ニホンミツバチ 養蜂の歴史

丹波修治 編撰、溝口月耕 図画 (1872 )教草(おしえぐさ)『蜂蜜一覧』 
丹波修治 編撰、溝口月耕 図画 (1872 )教草(おしえぐさ)『蜂蜜一覧』 

History of Japanese Honeybee Beekeeping.

 我が国におけるニホンミツバチの養蜂、およびハチミツ利用の黎明期〜明治・大正時代までの歴史を概観します。
 また、参考となる歴史的史料は、表にまとめてページの下に掲載しています。

 特に江戸時代のニホンミツバチの養蜂を伝える重要資料である、「蜂蜜一覧」明治5(1872)年版、(丹波修治:編撰、溝口月耕:図画)については、日朝(ひあさ)秀宜(ひでのり)氏(日本女子大学附属高校教諭)のご協力を経て、絵図のキャプションも含めて、全文の翻字(文字起こし)を行いましたので、合わせてご覧ください。
 これは、国内各地域の物産・名産を浮世絵風に印刷した「教草(おしえぐさ)」の中の1枚であり、ウィーン万博に出品されたもの。岐阜県の渡辺養蜂場さんのHPから、渡辺孝氏の解説つきで、絵図を購入することができます。

セイヨウミツバチ導入以前の、日本における養蜂の歴史

※このページで掲載している国立国会図書館デジタルコレクションの画像は、すべて著作権において「インターネット公開(保護期間満了)」に該当するものです。

飛鳥時代

 日本において「蜜蜂」ということばが最初に現れたのは『日本書紀』、皇極2(643)年の項である。「百済の太子余豊、蜜蜂の房四枚を以って三輪山に放ち、養(か)う。しかれどもついに蕃息(うまわ)らず」と、書かれている。ミツバチの繁殖が、結局はうまくいかなかったことを示す史料ではあるが、当該人物が百済の太子であったことは、当時の朝鮮半島における養蜂の可能性を示唆する上で、興味深い。

奈良時代〜平安時代

『日本三代実録』
『日本三代実録』(872年)
国立国会図書館デジタルコレクションより

 その後、奈良時代に日本に来た渤海使からの貢物の中にも「蜜三斛︎(こく︎)」が含まれていたり(『続日本紀』797)、また『日本三代実録』の「貞観十四年(872)の項にも「其信物大蟲皮七張。豹皮六張。熊皮七張。蜜五斛。」の記載が見える。唐から日本に渡ろうとした鑑真の2度目の日本への渡海(743年)の積荷にも、「石蜜・蔗糖等、五百余斤、蜂蜜十斛」があったという(『法務贈大僧正唐鑑真大和上伝記』779)。蜜が非常に貴重なもので、献上品となっていたことがわかる。
 また大陸との関係において、奈良時代初期の仏像製作の主流であった金銅仏製作の鋳型を作るにあたっては、まず蜜蝋(みつろう)と松ヤニなどを混ぜたもので仏像の形を造り、その上に土を被せて整形していた。これはその後、蜜蝋部分を溶かして空洞中に金属を流す、いわゆる「ろう型技法」であり、大陸からは仏像製作の技術とともに、一定量の蜜蝋ももたらされたと考えられる。奈良の正倉院には、薬も収められており、収蔵60種の薬物リストである「種々薬帳」には、臈蜜(ろうみつ)も入っている。

 国内においていつごろから、自然巣からの採蜜や養蜂が行われていたかは、定かではないが、平安時代の『延喜式』にはすでに、「諸國所進」として、蜜「甲斐國一升、相模國一升、信濃國二升、能登國一升五合、越中國一升五合、備中國一升、備後國二升」が、記載されている。
 注目すべきことは、『延喜式』の「蜜」の記録は、「蘇(そ)」 と呼ばれる古代の乳製品と横並びで掲載されていることである。蘇は牛乳を煮詰めてつくられたものと考えられており、藤原道長も大病を患った時に、蘇と蜜を合わせたと思われる「蘇蜜煎」 を服したと『小右記』(1016)に書かれている。当時の貴族の文化、薬としてのハチミツ利用の一端を伺うことができる。「蘇蜜」自体は、他の文献にも記載があり、蘇が蜜と緊密な関係の食品であったことがわかる。

