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 紅娘艶情ホンニャンえんじょう   
 
「噂どおり、床では使えぬ女だな。死んだ鯉でも抱いているほうがまだましだろうよ。それでよく妓女など勤まるものだ」
 男は服を羽織り、帯を締めた。寝台で女が大儀そうに身じろぎをする。(まげ)からほどけて落ちた黒髪が蛇の群れのようにくねり、その背を滑り落ちた。
「噂どおりかどうか、確かめたかったのは旦那さんの勝手でしょう。私は音曲と舞のお手当てだけで食べていけます。私が旦那さんの誘いに受けたのは、旦那さんを見込んでお願いがあったからです」
 女は枕もとの櫛箱から紙切れを出し、男に渡した。男は灯りを近づけて紙を開いた。そこに書かれた名前に眼を落す。
「姓名は劉紹(りゅうしょう)(あざな)孝二(こうじ)。お前の好い男か」
「私はそう思ってますけど」
 女は物悲しそうに言った。
 閨ではまったく面白みのない女だったが、器量は悪くない。後れ毛をかきやり寂しげに目蓋を(かげ)らせる仕草に惑わされそうになり、男は紙切れに目を落とした。
「試験のため都に出て八年か。三度目の科挙(かきょ)で進士になっていれば、今頃は官位についているだろう。そうでなければ、帰郷も叶わずどこかで困窮しているわけだろうな」男はふっと笑いを漏らした。「生きているとしても、文ひとつ寄越さぬ男の消息など求めてどうする。仮に官に就いていたとして、大足女に身請けを申し出る士大夫(したいふ)がいるものか」
 語尾に含まれた嘲りを、女は無視した。掛け布団の下の足を引き寄せる。
 ――足の大きな女は醜い。
 だが、この足のおかげで胡旋舞(こせんぶ)を習得できたのだ。
 高く結い上げ垂らした豊かな黒髪を、自ら起こす風にひるがえらせ、高速で回転し、跳躍する胡旋舞は纏足(てんそく)した女には舞えない。蝶のように、風に戯れる木の葉のように中空で身を翻す曲芸技だけが、都に頼れる身寄りのない夏紅燕(かこうえん)の財産だ。 
 消息の絶えた恋人を追って家出し、紅燕は都へ登った。ところが劉紹の下宿先には知らない人間が住んでいて、かれの消息はつかめなかった。故郷に帰ろうにも金は尽き、路頭に迷う。紅燕は芸妓になることを決意した。
 身寄りのない大足女が都でひとり生きていくには、どこかの家の下婢(はしため)に身を売り渡すか、異国の血を引く祖母に教わった舞を生かして芸妓になるかどちらかしかない。もし劉紹が既に官位を授かっていたら、名妓としてどこかの宴で顔を合わすこともあるだろう。
 容貌は人並み以上だったが、纏足をされていない大きな足では、男の欲情を引き出して稼ぐ妓女になろうというのがまず無茶であった。卑賤の娼館でも断られただろう。
 数件目の妓楼で、紅燕の胡旋舞と胡弓(こきゅう)の腕を買ってくれる、やり手の鴇母(ほうぼ)を見つけることができた。他の妓楼ではお目にかかれない異国風の胡旋舞は都の話題となり、紅燕は徐々に売れ出した。稼ぎの半分以上は鴇母に上納しなければならなかったが、生活に困らぬほどの金は手元に残る。衣装や部屋の手入れをする下婢もついた。大足のおかげで閨事の勤めの声もかからず、紅燕はむしろ実家よりも快適で気楽な生活を送っていた。
「それにしても、纏足よりも舞を仕込むなど、そなたの親も変わっているな。始めから舞妓に育てるつもりだったのか」
 コトが終わったのだから、さっさと帰ればいいものを、男は瓶子に酒が残っているのを見て杯に注いだ。
「母は早くに亡くなりました。父様の奥様がわざと私に纏足をさせなかったんです」
 男は燈台の灯りに浮かび上がる紅燕の顔をまじまじと見た。
 絵に描いたような蛾眉朱唇(がび しゅしん)。滑らかな首筋は白絹の光沢を放っている。胡族の舞曲を巧みにするだけあって、漢族離れしたくっきりとした鼻梁や瞳の色の淡さが、遠い西域の血を匂わせる。
「正妻の娘より美しく生まれついたのが運の尽きか」
「そんなところでございましょう」紅燕は艶然と微笑み、受け流した。「私の身の上話などどうでもよろしいです。私の好い人を探してくださいますの?」
「見つけたらまた抱かせるか?」
「死んだ鯉のほうがましだとおっしゃいませんでした?」紅燕は呆れて問い返す。
「生娘相手みたいなのも悪くない。陰間の初物あたりを味わっているようで面白かった」
 この客は、性技に慣れない少年少女を好むらしい。紅燕は改めて薄明かりを頼りに男の顔を見上げた。齢は三十を越えたくらいか、顎にたくわえた髭は整えられている。礼部に籍を置く役人と聞き、劉紹の消息を調べてもらえるかと接近した。
 紅燕は媚を含んだ笑顔を浮かべた。
「見つけて下さったらね」
 
 男が去った後、紅燕は痛む下腹をこらえて寝台を降りた。客をもてなす部屋を持たない紅燕は、他の妓女から部屋を借りていた。下婢に酒肴を片付けさせる。取り替えた薄紫の敷布には血がついていた。
 処女でもないのに、濡れない紅燕は行為のたびに膣に傷がつく。妓楼の鴇母(ほうぼ)や妓女たちは、紅燕の不感症を大足のせいだと嗤ったがそれは違う。劉紹との情交ではちゃんと濡れたし感じた。
 最後に男女の情歓を交わして八年が経つ。劉紹が科挙のために故郷を発つ前夜だった。
 破瓜のときは初々しい十五であった紅燕ももう二十三歳。ふたつ年上の劉紹は二十五になっているはずだ。どれだけ立派に成長していることだろう。それなのに、見た目は成熟した女の色香を漂わせながら、紅燕の花壷は蜜の枯れた造花でしかない。 
「私、あなた以外に感じないの。だから、あなたに何とかしてもらわないと、どこにもお嫁にもお妾にもいけないわ。孝二さん」
