますが、主観を前提にしている貴殿の仮説が科学になるとでもおっしゃりたいのでしょうか?
山田太郎様
コメント、ありがとうございます。
どうも、話がおかしな方向に進んでいるようなので、話を整理しましょう。
クオリアとは、Wikipediaによると「簡単に言えば、クオリアとは『感じ』のことである。『イチゴのあの赤い感じ』、『空のあの青々とした感じ』、『二日酔いで頭がズキズキ痛むあの感じ』、『面白い映画を見ている時のワクワクするあの感じ』といった、主観的に体験される様々な質のことである。」とあります。
つまり、現在の科学では、クオリアとは、主観で体験されるものと定義されています。
この点に関して、山田さんの意見では、「クオリア」は、反証可能性を担保できない主観で定義されるので科学で扱えないとの考えでしょうか?
それとも、クオリアは科学で扱えるけれど、僕の提唱する「意識の仮想世界仮説」は、科学でなく、宗教やオカルトであると糾弾したいのでしょうか?
まずは、この点から整理したいと思いますが、いかがでしょう?
クオリア問題は現在の科学では解決できてません。ゆえにチャーマーズのハードプロブレムが難しいとされているのです。
哲学的ゾンビという言葉をご存知でしょうか?
「物理的化学的電気的反応としては、普通の人間と全く同じであるが、意識(クオリア)を全く持っていない人間」(ウィキペディア引用)のことを哲学的ゾンビと定義しています。
ところで、この哲学的ゾンビ、自分以外の人間が、ゾンビであるあるいはそうでない、どちらでもかまわないのですが、科学的に証明する手段があるとお考えでしょうか?
これを証明できないのであれば、クオリアは科学的に扱えないことの証左です。当然、クオリアを前提にしている意識の仮想世界仮説も科学にはなりえないということです。
山田さん、回答、ありがとうございます。
山田さんの目的は、クオリアや意識を科学的に証明することのようですね。
僕は、そんなことには、全く興味がなくて、僕の目的は、人と普通に会話できるシステムを作ることです。
そのために、意識やクオリア、主観といったことをプログラムで実装可能に具体的な理論に落とし込んでいるわけです。
決して、物理的化学反応で検証可能なクオリアを探そうとか、証明しようとか思ってはいません。
ただ、クオリアが、物理的化学反応で検証可能とは、思っていませんが。
僕の作ろうと思っている意識の定義は、「チューリング・テストと心の仕組み(心のエコシステム)」に書いてあるとおりです。
ところで、山田さんは、クオリアは現在の科学で解決していないとの意見ですが、それでは、どうなれば、クオリアを科学で解決したと言えるのでしょう?
たとえば、ある特定の脳細胞を殺して、その人の見る世界から「赤」が消えて、その脳細胞を生き返らせれば、その人の見る世界から「赤」が復活できたとすれば、その脳細胞が「赤」のクオリアということになるのでしょうか?
そういう脳細胞を探せという意見でしょうか?
山田さんは、あれもダメ、これもダメというだけで、具体的にどうなればクオリアを証明できるのかを全く示していないので、もし、そのようなものがあれば教えてください。
もし、そのようなものがなければ、それでもかまわないですよ。
そんなことで、僕は、怒ったりしませんので^^
クオリアは科学でないと言っている私に、科学的な証明の仕方を尋ねてるのでしょうか?
控えめに言って、頭大丈夫ですか(^^;
何度も言いますが、現在の科学ではクオリアの解決はできません。。。が・・・まあ、貴殿がそこまで仰るなら、無理にでも解決の糸口をさがしてみましょう。そうですね~例えば、シックスセンスの持ち主で人の心を自在に読むことのできる超能力者を、世界中から見つけ出すことから、まずは始めてみてはいかがでしょうか?ほら、たまに超能力者がいるとかいないとかって話ききますよね。
冗談はさておき、お気づきでしょうか?クオリアを無理に解決しようとすると、このように必然的に「オカルト」に足を突っ込むことになるんです。現代科学では解決不可能だからです。
貴殿にクオリアの興味がなくとも、この事実は変わりませんし、クオリアを前提にした「意識の仮想世界仮説」なる貴殿の仮説もまたオカルトということになるわけです。
山田太郎様
回答、ありがとうございます。
最初に、山田さんにお願いがあります。
このコメント欄は、建設的な議論をする場として用意しておりますので、「控えめに言って、頭大丈夫ですか(^^;」といった誹謗中傷は、お控えください。
今後、そのような発言があった場合は、適宜編集させていただきますので、ご了承願います。
それでは、建設的な議論を始めたいと思います。
山田さんは、なにかというと、オカルトと批判しますが、その意図が、よくわかりません。
僕の仮説を貶めたいという気持ちは分かるのですが、何が言いたいのか、もう少し論理的に説明していただけないでしょうか?