 薬としての利用以外にも、中宮の出産にあたり、生まれた子どもに初めて乳を飲ませる際に御乳付という風習があったようで、甘草湯、蜜を光明朱と混ぜたもの、牛黄等を用意したと記されている(『山槐記』1180年の記録)。

『延喜式』巻十五 平安時代『延喜式』校訂. 上巻。皇典講究所, 全国神職会(1929)
『延喜式』巻十五 平安時代 『延喜式』校訂. 上巻
皇典講究所, 全国神職会(1929)
国立国会図書館デジタルコレクションより(一部)
「蜂飼大臣」と称された平安時代の公卿:藤原宗輔。『前賢故実』 (1868)の挿絵。
「蜂飼大臣」と称された平安時代の公卿:藤原宗輔
『前賢故実』(1868)の挿絵
国立国会図書館コレクションより

 平安時代の公卿・藤原宗輔(のちに太政大臣)は、自然を愛でた人物で、その中のエピソードとして、蜂をたくさん飼い、何丸などと名前をつけていた、従者を勘当する(責める)時には、蜂を名指しで刺しに行かせた等という話が残っている。宗輔は「蜂飼大臣(はちかいのおとど)」として、複数の文献に登場する。
 特に、五月、鳥羽院の前に蜂の巣が落ちて蜂が飛び散り、皆が刺されまいと騒ぎになった時に、枇杷を一房かかかげ、琴爪で皮をむいてハチを集めたというエピソードが名高い(『古事談』『十訓抄』など)。

江戸時代

 江戸時代の文献に見られる「蜜蜂」や「蜂蜜」は、中国の明代に書かれた薬学書(本草書)である『本草綱目』(1578年完成)の影響を大きく受けており、『本草綱目』の記載に準じた蜂蜜の分類、薬効が書かれているものが多い(『大和本草』(1709)、『和漢三才図会』(1712)、『本草綱目啓蒙』(1805)、『重訂本草綱目啓蒙』(1847))。ハチミツは、そのものの薬効に加え、丸薬を練るための必需品でもあり、商品として流通していたことは確実である。

中国明代に出版された『本草綱目』
中国明代に出版された『本草綱目』
画像は、寛永14年に日本で出版された、野田彌次右衞門刊のもの。
国立国会図書館デジタルコレクションより(一部)
寺島良安(1712)『和漢三才図会』 
寺島良安(1712)『和漢三才図会』
国立国会図書館デジタルコレクションより
小野蘭山(口伝)(1847)『重訂本草綱目啓蒙』
小野蘭山(口伝)(1847)
『重訂本草綱目啓蒙』
国立国会図書館デジタルコレクションより(一部)

 また、日本各地のハチミツの産地に加えて、養蜂技術が書き加えられたものとして、『日本山海名産図会』1799、『広益国産考』(1859)などがある。特に、養蜂技術に関しては、紀州の久世敦行(松菴)『家蜂蓄養記』(1791)が、ミツバチの生態を詳しく言及している。国内最初の昆虫図鑑である『千虫譜』(1811)は、挿絵付の図譜であり、横置きの桶を利用したタイプの巣箱の挿絵や、巣箱のサイズなど、さらに具体的な記載がみられる。

大蔵永常(1859)『広益国産考』
大蔵永常(1859)『広益国産考』
国立国会図書館デジタルコレクションより(一部)
久世敦行(松菴)(1791)『家蜂蓄養記』 (表紙・一部)
久世敦行(松菴)(1791)
『家蜂蓄養記』(表紙・一部)
栗本丹州(1811) 『千虫譜』
栗本丹州(1811) 『千虫譜』
国立国会図書館デジタルコレクションより(一部)

 そして、江戸時代の養蜂技術の、総覧ともいえるものが、教草「蜂蜜一覧」(1872)である。オーストリア・ウイーン万博へ出展するために編纂されたもので、日本の伝統技術や製品を彩色印刷したシリーズの一編である。セイヨウミツバチ移入前の、日本の伝統養蜂技術を示す資料として極めて貴重である。⇨全文翻字(文字書き起こし)はこちら。

