内緒噺

名称のない随感小花。

自己省察

 

 私はここ数年、自己のなんたるかの本質をすっかり忘失して生きていました。最近忘れていたことを思い出して、ああそういえば私はこういう人間だった、どうして忘れていたんだろうと唖然とすることが多く実が弾けるごとくぼろぼろと爛れて仕方がない。これは、それらを文章に纏めようという試みです。

 さて、私、まず第一にひどく欠落した人間です。思考が滑らかに続いてくれません。何かを考えようとすると必ずぶつ切りになったり、意識が遠のいたりして他の人より上手く物事を考えることが出来ません。だから人と話すのが苦手です。文章ではなんとか断片を取り繕うことが出来ますが、現実の会話はそうはいかない。それに加えて集団する人間への距離が遠く、人間たちの作法をしっかり観察して、洞察して、法則性を見いだしてそれをみずからに馴染ませて、ようやく人間のふりが出来ます。人の前にいると緊張して思考が続きません。あと以前バイトの面接を受けた時、面接中に緊張で気分が悪くなって音が聞こえなくなって視界が見えなくなることが2回続いたから、多分そういう強迫性障害?かなんかもあります。高校時に軽い離人症にもなったので、それに加えてさらに思考が鈍いというか、上手くものごとを考えたり感じたりすることが出来ません。何が言いたいかというと、元々の人間性の不出来に加え後天的な要素によって更に感性や思考を制限されています。もうほんとう、ボロボロの穴だらけの紙くずみたいな人間です。裏を返せば、そうしないと生きていけなかったくらいに過敏なみずからの感性があります。昔からずっと感情を失いたい、感情を失いたいと願い、その術をみずからに試しながら痛みを噛み締めて生きていましたので。

 私にとって他人は恐ろしい生き物です。だって見ず知らずの他人の言葉の一つで私の心は割れることが出来たし、壊れることも出来ました。元々の心の在り方が不安定というか首が座ってなかったのだと思います。昔の私はあまりにさびしい人間で、哀しい怪物で、頭がおかしかった。哀しい怪物でも哀しむことが出来て、ものを考えることが出来ましたので、なんとか考えながら自分と世界との分別を付けることに成功したのが私の人間としての始まりでした。

 人間としての私の中には粘膜のような、単細胞生物のようなかたちをしたひどく劣等な存在が蠢いています。それは人の温もりを頑是なく求め、貪り、欲望を満たそうとするだけの流れる泥土のようなおぞましい欲望の触手です。これは人間の形をしていません。人間の薄皮を着ただけの私はいつもその蠢きに惑わされ、翻弄され、服従していました。だってさびしいんです。生きてるってすごくすごくさびしい。薄皮の下で単細胞生物の脈動ばかりが鮮明に脈打って皺を作って影を作って、単細胞生物のかたちが鮮明に映し出されました。この濡れそぼつ弱々しいさびしさの雨の奥から、どうしようもない人間への愛が生産されていました。人間!なんてうつくしくて、存在のくっきりした、個々が既に完成されたかわいらしくきれいな存在なんだろう。私は人間に恋をしていました。ただ存在しているというだけで、人間は恋するに値する立派な宝石の数々です。ええ、病気です。私の人間愛も人間の皮もこのぶよぶよした感性も、ぜんぶ怪物の病気からうまれた産物です。

 私にとって人間は憩いのある場所では到底なくて、つねに心を揉まれるもみくちゃな市場でした。それを、ここ数年、忘れていました。忘れて、ただ人間への恋心だけを募らせて、私のかわいい孤独を放って、人間を嘗めつくして、ここは自分の胎内であると勘違いしていたのです。だから人間から爪牙で引っ掻かれた程度のことで世界の終わりのように泣き喚き、嘔吐し、混乱して泣き乱れてたんです。まるで犬猫に噛まれた子供がわけも分からず泣き出すように。だけど私という存在の系譜を思い出せばそんなの、記憶喪失した人間が恋人を恋人と認識出来ないようなものです。そもそもこの宏漠たる宇宙に私は細菌としてひとりで、人間の広場は私にとっての息抜きならない戦場で、そこでは可憐な火花が可憐に人を殺しています。そんな場所に死ぬ覚悟もなく参入して甘い汁を啜って帰ろうだなんて片腹痛い話でした。人間はいつでもなんの気なく私を殺して、腕を引きちぎって帰っていく生き物だって思い出してしまえば、世界は全く歪で悲哀に溢れたものではなく、ごく平然とした蒼色の球体です。

 そもそも私というものの本質は鬱憂としたものへの沈溺です。痺れるような陰鬱と悲愴な覚悟。覚悟、そう、覚悟が足りなかったのです。世界は針の一本で私を殺しに来るという前提意識をすっかり忘れていました。それだけ分かっていても、私の粘膜は人間に恋焦がれて媚態を成します。これはもう、引力のようにどうしようもない。だから死ぬ覚悟をします。それが世界に対して示すべき礼儀だったのに、この世界は赤ちゃんでも地面を這うことができるから、そのような責任から免れていると思い誤っていたのでした。私が呪うべきは世界ではなくみずからでした。みずからの吐き気を催す様態と、生まれた時からずっと患っている罪と、醜悪な存在の慣れ果てとだけが私の狭い故郷で、すべての罪やみにくさは私の臓腑に収斂していきます。みずからの存在への飽くなき翫弄。私のいちばんあったかい心臓は、そこです。そこから流れる血潮で私は文字を啜り、抽象を愛し、人間に恋をしています。

