僕は現在、鬱病で精神科に入院しています。入院中には週に1回、カウンセリングを受ける機会がもうけられているのですが、今週受けたカウンセリングで僕は心理士さんに発達障害の検査を受けるように勧められました。
確かに、幼少期の頃の自分を思い返してみると、所謂「発達障害」を疑われるような行動をしていた自覚はありますが、まさか今になってそんな検査を受けることを勧められるとは、正直驚きました。病院側として「どくそだ」という人間をどのように解釈していて、どのような意図でそれを行うのかは分かりませんが、しばらく悩んだ末、自分はその検査を受けることにしました。
発達障害と呼ばれる、または発達障害と診断された人は前頭葉が云々…といった専門的なことは分かりませんが、今回は自分なりに検査を受けようと思った理由をお話ししようかと思います。
まず、人間はほとんどの場合、マイノリティかマジョリティかに分類されているように感じます。この国では脳内の幸福ホルモンがある値以上あり、社会生活を問題なく送れている人がマジョリティであり、そうでない、例えば僕のように極端に幸福を感じない、もしくは不幸ばかりを感じていて、社会生活をまともに送れない人間がマイノリティとなっていると思います。
そのような尺度で測られたマイノリティ側の人間は、マジョリティ側の人間に近づく為に病名を付けられて入院を強制させられる場合があります。その制度についての賛否をここで語るつもりはないですが、ほとんどの場合、マジョリティが良いもので、マイノリティはマジョリティに染まらなければならないかのような、そのような風潮が、マイノリティを迫害するこの国特有の風潮に繋がっているような気がします。
もちろん、生きづらさを感じている人間が科学の力を頼って、病院を訪れることは一切否定していませんし、マイノリティとされる人間に「Let It Be!」的なことを言いたい訳でもありません。
ただ病名というものは、もちろんその人の固有名詞とイコールではなく、あくまで医療的に都合の良いカテゴライズをした結果であるということを僕は伝えたいんです。
ですから僕は今回、星座占いとか、今日の運勢とか、そんな感じのテンションで発達障害の検査を受けてみようと考えたんです。自分は科学を全て信じきっている訳では無いので、自分の生活のちょっとした参考になればいいなといった具合のテンションです。
まぁ結論としては、真に受けない自信があった訳です。他人のカテゴライズした枠のどちらに居ようと、自分の生活に直接関係ない話なんですから。