どくそだ

どくそだの自分探し

音楽と自己同一性

ある日、夕暮れも水平線に沈み、僅かな西の明かりに照らされる茜色の分厚い雲が、次第に東から押し寄せる闇に侵食されゆく時分、僕は独り病室のベッドで泣きました。


その数日前から自分は入院前に書き溜めてたメロディに歌詞を付ける作業をしていました。その日の夕には歌詞を書き上げて、空虚な気持ちになったのでした。何だか、書いた歌詞が自分とリンクせず、しっくり来なかったからです。その時はまだ泣くほどの気持ちにはなっていなかったのですが、それからsyrup16g五十嵐隆さんのmouth to mouth前のインタビューを読み、「やっぱ俺の中でロックはお花畑なんですよ。そこに本当の俺がいて、そこにはエロビデオはあんまり流れてこないわけですよ。性はないんですよ、そこには。」という言葉を見た瞬間、自分はいつの間にか泣いていました。その日は泣きながら不安時の頓服を飲んで、モヤモヤした気持ちを抱えて眠りにつきました。


後のカウンセリングで、心理士さんとその話をして、自分は深く傷ついたのだということに気が付きました。


不健康である代わりに感性が研ぎ澄まされている自分に僕はアイデンティティを持っていて、そんな自分の作る音楽だけが自分にとっての救いだったわけです。しかし、入院中の治療によって正常になってしまった僕に、もう不健康であった頃の感性はなくなっていました。歌詞を書き上げた時、それに気が付いて、空っぽになった自分を、またその現実を痛感させられたんです。それでも僕は音楽を愛しているつもりでした。


そんな感覚を抱いたまま、五十嵐さんのインタビューの例の言葉と出会ってしまって、自分はこんなにも音楽を愛しているのに、それ以上に、それこそ思春期の少年にとってエロビデオが必要ないと言えてしまうほどに、音楽を愛している人がいるのだと知り、深く傷ついたのだと考えられます。


そんな出来事があってから、僕の音楽へのモチベーションは急激に下がってしまいました。何か素晴らしい作品が作れるわけでもなく、音楽を愛せてもいない自分はこの先どのように音楽と向き合ってゆけば良いのでしょうか。無理矢理自分を追い込んで、デカダンスな生活をおくれば、またあの頃のような感性が生まれてくるのでしょうか、それとも所謂「普通」の生活をおくって、商業音楽を真っ当する他ないのでしょうか。

幸福論

太宰治人間失格の中にはこんな文章があります。


「してその翌日も同じ事を繰返して、昨日に異らぬ慣例に従えばよい。即ち荒っぽい大きな歓楽を避けてさえいれば、自然また大きな悲哀もやって来ないのだ。ゆくてを塞ぐ邪魔な石を蟾蜍は廻って通る。

上田敏訳のギイ・シャルル・クロオとかいうひとの、こんな詩句を見つけた時、自分はひとりで顔を燃えるくらいに赤くしました。」


読者様はこの文章を読んで、何を感じましたでしょうか。


自分は最初、どうして彼がこの詩に赤面したのか、しっくり来ませんでした。確かに日常において、悲しい思いをしたくなければ喜びを期待しないことだと考えてしまうことはよくあります。と言うよりも、自分はそんな生き方をあえて選んでいます。おそらく彼も同じだったと思います。まさに詩中の蟾蜍さながらです。


だから彼は己と蟾蜍とをリンクさせて赤面したのでしょうか。それは何だか不自然というか、大袈裟な気がしてならないのです。なぜなら、自分と詩中の蟾蜍とが同じだと感じたならば、そこで生まれるのは羞恥の念よりも共感だと考えるからです。


ではなぜ主人公は、この詩を読んで赤面したのでしょうか。この詩には続きがあります。


「しかし、君、もし本当に生きていたいなら、その日その日に新しい力を出して、荒れ狂う生、鼻息強く跳ね踊る生、御せられまいとする生にうち克たねばならぬ。一刻も息む間の無い奇蹟を行ってこそ乱れそそげたこの鬣、汗ばみ跳むこの脇腹、湯気を立てたるこの鼻頭は自由に出来る。君よ、君の生は愛の一念であれ、心残りの錆も無く、後悔の錆も無く、鋼鉄の清い光に輝け。」