 なにが言いたいんだっけ、えっと、世界に私はひとりで人間は戦場で、つねに世界へ畏怖を向けながら死ぬ用意をしなさいということでした。そしてお前は人間などではなく、最上級に穢らわしくきたない醜汚の存在だと思い出しなさい、そういう話でした。ふふふ。疵口はいいですね。永遠に血が流れる。

西の子さんへの餞別

 

 人は分かり合えません。話しても伝わりません。泣いても知りません。叫んでも響きません。譲歩しても気付きません。説明しても分かりません。諦めたことさえ伝わりません。そんな事があったから、もう半年ほどもまえからずっと、そう言っています。その言葉を他人にどれだけ玩弄されようと、私の疵そのものを弄ばれようと、真実は澱みません。これだけの文章を書いて私のたましいの砕片を磨り潰して混ぜて、血を滴らして反吐を擦り付けても、きっと、私の文章など煌びやかなだけの装飾品としか映らないのでしょう。もしくは、奇を衒った内実虚無のはりぼてに過ぎないのでしょう。貴方が私の言葉の断片を切り取って遊ぶように。それでもまだ文章に真実を託す余白のあることを信じて、ともかく筆を執ることにします。


 まず、理解してないようでしたから私が貴方と関わることが不可能だと思った点から説明していきます。私が「世間一般に蔓延する無意識のサブカル的要素、及びそれらへの批判」をTLで述べていたものへ対して其方からリプライが寄せられました。内容は私の呈している議題に無関係の、また様々にとっちらかった見解の集合を送られ、私は「此方の意見を聞く気がなく、ただ自分の意見をぶつけているだけのリプライ」であると判断し、そのような姿勢の相手の意見を分かりやすく解体し、論点を整理し、議論する労力を割く必要はないとして自分の元々の主張だけを反復しました。その翌日に其方の公開noteで明確に私のことを指して「修辞と歴史が好きだが中身がない」と発言されているのを発見しました。問題の経緯は概ねこの様です。次に、以上の発言に如何なる問題が含有されるかの説明へ移ります。


 リプライの件に関しまして、其方としては「議題の内容は分からないがそれによって喚起された自分の中の意見を片っ端から投入し、必要な箇所を吟味し取捨選択して貰おう」との意図から来る行為だろうと予測しております。それを踏まえても、其方が提示した意見の数々は自分の語りたい内容に掠りすらしておりませんので、やみくもに話を振られても困ります。興味の湧くものであれば拾いもしたでしょうがそれもありませんでしたので話を流したというのが此方の意識です。

 この時点でも対応に困窮し混乱してしまっていたのですが、重ねて翌日で恐らく私の文章そのものに対しての批判が上がりました。本文は「自分の大事なものが貶された、理解されなかった。共通読書本にも書いてあることなのに。それが理解できないならば、アイツの生みだす物もその程度のものに違いない」という湿っていて感傷的な怨嗟の言葉のように受け取れます。ですが元々私の主張していることは共通読書本に書いてあること、またはその筆者がツイッター上で発している呟きに感化されて思考していたものですから、あの本を読んでいながら私の発言が理解できない方が読解に不足しています。そして当の「中身がない」発言についてですが、これは書き手としてそれが最大の批判になると無意識下で熟知した上での明確に貶す意思のある発言と思われます。実際のところ、理解が及ばなかったことは、理解しようとの努力もなかったことを含め其方の問題ですので、私に責任転嫁されても困ります。


 「此方の意見を理解しようとすることはなく」、「自分の意見をただただ押し付け」、「それを躱されると責任転嫁をして」、「明確な敵意を以て」、「関係のない箇所を攻撃する」。これが其方のリプライとnoteで露わになった(と、少なくとも私には見えた)点です。また、字書きであるなら文章が字書きにとって大事なものであると身を持って知っている筈ですから、そこを敢えて攻撃したということは最大限の敵意の現れと見て良いでしょう。つまり、「みずからの都合で相手の急所を攻撃する」とも開示しています。これらを以てこの人との交流は不可能だと判断しツイッターでの繋がりを断ちました。


 次にDMでの遣り取りに移行します。機会があって上記のことを簡単に纏めてお伝えした時、「そんなことを気にするよりも短歌などをした方が貴方のためだ」とのお返事を戴きました。つまり、「反省の意思はなく、みずからの行いの是非を全く度外視し、それよりも相手の行動について言及し」ている訳です。喩えば暴漢が被害者に糾弾され、「そんなことどうでもよくない?」と答えたとしたらどうでしょうか。私の目には貴方の行いはそれと同じように映りました。


 恐らく、これだけではまだ理解しづらいでしょうからもう少し踏み込んでお話します。これらの振る舞いを受け、私はたいへん混乱し立腹しました。どうして私がよくわからない他人の意見の羅列を押し付けられねばならないのか、全く意図が分かりませんし、会話にもなっていません。貴方の詩に対する感情を関連なく突如ぶつけられても困ります。そもそも詩に対して特に学んでもいない方からそのように仰られても、何も言えることはありません。ある程度思考が練られたものしか議論の俎上にあげることは出来ません。私から見ると貴方の意見はまだ議論出来る段階に至っていないのです。その様な方からであろうとみずからの生産物を「内容がない」といわれればしっかり深く疵付きます。私が文章を描き始めたのは一年にも満たない最近のことですが、それでも自分なりの拙い美学を持っています。短歌がポップだとかは知りません。私は私の求めるものだけを求めていますから、それ以外のことは存じ上げません。私は今まで積み上げてきた文章という軌跡を泥まみれの靴で踏み荒らされたような気持ちになりました。屡々私がよく使う「人は分かり合えない」という言葉を否定されているようですが、あのたった九文字の言葉にどれだけ私の泣き出したくなるような苦痛と悲泣と哀嘆とが詰まっているか、分かりませんか。あの言葉は私の疵痕が詰まった箱です。あの言葉を口にすると、私は身体中を引き裂かれるような、死んだ心地になります。それでも言わざるを得ないから言うのです。けして、貴方に上面を複製して濫用される為ではありません。今回の件も似たような心地にさせられました。このような心境を、「心を踏み躙られた」と呼びます。貴方の言動は、たいへん人の心を踏み躙るものです。目には見えませんが、実は、人にはけして侵してはならない尊厳の領域があります。そこに手を掛けることは魂への毀損と同義です。魂に疵を付けられた者は夜な夜なその消えない痕を思い出してもがき苦しみます。燃えるような乾きと苦痛。私達の魂の源泉を穢す行為。人を疵付けるということは、ただ疵付けるというのではないことを知っておくべきでしょう。