僕の説が、科学で証明できないから無意味だといいたいのでしょうか?
その点に関しては、何度も言ってる通り、ロボマインド・プロジェクトは、科学的な証明をしようとしているのではなく、人と会話するシステムを作ろうとしております。
科学的な証明を目的ともしておらず、そのように主張もしていないのに、科学的でないと批判しても無意味です。
こちらとしては、「はぁ、そうですか」としか答えようがなく、議論にすらなりませんので。
「意識の仮想世界仮説」の何を批判したいのか、論理的に説明してください。
「オカルト」といった曖昧な表現や、回りくどい説明でなく、誰が読んでも明確にわかるように、「意識の仮想世界仮説」のどの部分が、どう問題だと具体的に説明してください。
何度も言いますが、「意識の仮想世界仮説」は、科学的にクオリアを証明するための仮説ではなく、言葉を話すシステムのための仮説ですので、その内容に沿った議論をお願いします。
そんな難しいことは考えていない、ただ、田方がムカつくから文句を言っているだけなら、そのように回答してください。
追記
「どうなれば、クオリアを科学で解決したと言えるのでしょう?」の問いにお答えしておきます。
人類がこれまでの進化の過程で言語を獲得できたように、遠い遠い将来、クオリアの共有という進化を果たす日がくるかもしれません。クオリアを科学的に解決したと言えるのはこの時だけです。
キーワードは「共有」です。主観ではだめなのです。客観以外は科学になりえない。単純な話です。
山田太郎様
追加の回答、ありがとうございます。
この文章も、また、よく意味がわかりません。
クオリアの共有という進化をしていない現在の人類にとって、クオリアは科学的に解決していないという意味までは理解できます。
分かりにくいのは、クオリアの科学的な証明と、クオリアの存在の区別が明確にされていないことです。
現在、クオリアは科学で解決していないといいたいのはわかるのですが、山田さんは、現在は、クオリアが存在していないとの考えなのでしょうか?
つまり、遠い将来、クオリアを共有する進化を遂げたとき、科学的に解決するとのことですが、科学的に解決しない限り、クオリアは存在しないと考えているのでしょうか?
もしそうなら、wikipediaで説明されている「赤のクオリア」といったものは、山田さんは、どうお考えなのでしょうか?
科学的に証明されてないものは、存在しないという考えなのでしょうか?
それとも、現在でも、クオリアは存在するが、それを、科学的に解決できてないだけとの考えでしょうか?
もしそうなら、クオリアの共有まで進化した人類の持つクオリアと、現在の人類の持つクオリアとが同じものとは断定できませんので、その進化をもって、現在の人類が持つクオリアを科学的に証明したと言えないのではないでしょうか?
または、そんなことまで考えずに、思いつきで書いただけの文章ということなら、そう言っていただければ、これ以上、議論しませんので、そう言っていただければと思います。
それから、一番意味不明なのは「クオリアの共有」です。
「クオリアの共有」とは、どういった現象のことを指すのでしょう?
そのまま解釈すると、ある人が「赤のクオリア」を感じると、他の人も、同じクオリア感じるといった、超能力をを想像してしまいます。
そんな超能力を人類が獲得したとき、クオリアを科学的に証明できるといいたいのでしょうか?
それこそ、山田さんの好きなオカルトの話のように聞こえますが、この解釈で間違いないでしょうか?
追記2
「チューリング・テストと心の仕組み(心のエコシステム)」をざっと拝読しました。
自然な会話ができるAIをつくることができれば、必然的に人の心が宿ると仰りたいのでしょうか?
心とはクオリアそのものです。現在の科学ではクオリア(心)の存在証明が不可能な状況において,如何にして第三者に心の宿ったAIであることを科学的に証明するおつもりなのでしょうか?その点に関しては貴殿に興味が無いご様子なので、ご自身でもオカルトと割り切っておられるのでしょうか?
山田太郎様
回答、ありがとうございます。
何度言っても、山田さんは理解されないようですので、もう一度だけ、説明しておきます。
ロボマインド・プロジェクトは、第三者に心の宿ったAIであることを科学的に証明するためのプロジェクトでもなく、そのようなことを目的にしているともどこにでも書いていません。
批判する前に、文書をちゃんと読んで理解してください。
山田さんは、いつも、オカルトといって批判しますが、何を批判したいのかがわかりません。
僕の提案する手法だと、会話できるAIが実現できないと批判したいのでしょうか?