 紅燕は燈台の灯を吹き消しながら、独り言に劉紹の幼名を囁きかけた。
 
 二ヶ月が過ぎ、いつかの客が紅燕を訪れた。
「もうお忘れだと思ってましたわ」
 長く待たされたことに気分を害した風でもなく、紅燕は愛想よく頬笑んだ。
「毎回、二万に及ぶ受験者がいるのだ」
 不満げに言い返した男は、その後すぐには言葉を続けない。紅燕は焦れてせっついた。
「で、私の好い人は試験に通ってたんですか」
 男は少しためらった。
「一昨年の受験者名簿に名前はなかった。その前の試験に合格した進士三百人余りの名簿にも眼を通したがそこにもない。進士を諦めてなければまだ書生を続けているはずだ」
 紅燕は手を口に当て、驚きを抑えるために息を押し殺した。蒼白になり、言葉も出ない。
 一族の希望を担い、科挙に受かることだけが目的の書生が、試験を受けなかった。這ってでも会場に行けない理由があったのだ。つまり、生死に関わるような。
 最悪の状況を想像してしまい、肩を震わせ絶句する紅燕を男が慰める。
「家に不幸でもあって、郷里に帰ったのではないか。喪中は試験が受けられぬから」
 紅燕はうな垂れた。実家に手紙など書けない。連れ戻されてどこかの妾か侍女に売られるのがおちだ。客の前で涙を出すまいと歯を食いしばる紅燕の肩を、男の手が撫でた。
「喪中が理由で試験を逃したのなら、来年の試験には来るかもしれない。そのときまた名簿を見てやろう」
 来年まで待って、試験の行われるという、貢院の門まで探しに行こうと紅燕は考えた。二万に近い受験者の中からただ一人の顔を探し出すのは、砂丘から粟粒を探し出すようなものだろうか。
 放心する紅燕に、男はごそごそと懐から書きつけを出して見せた。
「俺が嘘を言っているのでない証拠だ。名簿を保管している吏人の判だ」
 書付には男が書庫に出入りした日付と閲覧した文書の横に、書庫の管理人の判が押してあった。何日もかけて名簿を閲覧したらしい。男の意外な律儀さに、紅燕はふっくらとした唇に柔らかな笑みを浮かべた。
「旦那さんの言葉を疑ったりしませんよ」名前を覚えてないことにわずかな罪悪感を覚えながら、紅燕は男の手を取り、指を伸ばして形良く整えられた髭をくすぐった。「お約束はちゃんと守りますわ」
 
 次の年に開かれる進士試験を待ちながら、紅燕は舞の技を上達させていった。技が難しいほど客は喜ぶのだから、毎日ひたすら練習をする。同じ曲芸でも、男がやれば豪快な技も、体の柔らかい紅燕が演じれば優美極まりなく、天女の如き軽やかさと評判となった。
 名を上げて行くうちに、高官や富豪の宴に招かれること数十回。宴のたびに、家の者や招待客の中に劉紹の姿を探した。
 秋も深まる頃に某大臣の邸宅に招かれた。数百に及ぶ招待客の中に、下級の官吏や書生もいると聞いて紅燕は期待に胸を膨らませる。
 天子の御座すという宮殿もかくやと言うほど、この大臣の館は想像を絶する豪華絢爛さだった。蒔絵(まきえ)螺鈿(らでん)を散りばめた衝立が無数に並び、金糸銀糸をふんだんにあしらった真紅や錦の緞帳(どんちょう)があちこちに掛けられ、紫檀や香木など高級材をこれでもかと使った家具調度が無限に続く回廊や部屋を飾る。
 広間に並べられた小卓大卓には山海の珍味が並び、美しく彩られた料理が花園に競う極楽鳥の群れのように咲き誇る。
 音曲は果てることなく、歌妓や柳腰の舞妓が続き、やがて紅燕の出番がきた。
 人の多い宴で舞うときは、わざと異国情緒豊かな装いをこらし、大きすぎる足を目立たなくさせる。妓楼では天竺(てんじく)風の衣裳が主だが、今夜は遠い西方の安息(アルシャク)風の衣裳だ。手首足首に鈴や金環をたくさんつけ、目元を強調する化粧を施して仕上げとすると、いかにも胡族の娘に見えるのだから不思議だ。
 頭に戴く藤花を模した金冠は、首を左右に揺らすたびに、しゃらりしゃらりと澄んだ金属音が前奏に旋律を添える。
 南方や西国風の急調子な音楽に乗り紅燕は舞う。袖や腰に、羽衣に擬して縫いつけられた五色の頒布(ひれ)が地に着く前に、足を頭より高く蹴り上げては燕のように宙返りをする。前後左右に車輪のように側転してみせたかと思うと、大人の肩も飛び越えんばかりに跳躍する。真っ直ぐ伸ばされては高く跳ね上げられる指先、前へ後ろへ蹴り上げられる長い脚。つま先でぴんと立つと、纏足どころでなく小さな足の先端が床に触れているとも思えない。独楽のように回転し、飛天の如く空を舞うさまは、天帝の鑑賞にも堪える芸術といえた。
 一瞬たりとも止まることのないはずの紅燕の動きが、下座にさしかかってわずかに乱れた。螺旋を描いていた五色の頒布が行き場を失い、宙を漂う。紅燕の見開かれた瞳に(きらめ)きを残し、その動きは一拍遅れて再開した。
 曲が終わると同時に腰をかがめて着地した紅燕の周りに、五色の羽衣がゆっくりと重なりつつ舞い降りた。紅に染まった練り絹の肌と、大きく上下するまろやかな胸が、舞の激しさを物語っていた。美しくふうわりと床に広がった紗の薄布は、紅燕の下半身を艶やかに覆いつくし、興ざめな足を隠した。
 拍手と歓声が広間をどよもす。主人の某大臣から賞賛と祝儀を受け取り、作法に適った礼を述べた。招待客から紅燕に贈られる祝儀をもらいに、妓楼の童女たちが慣れぬ纏足でよちよちと客の間を動き回る。そんな広間の様子を振り返りもせず、紅燕は飛ぶように妓女の控え室へと走った。
 踊りのせいでなく、胸の鼓動が速く高く喉元までせり上がる。下座に群れる位の低い人々の中に、確かに劉紹を見たと思った。  