 

 では、貴方のそのような言動はどこから起因するのか。それは恐らく「そんなこと気にしなくてよくない?」のような文章などから見受けられるように、自分の肉体を保有する意識の低さに要因があるように思います。貴方は元来一風変わった人ですから、周りが反応に困り、貴方自身が「空気」として透明化されることがあるのではないでしょうか。自身の肉体の動作によって受ける周囲からの応対を適切なかたちで受けられず、それによって周囲の反応から自身の客体化を感じることが出来ない。そうなるとどうなるか。他者と自己との間にある空気や感触に触れる機会を失うのではないでしょうか。距離感を訓練する機会を奪われているため、「適切」な距離がわからない。物理的にも心理的にも、人はあまりに突飛な行動を見ると反応が疎かになるものです。特に人の心理状況は本人が開示してくれなくては余人が感知することは出来ません。そうなると何処が、何がダメだったかがわからない。

 貴方は私に「ちゃんと傷付いててえらい」といいましたが、現世の肉体が何かしらの動きをしれば必ず何かが疵付きます。砂が潰れ、意思が転がり、靴は擦り切れ、人は避け、時にぶつかり、視線が合います。肉体が足を踏めば別の肉体は転びます。肉体が頬を叩けば別の肉体は痛みます。肉体が「死ね」といえば、別の肉体は心を抉られます。貴方の保有している肉体も例外ではありません。貴方の振る舞いによって疵付く人間はたくさん居ます。もちろん、私の振る舞いによって疵付けた人間も呪われたっておかしくないほどいます。「自分は相手に関与できない」という風に考えてはいませんか。貴方が肉体を持つ以上、振る舞いによってきっちり疵付けることが出来ています。肉体を持っている、存在を持っている、誰かの前に一人の他者として存在しているということを強く意識して下さい。そしてその存在は、貴方以外の存在と同じように確固とした存在として立っています。


 次点。それでは、貴方の周囲と違うところは何処か。周りと遊離してしまうのは何故なのか。自身の言動について「訳の分からないことをいって周りがついていけなくなる」という風にいっていたと思いますが、それは表現がやや甘い。訳の分からないことではなく、主観に没頭した意識をそのまま公の場、客観の場に言葉として持ち込むから場が混乱するのです。私も気を付けないとやってしまうから分かります。というか、以前がそうだったのでなんとなく実感としてわかります。主観世界と客観世界の混濁と融解。貴方のそれは主観世界が客観世界に洩れ出ているが故の不調和です。今いる世界に別な世界の法則を持ち込んだら、それは首を傾げられます。

 ではそれをどう直したらいいのか。こればっかりはやはり、投薬などで整えていくしかないように思います。思考によって整理出来たら良いのですが、これは思考以前の問題、思考が把捉する世界地盤に関わる話になりますから、軽率に努力を促していいものでもありません。強いていうなら周りをよく見ること、人と人との間にある空気感を観察して浴びることなどが私から言える訓練方法です。ただ貴方は強迫観念に囚われ易い人ですので、今言ったような言葉に過剰に囚われてしまわないか、やや不安が残ります。先日も結局「人の話を聞く」という言葉に囚われていたようですし。精神が波立つ時は人を遠ざけるのも手です。大体の悩み事や自己嫌悪って他人からやってくるので。あとは好きなことをするとか。いちばんは好きなことをして身体の不調をやり過ごして欲しいですね。苛烈な鬱状態を内在させながら生きている人間、生きていること自体が既に賞賛するべき事柄ですから。世辞とかではなく本当にそう思います。貴方は自身の感情によって取り乱し周りを振り回すところがありますが、その根幹にあるのはやはり精神の不安定さであり、精神の不安定さは貴方の制御の手に余る代物です。それと共に生きるという偉業は貴方にしか出来ないことだと思います。貴方からすればそんなの心底要らないだろうとは思いますが、それが与えられた肉体に付与された一つの瘤である以上受け入れるしかないのもまた実情です。私には、どうかせめて悔いのない生命を、と願うことしか出来ません。

 


 長きに渡って書き連ねてしまいましたが、私から貴方へお伝えしたい事はこれを持ちまして以上になります。私が縁を切った理由、そして貴方への考察とを大まかに述べました。書き記した理由は貴方へ僅かの情が残っているからでも自分の鬱憤を晴らしたいからでもありません。色々と思案して悩んだのですが、この先も貴方が同じように誰かの心を踏み躙り原因も分からずただ離縁だけを積み重ねていくと想像したところ、余りに憐れに感じましたので私の持ちうる限りの力を以て私なりの考えを纏めて提出することにしました。みずからを省みる際の資料の一つになれば幸いです。長々と失礼致しました。当然ながらこれに対する返事やアクションは不要です。それでは。