云々…と続くわけです。


ここまで読めばどうして彼が赤面したのか、ご理解頂けるかと思います。本当の意味で生きていたいのなら、精を出してこの日々に清く立ち向かいなさい。そんなことを言われて、蟾蜍として生きている自分が恥ずかしくなったんですね。


自分はこの詩を最後まで読んで、本当にバカバカしい詩だなと思いました。幸福とは、諦めであり、あるいは蟾蜍のような生き方のことを言う場合もあるのですから。蟾蜍だって、本当の意味で生きている1つの命なのですから。

タバコの追憶

僕がタバコを吸い始めたのは18歳の冬だったかと記憶しています。それまでは、溜め込んだ憂鬱や希死念慮を軽減させる手段として、酒とリストカットを使っていました。しかし毎日酒を飲み、そうして吐いてを繰り返し、さすがにそんな生活にも嫌気がさしてきてきていたし、手首を切るにも余白がなくなってきた頃でしたので、僕はそんな生活から抜け出したいという気持ちもあり、試しにタバコを吸うことにしました。


まずはネットで、軽くて美味しいタバコを検索してみました。その中で僕が1番魅力を感じたのはキャスターホワイトのワンボックスでした。次にコンビニに行き、年齢確認されないかとドキドキしながらも、果たしてそれを買うことに成功しました。初めて手にするタバコにウキウキした気分と、何か恐ろしい物に手を出してしまったかのような罪悪感があり、かといって躊躇はなく、直ぐにそれを吸える場所を探しました。


近くに喫煙可のゲームセンターがありましたので、僕はそこで慣れない手つきをもって箱から1本のタバコを取り出し、火をつけました。初めて吸うタバコに僕はむせました。美味しいとも感じませんでした。そうしてその日は軽い失望感を抱えて大学の寮へ帰りました。


寮に帰ると、周りの学生は談話室などで真面目な顔をして勉強をしていました。その頃は進級試験も近ずいてきていて、皆膨大な量の資料を覚えたりしなくてはならない期間なのでした。一方で自分は勉強なんて1秒もしておらず、毎日を酒と自傷行為の体たらくに過ごしていましたから、そんな劣等感から自分はまた、酒を飲みました。


酔いが回ってくると、何だか解放された気分となり、なぜか持ち帰ってきたタバコのことを思い出してきました。自分はそのタバコを持って、千鳥足で近くの喫煙所へ向かいました。酔いのおかげもあり、その時吸ったタバコを僅かですが、美味しいと感じました。


それからは毎日、酒とタバコを買って1人で公園で、酔いが回ったらタバコを吸うという作業を繰り返していました。そのうちに、酒を飲んでいなくてもタバコが美味しく感じられるようになり、キャスターからブラックデビルアメスピ、キャメル、後にiQOSと銘柄を変えて、それをストレス軽減の道具として楽しむようになりました。


相変わらず酒の量は変わらず、タバコの量ばかりが増え、しかし、その頃にはリストカットをする機会はだいぶ少なくなっていたように思います。


そんな風にして、自分はタバコと出会い、今ではなくてはならない存在となった訳です。ですから、リストカット等の自傷行為に悩まれている方にはタバコを吸うことをオススメしたいと思っています。もちろん、自分の場合は未成年でそれと出会ってしまった訳ですが、それは何もかも正直に語ろうと思いますが、決して未成年の喫煙を助長する意味合いはございません。タバコを吸おうか迷っている方がいれば、是非参考にしてみてください。

生い立ち(青年期2)

生い立ち(青年期1)の続きです。

オーバードースによってICUに入院になった自分は鬱病の診断を出され、大学を休学することとなりました。その後は岡山から兵庫、茨城、熊本、岡山に戻り、また兵庫と色々な場所を点々として参りました。それは前提として、いづれも「療養」と言うよりかは「逃避行」とでも言った方が幾分正確な表現だと思っています。そんな僕の大学を辞めてからの逃避行の日々を順を追って説明していこうと思います。また、この僕の生い立ちにおいては今回が最終になると思いますので、是非最後まで読んで頂けたらとおもいます。


