細野 私もその頃、もちろんサイトの中(原子力関連施設)もまだ大変でしたが、サイトの外側の影響をどう軽減していくかを考えなければ、と思っていたんです。先生と初めて除染をしたのは伊達市でしたかね。
田中 伊達ですね。飯舘村は4月11日に計画的避難区域になって、村長の判断で全村避難になりました。しかし6月の初めまで、少しですが住民が残っていたんですよ。
細野 その前に、私は飯舘村の菅野典雄村長に全村避難をお願いしていたんですよね。我々は「一刻も早く避難した方がいい」という考え方だったんだけど、菅野村長は非常に見識をお持ちで、「避難する時もちゃんと説得をして順番にやらないと、もう戻って来られない」と。戻ってくる時のことを考えてお話をしていたのが、非常に印象的でしたね。
そうした避難の議論をしている時に、もう先生は除染をやられていたんですね。
田中 実際には、その議論をやっていた時はまだ、除染まではできていなかったと思います。ただ、あの当時は福島県立医科大学の山下俊一先生が「100ミリシーベルト以下の被曝では、健康上の問題は起きません」という話をしていて。
山下先生がそう言ったこともあって、帰るときのことを考えて、村から出ていってもいつでも来られるような距離にみんなで避難しようと菅野村長はお考えになったようです。
細野 それが今の飯舘村に繋がっているんですね。その時、ばらばらで違うところにみんな避難していたら、なかなか戻ろうということにはならなかったですよね。
田中 そうですね。今、飯館村に戻ってきた人が1400人ぐらいですが、他の人も近辺に住んでいるので、何か行事があるとみんな来れるんですよね。だからコミュニティがなんとか保たれているんです。