人間科学学術院 教授 熊野 宏昭(くまの・ひろあき)
東京大学医学部卒業、博士(医学)。専門は臨床心理学、行動医学、応用脳科学。著書に『マインドフルネスそしてACTへ』(星和書店)、『新世代の認知行動療法』(日本評論社)など。
心身の健康維持と密接に関わる記憶のからくり。嫌悪記憶の成立と忘却のメカニズムを解明する。
忘却と精神的健康の関わり
21世紀の現在、とどまるところを知らない科学の進歩にITの発達も相まって、われわれの周囲には、とても処理しきれない量の情報があふれかえっている。われわれは、日々その中から必要な情報を取捨選択し、それを活用して生活しているわけだが、あまりの情報量に頭がいっぱいになることも少なくない。そして、そうなると、実際に必要な情報を取り入れることもできなくなってしまう。このような状況は、記憶力を高めることで解決できるのだろうか?
一方、近年は社会が複雑化し、時代が流動化しているために、以前であればめったに経験しなかったようなストレスやトラウマに悩まされることも増えている。そして、そのような経験は、望まない記憶としてわれわれの中に残ることで、無用な不安や落ち込みの原因になっていることも少なくなく、うつ病や不安障害などの精神疾患の増加をもたらしている可能性がある。ここで問題になっているのは、不要な記憶を忘れることができないことである。
記憶には、その内容を言葉にして説明できる「宣言的記憶」と、体で覚えるタイプの「非宣言的記憶」がある。前者はさらに、個人的な思い出である「エピソード記憶」と、物事に関する知識である「意味記憶」に分かれる。一方、後者には、技能や癖に関わる「手続き記憶」、ある状況で現れる特定の感情や身体変化の記憶に関わる「レスポンデント条件づけ」などが含まれる。
側頭葉(temporal lobe)内側に位置する海馬(hippocampus)と扁桃体(amygdala)
これらの記憶は脳内のどこに存在しているのだろうか。答えとしては、記憶の内容と関連している「脳のいたるところ」というのが正解であるが、それぞれこの部位がないと記憶自体が成立しないという必須部位がある。それは、宣言的記憶では海馬、手続き記憶では線条体、レスポンデント条件づけでは扁桃体といった場所である。
一般的に記憶というと、宣言的記憶の方を思い浮かべることが多いと思われる。しかし、上記のようにストレスを経験した結果、われわれの中に残ってしまい、場合によっては精神疾患まで引き起こしてしまうのは、手続き記憶やレスポンデント条件づけなどの非宣言的記憶の方である。そこで、心身の健康を保つためには、これらの記憶がどのようにして生じて、どのように変化していくのか、そしてどうすれば「忘れる」ことができるのかを理解することが重要になってくる。
近年、この分野は基礎研究が随分と進んできており、宣言的記憶の改善にもつながる脳の変化と、不要な非宣言的記憶を忘却することの間に、非常に興味深い関係があることも分かってきている。
嫌な記憶の忘れ方
ここでは、われわれの不安や落ち込みなどの感情と深く関わり、豊富な基礎研究が積み重ねられてきたレスポンデント条件づけについて、その成立と忘却のメカニズムについて解説してみよう。
レスポンデント条件づけとは、パブロフの犬の実験でよく知られている身体や感情の変化に関わる学習形式である。パブロフの犬の実験では、肉(無条件刺激)を与えて唾液を出す(無条件反応)という操作の直前に、音(中性刺激)を聞かせるということを繰り返すことで、音(条件刺激)を聞いただけで唾液が出る(条件反応)ようになる。この学習は、例えば高所恐怖症などでも起こっている。たまたま体調が良くない時に高所に行って、ひどく気持ちが悪くなるという体験をすると、高い所に行っただけで気持ちが悪くなるのである。
それでは、この「記憶」は、どのようにして忘れることが可能なのであろうか。レスポンデント学習の忘却には、消去と再固定化という2つの現象が関わっている。