 冠や簪を放り出し、もどかしい手つきでぬるま湯に浸した木綿布で汗を拭く。香を炊き込めた酌妓の着物に着替え、汗で乱れた化粧を直した。小指が震えて紅が上手く引けない。挿しなおした簪の角度が気に入らない。再会のときはとびきり美しくありたいのに。
 下婢が特別に踵を高くした靴に紅燕の足を押し込む。痛くて歩きにくい靴だが、細く小さい爪先だけが衣裳の裾から覗いて、可愛い足に見えないこともない。歩き方も小股になり、柳の揺れる如き小足女たちと同じになる。酌をして回るときに大足を嗤われずにすむのだが、急いでいるときには邪魔なだけだ。とはいうものの、靴を履かずに人前に出て劉紹に恥をかかせるわけにはいかなかった。
 小走りで広間に戻り、胸をどきどきさせて目指す下座あたりに辿りついたものの、劉紹はいなかった。
 がっかりして庭園に降り立ち、あてもなく周囲を見渡す。歩き回っても目当ての人影は見つからず、客の男達に声をかけられるのがわずらわしかった。適当にあしらって、人のいない生垣に身を隠すようによりかかる。
 ――見間違いだったのかもしれない。あの人のことばかり、考えているから。
 そうしてじっとしていると、熱くなっていた頬が、晩秋の涼気にさらされて気持ち良かった。そのとき、紅燕のついた溜め息に誘われるように、青墨色の着物の青年が紅燕の隠れている生垣の側を通りかかった。その横顔を認めた瞬間、紅燕は生垣から飛び出した。
孝二哥哥(こうじにい)さん」
 懐かしい呼び名にびっくりして振り向いたその青年は、確かに八年の間想い慕っていた劉紹だった。その容貌が八年前とほとんど変わらないことに、驚きさえ覚える。 
 既に二十代も半ばにさしかかっている劉紹の面差しは、未だ別れた当時の少年の片鱗を残していた。下がり気味の眉毛が、今は驚きに引き絞った弓のように吊りあがっている。
 紅燕は底の高い靴を履いているため、劉紹と同じ目線になっていた。
「追いかけて来たのよ」
 突然、小娘のような喋り方になって、劉紹にしがみついた。しがみつかれて慌てた青年は辺りを見回す。
「あー……もしかして、紅娘(ホンニャン)?」
「嬉しい、覚えてたのね」
 踵の高い靴で危なっかしくぴょんぴょんと跳ねる紅燕の胸の内は、そのまま十五の生娘に戻ってしまう。劉紹も二十歳を越えているようには見えないせいだろう。その不自然さに、紅燕はまったく気がつかなかった。
「もしかして……さっきの胡旋舞は君?」
 その声は高く、どこか掠れている。かつて紅燕の耳に甘く囁きかけた声の調子と違う。
「そうよ。風邪引いてるの? 孝二哥哥(にい)さん」
「いや、これは……」劉紹は口ごもって、視線を逸らした。「追いかけてきた、って家はどうしたんだ」
「奥さんが私をどこぞの妾に売ってしまおうって父さんに相談してたの。孝二哥哥さんから手紙来なくなるし。何かあったのかと心配で、待ってられなくて出てきちゃったの」
 目の前に恋焦がれた男がいることに夢中な紅燕は、妓女らしい振る舞いも言葉遣いも忘れて、劉紹の袖や襟を愛おしげに握ったり撫でたりした。
 一方の劉紹は途方に暮れた様子で紅燕の肘に手を添えたままだ。
「家出して、舞妓になったのか」
「孝二哥哥さん、最後にくれた手紙の住所のところにいなかったでしょ。家に帰れなくて、ご飯と屋根のあるとこ探すのに、妓楼しか思いつかなかった。舞は踊れるんだから、きっと食いっぱぐれないと思って」
「うん、まあ、すごい舞だった。あれなら位の高い官妓(かんぎ)になれるよ」
 眉を下げて褒め称える劉紹の襟を両手で掴んで、紅燕は劉紹を睨みつけた。
「官妓なんかならないの。孝二哥哥さんのお嫁さんになるんだから。……それとも、もう進士になって、奥さんもらっちゃったの?」
 科挙に受かって進士になると、都や地方の士大夫たちが自分の娘を嫁に取らそうと押しかけてくるという。そうなると家出娘で妓女の紅燕は出る幕がない。
 いくらも言葉を交わさないうちに、酔漢たちが大声で詩を吟じながらこちらへ来る。劉紹は慌てて耳打ちをした。
「次の休みに君の店に行くよ。そのとき昼ごはんでも一緒に食べながらゆっくり話そう」
 紅燕の頬が紅に染まった。一緒に食事ということは、もう夫婦も同然だ。白綸子(りんず)手巾(ハンカチ)を取り出し、劉紹が懐から出した筆記具で妓楼の名前と場所を震える手で書きこむ。劉紹は受け取った手巾を袖に入れて立ち去った。
 
 妓楼に戻った紅燕は明けても暮れても劉紹の姿や声を思い返した。
 休みがどうとかいうことは、劉紹は既に官職についているのだ。あの礼部の男は、二万の名簿に眼を通しているうちに、疲れて見落としたのに違いない。
 約束の日の朝、童子が劉紹の文を持って来た。そこには落ち合う通い茶屋の名と場所が書かれていた。妓楼の鴇母(ほうぼ)が廊下で紅燕を捕まえて、不機嫌な顔で問いかけてきた。
「客と逢うのかい。納めるものはちゃんと納めてくれるんだろうね」
「同郷の幼馴染ですよ。昔語りで終わったら商売にはならないでしょうけど、それでもお祝儀をもらったら、ちゃんとお養母(かあ)さんに納めますから」
 もちろん昔語りで終わらせるつもりなどない。ちゃんと契りを交わし直し、しっかり約束を果たしてもらうのだ。
 昼前に辿りついた茶屋は瀟洒(しょうしゃ)でこざっぱりとし、粋な内装や食器で客をもてなした。
 明るい陽射しの下で見る劉紹は、とても二十五には見えなかった。童顔というわけでもなかったのに、どうしてこうも紅顔の少年のようなのだろう。上質の薄青い絹の着物に薄紫の紗の上着を羽織って袖に手を入れていた。
「こういうところで遊べるほどに出世されていたのね。いつ進士におなりになったの」
 劉紹は視線を彷徨わせ、答え難そうに俯く。
「進士には、なれなかったんだ」
