「東京裁判史観(自虐史観)を廃して本来の日本を取り戻そう!」
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する。
( 心が臨界質量を超えるとは → http://tinyurl.com/5kr6f )
( 東京裁判史観とは → https://tinyurl.com/ugz9qah )
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★【水間条項TV】『スクープ!厚生労働省がコロナ患者の「国籍」を隠せと指令した「動かぬ証拠」』
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《 いま注目の論点 》
★真実を「書かなくて済む」時代は終わった――門田隆将さん
★米中対決…活路探る台湾・蔡政権――矢板明夫さん
★コロナ禍で見えた中国の正体――阿比留瑠比さん
★ご破算にされた台湾政策――石平さん
★空白を中国に埋めさせるな――石井聡さん
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『読む年表 日本の歴史』
【 渡部昇一、ワック (2011/6/3)、p176 】
1871(明治4年)
《 岩倉米欧使節団(いわくらべいおうしせつだん)の派遣(はけん) 》
白人に屈しなかったアジア唯一の国――その“腹の括(くく)り方”
強力な武器を持ち、高度な機械を操(あやつ)る白人の姿を見て、日本人以外のすべての有色人種は無力感を抱いた。ところが日本人は絶望するどころか、卓越(たくえつ)した西洋文明を見て好奇心を抱き、その知識と技術をあっというまに自分たちのものにしてしまった。しかも、西欧列強の植民地化を許さず、国家としての独立を守った。それこそが世界史における明治維新(めいじいしん)の意義である。
だが、明治政府の指導者たちがはたと気づいたのは、いざ幕府を倒し、「天皇親政」がなったあと、どのような国家をつくるべきかというビジョンを誰も持っていないという事実であった。
そこで考えついたのは、岩倉具視(いわくらともみ)を団長とする米欧使節団(べいおうしせつだん)の派遣(はけん)(明治4~6年)という画期的なアイデアであった。条約改正の予備交渉が目的であり、単なる西洋見学ではない。大事なのは、政府の指導者みずからが新しい政策を立てるために先進国を回ったということである。
この使節団に参加した主要メンバーは岩倉具視、木戸孝允(きどたかよし)、大久保利通(おおくぼとしみち)、伊藤博文(ひろぶみ)という、まさに明治維新の主役たちである。しかも、1年10カ月もかけて、米・英・仏・独など全部で12カ国を回っているのだ。こんなことは世界史上、例がない。これだけの指導者たちが2年近くも留守にしていたら、その間に、どんな政変が起こるか分からないからだ。にもかかわらず、あえて海を渡ったのは、「ヨーロッパの文明は、実際にこの目で見なくてはわからない」という強い意思によるものだったろう。
そして、岩倉使節団の一行が「見た」のは、サンフランシスコからワシントンに向かう大陸横断鉄道(1869年=明治2年に全面開通)や、石畳(いしだたみ)で舗装(ほそう)されたロンドンやパリの道路であった。さらに、立派な道路の両側には、江戸城よりも高い石造りの建物がずらりと並んでいる。聞けば、そこには庶民が住んでいるという、彼らは近代文明の力と富に圧倒された。
こうした経験のおかげで大久保や木戸らも腹を括(くく)ったのである。「もう士農工商(しのうこうしょう)などと言っていてはどうにもならない。工と商をまず振興(しんこう)しなければ欧米諸国の富に敵(かな)わない。富なしに強大な武力を持った近代国家にはなれない」という覚悟が自然と生まれた。そのためには徹底した欧化政策をとる以外に道はないという結論に至るのである。「明治政府は欧化政策をとって工業や商業を振興(しんこう)した」と簡単に言うが、指導者みずからが海外視察をし、「今のままでは駄目だ」というような腹の括り方をした有色人種の国は日本以外になかったということである。
