生きることと死ぬこと、もっと限定的な言い方をすれば、我々の生きている意味、意義。そんなことについて僕は時々考えることがあります。なにも僕だけじゃなくて、読者様も一度と言わず何度でも考えたことはあるかと思います。それには宗教的観念や社会的タスク、生物学的な観点など様々な見方があるし、個々によっても考え方は違うと思います。そんな中で、今回は僕の持っている生死感、僕の考える個人としての存在意義を分かりやすくお伝え出来たらいいなと思います。
結論から言うと、大きな尺度で言えば個人としての生きている意味なんてないと考えます。じゃあ小さな尺度で言えばあるのかと疑問を持つ人がいるかもしれません。確かにその場合は生きている意味は存在します。例えば、自分のため、家族のため、仕事のため、学級のため、こういった尺度で考えれば全ての人間に存在意義があります。ではその尺度をもっと広げてゆくと、社会のため、自然のため、地球のため、宇宙のため、銀河のため…こうなってくると見えてくるのは「虚無」です。だから僕は極論的に個人として生きている意味はないと答えたくなってしまうんです。
我々の存在意義の有無の、その答えが視野の広さで変わるなんて都合のいい話かもしれないですが、しかし、それは事実のように思われます。生きている意味の有無、人によって答えが分かれるかと思いますが、その分岐の理由は「価値観の違い」とも言えるし「視野の違い」とも言えるのです(宗教上の理由で思考を停止している方もいるかもしれないですが、その場合は例外)。そう考える理由を以下、詳しく説明させて頂きます。
まず僕が先に結論を述べたのは、結論を強調したかったからではなく、読者様に「階層構造」という物の捉え方をして欲しかったからです。階層構造というのは、例えば人体で言えば、「個体>器官>組織>細胞>分子>元素」といった具合に、ユニットが複数集合することで新しいユニットが階層的に出来上がってゆく構造のことを言います。僕の感覚としては地球から見ると「人間=細胞」だと思っています。つまり、人間にとっての細胞と、地球にとっての人間は同じ位置にある、言い換えれば、我々は地球という生命の細胞だということです。僕なりの宇宙規模の階層構造をざっくりと示すと「太陽系>地球>自然>社会>人間>…」といった具合になると思います。つまりは僕の感覚ですけども、人間という細胞があって、社会という組織を作る。社会という組織は自然という器官の一部であり、それらが集まり地球という個体を生み出しているということです。順を逆にすると、地球という生命には自然という臓器があって、その自然という臓器は社会などの組織の集合である。そして、社会という組織は人間という細胞が集まって出来ているということです。
地球=人間
自然=器官
社会=組織
人間=細胞
↑みたいな感じ
ここまで理解して頂けたなら、視野の違いによって存在意義の有無が決まるという僕の考え方もなんとなく分かって頂けるのではないでしょうか。最初に述べた通り、個人としての存在意義があるのはその人自身や、家族や、会社、学級など限定です。しかし、階層構造の規模が大きくなれば、我々の細胞が1つなくなっても生命維持に問題はないように、人ひとりの存在意義なんてものはなくなるのです。だから、自分の存在している世界の広さの認識によって、存在意義があったりなかったりするんです。
自分はこのように「生きている意味」を解釈していますが、生きている意味なんてないんだ、虚無なのだと割り切るのか、もしくは自分の存在意義が認められる規模はどのくらいかを理解し、その中で自分の存在を実感する術を考えるのか、更なる解釈は読者様にゆだねたいと思います。