「でも、役所に勤めてるのでしょ。大臣様の家に呼ばれるくらいだから」
「役所というのでもないけど、まあ、似たようなものだ」
 奥歯に物の挟まったような言い方に、紅燕は不安になった。
「生活苦からお金持ちの家庭教師や官吏の秘書になる書生さんもいるって言うけど、そういうこと? 官につくのは諦めたの?」
「それとも違う」劉紹は嘆息すると、両手を袖から出して茶を注いだ。「前の科挙の少し前に、縁続きの高官が弾劾されてね。うちの家も彼の罪に連座させられたんだ。財産は没収、父と男兄弟は官奴として兵役に取られ、母は官婢として、後宮の下働きにつかされた。僕も兵役に送られるところだった」
 紅燕は両手で口を押さえた。のん気に手紙を待っていた間、劉紹には色々ろあっのだ。
「それで母に泣いて頼まれてね」劉紹はそこで言葉を切った。「一緒に来てくれと」
「一緒にって、後宮へ? でも……」
 紅燕は首を傾げた。後宮は男子禁制だ。後宮に出入りできる男は皇帝だけだ。
「周りも、一族が弾劾された以上、いつ身分が(あがな)えるかわからない。贖えたところで科挙受験を続けるのは経済的に難しいだろうと」劉紹はまた長い溜め息をついた。「官奴でいるよりは……出世の望みもある道を選ぶように……」一度黙ってから、劉紹は吐き出すように続けた。「宦官は家柄も前科も関係ない。位や役職が上がれば、残りの親族を贖うこともできるし、家も再興できると」
 紅燕は衝撃で頭の中が真っ白になった。
 お金のために子供を売る親は珍しくない。衣食にも事欠き、飢えに苦しむ家族は、息子を去勢して後宮に差し出すのも厭わない。劉紹の家族は奴隷の身分から這い上がるために、かれひとりに男を捨てさせたのだ。劉紹の股間に眼が行きそうになり、あわてて小卓に拳を置いた紅燕は泣き出した。  
 劉紹は眉を寄せて歯を食いしばった。昔のかれを知るに人間に会うのは苦痛だった。
「紅娘が追いかけてくるほど想ってくれてたなんてびっくりした。でも、君は綺麗だし、あれだけ見事な芸を持っているのだから、男でなくなった僕よりも高位の士大夫や大人(ダイジン)の妻妾になったほうが幸せになれると思うんだ」
 再会した夜から考えていたのだろう。低い囁き声で、すらすらと棒読みのように語る。紅燕は涙をこぼしながら首を激しく振った。
「孝二哥哥さんじゃなきゃ嫌だわ」
 目尻を赤く染めて見つめる紅燕に、劉紹は眼を瞠った。
「僕を軽蔑しないのか」
「どうして、哥哥さんは悪くないじゃない。哥哥さんと一緒になれないのなら、尼になったほうがましだわ」
 真っ直ぐに向けられた紅燕の眼差しに、劉紹は言葉を失くした。数秒の沈黙のあと、劉紹は大きく息を吸い込み、吐き出した。
「じゃあ、僕が身請けするって言ったら、僕のところに来るかい? すぐには無理だけど」
「もちろんよ」
 紅燕は瞳を輝かせて叫んだ。控えめな、だが柔らかな笑みが劉紹の口の端に浮かぶ。
「でも、結婚は許されてるの?」
 どうせ自分は不感症なのだから、不便はない。紅燕は胸を弾ませて、苦笑する劉紹を見つめた。
「太宗の御世では禁じられてたけど、この頃は宦官も妻を持つのは普通だ。高位の宦官は妾もたくさん抱えてるし」
 だが、瞳を輝かせるほどの喜びも、劉紹ひとりに全てを背負わした劉家への怒りを思い出し霧散しそうになる。紅燕は再び涙ぐんだ。
「孝二哥哥さんは次男なのに、お兄さんも弟さんもいたのに、なんで孝二哥哥さんだけが」
「宦官で成功しそうだったのが、僕だったからかな。それに、兵役で真っ先に死にそうなのも僕だったし。小さい時から勉強勉強でそんなに鍛えてなかったしね」
 県一番の秀才の誉れも、家が没落すればそれまでだ。暗記と読み書きしかできない書生はつぶしがきかない。劉紹は「それに学のある宦官は重宝されるから」とも付け加えた。
 劉紹は美男というほどでもないが、柔和で優しげな面差しが人に好かれる。今は髭も生えずつるりとした頬は餅のように弾力があり少年のようだ。容姿も出世の要素である宦官向きではあった。
自宮(じきゅう)って……。痛かったでしょう。死ぬ人もいるんでしょ」
 紅燕は涙を流し続ける。劉紹は苦笑いした。
「そりゃあ、自宮手術は死ぬかと思うほど痛かったけどね。起き上がれるのに一ヶ月かかったし。今はいい部署に回されて上手くやってる。母の様子も見にいける」
 劉紹は手巾を取り出し、上体を卓の上に乗り出して紅燕の涙を拭いた。
「ほったらかしにして、悪かったね。紅娘は美人だし、もう、とっくにいい所に嫁いでいるだろうと思ってた」
「私みたいな大足の女を娶ってくれる男なんていないわ。お嫁さんにしてくれるって言ってくれたの、後にも先にも哥哥さんだけ」
 劉紹は立ち上がって紅燕を抱き寄せ、唇を重ねた。十五のぎこちない触れ合いでなく、積極的に舌を絡み合わせ、魂を吸上げるように息を交わす。紅燕の下肢は熱く濡れていく。久しく忘れていた感触に、腰が蕩けそうだ。
「妓女なんて仕事してるけど、こっちの方は全然駄目なの。お哥哥さん以外には感じないものだから。いつも乾いていて、きつくて痛いの。大足紅娘は床下手だって有名なのよ」
「それは、責任を感じるな」
「でも、孝二さんとなら気持ちよくできると思ってたのに」
 頭をたれて落胆する紅燕に劉紹は掠れた声で囁いた。このとき、紅燕は劉紹が囁き以上に大きな声を出さないことに気がついた。
「宦官夫婦のやり方で君を満足させられるかどうかわからないけど。試してみるかい」
「試すって、何を」
「ちょっと待ってて」
 茶室から戻った劉紹は、刺繍をした小袋を抱えていた。袋の口を広げて寝台の上に中身を広げる。紅燕は唖然とした。妓楼で眼にしたことはあるが、使ったことはない性具が並んでいた。