 

最近読んでる本たちの感想

 

 ぐうぜん、2011年現代詩手帖特集版シモーヌ・ヴェイユを中古で見付け購入した。先日のことである。その周辺でまたアホみたいに本を買ってしまっていたから、先に着手した菱川善夫の「塚本邦雄の宇宙」を終えて、今ようやく特集版の方を読んでいる。同時期に買った詩集はアホアホ面白すぎて一気読みしちゃって大興奮のまま感想を書いたりもした。この詩集も詩集で絶賛したけれど、書き手が若い事もあってやや甘いところがあるな、と思った。何処がといわれると説明も付かないんだけど。フォロワーさんの作品に対して好きだけど何かが「甘い」な、と直感することがある。この直感を言語化出来るように今は眸のかたちを練って固めていくしかない。逆に、作風は好みではないけど洗練されているな、と思うものもあって、そういうものには素直に感服する。技術の練磨はモチーフを圧倒する。や、モチーフ主義的なものもどーかと思うけど。私は浮遊した言葉がきらいだ。寒気がする。きれいなものはぜんぶ消し飛べばいい、と思いながらきれいなものを追い求めている。我ながら撞着していると思う、言葉に纒わり付く欺瞞の匂いがきらいなのだ。心の底から、生理的に。

 塚本宇宙は講義の録音を書き下ろしたものでとても読みやすく、「こんなの読んでたら頭が馬鹿になってしまうんじゃ、、?」と思いながら読んでいたけど、終盤らへんは頭の周りが宜しくなかったのか何を指し示してるかよく分からなかったので安心した。分からないものを読まないと意味がないから。塚本の歌論は激アツだけど、塚本の歌は激ムズである。歌集だけ読んでいても多分ちっとも意味は分からんし、実際分かっていなかった。「震えるぜ・・魂がよ・・」みたいな直感的な読み方しか出来ないので、「湖の夜明け、ピアノに水死者のゆびほぐれおちならすレクイエム」の歌が戦死者への弔いだと懇切丁寧に説明されて初めて理解に至るほどだ。戦争、という言葉が確かな肉を伴って、歌を通して情感を伝えるさまを、なんだか新鮮な気持ちで雛鳥が親の喉から餌を啄むように流し込む。生きた情熱が、悲哀が神経に伝わって来る。冷たく打ち付けられた鉄みたいに強固な信念と情熱とを、また食べるように愛する、途方もなく敬いながら。それにしたってこの人はなんていう信念の人なんだろう。塚本の歌には三十一文字の端々にこんじきの迸りが光っている。それがなによりも胸を打つ。塚本の歌が金の亀裂であるなら、歌論は裸の黄金の延べ棒だと思う。なんていうか、「こうでなくちゃな」と思わせられる。noteでも書いたけど、創作活動に対する書き手の姿勢が及ぼす作用は甚大である。書き手が「そのようである」というだけで人々の姿勢を正してしまうような、そんな厳かなものに惹かれてやまない。そればかりが創作ではないと留意しつつも。本を読みながら筆者と自分の解釈とのズレを意識しながら読むのもまた面白かった。いい本だったな。二巻は買うか未定です。気が向いたら、その内、たぶん………。

 で!ヴェイユ特集はですね、まだ100ページ程しか進んでないんだけど、もうほんとにサイコーで、ひとつの論考を読み終える度に感極まっています。多くの人がヴェイユという錐の信仰を心の底から信じていて、あの冷たい金箔の光の元に同化しながら(現代の人間が!信仰を!心から信じて!)思考を深めていくというだけでもうどれだけ尊く美しい営みであるかがわかるでしょう。ほんとうにステキ。ありがとう百年忌、ありがとう特集版、この本との出逢いに圧倒的感謝………………。同時代であるヴェイユとレヴィストロースとは同時に論じ比較されることが多いらしく、レヴィストロースに興味が湧いてしまったためアマゾンの欲しいものリストに追加してニコニコした。欲しいものリストはいつ買うかはわからんけどいつか欲しい本を集めてニコニコする場所です。論考のひとつに詩人の方が寄稿しているものがあって、詩人としてのヴェイユの生き様に憧れるような気配があった。文自体は激アツの名文だったのだけど、やっぱり詩人というものが何かはよく分からなかった。そういうものに憧れることが出来ないのは私の感性がとぼしいからだろうか。ボタンをかけ違えておかしいなっていってる時みたいな変な違和。時と思惟を重ねて私の中の詩人という言葉が厚みを増したら自然と興味も向くようになるのかな。詩人信仰、よく分からない。

 私がとりわけ胸を打たれるのは思想の根底に奈落のような絶望が横たわっている思想だ。だからニーチェも好きで、ヴェイユも好きだ。でも純粋なかしこさも美しくて好きだし、信念の強靭なものもアツくて好き、胸から一気に炎熱や光が溢れ出す。私がたとえがらんどうのゴミでも。真実だけはほんとうで、抽象はみんなのものだから、私も与ることが出来る。顔という部位さえ持たないみんなの胸の内が知りたい。そしたら私も、まどろっこしい真似をせずとも本質を浴びて人間の内部に招き入れて貰えるから。

 

 

三題ブョグ

 

某先輩発案お題を交換してブログ書こ〜という遊び。貰ったお題は「ラグナロク」「ネモフィラ」「童貞」。

 