 例えば、江戸時代初期に土佐藩の家老であった野中兼山という人物は(『野中兼山関係文書』(1965))、「蜜蜂も江戸より帰り玉ふ(原文ママ)時紀州海岸に船かがり時飛来りて船中に附るをとり帰りて本山に放ち玉ふ。又紀州より蜜蜂を取り寄せし時・・・」のように、ミツバチをわざわざ、紀州から取り寄せた記録を残している(結局、紀州のミツバチを安芸郡野根山中に搬入した者が、ミツバチを放したら逃去)。当時、高知ではまだ、養蜂技術が未熟であったためか、名高い紀州のミツバチを、地元で繁殖させようとしたのか、いずれにせよ、養蜂黎明期の試みが伺える。

 また、原道徳(1996)は、著書『洋蜂・和蜂』において、水戸の彰考館を訪れ、徳川斉昭(1800-1860)水戸藩九代藩主)の、「烈公書■」などから養蜂について記した自筆部分を実見・書き写している。徳川斉昭は、自らも養蜂を行い、養蜂の産業化をめざし、植物や蜜蜂の管理責任者も置いていたことがわかる。

●幕末〜明治・大正時代

 和歌山県は養蜂の盛んな地域であり、特に有田市の貞市右衞門(通称:蜜市)は、多くのミツバチを飼い、安政5(1858)年〜明治36(1903)年のハチミツ・蜜蝋の生産量を大福帳に記載していた。また、和歌山県の明治期の『農事調査書』(1893)には、明治21年までの5年間のハチミツの産出状況や、地域別「巣箱装置」のサイズ、「分巣(分蜂)」時期、「成育法」が記載されており、行政側がニホンミツバチの養蜂、ハチミツの生産を産業とみなし、データを把握していたことがわかる。『紀伊東牟婁郡誌』(1917)においては、和歌山県南部では、明治維新の頃の天候不良・蜜源植物伐採のために採蜜量が減少したこと、スムシの繁殖、防除が普及しなかったため、明治36年に縣農會に、専門技師をおいて改良巣箱を奨励したことまでが書かれている。行政の営農指導の一環を伺うことができる。
 昭和にはいってからの、長野県の『長野縣の特殊産業』(1933)によると、すでに当地ではセイヨウミツバチの近代的な養蜂が広まっており、箱数が「内國種三,八六七箱、外國種一一,八五〇箱」と記録されている。一方、「尚本縣に於いては三,八六七箱の日本種を飼養しつつあるは、甚遺憾である。」と、未だに蜜量の少ないニホンミツバチを飼養していることを恥じるような文面がみられ、当時の著者の意識を垣間見ることができる。

 以下、ニホンミツバチの養蜂、ハチミツの利用の歴史を知る手がかりとなる史料・文献を掲載する。昭和以降の文献については、当サイトのニホンミツバチ養蜂 文献・論文リストにまとめている。