「これ一式、孝二哥哥さんの道具? とっくにそういう相手がいたのね」
 眼を怒らせて問い詰める紅燕に、劉紹はたじたじと苦笑いをする。
「もらいものだよ。宦官になってすぐ、内安楽堂に配置されて病気や老衰の女官の世話をしたんだ。身寄りのない女官が息を引き取る時に、いつか役に立つだろうってくれた」
 紅燕は疑い晴れぬ眼差しで道具類を検分しながら、劉紹を睨みつける。泣いたり笑ったり、嫉妬でむくれたり、小娘のように忙しい。これでよく妓女が勤まるものだと劉紹の眼が笑っている。
 寝台に座り、紅燕を膝に乗せた劉紹は、恋人の襟を開いて乳房を隠す抹胸児(むねあて)の紐をほどいた。手を差し入れ、瑞々しい白桃を揉みほぐす。紅燕の唇から吐息が漏れた。胸の先端の熟れ始めた葡萄の実を爪の先で掻き、きゅっと摘み上げられただけで、紅燕は腰が痺れて動けない。
 上体を回転させ、紅燕を自分に向き合わせて、劉紹は柔らかな胸に顔を埋めた。谷間から立ち昇るあえかな匂い。乳首を舌で転がし、吸上げる。紅燕の意識が飛んでしまいそうなほど体中が震えた。
 恋人の手が紅絹の裙子(スカート)を払いのけ、黄色い綾の(ズボン)を開き、薄紅の袴児(したぎ)の奥に忍び込む。恋しいその手に内股を探られると、大腿まで濡れていることが知られて恥ずかしくなる。劉紹の指が陰唇に隠れる花蘂(はなしべ)を軽く擦ると、稲妻に打たれたように腰が砕け、紅燕は両手で顔を覆って嬌声を飲み込む。陰液が溢れてどうしようもなく腰が揺れた。劉紹が感に堪えたように声を上げた。
「本当に八年も感じなかったのか」
「嘘じゃないわ。妓女になってから数えるほどしか客を取ってないけど、いつも痛くて。傷がつくこともあるから、親切な客は香油を使ってくれるけど、きついのは変わらないの。処女みたいだって喜ぶ客もいるけど」
 喘ぎながら瞳を潤ませ、頬を染める。ああ、と切ない溜め息をつき、胸を上下させた。劉紹は紅い唇を激しく吸っては舌を誘い出す。同時に指でそっと陰唇の形をなぞり、充血する花蘂を擦ったりつまんだりするたびに反り返る体と、部屋に響く嬌声。
 高まってくる興奮に耐えかねて、劉紹は唸り声を上げた。懐から短い柳の滑らかな棒を出して噛んだ。紅燕の痴態に煽られて、体内に根を残す海綿体は膨張し、出口のない欲望は重い疼痛となって下腹で暴れた。去勢された後も、残された陽物の根は興奮すると存在しない男を勃たせようと奮闘しているのだ。
 柳の棒を噛み締め、歯を食いしばりながら劣情に耐える。紅燕の密壷を愛撫し続け、ゆっくりと指を入れていった。紅燕の嬌声が高くまっていく。
 ……確かにきついな。
 膣壁はさらなる快感を予期して小刻みに収縮しているが、指を二本入れただけで固く、広げようとしても広がらない。
 ……これで妓楼勤めは拷問だったろうに。
 愛しい男のために妓女を選んだ娘。正直なところここ数年、劉紹は自分のことに必死で紅燕のことを思い出すことはなかった。
 地方の選抜試験すら何十年かけても合格できずに老人となる書生も多い中、劉紹は十八歳で地方試験を突破し、科挙の受験資格を手に入れた。だが、一族の没落と家族を救うために受けた自宮手術、そして後に続いた惨めな宦官修行は、神童秀才ともてはやされた劉紹の自尊心を粉々にしてしまった。
 だれもかれも自分から離れて行った。家畜に落とされた自分を、変わらずひたむきに慕ってくれる紅燕に、以前は知らなかった愛しさが込みあげる。郷里で情を交わしていたときも可愛いと思いこそすれ、受験勉強の息抜きの域は出ていなかった。進士及第して官を得れば、高貴な女も、富も栄誉も思いのままだ。地方商人の妾腹、さらに大足では官僚の妻に相応しくない。任官後は妾の一人にでも加えれば、生娘を弄んだ非難は免れるくらいに思っていた。今にして思えばなんという傲慢さだろう。
 劉紹は淡い草叢を掻き分け、股間に顔を埋めた。開きかけた蘭の蕾のような陰唇を開き、桃色に染まった花蘂(はなしべ)を舌で転がす。紅燕が嬌声を上げて仰け反った。敏感な花蘂を舌で弄ばれ吸上げられ、紅燕は何度もびくびくと引きつった。劉紹の指はゆっくりと膣の奥へ進み、淫水の噴出すというツボを指でもみほぐす。紅燕は、にいさん、なにするの、と呂律の回らない調子でわめき始め、悲鳴を上げて達した。しばらくぐったりとしていたが、痙攣(けいれん)が治まると体を起こす。ぐっしょりと濡れた下肢と内袴(ズボン)の感触にお漏らしをしてしまったと言って泣き出した。
「漏らしたわけじゃない。恥ずかしがることはないよ。これは淫水といってこれがたくさんでるのはいいことなんだ」
 紅燕の頭を肩に乗せて、劉紹は抱きしめた。紅燕が落ち着くと、用意しておいた湯を張った桶を引き寄せ、玉製の張型を浸けて温めた。
「それ、入れるの?」
「まったく客を取らないわけにいかないだろう。断れば恨んで何をするかわからない客もいるだろうし。すぐには君を身請けできないのだから、少しでも君の苦痛を減らしたい。これだけ濡れて、柔らかくなった今なら慣らすのも楽だろう」
 張型を湯に浸けている間、劉紹は手に香油を取って伸ばして温め、紅燕の腹から脇腹を按摩する。そしてゆっくりと乳房を持ち上げるように揉み、首まで撫で上げた。そしてまた下腹部まで広げた掌で、しっとりと柔らかな肌を楽しみつつ下りていった。
「こんなに綺麗な肌なのに、感じないのはもったいない」
「感じてるわよ。孝二哥哥さんの手だもの」
 紅燕はうっとりと目を潤ませて劉紹を見上げた。いたって落ち着いた劉紹の目と合ったとたん、紅燕は上体に力を入れて振り向き、きっ、と劉紹を睨みつけた。
「だけど、どうしてこんなに上手なの?」