 擦れてない人間って純真で混じり気のない愛に対する希求みたいなものを持ってる。誰かをとびきりに愛したい、誰かにひたすらに愛されたい、相互作用の中でひとつになりたいことを、内部にある欲望の鼓動を、肉体の芽はよくよく知っている。人によってはそうでもない人もいるのかな?って思ってたけど、今まで出会った中で一番人の心のない人に最近恋人が出来たと知って、やっぱり人って愛に関与したいのでは?という確信を深くすることになった。そういう無垢さ、無防備さ、無鉄砲さを肉体に下ろすと、童貞というじつに世俗的な象形として現界する。これはいちど、滅ぼされなくてはならない。破滅によって愛の側面で蓋をすることで現実は均衡を得る。童貞とは、まだ破滅していない無垢のことだ。

 じゃ〜破滅とは何か、私か、世界か、神か?このみっつはじつは宇宙みたいに繋がっていて、私の一部は世界だし、世界の一部は神だし、神の一部は私だったりする。そして滅ぶということはその概念自体がなくなることではない。滅ぶとはいっさいの切断である。私と世界が、世界と神が、神と私がに切り離されて細切れにされていく堕落の生態に滅びのまことはある。逆にいえば、概念はひとつだって滅んでくれないのである。卑怯だ。すごくズルい。私は刻一刻と滅んでいくのに、世界はちっとも呼応してくれない!罪は傾斜を流れていく。石盤の上で神々が黄昏れることは喜ばしい。陰惨なものだけが人々をひとつにできる。普遍は惨劇にしかない。信仰は正の文字を重ねることで到達するけれど、惨劇は否応なく肉体に負の文字を重ねさせられることで到達する、その理不尽さこそが真理である。頭を使えない人でも、身体を使って理解ができる。惨劇は機会を奪われることもないのだ。なんて憎たらしい平等だろう。

 ツィッターの方でもいったんだけど、処女信仰持ちの男の気持ち悪さってほんとうになんなんだ?私自身もとも処女信仰持ちの人間だったから人のこといえない面はあるとはいえ、そこに男性的肉欲が関わってくると途端にグロテスクな色彩を帯びてくるのはなんなんだ?空想と肉体の相関とは。そいえばちょっと前はお笑い芸人の岡村隆史が問題発言をしたことでネットで話題に取り上げられることが多かった。今は少し落ち着いてきたのかな。賛否両論あるみたいだけど、あっちゃいけないだろ。大の大人の精神的な幼稚さに賛意を示すゲンロン、あっちゃダメでしょ。あれにも何ともいえない気持ち悪さがあって、うえ〜〜!という顔になる。やろうと思えば細かく解析出来るには出来るけど何の得にもならないのでやりません。ただその、破滅することの出来なかった童貞性というものほど憐れで愚かしく見るに堪えないものはない。欲望を発散することも出来ず悶々とうち抱え、熟れて熟れて熟れていく粘着性を増す肉欲の菓、擦り切れた未熟な陰惨さ。その欲望は何処へ向くのかというと女体であり、細くたおやかなしらうおの指先であり、ほそ腰であり、いつくしみ深き眼差しであり、無辺際なる愛への擬人化された信仰だったり、しない?私はオトコではないので分かりませんが………。それに私、無尽蔵に与える空想上の聖母よりも、この世の全てをかき乱してヒールの音を立ててさっていく無邪気で邪悪な現実のオンナの方がずっと好きなので!

 花言葉って女の子はみんな好きだと思う。なぜなら花言葉は花をおとめとして擬人化され、そこから想像された言葉だから。つまり花言葉は純度の高い処女信仰なのだ。混じり気ない空想ほど甘美なものはない。加えてこの空想には肉欲が随伴しない。だから可憐なのだ。ネモフィラ、勿忘草、ヒヤシンス、蒼染めの花蓋はそよやかでうつくしい。花言葉はいちばんめから、「私はあなたを許します」、「私を忘れないで」、「初恋のひたむき」。めちゃめちゃおもしろい。ちゃんちゃらおかしい。へそで茶が沸く。そのおろかしい幻想に。そんな可憐ではかなげで都合のいいものがこの世にあるとおもったか?そんな人魚の涙珠の結晶みたいなものはおんなというものの内にひとつだってありゃしない。少女のほそいふくらはぎは私たちの胸臆の芝生を踏み鳴らして駆けていく。自由に、奔放に、邪悪に。私たちがおんなをおんなだと思っている以上、幻想を纏ったおんなたちは私たちのようにして私たちを切り刻む。別におんなに限った話でもないか。おとこだって、時としておとこという幻想を纏って切り刻むのだし。

 

 

 

めちゃ雨

 

日記。

今冷凍食品の炒飯を器に注いでチンしたんだけど、長らく冷凍庫に入れられたせいか霜降り炒飯になっていた。味はちゃんとおいしい。よかった〜。

さっき見たツイートでウィトゲンシュタインの代表する哲学概念、「言語ゲーム」について、「著者の如何ともし難い孤独に追いやった何かを歪な形で理解しようとしたのではないか(要約)」と感想を述べている人がいて、これだからツイッターはたまんねえ〜!と思った。私は先日ウィトゲンシュタイン青色本を50ページ程読んでもうムリ!こんなの耐えられない!と放棄した。彼は数学者出身なだけあって論理的な文章を組み上げるのだが、見てのとおり私は論理的思考はニガテだ。基本的に情念と信仰と抽象のことしかわからない。アリストテレス形而上学はまだイデアとかそういう話に触れていたから耐えられたけれど、これは言語の常識的、論理的な話から始まり、加えてウィトゲンシュタインの面倒くさそうな性格がびんびんに放出されている。気力を頼りに読み進めるにも目前の餌がなければ食いつくこともできない。結果「ヤダーーーーー!!!!」といいながら別の本に逃げた。気が向いた時に少しずつ読み進めようと思う。ウィトゲンシュタインは友達が影響を受けている哲学者だ。友達が影響を受けているものに触れてみたい、そうすることで友達のことを少しだけ知れると思うから。