兼ねてから大学を辞めたいと望んでいた僕でしたが、大学がなくなった瞬間から途方に暮れました。大学に行かなくなってから、しばらくはそこの寮にとどまっていたのですが、その部屋が落ち着かなかったのか、他の学生に対する劣等感だったのか、それは分かりませんが、いてもたってもいられず、ほとんどの時間を外で過ごしていました。「外」と言っても、大学から電車やバスを使って1時間ほどで行ける渋川海岸で、何をするでもなく、朝から晩までタバコを吹かしながら夏の海を眺めているだけでした。途中からその近くには水族館があることを知り、避暑のためもあって、その期間は頻繁にその近くの水族館に通い、大きな青い水槽で、自由のない、かといって窮屈でもなさそうに泳ぐ魚たちを眺めていることも多かったです。寮の門限は22時半だったので、そのくらいの時間には寮に帰り、所謂「外にいない時間」には部屋にこもってYAMAHAのアコギで曲作りをしていました。


そんな空白の時間を過ごしている間に、自分のそんな状況が実家の母に知れたらしく、母親から電話がかかってきました。その時の母の口調は今までになく優しく、逆に僕はそんな母の優しい声に身震いしました。嫌な予感がしていたのです。「大学はもう辞めていいから、1度入院して療養したらどう?」と言うのです。確かに渡された薬は全く飲んでいなかったし、かといって実家は僕からしたら地獄のような場所で、そんな所に帰るくらいならばと入院という選択肢を受け入れました。聞くところによると、そこは色々の融通が効く綺麗なホテルのような場所らしいのです。そうして、自分は兵庫県の明石こころのホスピタルに入院することになりました。

 

「色々の融通が効く綺麗なホテルのような場所」しかしその実、自分は重度の鬱病と診断され、医療保護入院を強制されましたので、入院したのは閉鎖病棟でした。僕の嫌な予感は見事的中。母親は僕が自傷行為や自殺をしないように、僕を自分の管理下に置きたかっただけなのでした。飯は不味い、外にも出れない、スマホもない、タバコも吸えない。そんな最悪の状況下で僕は母親に騙されたのだと気が付き、怒りの念に囚われました。


退院後は実家に帰ることになりました。それがまた、自分を大きく苦しめたんです。その頃、母親は訳あって岡山に住んでいたので、茨城の実家には僕と父親の2人だけでした。今まで仕事ばかりであまり関わってこなかった父親と初めて向き合った瞬間です。自分は父親にまで実害有りと思っていませんでしたが、実際、僕のことを、又は僕の病気のことを理解はしてくれず、薬の副作用で朝は体が重くて起きれない僕に対し「いつまでも寝てるんじゃない、病気かなんか知らないけど甘えてるようにしか思えない」と言ってくるのでした。また、父は精神科の薬なんて飲むなと言って自分から薬を全て取り上げました。その体験は今でも僕の心の傷として残り続けており、病気であることは恥ずかしいことだから表では明るく装い、自分は正常であると他人に思われなければならない。そう思い始めたのです。それから僕の表と裏、陰と陽の二面性的な態度は加速していきました。


その後、僕は実家から逃げるように、飛行機で熊本へ行きました。大学で1番仲の良かった友達が熊本で研修をしていたからです。僕は1ヶ月間その友達の部屋に居候させてもらいました。友達の前では明るく装い、彼が研修のために外へ出ると自分は泣いたり、変にイライラしたりを繰り返していました。彼との生活によって、自分の二面性の性格をより確かなものに磨き上げたと言っても過言ではなさそうです。


また、その後は実家に帰ることなく岡山に戻りました。居場所のない僕を見かねた兄が自分の部屋にしばらく住んでもいいと言ってくれたのです。それから僕は岡山の兄の部屋に住み始め、一方兄は恋人の部屋に泊まっていたのか、その部屋を開けてくれました。すっかり精神的に衰弱していた僕は、それから4ヶ月ほど引きこもり生活を始めました。近くには自分の辞めた大学があって、そこの大学の学生が周りをうろついていることがほとんどでしたので、自分は部屋から出れなくなり、風呂も週に1度程しか入らず、宅配で一日一食だけ食べ、一日中寝て、時々ギターを弾いて曲を作り、そんな感じで過ごしていました。また、余談ではありますが、その頃自分はストレスによってか、胃痛が酷く、ゲロを吐いた時、それにドス黒い血が混ざっており、その匂いとドス黒さは、今でも鮮明に思い出すことが出来ます。


その間、自分は兵庫で入院していた時に出来た知り合いとLINEをしていました。その中で、兵庫で一人暮らしをするという選択肢が浮かび、もういい加減アルコールやOD、リストカット漬けの引きこもり生活にも嫌気がさしていたので、自分は思い切って兵庫に一人暮らしを始めることにしました。何も考えず、3日分の着替えと3万円程の資金を持って兵庫へ向かいました。そんな世間知らずが、まず向かった先は不動産屋さんでした。兵庫の加古川でいい物件を探してもらいに出向いたのです。しかし、金はない、仕事もない、保証人もいない、そんな自分には一人暮らしが出来る能力がないという事実を目の当たりにして、俄然と恥ずかしくなりました。