ニホンミツバチの養蜂、ハチミツの利用の歴史を知る手がかりとなる史料・文献
出版or記録年文献名称筆者・編者・絵・出版記載概略、一部抜粋備考参考/関連リンク URL
推古35年の記録627の記録日本書紀推古天皇35年(627年)の項。「夏五月、蝿有り、集まれり、その凝り累る(かさなる)こと十丈ばかり、虚(おおぞら)に浮かびて以て信濃坂を越ゆ。鳴く音雷の如し。すなわち東のかた上野国(かみつけのくに)に至て散りぬ。」蝿=ミツバチの分蜂か?渡辺(1974)の指摘。
皇極2年の記録643の記録日本書紀皇極2年(643年)の項。「是歳、百済の太子余豊、蜜蜂の房四枚を以って三輪山に放ち、養(か)う。しかれどもついに蕃息(うまわ)らず。」
天平11年の記録739年の記録続日本紀菅野真道など編天平11年(739年)渤海からの使者が平城京に。「渤海使己珍蒙(こちむもう))等朝を拝し方物を上る。大蟲(とら)の皮羆皮各七張、豹皮六張、人参三十斤、 蜜三斛︎(こく)を附して進上す」 
天平宝字4年の記録752年の記録続日本紀菅野真道など編巻廿二・淳仁天皇天平宝字四年(752年)。仁正太后の病気の回復を願い、五大寺に使いをやり、薬と蜜を施入している。「仁正皇太后遣使於五大寺、毎寺施雑薬二櫃、蜜缶一口、以皇太后寝膳乖和也」
宝亀10年779法務贈大僧正唐鑑真大和上伝記淡海三船(真人元開)鑑真和尚の2度目の日本への渡海(743年)の積荷。「石蜜・蔗糖等、五百余斤、蜂蜜十斛」
貞観14年の記録872年の記録日本三代実録貞観14年(872年)の記載。渤海使(来日は871年?)。「其信物大蟲皮七張。豹皮六張。熊皮七張。蜜五斛。」国立国会図書館デジタルコレクション『国史体系』第4巻『日本三代実録』(コマ番号185)
905年編纂開始~927年施行延喜式巻15、内臓寮の記事。蘇と並んで、蜜の記載。諸國所進として、蜜「甲斐國一升、相模國一升、信濃國二升、能登國一升五合、越中國一升五合、備中國一升、備後國二升」、蜂房については、摂津から七両,伊勢から一斤十二両の記載。また、五巻八十一条の「所須藥種」の項に、「蜜五升」の記載。巻第十三の「三月潔齋」の項に、「蘇蜜錢七百廿五文」の記載。蘇は当時の乳製品、蘇蜜はそれに蜜をかけた(混ぜた)ものと考えられる、※ネット上で、「信濃国1升」いう記載が散見されるが、2升の誤りか?(真貝)『延喜式』の蜜の項
905年編纂開始~927年施行延喜式巻37。典薬寮の記事。「■(月へんに葛)月御薬」として、様々な薬が記されている中、「蜜小二斗五升七合、己上幷受内蔵寮」の記載。『延喜式」のテキストファイルがダウンロード可能。
平安時代中期源氏物語紫式部蜂蜜の調合を控えめにした香の話。 「荷葉の方を合はせたる名香、蜜を隠しほほろげて、焚き匂はしたる、一つ薫りに匂ひ合ひて、いとなつかし。」
※この蜂蜜が、国産のものが大陸由来のものかは不明。
第三十八帖 鈴虫。
長和5年の記録1016年の記録小右記藤原実資 (日記)長和5年(1016年) 五月十一日の項。藤原道長の病において、「医師等、云はく、『熱気か』てへり。丹薬を服せずと雖も、年来、豆汁・大豆煎・蘇蜜煎・呵梨勒丸等、不断に服す。」
寛仁元年の記録1017年の記録小右記藤原実資 (日記)藤原実資自邸に蜂が巣を作ったので採蜜をした逸話がある。「寛仁元年(1017年)九月十二日丁未、今夏以来、西對唐庇連子下木與長押間蜂多猥雑、昨今見其巣、有蜜巣、取一壺嘗極甘者、今旦召忠明宿祢令見、申無疑由、仍相構令取其巣、深在連子下底、先執数蜂納黒漆壺、其後取出、有未成身之子巣等、又多有盛蜜之巣、瀉入唐白茶垸全二合、即放数蜂、是希有事也」東京大学史料編纂書データベース
長元元年1028左経記源経頼(日記)長元元年(1028年) 七月一日の項。「壇敷の布・蘇蜜□・香等、皆、加へ送る。」同様の記載他に一箇所。
嘉応2年1170今鏡(歴史物語)ふぢなみの上第六〈唐人の遊び〉。蜂飼大臣(はちかいのおとど)藤原宗輔(平安時代の公卿、のちに太政大臣)のエピソード所収。
治承2年の記録1180山槐記中山忠親(日記)治承二年(1180年)十一月十二日、中宮の出産にあたり、生まれた子どもの御乳付(はじめて乳を飲ませるにあたり)「御乳付雑具甘草湯、又以蜜和光明朱又牛黄等也」。蜜の補足説明として「兼日自蔵人所遣召蜜、御園所進非眞蜜、仍定成朝臣賜蔵人所儲、差副寮官一人於仕人、遣御園所、取進眞蜜也」蔵人所に蜜をとりに行かせたが、御園所が用意した蜜が、真蜜ではなかったとして、あらためて真蜜を差し出すように指示した旨。国立国会図書館デジタルコレクション『山槐記』(コマ番号89)
鎌倉初期古事談源顯兼撰『十訓抄』と同様、藤原宗輔の、枇杷のエピソードなども所収。明治時代に刊行された『前賢故実』には、藤原宗輔の肖像画がある。
