成熟した大人は世を拗ねないものだと思われています。何かある度に「この世が悪い」「社会が悪い、おかしい」というのは社会に不適合な、未成熟な人間と見られます。その典型例が小説、「ライ麦畑でつかまえて」の主人公のような狂人であり、体制にとって時に危険人物でさえあります。
しかしイエスは言います。「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。(マタイ5:3-4)
「こころが貧しい」というのは英語で"poor in spirit"で、うつ病の様にやる気を失った人、何の資力もない人です。エホバの証人が描くような喜び溢れたクリスチャンというのはまれです。イエスが語ったように、この世において嘆き悲しんで気力を失っている人こそ、もっともクリスチャンらしい人々なのです。
というのもこの世のほとんどのものや、喜びのもととなるものはサタンが作ったものだからです。それを喜ぶなとまではイエスは言っていませんが、感性の鋭い人は気が付く訳です。そのほとんどが実は真の幸福ではなく欺瞞であることを。
子供のように社会の偽善に敏感であるのが普通であって、妥協してこの世に浸りきってしまうのはある意味、サタンに迎合していると言えます。もっともある程度の妥協をしないと、あとは自殺を考えるのみになります。「ライ麦畑でつかまえて」の主人公のようにです。
イエスはこの世で成功している者たちを救いに来たのではありません。醜いらい病患者や、泥棒や売春婦などに、わざわざ声をかけました。この世においてザコキャラ扱いされている人こそ、イエスが救いたかった人達なのです。
そこでイエスが言われた、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。 晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。 ところが、みんな一様に断りはじめた。最初の人は、『わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません。どうぞ、おゆるしください』と言った。ほかの人は、『わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです。どうぞ、おゆるしください』、 もうひとりの人は、『わたしは妻をめとりましたので、参ることができません』と言った。 僕は帰ってきて、以上の事を主人に報告した。すると家の主人はおこって僕に言った、『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧乏人、不具者、盲人、足なえなどを、ここへ連れてきなさい』。(ルカ書14:16-21)