細野 なるほど。私も現場の近くにいましたが、確かに説得力あるアイディアを出してくる人はメーカーの人だったり、東京電力の中でも年配の、原発稼働当初から関わっていた方々でした。
田中 当時感じたのは、東電の中枢でそういう知恵のある人を集めて現場に送り込もうとか、いろいろな立場の人と一緒になって立ち向かおうという姿勢が、東電本社には全くなかったですよね。
当時の武藤栄副社長が、菅直人総理と一緒に現場へヘリコプターで行って東京へ帰ってきましたが、あれが私はいまだに信じられないんですよね。「私は残りますが、総理は帰ってください」と言うのが普通ですよ。本社とのつなぎ役をやるとか、吉田(昌郎)所長のサポート役に回るとか……しかし、彼の性格なのか東電の社風なのか、どうもそういうところがあります。
JCO(事故)のとき、原研(原子力開発研究所)で私は東海研究所の副所長だったので、とにかく研究所のできそうな職員をみんな集めて、原研つまり自分たちの事故ではないんだけど、とにかく止めないと、と思って対応しました。そのうち、いろんな人が真夜中でも、ボランティアみたいに来てくれるようになった。やっぱり、そういう覚悟を持ってやらなきゃいけません。
細野 福島の事故のときには、霞が関でもようやく力を結集できる雰囲気になったのが3月15日で、遅いと批判を受けました。その間、現場が孤軍奮闘していた状況は確かにありました。
その後、ようやく少しずつ落ち着きを取り戻して、循環冷却システムも機能して、4号機プールもなんとか大丈夫そうだ、となったのが5月頃でした。その時、田中先生はすでに除染の準備をされていましたよね。当時はまだ除染という言葉自体もほとんど誰も言っていませんでした。どういう発想だったんですか。
田中 福島の汚染がかなりひどいようだということで、とにかく状況を見に行こうと思って、飯舘村に4月の下旬に来たんです。それで、やはり生活空間を中心に除染が必要だと感じて、やり始めたんですね。