「どうしてだろう」
 劉紹は笑いながら香油を掌に足していく。
 郷里では人目を忍んで性急な逢引きを重ねた若者と、同一人物とは思えない舌技や指技の練達ぶりに、紅燕は胸の底がじりじりする。
 それでも劉紹の掌が背中を摩り、また腹から乳房へと揉み続けているうちに、紅燕の鼓動は高まり、下肢はどうしようもなく濡れ始める。劉紹は紅燕をうつ伏せにし、尻を持ち上げさせて温めた張型を玉門に当てた。すぐには挿入せずに、ぷっくりと顔をだした花蘂を擦り、紅燕がたまらず腰を揺らすようになってからそっと先端を入れた。
「痛い?」
 膣道は狭くきつかったが、紅燕は布団に押し付けた首を横に振った。
 肩を抱きながら少しずつ出し入れし、劉紹は慎重に奥へ奥へと進めていく。膣壁の抵抗は堅い。押し戻そうという圧力に負けそうだ。昔はこんなにきつくなかったのに。痛みをこらえて涙を流し始めた紅燕を見て、劉紹は挿入を諦めて張型を引き抜いた。
「紅娘、怖いのか。いつからこうなんだ?」
 紅燕は涙に濡れた眼を上げて劉紹を見上げた。首を弱々しく振る。
「王の家の三男と取り巻きたち、覚えてる? 哥哥(にい)さんが都に行ったあと、ひどいことされた。あいつら、大足の女は何をされてもいいんだって……それから全然濡れないの」
「王のやつらか。そのうち後悔させてやる」
 劉紹は瞳に怒りを閃かせた。諦めて張型を湯桶に放り込み、別の道具を手に取った。銀色の球体をしたそれは、胡桃ほどの大きさで内側は空洞、中で銀の玉が転がりながら澄んだ音を立てた。繋がったふたつの銀鈴を湯で温め、水気をふき取って香油を塗りつける。
「それは何?」
勉鈴(べんれい)というものさ。もう一回うつぶせて」
 紅燕は素直に伏せて尻を上げた。香油を塗りこむのに掌でふたつの勉鈴を弄びながら、もう一方の手で紅燕の引き締まった尻を撫で回した。
「少年みたいな尻だ。あれだけの跳躍力があるのだから、腹筋が固くなりすぎているのかもしれない」
 そう言いながら、白玉のような尻に唇を寄せて吸い付きながら嘗め回した。ひゅっ、と紅燕が息を吸い込む。
「哥哥さん、止めてください。また変になる」
「なったほうがいいんだ」
 紅燕が腰を捩って脱力した隙に、劉紹はふたつの勉鈴を膣に押し込んだ。
「いやだ。ふたつとも奥に入れちゃって、出てこなくなったらどうすんですか」
「紐がついているから大丈夫」
 劉紹は紅燕の肩に手を回して体を起こした。服を直すのを手伝ったのち、茶の支度をする。
「これ、どうするの?」
「しばらく入れておくといい。歩いてごらん」
 歩くたびに中で勉鈴が動き、鈴の振動が膣壁に伝わる。熱を帯びた金属が体内で震えて、また陰液がじわりと溢れた。
「それで舞を舞ってごらん」
 劉紹が笑い出し、紅燕が恨みがましく言い返した。
「哥哥さんの意地悪。歩くのも難儀するわ。たまらなく切なくなるの」
「こっちへおいで、僕の膝の上に座るといい」
 言われた通りに紅燕が劉紹の膝に尻を乗せると、劉紹は小刻みに膝を揺らした。
「哥哥さんの意地悪っ」
 文句を言いながらも、紅燕は劉紹にしがみついたまま膝を下りようとしなかった。金属の触れ合う振動に体中が内側から蕩けていく。
「その勉鈴は自分で使うといい。客を取る一時ほど前に入れておけばそれほどつらくはないはずだ。入れたまま事をしてもいいらしい」
 紅燕を乗せたまま膝を揺らしながら、劉紹はその艶やかな額に口づけをした。
「それから、もう『哥哥さん』はやめてくれ」 
 
 それから十日ごとに二人は茶屋で午後を過ごした。劉紹は妓楼の鴇母(ほうぼ)に渡す祝儀を出そうとしたが、金の心配をさせたくなかった紅燕は断り、自分の稼ぎから茶飲代を納めた。
 四度目の逢瀬では、浮かぬ顔でぼんやりと愛撫する劉紹に紅燕は口をとがらせた。
「どうしたの。私のこと、飽きちゃった?」
 紅燕の色の薄い瞳に見上げられた劉紹は、口元だけに笑いを刷いて首を振った。
「こんな小鹿みたいな可愛い女に飽きるわけない。君こそ張型も入るようになって、僕じゃ我慢できなくなってるんじゃないか?」
 劉紹の眼は笑ってない。どこか底冷えするものを感じた紅燕は、劉紹の首に腕を回して声を荒げた。
「ひどいことを言うのね。お養母(かあ)さんが断れない客だって言わない限り、客は取らないわ。前ほど痛くはないけど、気持ちもよくならないの。孝二さんの指のほうがずっといい。ねぇ、どうしてそんなに憂鬱そうなの?」
 劉紹はしばらく考え込んでいたが、やがてぽつりぽつりと話し出した。
「昇進の話が出たんだけどね。辞退する羽目になりそうだ。もしかしたら、一生、出世は無理かもしれない」
 紅燕は驚いて起き上がった。
「どうして、孝二さんみたいに賢くて優しい人が出世できないなんて」
「昇進するときに験宝(ケンポウ)の儀ってのがあって、長官に宝を見せないといけないんだけど……」
「『(パオ)』って、哥哥さんのあれ?」
「そう。腐らないように処理して、死ぬまでちゃんと保管しないといけない。階級が上がるたびに験宝で調べられるんだ」
「孝二さん、自分の宝なくしたの?」
「去年、父さんが病気になってね。急いで身分を贖うために、金が必要になって質に入れた。医者代や薬代もかかって借金がかさんでね。まだ質から出せないでいる。あと二ヶ月で返せないと流れてしまうんだ」
 紅燕は宦官に詳しい妓女仲間の話を思い出した。『宝を失くしたまま死に、亡骸と一緒に墓に埋葬できない宦官は、来世で驢馬に生まれ変わる』という。いい値で取引されるので金に困って質に入れてしまう宦官も多いし、盗まれるとこもよくある。来世ではきちんと夫婦になって、劉紹の子を生んで育てたいと願う紅燕には、宝の質流れは一大事だ。