自分は岡山に帰る気も起こらず、市役所に行って住む家がないと相談をしました。すると「神戸の冬を支える会」とかいう事務所を紹介されて、そこでしばらくの住む場所と食料とを援助してもらえることになりました。


そんな思い出すだけでも赤面するような生活を送っている中、LINEでその状況を兄に伝えると、直ぐに兄と母親が僕の所まで来て、1週間だけ任意入院をしたらどうか?という話をされました。前回の入院で母親に騙された経験から、直ぐに彼らは今に自分を騙そうとしているのだと理解しました。しかし、その時は抵抗する気力も起こらず言われるがままに、前回と同じ病院へ連れてこられました。もちろん、彼らの語った話は嘘でした。自分はまたもや鬱病と診断され医療保護入院を強制させられたのでした。

 

そして現在も自分は狂人として、そこの病院に入院しております。これまで、そしてこれからの全ての結末は幼少期からの自分の二面性の性格と地続きであり、それこそ本当に大庭葉蔵のように退廃的な生活が今後も待ち受けていると思えて止みません。

 

最後まで呼んでいただいた読者様、本当にありがとうございました。今後は日々思ったこと、感じたことを日記がわりに載せていこうと思っています。また、今後とも反応を頂けると幸いでございます。

生い立ち(青年期1)

生い立ち(思春期2)の続きです。

失恋をして、親に見放された僕は、統合失調症を発病しながらも、なんとか川崎医科大学へ入学したわけです。大学でも、周りから笑われているような感覚は消えず教室の居心地の悪さは、それはもう最悪でした。しかし、それ以上に親との関係や将来に対する不安、勉学や進級に関すること、ミュージシャンになりたいという夢が僕を苦しめていたと思います。


大学1年次、一学期は進級に対する程よい不安感から勉学に励みました。アルコールもリストカットもやめて、その甲斐あって、学期末の通知表では130人中30位と、勉強嫌いの自分にしてはなかなかの出来でした。


調子がよかったから、自分はネットでバンドメンバーを募集して社会人の方達とバンドを組み、週末にスタジオで練習をし始めました。中・高とベースをかじっていた自分ですが、曲作りがしたいということでアコースティックギター(YAMAHAのA1R)を買って、バンド内でもギターボーカルを務めることにしました。そのバンドではpillowsやsyrup16gのコピーをしており、今思い返すと夢のような時間だったなと思います。


そんな成功体験によって自分は元入っていた大学の卓球部を辞めて軽音楽部に入り直しました。それには親は猛反対。昔から僕が音楽に触れることを嫌っていたわけですから、卓球部という部活も入学する時に母親が決めたものでした。ですから、頻繁に電話がかかってきて「音楽なんて辞めなさい」、「どうしてあなたはいつも親の言うことを聞かないの?」など、まぁ引き止められたわけです。その中、自分は母の助言を無視するように、あるいは反発するように合唱部にも入ることにして、歌とギターとその両方の練習を重ねてゆきました。また、同時期に僕は一人の女性に一目惚れをし、LINEでやり取りをするようになりました。客観的に見たらその時の自分は所謂「充実した」学徒生活を送っているようでした。


しかし、2学期に入る頃には親の干渉と、大学の息苦しさにいい加減耐えかねてきて、段々と高校の時に感じていた憂鬱と言うのか、定款と言うのか、希死念慮とも言える感情がぶり返し、それに悩まされていました。再発。あくまで幸福とは一時の気まぐれだったらしく、その先は重い心持ちで朝起きて、必死に耐えて学校へ行き、その頃解剖学の実習が始まっていましたので、毎日死体を解体し、寮へ帰る頃にはクタクタになっていて、無理やり酒を飲んで眠りにつくという生活を繰り返すことになりました。


3学期になると進級試験が目の前に迫ってきて、もうその時には勉強どころではなく、毎日死ぬことばかり考えて布団の中で悶えていました。もちろん、進級試験は不合格となり、僕は大好きだった例の女性と違う学年となってしまったのです。「けどまぁ、死ぬんだから全部どうでもいいや」大学を辞めさせてもらえない僕からしたらそう考える他選択肢はありませんでした。