鎌倉時代中期十訓抄編者未詳藤原宗輔のエピソード。「蜂をいくらともなく飼ひ給ひて、「なに丸」「か丸」と名前を付けて呼び給ひければ」、あるいは、仕える侍を勘当する時には、「なに丸、なにがしを刺して来」と、蜂を使って刺しに行かせた、牛車の窓にハチが飛び回っているのを、「とまれ」と言って従えたなど。蜂を飼っているのを、世の中の人は無益なことと言っていたが、五月の頃、鳥羽院の前で蜂の巣が落ち、人々が刺されないように逃げたが、宗輔は枇杷を一房、琴爪で皮をむいて、掲げたところ、すべての蜂が枇杷にとりついたため、供のものに渡した。鳥羽院はこれにいたく感心したといういう、
中国・明代1596本草綱目李時珍 中国・明代に出版された本草書(薬学書)。日本でも翻刻版が複数回出版された。蟲之一の項に、蜂蜜、蜜蝋、蜜蜂、その他のハチ類の、解説(生態・薬効)が詳細に記述されている。後世の日本の本草学全般、また蜜蜂や蜂蜜の分類、品質の考察に、極めて大きな影響を与え、本書を元にしたと思われる記載が、江戸時代の出版物の随所にみられる。寛永14年:野田彌次右衞門刊 国立国会図書館デジタルコレクション、『本草綱目』53卷瀕湖脈學1卷奇經八脈攷1卷. [28]  蟲之一 (コマ番号4〜)
寛文6年1666訓蒙図彙中村惕斎 編挿絵入り百科事典。「蟲介類」の項に「蜂」の解説があり、他のハチ類とともに、蜜蜂の記載があるが、挿絵はミツバチではない。国立国会図書館デジタルコレクション『訓蒙図彙』11巻,「蟲介類」, (コマ番号29)
元禄10年1697本朝食鑑 人見必大江戸時代の食物本草書。島田(1981)の現代語訳「江都の官家では蜂堂を庭上に設けて蜜を採るが、これを面白く作っている。それは厚い木の板で四周を幷せ囲み大きい柱の容に模して製ったもので、内部には部局を設けてある」。蜜蜂  附として蜜。島田勇雄 訳注(1981)『本朝食鑑』5 東洋文庫に、現代語訳あり。塚本学(2001)「日本人のニホンミツバチ観」に詳細な内容あり。
江戸時代初期(元和〜寛文)野中兼山関係文書野中兼山(1615-1664) 土佐藩家老「蜜蜂も江戸より帰り玉ふ(原文ママ)時紀州海岸に船かがり時飛来りて船中に附るをとり帰りて本山に放ち玉ふ。又紀州より蜜蜂を取り寄せし時送の者安芸郡野根山中にて◼︎に其箱を開きて見しか忽飛び去れり其者大に驚しかともせんすべなけれは其儘申出恐入りしに何処にての事なる哉と被尋野根山の趣申上げしに然れは宜し二三年の内に必す当国に差出すべしとありて其者を咎めざりしと云々」昭和40年出版・高知県文教協会『野中兼山関係文書』pp.161-162。
江戸時代初期(元禄年間)津嶋紀畧乾(つしまきりゃく)陶山訥庵(1657-1732)(対馬の)「養蜂は継体天皇(五〇七~五三一)の頃、太田宿称が山林より巣をとって家園で飼育する法を村人に教えた。その味は濃厚で美味である」 (伝承)大坪藤代 (1990) 「対馬の和蜂の養蜂今昔」, ミツバチ科学 11(2), pp.59-62
宝永7年1709大和本草貝原益軒中国明代の『本草綱目』の影響をうけており、「本草ヲ考ルニ、石蜜アリ、木蜜アリ、土蜜アリ、人家ニ養フ家蜜アリ、スヘテ四種也」として、これが日本にもあるとする。(中略)「伊勢、紀州、熊野、尾張、土佐其外諸国ヨリ出ヅ、土佐ヨリ出ルヲ好品トス」。蜂房にたまったものを真蜜といい、「生蜜ナリ上品トス、薬に用イル可シ」。一方、蜂房を煎じ出したものは下品で藥に用いてはいけない。薬店でも、砂糖の蜜、すなわち黒砂糖に酒と水を加えて煮た黒蜜や、白砂糖の煮汁である白蜜もあり、これらは薬として用いてはいけないとしている。蜂蜜の真贋を見つける方法も掲載。蜜蜂を家に養ってよく知っている数人からの説として、『本草綱目』の、蜂は諸花から小便を以って醸して蜜を作るという説を否定した。薬類の丸藥の項目には、「糊ニ丸メシ蜜ニテ丸ジタル薬」と、丸薬への蜂蜜の利用が記載。蟲の下 陸虫の項に、蜜蜂、蜂蜜の記載あり。また、巻之十四。ミツバチ以外のハチ:種類多シ、ツチノ蜂ノ外、土蜂アリ、蜜蜂アリ、大黄蜂アリ、クマハチト云、又ヤマハチト云、人ヲサス大ナリ、又ジカバチアリ
正徳2年1712和漢三才図会寺島良安蜂と蜜、蜂蜜の薬効、蜜蝋、蜜蜂以外のハチ類の挿絵と記載あり。蜂蜜の分類を、石蜜・木蜜・土蜜とするなど、『本草綱目』の影響を随所にうけている。ミツバチ以外のハチ:土蜂(ゆするはち)、木蜂(みかはち)、大黄蜂(やまはち)、胡蜂(くろはち)の記載。巻之五十二。卵生蟲
宝暦12年1762虫の諌蜂を「代々帯刀の武職」としながら、「口にあまき蜜ありて腹にするどき剣をかくす」「才ありて徳なき生まれ」
寛政11年1799日本山海名産図会木村孔恭(序)・蔀関月(画)日本各地の名産品が挿絵と共に書かれているが、ミツバチの生態や養蜂方法が詳しく書かれており、江戸時代のミツバチ関連の文献として、最も名高い。「凡そ蜜を醸する所、諸国皆有中にも紀州熊野を第一とす。藝州是に亜ぐ、其外勢州、尾州、土州、石州、筑前、伊豫、丹波、丹後、出雲などに昔より出せり」。項目として◯畜家蜂、◯造脾、◯割脾取蜜、◯蜜蝋。「熊野蜂蜜」の挿絵あり。巻之二。「蜜蜂」画像がオープンになっている。