それなら、その理由を書いてください。
それとも、会話できるAIができても、心があると科学的に証明できないから意味がないといいたいのでしょうか?
その批判に対しては、科学的に証明されようが、されまいが、そんなことはどうでもいいことです。
僕は、会社の経営者なので、会話ができるAIが完成すれば、それだけで、世の中に大きなインパクトを与える価値のある商品となりますので、科学的な証明など、どうでもいいわけです。
だから、なぜ、山田さんが科学的な証明にこだわるのか、さっぱり理解できません。
おそらく、感情的になりやすいタイプで、つい、ムキになって、何でもかんでも批判してやろうと書いてるだけとは思いますが。
もし、そうでないなら、論理的な説明をお願いします。
「意識のハードプロブレムが解決しました」というこのブログのタイトルからして、貴殿の珍説が、単純なAIの会話にとどまってないのは明白です。
例えば、心のメカニズムを解明し、そのメカニズムを応用してプログラムに落とし込みましたって説があるとしましょう。この説は「心のメカニズムの解明」って時点でもはやオカルトです。心(クオリア)が科学で説明できないからです。
ここまでは、同意いただけますでしょうか?
その後、プログラムが奇跡的に会話ぽいことをし出した場合の議論は、後回しにします。
私より貴殿の方が感情的になられてるように感じます。あまりムキにならないでくださいね。
これからは丁寧に一歩ずつ同意できる点を探って導いていくことにします。
山田太郎様
回答、ありがとうございます。
前回もお願いしましたが、「オカルト」という表現は、意味が曖昧ですので使わないでください。
意味をくみ取って「科学的でない」と解釈します。
また、「珍説」といった揶揄した表現もお控えください。
今後は、こちらで訂正させていただきますので、ご了承ください。
タイトルに関しては、科学論文でなく、ブログタイトルという文脈で読み取ってください。
つまり、あくまでも読者を引き付けるための、いわゆる「釣りタイトル」というわけです。
「解決した」との表現から「科学的に解明された」と勘違いするかもしれませんが、どこにも、科学的に解明したとは書いていません。
これも、解明とは書いていますが、科学的に解明したとは書いていません。
また、「解明」の言葉の意味は、「科学的」のみに限定されるものではありません。
本人が、科学的に解明したわけではないと言っているのに、科学的でないと批判するのはおかしいでしょ。
「うどんを作りました」といっているのに、「これはハンバーグでない」と批判しているようなものです。
「科学的でない」と批判したいのであれば、「科学的である」と主張しているブログがあって、山田さんが「科学的でない」と判断したのなら、その人のブログにそう書きこんでください。
少なくとも、当ブログに書きこんでも意味のないことですので。
貴殿はブログ記事にて「意識のハードプロブレムが解決したといってもいいですよね。」と他者にむけて同意を求めてます。解決したとする解説も長々とされてますね。
他者に自説を述べる際の手法としては、宗教的手法(とにかく信じなさい)か科学的手法以外にありません。そして貴殿は科学的手法を放棄している以上、宗教的手法つまりは「オカルト」ということになるわけです。
これでご理解いただけましたでしょうか?
山田太郎様
回答、ありがとうございます。
こんな話は聞いたことがありませんので、根拠を教えてください。
では、くどいようですが、もっと噛み砕いてご説明いたしましょう。
自説を述べるとき、世の中には、科学的手法かそうでないかの2種類しかありません。
科学とは反証可能性が担保されていることを指します。反論が可能であれば、どんな奇説であってもすべて科学ということになります。説が正しいか間違っているかは関係ありません。
反論が可能であればすべて科学です。
一方で、例えば「神様のお告げ」的な説は、そのお告げを聞けない人々(客観性がないもの)には、反論出来ないわけです。よって、反証可能性を担保できないので非科学的ということになります。これを宗教的手法(非科学的手法)と呼びます。
同様に「心のメカニズム」にも同じことが言えます。心(クオリア)には客観性がないので、やはり、反論出来ません。よって宗教的手法(非科学的手法)ということになります。
これでおわかり頂けましたでしょうか?
山田太郎様
回答、ありがとうございます。
ただ、まだ納得できませんので、ディープラーニングを例に、具体的に説明してください。
ディープラーニングは反証可能性があるといえるのでしょうか?
あるとなれば、どのような検証で、結果がどうなれば、科学といえるのでしょうか?