外に出ていないからか最近は頭がごちゃごちゃする。本が読めない、読みたくない、詩とか短歌みたいな精神直結型の流動食も評論も頭に入れたくなーい!みたいな反発が生まれている。おかげであんスタのイベストを読み進めるなどしてオタ活に励む楽しい時間を過ごすこととなった。オタクとして生を受けてる時ってなんでこんなに楽しいんだ?シャブでは?実はなにかしらやべーギミックがあるのでは?サブカルというのは基本的に欲望の再生産だ。堕落した逸楽の獲得だけを目的にそこから逆計算して欲望の生産機械を設置していく。人が快いと思うものは基本的に堕落が仕組まれている。その快さを追随していけばおのずと人は堕落の水車に巻き込まれながらより純然な欲望を掴み取るよう洗練されていく。果てしない欲望の結晶。欲望を目的に欲望によって掴み取られた欲望。より先鋭化したスリムな欲望。娯楽。これはもうしばらく考えてみてもいいかもしれない。私が生きる時代はきっと今しばらくサブカルチャーの時代が続くだろうから。

集合知って基本的に醜悪だ。平均化された常識は10割間違ってる。能動的な知の奪還が成されない知識は必ず誤謬をともなう。眼前の現象に対してわれわれは抽象による事態の体系化をはかる。抽象化された現象はその抽象性だけが歩き出して、抽象のわかりやすさを舐め腐って擦り寄ると自分が想定しているものと違うものだったりする。本来それが当たり前なのだが、それらを忘れさせてくれる能力が抽象にはある。「この抽象はわたしのものだ」と思い誤らせる思わせぶりさを持っている。「自己責任」「怒りには娯楽性がある」「正義を名乗って暴力を振り翳している」あ゛〜〜〜〜、どれもこれも唾棄すべき世迷言でち〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!(舌切り雀)特にその、「今は社会自体が混沌としていて誰かを叩く人が増えている!脳科学的に!」などといわれても、それがどの層を想定したものか分からないにせよアンチフェミや糸井的論者が社会問題に関する言論を問答無用に叩いて黙らせる武器として担がれ続けたものを今更取り出して来られても困るでち〜〜〜〜!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!別垢のフォロワーちゃんもその記事を無言でツイートしていて、私は世にファックを唱えるでち。私自身の常套手段でもあるとはいえ、「自分の主張にそこはかとなく柔らかい善意を交えることによってよくわからない心地良さのまま煙に巻いて理解した気にさせる」という手法はその問題に距離のある層を引き寄せやすい傾向にある。クソがよ。善意によって相手を「なんとなく正しい」気にさせる。その上ラディカルさのない「中庸」的な責任も思考労働も低コストな立ち位置を提供すれば、気持ちよくなれる上に何かした気になれる「そこ」へたった一歩足を載せるだけで集約されることができる。騙されるなとはいわない。ただ騙される奴は騙し返さないといけない。何も知らないまま私たちの未来のために騙されていて貰わないと困る。安心して欲しい。人間に期待していない。

「弱者が差別に反対するには強者に対し下手に出て、分かりやすく説明し聞いて理解して貰わなければいけない」みたいな3000億回は聞いた主張もみにくい。差別する前時代的人間に払う労力はないので、そのまま時代についていけず一人で息苦しくなればいいと思う。説明してあげる必要はない。無礼なことをされたら、「は?」という冷たい目線ひとつで突き放していい。とはいうものの、たいそう気の弱い私はリアルでそんなことは出来ないだろうなあ。

なんか社会的な怒りばっかになっちゃった。前好きだった人が短歌アプリをやってて、私はそれを先日友達伝いに偶然見付けてしまったんだけど、(そしてついつい何度も見に行ってしまうんだけど、)まあわけわからんよね。たぶん、めちゃめちゃ甘ったれてんだろうことは理解できるし、そのまま私のことは嫌いでいて欲しい。嫌いという感情を向けられるだけで私は十分すぎるほど報われる。それが知れただけでも盗み見しちゃう価値があった。まあ生憎わたしは?サイコーでサイキョーなので?常に進化し続け?お前ごときが至れない境地に至って"人間的差"を生きることで証明してやりますが?私という価値ある存在と一瞬でも交われたことを光栄に思いなさって?お前はタタラ場で、私はタタラ場2(たたらば・ツー)で生きていきましょ。寂しいなんて甘ったれた感情を持っていられるお前の手じゃ私は届かなくってよ。アッハッハッハ。みたいな気持ちで自分の弱さを振り切って過ごしています。私の急なアクセルにもちゃんと着いてきてください。

う〜〜唇が乾燥して血い出ちゃった。私のあほたれ〜〜〜〜〜〜。

あんスタにハマった

 

皆さんご存知だろうか?若い女性に人気のスマホアプリあんさんぶるスターズという乙女向けゲームのことを……あんスタには最近リリースされたMusicと元々運営していたBasicとがあり、リズムゲーとしてリニューアルされたMusicの方をタイムラインのオタクのスクショで目にすることが多かった。なんとなく気になってダウンロードして、それから暇な時間があったのでストーリーを読んでみたらこれがまたおもしろく、一気読みしてしまったのだ。それからBasicの方の旧ストーリーも読み進め、フォロワーにオススメのイベントストーリーを教えて貰い石を惜しみなく砕き読み漁った。ここまでして「いやまだハマってないし……」という方が白々しいと言うものだ。私はいまあんスタにハマっている。スマホでストーリーを進めながらニヤニヤし二次創作を検索しては「解釈がな……」とひとり呟く。完全にオタクとしての自我が舞い戻ってきている状態だ。

