書評
『小さなメディアの必要』(晶文社)
もう一つのメディア
津野海太郎著『小さなメディアの必要』(晶文社)に出会ったのはたった三年前である。著者は知っていたが本は知らなかった。読んで、遅い出会いを喜んだ。なぜなら、ここにはまさに私たちがやりたかったこと、やろうとしていることが書かれてある。先に読んだら私たちの仕事の自立性が失なわれたのではないか、そう思うほどだった。九年前、私たちは、地域雑誌『谷中・根津・千駄木』を仲間四人でつくりはじめた。最初の号はわずか八頁、千部刷った。仲間のうち一人は夫の転勤で徳島に去ったが、あとの三人は都心に借家人としてこびりつきながら、この小さなメディアをつくりつづけている。(事務局注:1984年創刊、第1回NTTタウン誌大賞など数々の賞を受賞した『谷中・根津・千駄木』は2009年で終了)
創刊の動機はいろいろあった。子育て中の母親のつながりたい欲求、自己表現の欲求、地域環境の悪化への苛立ち、なおかつ子供に手がかかって陣地戦しかできなかったこと……。しかしその芯に、商業出版と別のところに、人の心、あるいは体を動かすメディアをつくってみたい、という気持がやみがたくあった。
「本の世界は、ふつうに私たちが思っているよりもずっとひろいのではないか。……大小の差こそあれ、出版企業の商品としてつくりだす本のほかに、それとはちがう本のつくりかた、ひろめかたがあって、私たちとは別のところで、その経験が蓄積されつつある。商品としての本づくりを基準にして見れば、それはアマチュアの仕事ということになるが、かれらにつくれる本が私たちにはつくれないという点では、私たちこそがアマチュアなのだ」
晶文社の編集代表であり、アジア文化隔月報『水牛通信』をつくった津野さんのことば。彼は本書でフィリピン、タイ、メキシコ、イタリア、沖縄などの、文化運動と連動した小さなメディアを心をこめて紹介している。
私自身、それ以前長らく、生活のためにゴーストライター、リライト、テープ起し、校正、翻訳、索引づくりなど出版に関してはさまざまな仕事をした。しかしどれも〈なくてもよい〉情報の生産、マスゴミの再生産に手を貸すにすぎないという思いが残った。
著者は大阪の国立民博を評した『国立民族学カタログ館』という文章の中で、梅棹忠夫氏の『知的生産の技術』にふれて、「すでに腹いっぱい食いすぎた男が、さらに効率よく食いつづけるためにこらした工夫が、ここでいわれているところの『情報の管理、検索のシステム』である」といっている。ついこないだ見学した私も、津野さんのこの文章は忘れていたが、同じような感想を持った。
「とうてい消化しきれないくらい大量のコマギレ情報を食いすぎて、ニヒルになった眼」に対してどうすればよいのか。一つの答えは、モノを書かず、出版しないことである。しかし人間の表現欲とはやっかいな代物だ。その場合、もう一つの選択は、他と重ならない情報のみを、眼がニヒルになってない読者を見つけて、そこに小さな声で送ることではなかろうか。
私たちは地域雑誌というスタイルに小さな希望を持った。つまり身の回りの身近な情報は穴であり、町にはメディア漬けになっていない目の澄んだ清新な読者がいるはずだ、と。そして地域誌をつづけながら、『よみがえれパイプオルガン』『赤レンガの東京駅』『しのばずの池事典』『トポス上野ステエション』などの主として自然、歴史環境の保全にかかわる運動のメディアもつくりだしてきた。
著者はそのような(もう一つの)メディアの特徴を『原子力発電とはなにか、そのわかりやすい説明』の発行者のことばを借りて説明している。
内容が濃い(人の知らない驚きが書かれている)/自分が買う値段がつけてある/一冊にひとつのテーマの全体像が盛り込まれている/資料で実証してある/自己否定から論理を出発させている/言葉がかみくだかれている/魅力的な書名である/なんといっても読みものとしておもしろい
これを目指してつくる、といよりは帰納的な経験則だろう。いちいち思いあたる。
また、ガリ版印刷ではじまった北方つづり方運動が、運動の武器となるはずの活版印刷所をもつことによってむしろ〈くいつぶされた〉例も語られている。私たちもすべてを自分でやりたいと気負ったとき、写植機や印刷機のお古をくれる話につい乗りそうになり、最終的に「こりゃ手に負えない」と断念したこともあるだけに、身につまされて読んだ。
九年、ひとつのメディアをつくっていると垢がたまってくる。地域の情報の穴を埋めることが果たしてよいことかも疑問である。町の人を縛るメディアになるかもしれない。
大きいのはごめんだ。大きいに自覚的に対抗する小さい本や芝居でありつづける方がいい。そうはかんがえていても、おなじ仕事を十年も二十年もやっていれば、経験がうしろからおいかけてきて肱をひっぱる、知らないうちに大きいをよしとする気分になじんでいる。この気分をたちきろうとして、それが自分ひとりの能力をこえた作業であることに気づく。自分の力を他人の力に合流させなくてはならない
なんだか恣意(しい)的な引用をしてしまったが、この本は引用しなかった部分もずっと豊かである。
最近、津野さんの協働者でもあった故小野二郎の『ウィリアム・モリスーラディカルデザインの思想』が中公文庫となり、再読して、また少し元気がでた。一九世紀イギリスの詩人であり、工芸家であり、人間解放を求めた社会主義者であったモリスの考えは、「社会主義」国家崩壊後のいまこそ、もう一度読まれるべきだろう。
たとえば「クラフツマンの自由な連合の質」といった労働の質や生活の質を、社会主義は問うべきではなかったか。社会的生産を人間の本当の欲求にしたがわせるように再組織するにはどうしたらよいのか。そここそ悩むべきだ。
「愉快な労働」という言葉が頭に残る。「労働」という手ずれた暗い印象の言葉が楽しげによみがえる。私たち自身、企画、取材、執筆、割りつけ、校正、版下づくり、搬入、配達、郵送、帳簿つけ、ほとんど分業することなく三人で分担している。単調な労働を必要悪として片付けることなく、そこにいかに創造性を発揮するか。それが九年間の課題だった。
たとえば取材は何人かで行って、一人の原稿を叩き台に批評しながらつくる。素読み校正は朗読しながらインタビュー相手の声帯模写などをして楽しんでみる(ゴメンナサイ)。どんな順序で配達したら一筆書きでいくか工夫する。罫一つ引くのでも、今号では内容に合わせてウズラの足罫、田植え罫、フィルム罫、星降り罫なども面白がってこの手でつくりだしてみた。「単調と反復が自由と創造に逆転する秘密」を、私たちは味わいたいと思うのだ。
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