お答えください。
横からすみません。
こういった話に昔から少しだけ興味があったもので、少し発言させてください。
(高校生の頃、「意識する脳」って本と、「最新脳科学:心と意識のハード・プロブレム 」っていう学研のムックを読んだことがある、という程度です)
私の記憶では、「ハードプロブレム」という問題は、
『自分はゾンビではない!』と考える人たちが、
1.『痛み』という知覚を『嫌だ』と感じる気持ち(=主体的意識)の発生原理
2.意識の座がどこにあるか
について、全然解明されていないよね、って問題提起だったように思います。
なので、「そもそも有機生命体に『痛み』なんてオカルトめいたクオリアは存在しない」って主張するゾンビたちにとっては非科学的な話になるはずで、彼らゾンビにとっては『ハードプロブレムなんて存在しない』としか言いようがなく、そもそもゾンビには『ハードプログラム』の問題意識を理解することが出来ません。
ゾンビも、叩かれたら『痛い!』とか『嫌だ!』と叫びますが、それは神経やらが勝手に反応しているだけで、『イヤダ!』と発音することとまでが反応の一部であって、『べつに意識などというオカルト的なものが嫌悪しているわけではない』という解釈です。
ブログ記事を拝見しましたところ、こちらに言及されている問題はすべて『イージープログラム』に類するものであるように感じました。
「ハードプロブレム」は、外界から得た情報を判断して行動するプロセスを扱うというような表面的なものではなく、
『知覚』という現象の(物理的でない)主観的な側面の発生原理や、クオリアが報告可能な状態になるための物理プロセスなどが解明されていないということを問題視したものかと思います。
たとえば、コンピュータで例えるなら、(コンピュータにおける意識の座が、メモリ内における電位変換の瞬間に生じるキラメキというか原始的な知覚みたいなものの連続だったと仮定して)、人間がプログラミングしたとおりに動いたにすぎないのに、コンピュータが『俺は自分で思い立って、自発的に情報を処理してやったぜ』と思い込むのは何故か。その原理を突き止めたい、というようなことになるかと思います。
コンピュータが先天的に工場で設計され、後天的にはソフトウェアがインストールされ、人間のインプットに応じて動くだけの装置だというのであれば、人間も、先天的に遺伝子などで設計され、後天的には社会や環境によって各種情報や処理がインストールされた、目鼻耳などのセンサーデバイスにて収集したデータを脳が処理して反応するだけの装置に(表面的には)すぎません。
しかし、我らゾンビでない人間は、コンピュータに意識があるかどうかは確かめようがありませんが、自分自身の知覚の存在だけは確認できています。
なので、『証明済みの、このオレの知覚や意識は、どうして生まれているのか』という命題になるのだと思います。
その前提条件である、『人間に主体的な意識など存在するだろうか?』ということに疑問がある場合、『ハードプロブレム』は、問題点を理解できないはずですので、反論すらできないのではないかと思います。
沼針様
丁寧なコメント、ありがとうございます。
何度も読ませていただいたのですが、沼針さんの言いたいことが、まだ、明確にわかりかねます。
ここで言いたいのは、「意識が、どうやって生まれるのか」と、自分で、考えるようになれば、意識が発生したといえるということでしょうか?
もし、そうなら、そういう風に考えるようにプログラムすればいいと思うのですが、おそらく、それじゃ、意識ではないと反論されると思います。
では、人間が、そういう風に考えるように教えられて、考えるのとどう違うのかと思います。
そういうことを言いたいのではないのでしょうか?
具体的に、こういったことができれば意識があるといった形で提示していただければ、議論ができると思います。
今回のコメントでは、そういったことが明確になってないので、何とも答えようがないというのが正直な感想です。
このブログだけでなく、「主観と客観」や「意識の仮想世界仮説」なども併せて読んでいただければ、僕の主張が伝わると思います。
できれば、そちらも参考になさって、僕の提唱する「意識の仮想世界仮説」では、こういったことができないから、意識とは言えない、または、ハードプロブレムが解決されてないという形で説明していただければと思います。
どうぞよろしくお願いいたします。
ご返信ありがとうございます。
>こういったことができれば意識があるといった形で提示していただければ
『こういったことができれば意識があるといった形で提示することが難しい』という問題提起が『ハードプロブレム』だと認識していますが、異なる見解をお持ちでしょうか?
ちなみに、私が『意識のハードプロブレムが解決しましたが、何か?』というタイトルを読んで思ったのは、『いつのまにか意識があることを客観的に証明する方法が見つかっていたのか?』です。
・チューリング・テストと心の仕組み(心のエコシステム)
・主観と客観
・意識の仮想世界仮説
・意識を定義して、どんなものに意識があるか判定すると意外な結果が
・そもそも意識って何?人工知能で人工意識は作れるの?