だから、これ以降の新政府の施策(しさく)を見ると、まったく欧化政策に躊躇(ちゅうちょ)がない。廃藩置県(はいはんちけん)(明治4年)のみならず、廃刀令(はいとうれい)(明治9年=1876)などによって士族の特権をまったくゼロにしたのも、また、当時としては途方(とほう)もない借金をしてでも商工業に投資するという決断をしたのも、この使節団の体験なくしては考えられないのである。
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する。
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★コロナ禍で見えた中国の正体――阿比留瑠比さん
★ご破算にされた台湾政策――石平さん
★空白を中国に埋めさせるな――石井聡さん
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『読む年表 日本の歴史』
【 渡部昇一、ワック (2011/6/3)、p176 】
1871(明治4年)
《 岩倉米欧使節団(いわくらべいおうしせつだん)の派遣(はけん) 》
白人に屈しなかったアジア唯一の国――その“腹の括(くく)り方”
強力な武器を持ち、高度な機械を操(あやつ)る白人の姿を見て、日本人以外のすべての有色人種は無力感を抱いた。ところが日本人は絶望するどころか、卓越(たくえつ)した西洋文明を見て好奇心を抱き、その知識と技術をあっというまに自分たちのものにしてしまった。しかも、西欧列強の植民地化を許さず、国家としての独立を守った。それこそが世界史における明治維新(めいじいしん)の意義である。
だが、明治政府の指導者たちがはたと気づいたのは、いざ幕府を倒し、「天皇親政」がなったあと、どのような国家をつくるべきかというビジョンを誰も持っていないという事実であった。
そこで考えついたのは、岩倉具視(いわくらともみ)を団長とする米欧使節団(べいおうしせつだん)の派遣(はけん)(明治4~6年)という画期的なアイデアであった。条約改正の予備交渉が目的であり、単なる西洋見学ではない。大事なのは、政府の指導者みずからが新しい政策を立てるために先進国を回ったということである。
この使節団に参加した主要メンバーは岩倉具視、木戸孝允(きどたかよし)、大久保利通(おおくぼとしみち)、伊藤博文(ひろぶみ)という、まさに明治維新の主役たちである。しかも、1年10カ月もかけて、米・英・仏・独など全部で12カ国を回っているのだ。こんなことは世界史上、例がない。これだけの指導者たちが2年近くも留守にしていたら、その間に、どんな政変が起こるか分からないからだ。にもかかわらず、あえて海を渡ったのは、「ヨーロッパの文明は、実際にこの目で見なくてはわからない」という強い意思によるものだったろう。
そして、岩倉使節団の一行が「見た」のは、サンフランシスコからワシントンに向かう大陸横断鉄道(1869年=明治2年に全面開通)や、石畳(いしだたみ)で舗装(ほそう)されたロンドンやパリの道路であった。さらに、立派な道路の両側には、江戸城よりも高い石造りの建物がずらりと並んでいる。聞けば、そこには庶民が住んでいるという、彼らは近代文明の力と富に圧倒された。
こうした経験のおかげで大久保や木戸らも腹を括(くく)ったのである。「もう士農工商(しのうこうしょう)などと言っていてはどうにもならない。工と商をまず振興(しんこう)しなければ欧米諸国の富に敵(かな)わない。富なしに強大な武力を持った近代国家にはなれない」という覚悟が自然と生まれた。そのためには徹底した欧化政策をとる以外に道はないという結論に至るのである。「明治政府は欧化政策をとって工業や商業を振興(しんこう)した」と簡単に言うが、指導者みずからが海外視察をし、「今のままでは駄目だ」というような腹の括り方をした有色人種の国は日本以外になかったということである。
だから、これ以降の新政府の施策(しさく)を見ると、まったく欧化政策に躊躇(ちゅうちょ)がない。廃藩置県(はいはんちけん)(明治4年)のみならず、廃刀令(はいとうれい)(明治9年=1876)などによって士族の特権をまったくゼロにしたのも、また、当時としては途方(とほう)もない借金をしてでも商工業に投資するという決断をしたのも、この使節団の体験なくしては考えられないのである。