「いくら入り用なの?」
「質から戻すのに銀で二十両から三十両」
「それくらいだったら客を毎晩とればすぐにできるけど……でも私、床下手だって知れ渡っていて、寝たがる客はいないのよ。足が大きくて、興醒めなのもあるし」
 劉紹は紅燕をじっと見つめた。その瞳にはいつもの穏やかな笑いは含まれず、ただ底の知れない深い闇が覗いていた。
「気持ちよくなれないことを、僕のために無理にする必要はない」
 怒ったような言い草が、紅燕を慌てさせた。
「無理じゃないわ。孝二さんが昇進できなくて、身請けしてもらえないんじゃ困るもの。力になりたいけど、どうしたら床上手になれるのかしら。いまさら足は小さくできないし」
 劉紹は紅燕の足を掴んで引き寄せた。
「小足でなければ欲情しないとなったら、陰間の男達だって纏足しなくちゃいけない道理になる。自分と同じ大きさの足の相手と情を交わせるんだから、こんな別嬪の舞姫の足が大きいことなんか問題じゃないさ。男が喜ぶ性技がひとつあれば、すぐにでも客はつく」
 話しながら紅燕の爪先を指で撫で、土踏まずを親指で押した。一度寝台を降り、湯を張った桶を枕元に持ってきて香油を浮かべる。そこに紅燕の足を浸して足指の間を丁寧に洗った。
「妓楼の姐さんたちは、好い人にだけ纏足布を解いて裸足を見せてあげて、好きに遊ぶんだって。こんな風にしてもらうのかしら。とっても気持ちいい」
「どんな風に遊ぶか知りたい?」
 劉紹が紅燕の片足を両手に乗せているのを見て、紅燕はひどくがっかりする。男達は片手にすっぽり納まる小足が好きなのだ。三寸金蓮(9センチメートル)と自慢する姐さんたちの足は本当に小さい。昔は豚足みたいだと思って軽蔑していたが、こうして劉紹の片手に納まらない、生れたままの形で大きくなった自分の足は、ひどく醜い気がする。恥ずかしくなって引き戻そうとした紅燕の足を掴んだまま、劉紹は爪先を口に含んだ。
「孝二さん、駄目よ」
 劉紹は上目遣いに笑って見せただけで、指の内側に舌を這わせては、香油を塗った指で土踏まずや踵を揉んでいった。しゃぶられている足指の間からじんじんと痺れが腰にくる。紅燕がうっとりしていると、劉紹はもう片方の足を懐に入れて、胸に抱いて温めた。劉紹の心臓の鼓動が足の裏を叩く。
 昔は、逢引きの時でさえ開いた懐から礼記の冊子が転がり出てきたり、情歓の余韻まで作詩の材料にしていた劉紹とは別人のようだ。
「孝二さん、どうしてこんなことまで知ってるの。素足を見せてくれる好い人がいるのね」
 劉紹は黙って苦笑いした。親指を除く四本の指を土踏まずにつくよう折り曲げ縛り上げ、足の甲を(たわ)ませて造り上げる三寸の足。女に生まれたら四歳で始める纏足は、地獄の苦しみを伴う。その数ヶ月に及ぶ拷問を知らない紅燕に、女の幸せは訪れない。
「借金のことがなくても、こんな甲斐性のない僕としては、君が芸妓として床下手なのは心配だ。どんな男も喜ぶ性技を教えてあげるから、次の宴席から試してごらん」
「どんな技を教えてくれるのかしら」
 劉紹はにっと笑った。
「君は大足大足って、悲観するけどね。それが逆に利点になるんだ。胡旋舞を自在に舞う君の足腰はとても強い。腹筋もしっかりしているから、腹に入れた一物を締め付けるのも自在なんだよ。そこを覚えておくんだ」
「はい、師匠」二人は笑った。
「で、どんな男も喜ぶが、どんな女にもできるというわけじゃない体位がある。しかも、あまり歩き回ることのない小足の女たちではすぐに疲れて長くは続かない」
「それは、何?」
「麒麟の角と言ってね。男は仰向けになり、それに女が騎馬でもするように跨るんだ。乗馬術に並足、速歩、駆け足、さらに全力で走る襲歩とあるように、男の腹の上で自在に使いこなせたら、君の相方になりたがる男達は妓楼の門に列をなして集まるだろうね」
「ずっと私が動いてないといけないの? 男の人は何もしないわけ」紅燕は不満そうだ。
「男ってのは、本来怠け者なものさ。自分が動かなくてすんで気持ちよかったらそっちがいいに決まっている」
 紅燕は頬を膨らませた。劉紹は笑いながら付け加える。
「自分で動くんだから、自分の気持ちいい場所を探せる。今までは相方の都合で突かれていたから痛かったりきつかったりしたんだよ。君が動く速さや締め付けを調節しながら、自分が楽しむといい」
「孝二さんとじゃなきゃ、気持ちよくも楽しくもないわ」
 劉紹は紅燕の膨れた頬を両手で包み込んだ。
「じゃぁ、僕とやってると思ってするといい」
 紅燕は渋々と頷いた。
 
 劉紹の手ほどきのあと、紅燕は客を誘い始めた。男の上に跨って長く抽送することで、客に無限の快楽を与えられる上に、これまではただ転がって相方の劣情に突き上げられ揺すられるだけだったのが、自分の意志で角度や早さを調節できる。客は紅燕の足を持ち上げたり肩に乗せたりしないので、大足も邪魔にならない。
 紅燕は部屋の灯りを落として、これが愛しい劉紹との情交だと思うようにする。乳房を揉みしだく掌。肌に吸い付く唇、乳輪ごと含み感じやすい乳首を弾く舌。「哥哥さん、哥哥さん」と切なく叫びながら締め付け、客が射精しそうになると動きを止め力を抜いて互いに呼吸を整える。客がまだいきたくないと言えば、紅燕は上手に自分でツボを刺激しつつ淫水を出して再び抽送を始める。早独楽(はやこま)の如き旋舞の情交と評判になった。
 それでも紅燕にとっては劉紹との情交が一番だった。耳たぶから爪先まで大切に丁寧に愛撫されて、恍惚の境地をいつまでも彷徨う。