ハチ・ネット、書き下し文あり。
寛政3年1791家蜂蓄養記久世敦行紀伊国・久世敦行の記による。ミツバチの生態や巣箱の設置場所(蜂器之位置)、分蜂(黒蜂無毒尾)、ミツロウの製作法(製蜜之法)なども、詳細に記載。漢文体の単行本
初版:文化2年、重訂版:弘化4年初版1805、重訂1847本草綱目啓蒙 (重訂版あり)小野蘭山(口伝)「京師ニテハ紀州熊野蜜を上品トス。此ニ山蜜家蜜ノ二品アリ」として、しかし家蜜は薄く「山蜜ノ濃ノ(?)味ヒ美ナルニ如ズ」の記載。垂れ蜜の作り方、それを最上とするなど、蜂蜜の品質に関する記述が多い。後年発刊された『千虫譜』に、ほぼ同じ記載がある。産地については「藝州廣島ノ山代石州筑前土州薩州豫州豊後丹波丹後但州雲州勢州尾州等ノ諸國ヨリモ出モ」しかし、藥舗では皆熊野蜜として売られていると記載。ミツバチ以外の数種類のハチについても、薬効が記載されている。重訂三十五〜三十六。卵生蟲の冊子。蜂蜜国立国会図書館デジタルコレクション重訂本草綱目啓蒙 48巻. [15] (コマ番号2-8)
文化8年1811千虫(蟲)譜/栗氏千蟲(虫)譜栗本丹州(筆)・服部雪斎(写) 日本初の昆虫図譜。国会図書館には、『千虫(蟲)譜』と、のちの写本『栗氏千蟲(虫)譜』の2つの版があり、絵図も微妙に異なる。一部に「本草綱目啓蒙」と同内容の記載あり。ミツバチの養蜂についての詳細、各国の状況「紀州、熊野にて多く養て産業とす。 山蜜と呼もの最上品なり、其他諸州より出す、土佐より出るもの好品とす、年を経て白砂を凝結め不壊、味厚く甘美なり。新鮮なるもの梅花気をなし餘味(後味)言外に溢る、又肥の前州鍋島大村産のもの厚味絶品にして毎年幕府に貢献あり。御用に備へらるゝものなり」、巣箱のサイズ「蜂を養ふに木にて造る匣を作る、是を堂と云、高さ一尺一寸、横一尺二寸、深さ一尺四寸と云、これ定法なり」(書き下しはハチ・ネットより)、丸薬を蜂蜜で練る方法など、多くの情報。桶を横にしたタイプの巣箱、巣板など、彩色の挿絵あり。ミツバチ以外の蜂類の絵図と解説も掲載。国立国会図書館デジタルコレクション『千蟲譜』 3巻 (コマ番号7-17)
国立国会図書館デジタルコレクション『栗氏千蟲譜』1巻(コマ番号14-22)