さて、あんスタとは何か。あんスタが単なる乙女に対してキャラ萌えを提供するだけのゲームであればこんなにハマっていなかった。ハマってなかったんだよ。一見顔の良く個性的なアイドルたちと和気あいあい夢物語を抱いてゆるふわ頂点に立つ物語、では断じてない。全然ない。ストーリー第一部に限定していうなれば、「全体主義個人主義の闘争」だった。主人公格の明星スバルはキラキラをみんなに届けたい!という非常に原始的な理念を元に行動する。それに立ち塞がる天祥院英智もまたアイドルに憧憬する少年であるのだが、彼はみずからの理想の為に芸能界内でのアイドルというシステム、主人公たちが所属している夢ノ咲学院のシステム全体に視配を行き届かせる。個人個人の顔を無貌化し夢ノ咲学院というシステムの一部に組み換え、彼は学院を支配する。その支配の先にはアイドルの繁栄、よりよいアイドル環境の整備と誕生という夢がある。そして我々が全体性を俯瞰して何かしらの構造に手入れをしようとするとき、必ずそこには顔なき者たちへの抑圧が隠されているものだ。我々の手に支配という力が握られていれば尚更。

いや、よりにもよってこの構造を乙女向けゲームに引っ張ってくるか?わかる。わかるよ。理想を掲げて現実の前に敗北したマルクス主義なんかもきっとこれと似たようなものだ。社会、経済、そういった恒に活動する全体性の把捉には必ず生臭くて目も当てられない有害性の廃棄物が下水道から排出される。それは効率化という公式によって簡略化という縛めを受けているから。無駄と余剰から生まれた生命を無駄と余剰を省いた公式で統制すると必ずその漏れが生じる。当たり前だ。人間が理論ではないように、人間は法律でも統計でもないのだ。もう一回いうけど、アニメイトとかでキャラグッズが売られてるような乙女向けゲーム(乙女向けゲームだよ!!!?)の悪役に、この構図を持ってくる?中高生くらいの女の子たちびっくりするでしょ。こんな肉塊みたいな素材をドン!って提供されてもかぶり付けないでしょ。いやいやいやいや。いやいやいやいやいや。

他にもおかしい点(おかしい点?)はある。キャラクター造形が異様に深い。異常な程に人間性の掘り下げが深い。たぶんそれがなんとなく分かるからあんスタのキャラクターは魅力的なのだろうけども。とあるイベントストーリーでこのような台詞がある。「他人に深入りするってことは、そいつの戦場に足を踏み入れるってことだ。安全圏から必要なものだけ掠め取ることなんて無理だから。」人生か?教科書に載っけてくれ。このご時世勘違いしてる人間ばっかだと思うから。優しい人、そのうちでも更に経験の少ない人は誰かが悩んでいたり傷付いていたりすると気に掛けたくなるだろう。ほんの軽い触りのみに心得ておけば問題はない。けれどもその人が恐れ知らずにも「相手の深くまで知って、慰めたい」と陶酔してしまっている場合、悲劇は突如として確率を増す。よくあるだろう。メンヘラに手を出すも付き合いきれなくて逃げ帰るような話が。ああいうのはお互いにとって静電気のような痛みしか残さない。人間の10割は勘違いするけれど、他人の悩みを理解することはありえない。他人の悩みは他人という人生に匿われた巨大な穴だ。その穴には落ちることの出来る底などありはしない。どこまでもどこまでも泥濘のなかに囚われていく穴が延々と続いているのだ。人を救うことなど出来ない。人は自らの意思によって立ったり座ったり、寝そべったりするだけだ。ただ錯覚が人を救ったり救われた気にさせたりしているだけ。錯覚を生じさせるシチュエーションを用意出来ても錯覚だけは人為によって用意出来ない。私たちは毎分毎秒、生きるためにその事を忘れているけれど。

ちなみに私の推しユニットはValkyrie(ヴァルキュリー)です!よろしく!!!!天才奇人アイドルの斎宮宗(とてもおかおがうつくしく、またおかお以外もうつくしい)と彼を信望して止まない苦労人健気美少年の影片みか(たいへん愛嬌にあふれてあいらしく、かわいそうかわいい)のアイドルユニットです!!!!よろしく!!!!!!!!この二人のカップリングを見るためにpixivやツイッターを検索するのですが解釈が中々合わなくて惜しい思いをしています。私の解釈の中では斎宮宗は不器用な人間なのでどれだけ影片みかが大事な恩人だということを理解していてもそれが「恋」だということには絶対に気付かないほんとうに不器用な男なんです。(それカップリングはじまらなくない?)(はじまりません……)斎宮宗は天才だけどほんとうに大事なものには気づけないタイプなので。逆に影片みかは不遇だった時間が多すぎて自分が崇拝する斎宮宗に「恋」しているなんて恐れ多くて全力で否定しそう。恋でもなんでもいい、ハッピーでラブなバイブスの絆で永遠に結ばれてくれさえすれば私は……………。最期の瞬間(とき)まで運命を分かちあってくれたらそれで………………。あとあとSwitchっていうアイドルユニットも好き。すごく"わかり"が強くてこれもいくらでも語れるんだけど気が向いた時にします。

 

みんなへ

あんスタしよ

わたしより

現刻:カラスの音の滲む曇り空

 