留年が決定し、実家に帰ることになった春休み。僕は社会人と組んでいたバンドをやめて、その代わりに精神科に通うようになりました。毎日パニック状態でしたので、その頃の記憶はあんまり覚えてないですが、無理やり母親に病院を連れ回され、その行き帰りに「いくら病気のフリをしても大学は辞めさせない」、「これ以上私に迷惑をかけるな」などと怒声を浴びせられ、診察で親の事をドクターに話すと「診察で私のせいだって言ったらしいね」と母は怒って、それ以降は病院を変えられて診察では後ろで親が付きっきり見張っている状態になりました。もちろん、そんな中で僕はドクターに色々の経緯や気持ちを話すことは出来ず、親ばかりがドクターと話し、治療どころではなく、むしろ僕がドクターから説教を受けることもありました。


そうして4つか5つかの病院を連れ回される母の支離滅裂の話からなる診察の中、「統合失調症」や「鬱病」やその他色々の病名をつけられ、果たして自分の精神はより衰弱してゆく結果となりました。


そんな地獄の春休みが終わり、2度目の1年次。それは自分にとっては生きているのか死んでいるのか、分からないくらいに苦しく、その頃からオーバードースに依存し、にも関わらず相変わらず大学へは通い、何がなにやら分からない状態でした。ある休日の夕、僕は普段ODしている薬の量の2倍の量を飲みました。しかし、飲んだ直後に合唱部の部長から練習に付き合ってくれないかというLINEが入り、尊敬していた先輩だけに断りきれず、そのまま僕は合唱部の部室で部長と会いました。その時、自分は何やら変な気を起こしたらしく、藁にもすがる思いと言うのか、自分のこの悲惨な状況を全て打ち明けてしまったのです。助けて欲しい、そんなSOSサインだったと思われます。部長は優しく僕の話を聞いてくれて、異常な量の薬も体中に回り始めてきた時分でしたから、一緒に大学の附属病院へ向かいました。自分はその優しさが嬉しかったのか、終始すすり泣いていたような気がします。


胃洗浄こそされませんでしたが、その晩はICUに入院することになりました。その事はもちろん大学側にも伝わりますから、果たして僕はその大学を休学させられることになりました。


そんな経緯で自分は大学を辞めたわけですが、それから先の事は長くなるので次回以降書いていこうと思います。

生い立ち(思春期2)

生い立ち(思春期1)の続きです。


入学して今後の生活が人並みに不安だった僕は、1週間程経って恋人を作りました。彼女は僕に一目惚れをしたらしく、少しでも早く学校に馴染みたかった自分は彼女と付き合うことにしました。しかし僕はまだその頃、自分の恋愛的性質を理解してはいませんでした。


僕は人を信じることができない質で、自己肯定感が低いという言い方があるとするなら、他者肯定感も極めて低く、それが自分の場合は恋愛観を大きく傾けているようでした。まぁつまりは、いつの間にか彼女に依存してしまっていたわけです。


彼女にだけ自分の陰湿な部分を見せて、彼女の内面を無理やり覗き込み、それで秘密を共有したつもりになって、常に浮気が心配で、何もかも上手く行かず、2年ほどで別れることになりました。しかし、問題なのはその先でした。僕は彼女に執着し、一方で彼女は僕を軽蔑して、僕の内面の暗く陰湿な部分や弱みを周りの友達に流し始めたのです。自分は周りから笑われているような気がして学校へ行くことが怖くなり、半ば不登校のような状態になってしまいました。寮と保健室とを往復するだけの日もありました。学校へ行かずに寮の個室に引きこもっている時には、太宰治フロイトなどを好んで読んでいたり、相変わらずCDプレイヤーでRADWIMPSやamazarashiを聴いて過ごしていました。


自分はその学校にいることに耐えかねて、実家に何度か電話をして母親に学校を辞めたい、もしくは死んでしまいたいという由を伝えました。すると彼女からは「学校辞めるくらいなら死んでくれた方が楽だ、いくら学費を払っていると思ってるんだ」という言葉が出てきて、自分は絶望の中へ突き落とされた気持ちでした。それがトドメとなり、自分はぼんやりと死ぬことを決意し始めました。