千虫譜wikiに翻刻と書き下しあり。

ハチ・ネットに詳しい解説文あり。
安政6年1859広益国産考大蔵永常ほぼ『日本山海名産図会』を参考に書かれたと思われ、同書の「熊野蜂蜜」を模した挿絵も掲載されている。蜂を飼って蜜をとる、巣箱の作り方、巣の造り方、蜜蜂の生活の話、蜂蜜を造る図、蜂の分封の話、巣を割って蜜をとる方法、蜜蝋についての記載あり。付として、蜂蜜と蜜蝋の生産量。豊後国日田郡の産物の事、という項には、蜂蜜四千斤とある。七巻国立国会図書館デジタルコレクション 『広益国産考. 7』 (コマ番号19-26) 
1846など景山養蜂録(その他書簡)徳川斉昭(水戸藩九代藩主)斉昭公は、江戸藩邸時代に自らも、養蜂を行っていた経験があり、養蜂の産業化を目的とした。植物係蜜蜂管理責任者であった、長尾佐太夫に宛てた書簡には、養蜂上の注意点二十二条が書かれているという(原道徳(1996))。原道徳(1996)は、著書『洋蜂・和蜂』において、水戸の彰考館を訪れ、「烈公書■」などから養蜂に関する自筆の古文書を実見し、書き写したこと、およびその内容を詳細に記載している貴重な資料。
不明虫豸写真ちゅうちしゃしん、水谷豊文(ほうぶん)、尾張藩士写真ではなく、写実的な挿絵が描かれた昆虫を中心とした図譜。詳しい説明はない。「蜜バチ」木■という文字と共に、蜜蜂が描かれている。国立国会図書館デジタルコレクション『虫豸写真』 (コマ番号96)
明治元年1868前賢故実菊池容斎 筆上古から南北朝時代までの様々な人物を肖像画入りで紹介。平安時代の蜂飼大臣こと、藤原宗輔の肖像画と解説あいり。国立国会図書館デジタルコレクション『前賢故実』巻第6 (コマ番号55)
明治6年1873教草 「蜂蜜一覧」丹波修治、溝口月耕 画第二十四 『蜂蜜一覧』。1872年にオーストリア・ウイーン万博へ出展するために編纂された日本の伝統技術や製品を一連の彩色印刷のひとつ。日本各地の養蜂技術が、文章と挿絵つきで描かれている。セイヨウミツバチ移入前の、日本の伝統養蜂を示す資料として貴重。⇨全文翻字(文字書き起こし)はこちら渡辺養蜂場