その一つは、無条件刺激なしに条件刺激のみを繰り返し提示することによって引き起こされる「消去」である。パブロフの犬であれば、音だけを聞かせて肉を与えないことを繰り返せば、そのうち唾液は出なくなる。しかし、その際に脳内で何が起こっているかの詳細については最近まで分かっていなかった。近年、一度形成された無条件刺激と条件刺激の結びつき(連合)は消えるのではなく、条件刺激と「無条件刺激の無い状態」との間の結びつきが新たに形成されて、古い学習が表に出なくなるということが、それに寄与する脳部位(前頭葉内側部)とともに明らかにされた。つまり、忘れたのではなく、何も起こらないという新たな経験によって上書きされたのであり、したがって、きちんと「忘れる」ためには、さまざまな状況で何度も上書き学習をすることが必要ということになる。高所恐怖症であれば、さまざまな場所に行って、ある程度は怖くなったりドキドキしたりするが、最初のようには気持ちが悪くならないという経験を繰り返すことが役に立つのである。
もう一つは、再固定化と呼ばれ、いったん記憶したものを思い出すと、その記憶のみが不安定化し、思い出すのを止めることで、もう一度記憶され直す(再固定化される)という興味深い現象との関わりである。驚くべきことに、再固定化の際にタンパク質の合成を阻害する薬を扁桃体に注射すると、想起された記憶(ここでは特定の恐怖反応)のみが消えてしまう。人間の場合は、当然脳内への薬の注射はできないが、例えば、高所を思い浮かべて強い恐怖を体験している時に、交感神経の働きを抑えるプロプラノロールという薬を静脈注射すると、再固定化が抑えられる可能性が示されている。
これは、不安・緊張が強い状態で苦手な場面に行き、早々にそこから逃げ出すと、なお恐怖症状が強くなるという現象の裏返しと考えられる。つまり、恐怖反応という記憶がいったん不安定化した後に、交感神経が高まった状態で再固定化されると、恐怖反応は強められてしまうのだが、その逆に十分にリラックスした状態で同じ状況を体験できれば、プロプラノロールのように再固定化を抑制できる可能性がある。消去は比較的長い時間(20分以上)が必要であるが、再固定化は数分間で起きる。そのため、苦手な場面に挑戦する際には、短時間であれば十分にリラックスした状態でその場に臨むのが良く、長時間とどまることができれば、そこで生じる感情や身体感覚をなるべくそのまま感じ取り、結果的に当初経験したような嫌悪的な事態は起こらないということを身をもって理解できれば良いということになる。
最後に、さらに驚くべき海馬の働きと恐怖記憶の忘却との関連について紹介しておきたい。海馬は先にも述べたように、宣言的記憶をはじめ多くの記憶の獲得に関わっている。つまり、海馬の働きをよくできれば、さまざまな記憶力をアップできると予想されるのだが、近年、海馬の活性化が果たす新たな役割が分かってきた。実は、その活性化が恐怖記憶の解消にも関わっていたのである。
海馬はさまざまな記憶を一時的に貯蔵する部位でもあり、海馬に記憶が存在するときには十分に固定化されておらず、不安定化しやすいことが知られている。上記で述べた恐怖記憶の固定化は、細胞レベルのものであり、学習後数時間から2~3日で完了する。ただ、脳全体のレベルでの固定化では、記憶を担う脳領域が時間経過とともに変化し、ラットなどでは完了までに数週間、人間では2~3年かかる。つまり、人間の場合は、学習後、通常2〜3年は記憶が海馬に存在し、その間は不安定化と再固定化が起きやすい。それがトラウマ記憶を中途半端に思い出すことによってその嫌悪度が増していくことなどとも関係している。そこで海馬にとどまる期間を短くできれば、それだけ早く大脳皮質の安定した記憶(想い出)に移行させられるのであるが、実は、海馬で新たな細胞が生まれ、古い記憶を担っている神経細胞が死ぬことによって、その過程が促進されることが分かってきたのである。
つまり海馬の神経新生を高める方法、それはDHA やEPA などのω3脂肪酸を含む青魚を食べ、定期的に運動をして、自然の中のような豊かな環境で暮らすことなどであるが、われわれはそういった方法によって嫌悪的な記憶を忘却し、頭の中をリフレッシュできるのである。
(『新鐘』No.81掲載記事より)
※記事の内容、教員の職位は取材当時のものです。