生い立ち(青年期1)の続きです。
オーバードースによってICUに入院になった自分は鬱病の診断を出され、大学を休学することとなりました。その後は岡山から兵庫、茨城、熊本、岡山に戻り、また兵庫と色々な場所を点々として参りました。それは前提として、いづれも「療養」と言うよりかは「逃避行」とでも言った方が幾分正確な表現だと思っています。そんな僕の大学を辞めてからの逃避行の日々を順を追って説明していこうと思います。また、この僕の生い立ちにおいては今回が最終になると思いますので、是非最後まで読んで頂けたらとおもいます。
兼ねてから大学を辞めたいと望んでいた僕でしたが、大学がなくなった瞬間から途方に暮れました。大学に行かなくなってから、しばらくはそこの寮にとどまっていたのですが、その部屋が落ち着かなかったのか、他の学生に対する劣等感だったのか、それは分かりませんが、いてもたってもいられず、ほとんどの時間を外で過ごしていました。「外」と言っても、大学から電車やバスを使って1時間ほどで行ける渋川海岸で、何をするでもなく、朝から晩までタバコを吹かしながら夏の海を眺めているだけでした。途中からその近くには水族館があることを知り、避暑のためもあって、その期間は頻繁にその近くの水族館に通い、大きな青い水槽で、自由のない、かといって窮屈でもなさそうに泳ぐ魚たちを眺めていることも多かったです。寮の門限は22時半だったので、そのくらいの時間には寮に帰り、そんな「外にいない時間」には部屋にこもってYAMAHAのアコギで曲作りをしていました。
そんな空白の時間を過ごしている間に、自分のそんな状況が実家の母に知れたらしく、母親から電話がかかってきました。その時の母の口調は今までになく優しく、逆に僕はそんな母の優しい声に身震いしました。嫌な予感がしていたのです。「大学はもう辞めていいから、1度入院して療養したらどう?」と言うのです。確かに渡された薬は全く飲んでいなかったし、かといって実家は僕からしたら地獄のような場所で、そんな所に帰るくらいならばと入院という選択肢を受け入れました。聞くところによると、そこは色々の融通が効く綺麗なホテルのような場所らしいのです。そうして、自分は兵庫県の明石こころのホスピタルに入院することになりました。
「色々の融通が効く綺麗なホテルのような場所」しかしその実、自分は重度の鬱病と診断され、医療保護入院を強制されましたので、入院したのは閉鎖病棟でした。僕の嫌な予感は見事的中。母親は僕が自傷行為や自殺をしないように、僕を自分の管理下に置きたかっただけなのでした。飯は不味い、外にも出れない、スマホもない、タバコも吸えない。そんな最悪の状況下で僕は母親に騙されたのだと気が付き、怒りの念に囚われました。
退院後は実家に帰ることになりました。それがまた、自分を大きく苦しめたんです。その頃、母親は訳あって岡山に住んでいたので、茨城の実家には僕と父親の2人だけでした。今まで仕事ばかりであまり関わってこなかった父親と初めて向き合った瞬間です。自分は父親にまで実害有りと思っていませんでしたが、実際、僕のことを、又は僕の病気のことを理解はしてくれず、薬の副作用で朝は体が重くて起きれない僕に対し「いつまでも寝てるんじゃない、病気かなんか知らないけど甘えてるようにしか思えない」と言ってくるのでした。また、父は精神科の薬なんて飲むなと言って自分から薬を全て取り上げました。その体験は今でも僕の心の傷として残り続けており、病気であることは恥ずかしいことだから表では明るく装い、自分は正常であると他人に思われなければならない。そう思い始めたのです。それから僕の表と裏、陰と陽の二面性的な態度は加速していきました。
その後、僕は実家から逃げるように、飛行機で熊本へ行きました。大学で1番仲の良かった友達が熊本で研修をしていたからです。僕は1ヶ月間その友達の部屋に居候させてもらいました。友達の前では明るく装い、彼が研修のために外へ出ると自分は泣いたり、変にイライラしたりを繰り返していました。彼との生活によって、自分の二面性の性格をより確かなものに磨き上げたと言っても過言ではなさそうです。
また、その後は実家に帰ることなく岡山に戻りました。居場所のない僕を見かねた兄が自分の部屋にしばらく住んでもいいと言ってくれたのです。それから僕は岡山の兄の部屋に住み始め、一方兄は恋人の部屋に泊まっていたのか、その部屋を開けてくれました。すっかり精神的に衰弱していた僕は、それから4ヶ月ほど引きこもり生活を始めました。近くには自分の辞めた大学があって、そこの大学の学生が周りをうろついていることがほとんどでしたので、自分は部屋から出れなくなり、風呂も週に1度程しか入らず、宅配で一日一食だけ食べ、一日中寝て、時々ギターを弾いて曲を作り、そんな感じで過ごしていました。また、余談ではありますが、その頃自分はストレスによってか、胃痛が酷く、ゲロを吐いた時、それにドス黒い血が混ざっており、その匂いとドス黒さは、今でも鮮明に思い出すことが出来ます。
その間、自分は兵庫で入院していた時に出来た知り合いとLINEをしていました。その中で、兵庫で一人暮らしをするという選択肢が浮かび、もういい加減アルコールやOD、リストカット漬けの引きこもり生活にも嫌気がさしていたので、自分は思い切って兵庫に一人暮らしを始めることにしました。何も考えず、3日分の着替えと3万円程の資金を持って兵庫へ向かいました。そんな世間知らずが、まず向かった先は不動産屋さんでした。兵庫の加古川でいい物件を探してもらいに出向いたのです。しかし、金はない、仕事もない、保証人もいない、そんな自分には一人暮らしが出来る能力がないという事実を目の当たりにして、俄然と恥ずかしくなりました。
自分は岡山に帰る気も起こらず、市役所に行って住む家がないと相談をしました。すると「神戸の冬を支える会」とかいう事務所を紹介されて、そこでしばらくの住む場所と食料とを援助してもらえることになりました。
そんな思い出すだけでも赤面するような生活を送っている中、LINEでその状況を兄に伝えると、直ぐに兄と母親が僕の所まで来て、1週間だけ任意入院をしたらどうか?という話をされました。前回の入院で母親に騙された経験から、直ぐに彼らは今に自分を騙そうとしているのだと理解しました。しかし、その時は抵抗する気力も起こらず言われるがままに、前回と同じ病院へ連れてこられました。もちろん、彼らの語った話は嘘でした。自分はまたもや鬱病と診断され医療保護入院を強制させられたのでした。
そして現在も自分は狂人として、そこの病院に入院しております。これまで、そしてこれからの全ての結末は幼少期からの自分の二面性の性格と地続きであり、それこそ本当に大庭葉蔵のように退廃的な生活が今後も待ち受けていると思えて止みません。
最後まで呼んでいただいた読者様、本当にありがとうございました。今後は日々思ったこと、感じたことを日記がわりに載せていこうと思っています。また、今後とも反応を頂けると幸いでございます。