全文翻字(文字書き起こし)はこちら
明治11年1878薬物学 : 日講紀聞. 18越爾蔑嗹斯、大阪公立病院出版蜜蝋の薬としての使い方が書かれている。「蜜蝋ニニ種アリ、黄蝋白蝋是レナリ」とし、蝋薬としても使われることがあったが、外用の軟膏として使われることが多かったこと、およびその作り方が記されている。国立国会図書館デジタルコレクション (コマ番号48-49)
明治19年1886日本山林副産物製造編今川粛蜂蜜及び蜜蝋の項目がわずかにあり。国立国会図書館デジタルコレクション
明治26年1893和歌山県農事調査書 下和歌山縣内務部和歌山県における養蜂資料。明治廿一年産額四千百十九貫。價額二千二百六十三圓。明治21年までの5年間のハチミツの産出状況や、地域別「巣箱装置」のサイズ、「分巣(分蜂)」時期、「成育法」が記載。この地域の養蜂の歴史として、東牟婁郡松根村内の太古と称する一部落があり、椎茸栽培を行い、その傍ら蜜蜂を養っていた旨など記載。「蜂蜜」pp.55-59国立国会図書館デジタルコレクション
大正6年1917紀伊東牟婁郡誌 下巻和歌山縣東牟婁郡役所本郡の養蜂の起源。明治38年から大正3年までの、ミツバチ:飼養戸数、飼養函数、収蜜高、價額など。地域の蜜源が豊かであったこと、本郡の養蜂界が、著しく発達したのは、「其飼育に格別の改良を圖らず、多く放任の状態にありしに依る」とする。また、明治維新の頃の天候不良・蜜源植物伐採のために、採蜜量が減少したこと、スムシの繁殖、防除が普及しなかったため、明治36年に縣農會に、専門技師をおいて、改良巣箱を奨励。木洞飼養を改良巣箱に転換したものの、その後在来種に対する改良箱飼育は、逃去も多く採蜜量も少なかったという欠点があったとしている。十三、「養蜂」pp.222-224
昭和8年1933長野縣の特殊産業信濃教育会濃 編, 毎日新聞社すでに、長野県下では新興産業として、セイヨウミツバチの飼育が行われており、セイヨウミツバチの地域別各種データ、蜜源植物や、養蜂組合および飼育群数が記載。その中にあって「以上の通り、内國種三,八六七箱、外國種一一,八五〇箱にして、其産蜜量亦日本種と歐洲種とは比較にならぬ状態なるに拘わらず、尚本縣に於いては三,八六七箱、の日本種を飼養しつつあるは、甚遺憾である」。八、「縣下に於ける養蜂の現況」pp.281-302
昭和29年1954蜂蜜薬効論(1) 東洋医学より観た蜂蜜の薬能と応用渡辺武(武田薬品工業株式会社研究所)東洋医学に観点から、蜂蜜が中国の「神農本草経」に上薬120のうちの一つに選ばれて以来、中国、日本の江戸時代の様々な本草書に、どのような薬効が記載されているかをまとめている。pp.35-41
昭和34年1959草莽の農聖蜜市翁小傳松本保千代 編 (私家版)江戸時代末期〜明治期に、ニホンミツバチの養蜂技術を向上させ、精力的な販売を行った和歌山県有田市の貞市右衞門(通称:蜜市)による記録。1858(安政5)年〜1903(明治36)年の蜂蜜、ミツロウの生産量を大福帳に記載。
昭和41年1966畜産発達史農林省畜産局 編, 中央公論事業出版明治から戦後までの畜産史。第9章「養蜂の生成」の第1節:明治時代における養蜂事業の抬頭の節内に、明治前期における日本蜂の項目。pp.1313-1383
昭和50年1970蜂蜜一覧、『蜂蜜一覧』解説日本養蜂振興会、渡辺孝明治期の『蜂蜜一覧』の絵図、および別添の冊子に渡辺孝氏が詳細な解説をつけたもの。渡辺養蜂場
平成元年1989「蜂飼大臣」藤原宗輔山内益次郎平安時代の蜂飼大臣こと、藤原宗輔について、詳細な人物像を記載。皇学館論叢22-6, pp.1-16
海外から日本への蜂蜜への持ち込みを記した史料
海外で記された史料
ニホンミツバチ・養蜂文化ライブラリー
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