今日は壁に向かってお喋りする気分で書くので、壁に話し掛けられてる感じで読んでってね。

人の内面を簾から隙間だけ覗いた気になれる一瞬が好きだ。無思慮に、素っ気なく、自然な仕草で人が自身の内面を摩る手付きは愛しい。人との距離は離れている方が好ましい。その方がほんの少しのきらめきに対して真剣になれるから。けれども私が遠くからしか人を眺めることが出来ない命運であることの裏返しでもあった。孤独は贅沢品なのだそうだ。孤独が大衆に広がったのは自分だけのプライベート空間を持てるようになったからで、それまで孤独は貴族の特権であった。幾らしんどいなあしんどいなあと思う日が続いても、ふと自分は恵まれていることを思い出して弱音を吐いている自分がみっともなくなる。自分はめぐまれてる。それは薄暗く重たいものの犠牲の上で成り立ってる、と思う。私はめぐまれてるのに、私自身が紙くずみたいな存在でしょうもなくて、改悛も罪過もなくしょうもなさだけがぽつねんと在る。人間ってなんだろ。他の人間ってどう考えながら生きてるのかな。自分の意思を持って暮らしてるんだろうか。すごい。一人でい過ぎると少しチューニングが外れ過ぎてしまう。少し前までは程よいチューニングだったけど、最近は少しだめかも。一人でいると意思を持たなくてよくなる。ああ、意思、自己、今はあわよくばそういうもの全部から逃走したい気分だ。重たいものは背負いたくない。どうして人は100年近くも生きられるのだろう。まともに生きていたらきっと50年近くで精神なんて壊れてしまうよ。壊れなくてもいい程生きるのが上手いのだろうか。それとも私が貧弱すぎるだけなんだろうか。それか、思い出が人を強くしてくれるんだろうか。私みたいに。

人が生きているのが好きだ。生のうちに独自の繭と時空と密度とを棲息させて一人一人完結しながら生きていることが愛しい。思想を持っていること、恋に傷付いたこと、絶望の淵にあること、総じて不可視の生命を躍如させていて嬉しくなってしまう。人が恋の話を好むのは他人が生きていることを知って嬉しくなるからじゃないのかな。私はそう。一緒におなじ身体とおなじ構造を内蔵させて、一緒の痛みを知ったもう一人の自分だと知ることは何よりも嬉しい。けれどもこの想念の、なんとしみったれて黴臭い孤愁の滲みを絞っても絞りきれずひた濡れていることだろう。私は悉く私の生を哀れむ。私は、なんか、この世のバランスを保つ為に生まれてきた哀愁と孤の化身か何かなんだろうか。誰かの華々しい生を補う為に日夜にして孤を深めているんだろうか。それはちょっと、わりかし合点のいく思案だ。まあともかく、手放しに何かしらを称賛出来たなら憂いもないんだが、生憎讃える為に打つ掌は私の胴体から伸びていて、絵空事みたいな夢物語を語るのは他でもなく私の精神の何処かしらの陥欠点から来ているので、今日も私という存在の亡霊から逃れられず霊体の中の鄙びた思念に抱かれている。何かを称揚している時、私は確かに私から解放されるけれど、その根はしっかりと張られている。肉体は檻だ、肉体から解放されたい、みたいな言葉もある気がするけれど我々の檻は肉体ではない自己だ。自己がある限り我々は苦悶に喘ぎ続けるしかない。それは存在規定と鏡合わせになっていて、功罪と呼ぶしかない。だから人が好きだというのとおなじ唇で人を面罵出来るし、誰かを踏み躙った手で誰かにハグすることも出来る。今日抱き締めた誰かを明日殴ることだって出来る。みんなそうだ。善悪、哀楽、愛憎、その絶え間なく揺らぐ波状の中で呼吸をしている。

ところで先日にネットにある簡易のセクシュアリティ解析をしてみた。鵜呑みにするつもりはないけれど何となく体感に輪郭を得た心地がしてそれが心に残っていた。サピオセクシャル。そのひとつに並べられたのがこのカタカナ語だった。外見などの性的魅力よりも知的魅力に惹かれる人を括って言うらしく、私はいや内面を重視するのは当たり前では……と思っていたけど、日を置く毎に知性愛なる言葉が日常に散った私の性質に結びついていく。私は人の知性が好きだ。絶望の痕跡がある人間は渋くてステキだし、孤独の匂いがする人はセクシーで、死を纏わせた人は危うげでいい。とある一方的にフォローしているだけのツイッタラーさんが今朝、陰鬱な湿り気もなしに「さっさと死にたい」「人生なんか死ぬまで暇潰しだ」と呟いていて、私は歓喜した。なんてステキな生命の震えだろう!乾いていて虚ろで、隣家を尋ねるように死に踏み込んでしまう精神の、なんと生と死の緊張ある拮抗と翳りだろう。今すぐ抱き締めに行きたい、とさえ衝動する。この情感がきっとサピオセクシャルとやらと近親なんだろう。けれどもそんなの当たり前だと思うのだ。ステキな生命があれば誰だって求愛してしまう、性とか恋とかそんなんじゃなくて。少なくとも私は二十ウン年間ずっとそうやって生きてきたもの。そうかあ。私は知性を愛していたのか。この概念のなりそこないは暫く形をとらぬまま私の中に沈んでいく気がする。

いつも事実の確認みたいなことしか書いてないけど、文章にしたらしたでまた新たな客観性を得るから新鮮だ。どうか明日の私が少しでも何かしらの学びの肉を戴けますように。とにかく今は、この空洞の体に綿を詰めていたい。