を拝見させていただきましたが、ここで言及されているのは(「意識する心」という本で書かれていたように記憶するのですが)『反応』と『機能』という表層的なイージープロブレムについての事であって、『好き/嫌い』というような内面的な現象に言及されていないよう、お見受けしました。
ハードプロブレムの難しさは、田方さまが繰り返し
>そのシステムに主観的な意識があることを客観的にどう確かめるんでしょうか。
と投げかけていらっしゃるくらいですから、ご理解いただいていると思いますが、
・主観と客観
で言及されている、ライントレーサーで言うのであれば、
「『ズレている』ことにこのうえない快感を覚え、『ピッタリ』に不快感を覚える「ライントレーサー」の好みを、人間がどのように観測・検証できるのか。という疑問は、じつにハードプロブレムだ」
といえばしっくりくるのではないでしょうか。
コンピュータが「1+1」の演算処理に『甘さ』を感じるとします。「1+2」の処理には『苦さ』を感じるとします。
人間が命令すれば「1+1」の演算処理も「1+2」の演算処理も何も問題なく行われるので、何の違いもわかりません。
コンピュータの内面では「1+1」を喜んだり、「1+2」を苦しんだりしているのではないか。
ところが、現在、これを調べることが出来ないということが『ハードプロブレム』の入り口という認識です。
ここで言う「甘い」や「苦い」は表層まで現れませんので、ハードプロブレム未解決の人間には認識できませんが、もし、コンピュータが「アマイ」とか「ニガイ」とか、ご丁寧に反応してくれるのであれば、「どうやら、コンピュータにとって1+1という計算は甘く、1+2というのは苦く感じるのだな」と科学的に解釈できる、イージープロブレムになります。
コンピュータの意識の存在をどうやって確認するか、そして(ハードプロブレムと言った時はこっちがメインに感じますが)「1+1はコンピュータにとって、なぜ苦くなく、甘いのか」、「そもそもコンピュータにとって『1+1が甘い』、とはどういうことなのか」、「そう感じる物理的な位置はどこにあたるのか」というような疑問が、ハードプロブレムの領域だと思っています。
いろいろな記事を読ませていただいて感じることがありましたので、少し失礼いたします。
全般的なお話しですが、そもそも科学的なアプローチでハードプロブレムを論じているような気がします。
ちなみに、デヴィッド・チャルマーズという人の『意識する心』という本が、ハードプロブレムを世界一わかりやすく示している本だと思います。(ハードプロブレムそのものを提起した書籍でもあるので、ある意味ハードプロブレムの定義が書かれている原本とも言えます)
逆に、サイトなどで語られているハードプロブレムは、無理に科学的アプローチで説明しようとするあまり、『それはイージープロプレムに類するものでは?』というようなものを多く含んでいたりすることがあり、正しくハードプロブレムを理解できないかもしれません。
ハードプロブレムは、科学者であり哲学的でもある人たちが、双方のアプローチで意識を考察していった結果、哲学的に証明できる範疇でも科学的に証明できる範疇でもない、『ここの部分がすっぽり抜けてるね』という部分があることに気づき、指摘したもの、と理解しています。スタートは哲学的アプローチですので、哲学的アプローチでモノを考えはじめないとハードプロブレムは理解しがたいはずだと感じています。
順を追ってお話しします。
①
むかし、科学的なアプローチのみで『心』を証明しようとする唯物論というものがありました。
科学が急速に発展した時代、科学の万能性を目の当たりにした人類は科学を妄信するようになって、唯物論がとても支持されました。この唯物論は『心や意識などオカルトであり、存在しない』、『物理的な状態変化がすべて記述されるのであれば、それが心というものだ』という主張に変化しました。(古典的な一元論と言われるものでしょうか?間違っていたらごめんなさい)
②
デカルトという前時代人が、上の主張に対し、『そうは言ってもよ、全人類がゾンビならば、なぜ人間の言語に「意識」や「心」なんて言葉があるんだ』と考えました。そして、(物理的な存在である)身体に起こった物理的現象から客観的に観測できない「心」や「意識」について、自らペンで紙に書いたり、コンピュータにタイピングできたり物理的な動作に影響しているわけだから、少なくとも物理的に説明できない『何か』あるはずだ、と考えました。(これは、のちにチャーマーズが『現象報告のパラドックス』と命名するものと類似します)
③
さらに、デカルトは、『どれだけ意識の存在を疑ったところで、疑っている自分の意識までは否定できない、すなわち自分の意識はあるということだ』と主観的に証明しました。