 逢うたびに、匂い立つような輝きを増してゆく紅燕に潤んだ瞳で見つめられ、甘く震える舌を絡めながら、劉紹は次第に無口になっていく。そして言葉が減った分だけ行為は濃密さを増していった。
 
 紅燕の貢いだ金で、劉紹は宝を取り戻した。無事に従七品下に階級があがり、東宮付けの役職を得ることができた。将来は天子の側近、栄華は思いのまま。興奮して喜ぶ紅燕に、劉紹は肩を竦めて苦笑いした。
「皇太子が天子になればね」
「天子になるから、皇太子なんじゃなくて?」
 紅燕はきょとんとして訊き返した。劉紹は苦笑いを返す。いかに後宮の妃たちが自分の産んだ親王を帝位につけようと暗躍しているか、話して聞かせた。帝位につく前に毒殺暗殺される皇太子は後をたたないし、皇太子候補というだけで横死を遂げる親王の数を上げたらきりがない。
「じゃぁ、皇太子さまに何かあったら、孝二さんはどうなるの?」
「巻き添えを食って誅殺されるか、別の部署に左遷されるか」
 紅燕は眼を丸くし、そして溜め息をついた。
「先が見えないのね」
「皇太子が天子に、僕が太監にでもなれば、我が世の春だけど。それも未来の皇帝陛下が長生すればという前提つき」
 紅燕は考え込む。その耳に劉紹は囁いた。
「大丈夫だよ。一度は堕ちるところまで落ちたからね。何があってもしぶとく生き残るさ。この調子なら、来年には残りの家族を贖って、君も身請けできる。そしたら家を買って、杯を合わせよう。仲人がいるな」
 杯事を交わして、妾でなく妻にしようと言うのだ。ずっとその時を待っていたはずなのに、紅燕は何故かその気になれなかった。劉紹の妻になっても、いつ禁裏の、後宮の権謀が火の粉となって降りかかり、寄る辺ない身の上になるのかわからない。末永く幸せに暮らせる保障などないのだ。紅燕は儚い微笑を浮かべて、劉紹を見つめた。
「身請けは、いいわ。私、今のままがいい」
 劉紹の笑みは消え、暗い眼差しになった。
「男でなくなった僕を、いつまでも君が慕ってくれるとは思ってなかったけどね。結局、普通の男がよくなったのか」
 劉紹は体を起こし視線を床に落として、拳を握り締めた。その拳が怒り、あるいは屈辱に震えている。
 紅燕は突然の劉紹の不機嫌に慌てた。
「そうじゃないの。いつ左遷されたり、官奴に落とされるかわからないんでしょう? 何もかも孝二さんに頼ってしまったら、孝二さんに何かあったときに助けて上げられない。舞も性技も妓楼でしか通用しないのだから、芸でお金を貯めて、自分の妓楼を持ちたいわ。大足の私でも、幸せに富を蓄えて生きられるってこと、証明したいの」
 劉紹はいっそう険のある瞳になり、耳障りな声で笑い出した。
「僕は、そんなに頼りない奴だと思われてたんだな」劉紹は真剣な表情に戻った。「世間知らずの紅娘。世の中はそんなに甘くない。名の売れた私妓はそのうち官妓(かんぎ)の命を受ける。断ることはできない。官妓が官吏に逆らえば鞭で打たれる。天子の眼に留まれば後宮に入れられる。君は、すぐに僕の手の届かないところへ行ってしまうだろう」
 劉紹は裏声にならないようにひどく気を遣っていたが、その声は抑えようもなく掠れて高くなっていた。紅燕はどうして劉紹が怒っているのかわからない。
「もてはやされ、華美に染まった妓女は落籍されても家庭に納まらないのは常識だけど、君は違うと思ってたのに」
 劉紹は顔を背けた。激しくなる愛人の非難に、紅燕は呆然として取り縋ることも忘れた。
『手が届かなくなる』と言ったときの劉紹のひどく冷淡で突き放した瞳が哀しい。
 借金のために客を取ると言ったとき、劉紹が垣間見せた底知れない闇を湛えた瞳を思い出す。あれは嫉妬だったのだろうか。女を満足させられない己の体に、劉紹はどれだけ苦しんでいたのだろう。涙の粒が紅燕の眦に盛り上がり、ぽろぽろと溢れた。
 ぎこちない沈黙を修復できないまま、劉紹は禁裏へと帰った。
 
 劉紹からの音沙汰は絶えた。ふさぎこむ紅燕の話を、妓女たちが聞いてくれた。
「本当は紅娘に客をとらせたくなかったんだろうね」「将来が当てにならないから身請けはいい、なんて言われたら男としては立つ瀬がないわよね」「あら、男じゃないでしょ」
 妓女たちはくすくすと笑う。姐役(あねやく)の妓女が含めるように諭した。
「宦官族は人並みでない扱いをされるのをとても嫌うのよ。偉い宦官を接待するときには、言葉に気をつけないとあとでひどい目に遭うんだから。早く手が切れて良かったと思いなさい。他の男に眼を向ける時がきたのよ」
 十五で処女を捧げてひたすら劉紹だけを思ってきた。他の男のことなど知らない。
 紅燕は宴に上がることも断り、ただひたすらに閉じこもって劉紹の便りを待ち続けた。       
 ふた月あまり過ぎたある日、薄藍の着物を着た童子が妓楼を訪れ、螺鈿の小箱を紅燕に届けた。和解の手紙が入っているだろうか。胸の高鳴りを抑えかね、中庭に腰かけ小箱を開く。赤いびろうどの布に包まれて、紅燕が劉紹に立て替えた銀子三十両が納まっていた。
 紅燕は劉紹の負担になりたくなかっただけなのに。涙の滴が銀子の上に落ちては転がり、赤く艶やかなびろうどに吸い込まれる。
 青灰色の空から細雪が静かに舞い散り、紅燕の袖や肩を濡らしていった。
 
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        第九回新潮社R18文学賞二次選考通過作品

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いただいた感想と批評 2010 9月26日にまとめて掲載

 


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