その頃から僕は眠れなくなっており、アルコールとリストカットの悪癖などのせいもあって、真っ暗な部屋で起きているのか眠っているのか分からないような時分に背の高い女(メラン)に襲われる夢なのか幻覚なのか分からない、とても恐ろしい現象を繰り返し味わうことになります。まるで毎晩ベクシンスキーの世界へ迷い込むような、そんな心地でいました。また、同じ頃に僕は幻聴を聴くようになりました。蜂か虻かが自分の近くを飛んでいる音、そいつが僕に語りかける言葉、最初は不可解でどうしようもなく怖かったですが、そのうちに彼らは僕の味方であり、メランと僕とを遠ざける為の役割であることを知り安心しました。それから、僕は彼らのおかげで無理をすれば学校へ行けるほどの気力が湧いてきて、少しづつ学校へ足を運んでいました。死のうと決めた割には、できる限り学校へ通っていたんです。


そんなギリギリの生活の中、自分は無事大学へ入学することが出来ました。大学の合格が決まった頃には蜂もメランも僕の前からいなくなっていました。

生い立ち(思春期1)

前回の「生い立ち(幼少期)」の続きです。

小学校低学年の自分は社交的で目立ちたがり屋だったわけですが、高学年に上がるにつれて母親の虐待によってか、周りの人間の反応によってか、内向的な暗い性格と態度とを身に付けていきました。


それから中学、高校と思春期を迎えるわけですが、思春期の自分が大きな影響を受けたのは母親だけではありませんでした。音楽と文学との出会い、進学、失恋、それから、統合失調症鬱病の発症。それらは今でも僕の価値観や性格に大きな影響を与えているものだと思っています。以降、それらを順を追ってお話ししていきます。


僕は小学校高学年の頃から兄の影響でRADWIMPSを聴くようになりました。その頃はスマホもミュージックプレーヤーも買い与えられていなかったので、学校帰りに親の財布から抜いた金で中古のCDを買って、家にあるCDプレイヤーにイヤホンを付けて深夜にこっそり一人で聴いていました。


中学になると1人部屋が与えられたので、時間さえあればRADを聴いて、音楽という自分の知らない世界の中に入り込んでいきました。ミュージシャン。その頃からそれは僕の夢になっていました。家にも学校にも馴染めていない自分にとっては音楽だけが救いだったのかも知れません。しかし、やはり僕は音楽を聴くときには決まって「こっそり」と、母親の目の届かない所で聴いていました。それは、僕が音楽を聴いていることがバレるとCDは捨てられ、例の虐待が始まるからでした。「そんなに音楽が聴きたいならCDだけ持って今すぐ家を出ていきなさい」そう言って母は僕に暴力を加えるのでした。


僕はそれに反発するように捨てられたCDを買い直し、学校ではバンドを組んで文化祭でRADのコピーをしました。僕は簡単そうで練習の必要がなさそうなベースを買い、それは学校に隠すかバンドメンバーに預けるかして捨てられないように守り、学校で少しづつ練習をしていました。中3の文化祭が終わり、大事に守り抜いてきたベースを家に持ち帰らなければならなくなり、それも捨てられてしまいましたが…


そんな中3の文化祭が終わった頃、僕はある1冊の本に出会います。太宰治の「人間失格」でした。人間(主に母親)に対する恐怖心と不信感と溜め込んだそれらを表現したいという欲求とが、思春期の自分にピッタリハマった感じがして、もう何回も読み返していました。


高校は親に川崎医科大学附属高校に入るよう決められていましたが、実家嫌いの僕はそこが全寮制だということに魅力を感じてそこに入学します。入学して寮に入ると、その寮の舎監が新入生を一室に集めて全員に「一人一人入学した理由を話しなさい」と言って、1人づつその理由を説明しなければなりませんでした。皆それらしい理由を答える中、僕は嘘をつきました。「病気の人を救いたい」とでもいったようなことを答えたような気がします。本当は親元から離れたかったという理由だけで来たわけですから、病気の人も医者になることもどうでもよかったのです。嘘をつくことには慣れていた自分はその時は何ら罪悪感なども感じていませんでしたが、次の舎監の一言で自分の背筋は凍りついて、内心ひどく狼狽えました。舎監は「医者になりたいと思っていない者は今すぐ学校をやめた方がいいぞ」と言ったんです。もう自分が恥ずかしくて、自分だけが場違いな気がして、それは後に大学を辞めるまで深く自分を傷付け続けた言葉でした。


これ以上書くと長くなり過ぎると思うので、次回に持ち越しってことにしようと思います。