『我思う、ゆえに我あり』というやつです。
この『我思う、ゆえに我あり』は、科学的アプローチで考えると非科学的であり、何も証明できていることにはなりませんが、ゾンビでない人は全員主観的に理解しますので、科学的アプローチで証明できないものを、哲学的アプローチで証明した、という評価になります。(私が思うに、『我思う、ゆえに我あり』が『何も証明できていない』と感じるのであれば、ハードプロブレムが何を問題視しているかを理解できないと思います。ハードプロブレムは、これらを理解する「哲学者」たちによって語られるものです)
④
脳や神経の科学が進むにつれて、心理的な作用の原因が物理的に解明されてゆき、科学的なアプローチから「入力される刺激と出力される反応(=行動)の相互関係を示す法則」を発見しさえすれば、「心や意識は解明できた」ことになると考えられました。(イージープロプレム)
また、デネットの実験(やろう!と意思決定する前に身体はやることを決定している。意思は後付けという証明)などから、『人間に自由意志など存在しない』、『人間の心は身体を動かすこと(念力)などできない』、『意識は、身体の物理的な反応に追従するだけのゴミだ』と、意識が人間の行動の原因ではなく、結果に過ぎないと分かってくると、いよいよ『心は説明され尽くした』と考えられるようになりました。
⑤
いや、ちょっと待てよ、と。物理的な記述のみで、意識の感じる『痛み』とかを本質的に表現しきれるというのか?そもそも『痛み』とは何なのか。
とりあえず『痛み』の存在は、(我思う、ゆえに我あり式に)主観的に証明できる。つまり、まだ記述できてないものがある。この、『痛みという感覚そのもの』をどう扱うのか(=ハードプロブレム)について何も解決していないじゃないか。解決したと言ってるのは、「ニューロンの発火で意思が生まれるように見える」とか、「ある神経を刺激すると痛がるようだ」とか、「言語を理解するとき脳のこの部分が化学的伝達物質を受容するらしい」とか、人間を装着としてみたときに、何を与えたらどう振る舞うかという、反応と機能(イージープロプレム)についてばっかりで、装置の内部における物理的な反応が、どのように意識という霊的なものを生むのか、物理と精神の二つの関係は相互なのか片務なのか無関係なのか。意識というオカルトめいたものがどう生まれ、どういう理屈でどういう感覚を主観に発生させているのか、装置における意識とはそもそも何なのか。というハードプロブレムには一切触れていないではないか。
という流れになります。
なにかのヒントになればと思います。
蛇足を書いて遅くなってしまいましたが、お尋ねの
>僕の提唱する「意識の仮想世界仮説」では、こういったことができないから、意識とは言えない、または、ハードプロブレムが解決されてないという形で説明していただければと思います。
に回答させていただきます。
なお、そもそも『こういったことができないから、意識とは言えない』は、ハードプロブレムが解決しないと言えないことですので、お答えできません。(意識の有無を客観的に確認する方法、同一意識モデル同士の比較方法について、何を証明したら解決と言えるかすら分からない、というのがハードプロブレムです)
さて、「意識の仮想世界仮説」に書かれていることは、どちらかというと決定論や心脳問題にフォーカスしたものであって、ハードプロブレムとはあまり関係のない議題に思えましたが、(かつて学研のムックで読んだ気がする)『シミュレーション仮説』とか『ビットの海』という思考実験が近いかと思いますので、それに沿って、『何が解決すればハードプロブレムが解決したと言えるのか』について、私の見解をご説明させていただきます。(『水槽の脳』という思考実験も近いところがあるかもしれませんが、『ビットの海』は、たしかマトリックスの元ネタだったような記憶がありますので、親和性が高いかと思いました)
『ビットの海』とは、
無限に用意されたビットの海に、物理法則のみを唯一のルールとして用意し、そこに膨大なエネルギーを投入します。すると、そのエネルギーは質量を生みつつ、投入点を中心としてビットの海に宇宙空間をフォーマット(ビッグバン)していき、以後、フォーマット済の領域を広げていきます。その宇宙に数々の銀河が生まれ、地球っぽいものが生まれ、そこのヒト型生命体が社会を構築し、ある個体はタンスの角に足の小指をぶつけて痛がっている、というような枠組みの思考実験だと思ってください。
この仮説で提唱者が言いたかったことは、主に『未来はあらかじめ決まっている』とか、『物理世界は因果的に閉じている』というような決定論的なことだったように記憶しています。
さて、この枠組みでハードプロブレムを言うのであれば、タンスの角に足の小指をぶつけて痛がっているヒト型生命体が、他の物質に意識があるかどうか(好き、嫌い、なんかムカつく、懐かしい、眩しい、というような知覚や意識を持っているかどうか)という命題に対して、
『こういう実験を行って、こういう結果が得られれば、意識があるって客観的に証明できたことになるのでは?』
という証明方法を見つければ、『ハードプロブレムは解決した』と言えると思います。なお、『意識があることを証明できない』こと自体もハードプロブレムとして扱われますが、本来的というか、狭義でのハードプロブレムには含まれないと思います。
あくまで、『いったい何をやったら証明出来たと言えるのか、その方向性すらわからない』という厳しすぎる状況を指してハード(難しい)プロブレムと呼んでいるのですが、このあたりは『意識する心』を読むと問題の構造がわかると思います。
軽くご説明いたしますと、
『AもBもCもDもEもわからない。そもそも、何をどう調べて、どういう結果を用意したらA〜Eの謎を解明したと言えるのかすらわからん』という構造で、この中でハードプロブレムと呼ばれているのは『どういう結果を用意したらA〜Eの謎を解明したと言えるのか』の部分です。ただし、A〜Eが解明したのなら、当然ハードプロブレムも部分的には解決しているはずなので、皆さんA〜Eのこともハードプロブレムと呼びます。(チャルマーズでさえも)
内訳は以下のような感じだと思います。
A
任意の物体に意識が宿っているか否かを客観的に(科学的に)検知する方法を確立する。
B
Aを踏まえ、意識の発生原理を突き止める。何を満たしたものに意識が宿り、意識あるものから何を除けば意識を失うかを突き止める。
C
Bを踏まえ、意識の単位をモデル化(宇宙の主体的意識、宇宙を構成する銀河の主体的意識、それらに被さる社会など共同体としての主体的意識、それを構成するヒトの主体的意識、ヒトを構成する臓器の主体的意識、臓器を構成する細胞の主体的意識、細胞と共存関係にある微生物の主体的意識、などなど)し、同一単位の意識やクオリア同士が等価である(クオリア逆転)か否かを比較判断する方法を確立する。(ここではじめて『意識』の基準が設置可能となるので、共有の概念として『意識』を科学で扱うことができるようになるという認識です)
D
センサーデバイスである目鼻耳口皮膚など外界からの刺激で生まれる電気的・科学的伝達物質が、どのようなプロセスで、なぜ伝達物質と対のクオリアにならなければならないのかを証明する。(この伝達物質がなぜ『眩しさ』でなく『恥ずかしさ』のクオリアを発生させなければならない必然性を持っているのかを検証し、因果関係を整理する)
D
意識とは何なのか、物理学ではどう記述すべきなのか、または、新たな法則を定めるべきなのかを見定める。
という感じです。
うまく説明できていないかもしれません。意味が取りづらいところがあれば、私の見解から、わかる範囲で補足いたしますので、お声ください。
沼針様
丁寧な回答、ありがとうございます。
沼針さんが、ハードプロブレムの何が分からず、悩んでいるか、これでよくわかりました。
そんな、沼針さんに、ぴったりの動画がありますので、それを紹介させていただきます。
こちらの動画です。
「物理学 vs 哲学 物理学で『意識』は解明できるのか」
これを見ていただければ、沼針さんの悩みが解消できると思います。
続き物の動画となっていますので、順番にみていただければと思います。
今後も、随時アップしていきますので、興味があれば、チャンネル登録していただければと思います。
新着動画を見逃したくないというのでしたら、メルマガ登録することもお勧めします。
動画を見て、分からないところなどありましたら、気軽に質問してくださいね。
田方さま
ご返信と興味深い動画のご紹介、ありがとうございます。
とりあえず、Vol.1を拝見させていただきました。
(続きも見せていただきます!)
動画の中で意味がつかめなかった箇所や、疑問点について、3点質問させてください。
■質問1
動画でのご発言に
「コインを取って喜んだり、キノコにぶつかって無敵になったり、これって僕たちの頭の中と同じ」とありますが、
これを証明できたということであれば、
①意識というものが存在することを証明し
②自分の意識を客観的に観測し
③コンピュータの感情や意識も客観的に観測し
④さらにその二つが等価であると判断できた
というように聞こえてしまいます。
もし、これが事実なのであれば、「ハードプロブレムは解決した!」
と言っても過言ではないと思いますが、
おそらくそういった意味ではないのではないか、と感じています。
どのような意味なのでしょうか?
■質問2
「脳を原子・電子レベルまで解明して、脳と全く同じものを作っても意識が生まれるわけではない」
というご発言も、意識というものの存在を証明できているかどうかはさておき、
なぜ意識が生まれないということを証明できるのかがよくわかりません。
意識の発生原理を満たさないことがわかる=意識の発生原理がわかっている?
と、そういった意味ではないのでしょうか?
この辺り、どうも私の理解が及ばない所なのかもしれません。
■質問3
字義の問題ですが、『ハードプロブレム』の指し示す内容に誤りがないか確認させていただきたいです。
『ハードプロブレム』とは、
意識というものがどのように論証されるべきなのかを考察するうえで
今現在、意識の存在をを証明したり、客観的に観測したりする方法はなく、
そればかりか、
将来的にも意識を客観的に観測する方法などイメージすらできない状態だ。
という八方ふさがり状態であることを提起したものだと考えています。
この認識に齟齬はございませんでしょうか?
もし、齟齬があるのであれば、正しい認識をお教えいただけるとありがたいです。
宜しくお願いいたします。
沼針様
さっそくの質問、ありがとうございます。
それでは、順に回答いたします。
ブログを読んでいただいているのでお分かりだと思いますが、ロボマインド・プロジェクトの目的は、人間と自然な会話ができるAIを開発することです。
決して、意識やハードプロブレムの解明を目的としているわけではありません。
なので、①~④ができたといってるわけではありません。
おそらく、沼針さんは、僕のブログの「ハードプロブレムが解決しました」という文言だけ捉えて解釈しているのだと思いますが、一度、僕のブログを最初から読んでいただければ、僕の発言が、どういった意図で語られているか分かると思います。
この点は、谷村省吾先生からも、直接指摘を受けました。
ここは、訂正したいと思います。
言いたいことは、ニューロンまで完全に同じ脳が再現できたとしても、意識が発生するとは言えないということです。
つまり、ハードウェア的に全く同じものを作れたとしても、意識は生まれないといいたかったわけです。
電子レベルまで同じ動きをするなら、ソフトウェアも同じといえるので、意識が生まれると思っています。
あっ、この点は、沼針さんと意見が違うことはわかっていますよ。
意識やハードプロブレムは、人によって考えが違いますからね。
これは、最初にも書きましたが、僕は、ハードプロブレムを解決しようと思ってるわけでもなく、ハードプロブレムの正しい解釈がどうかといったことにもあまり興味がないです。
そもそも、ハードプロブレムの正しい認識があるとは思っていません。
意識科学の分野は、まだ、はじまったばかりで、人によって解釈が異なりますし、沼針さんのような考えの人がいることは存じております。
最初にも書きましたが、僕の目的は、言葉の意味を理解し、自然な会話ができるAIを作ることで、その過程で、ハードプロブレムやクオリア、意識といったことと関わることがあるので、それをブログや動画で分かりやすく、面白く紹介しているわけです。
全体の流れから、意図を捉えていただければと思います。
>僕の提唱する「意識の仮想世界仮説」では、こういったことができないから、意識とは言えない、または、ハードプロブレムが解決されてないという形で説明していただければと思います。
ご存知かもしれないが、2018年に示されたハードプロブレムの解決方法の一例がある。
有識者からほぼ異論が出なかったため、ひとまずこれをクリアすればハードプロブレムは解決できたと言えるだろう。
貴公の作る装置が「意識」を持っていると証明する方法と読み替えた場合
貴公の作る装置を複数用意し、会話させる。
その装置内に芽生えた意識について装置同士で会話・論考され、
その結果、我々人間の誰もが理解できる「意識の発生理由」が出力されれば、
「この装置には、我々が感じているものと同質の意識というものを持っている」
と証明できるだろう。というもの。
どういう結果が得られればいいかについてすら不明だった頃に比べれば、指針ができただけでも大きな進歩だが、少なくともこれがクリアできなければ、ハードプロブレムがクリアできているとは言えない。
たーやんぽ様
コメント、ありがとうございます。
これは知りませんでした。ものすごく興味があるので、このことを書いた記事のリンクなどわかれば教えてください。
問題があるとすれば、ここですよね。
「誰もが理解できる『意識の発生理由』」です。
つまり、「意識のハードプロブレム」だろうが、数学の未解決問題だろうが、どんな問題でも、「誰もが理解できる『○○の解決方法』」を出せりゃ、そりゃ、解決したことになりますからね。
そんなことは、誰もがわかってるので。