31代斎院 式子内親王
名前の読み(音) | 名前の読み(訓) | 品位 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
しきし・しょくし | のりこ | 准三宮 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
両親 | 生年月日 | 没年月日 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
父:後白河天皇(1127-1192)
母:藤原成子[高倉三位] (1126-1177) |
久安5年(1149) | 建仁元年(1201)1月25日 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斎院在任時天皇 | 在任期間 | 退下理由 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
二条(1158~1165,異母兄)、 六条(1165~1168,甥)、 高倉(1168~1180,異母弟) |
卜定:平治元年(1159)10月25日 (四条東洞院) 初斎院:不明(大膳職?) 本院:永暦2年(1161)4月16日 退下:嘉応元年(1169)7月24日 |
病 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斎院在任時斎宮 | 斎宮在任期間 | 斎宮退下理由 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
好子(1148?-1192,同母姉) 父:後白河天皇 母:藤原成子 |
卜定:保元3年(1158)12月25日 初斎院:不明 野宮:不明 群行:永暦元年(1160)9月8日 (長奉送使:宣房) 退下:永万元年(1165)6月25日 |
天皇譲位 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
休子(1157-1171,異母妹) 父:後白河天皇 母:平信重女 |
卜定:仁安元年(1166)12月8日 (右馬助大江信忠家) 初斎院:仁安2年(1167)6月28日 (大膳職) 野宮:仁安2年(1167)9月21日 群行:なし 退下:仁安3年(1168)2月19日 |
天皇譲位 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
惇子(1158-1172,異母妹) [堀川斎宮] 父:後白河天皇 母:藤原公能女 |
卜定:仁安3年(1168)8月27日 (綾小路猪熊家) 初斎院:嘉応元年(1169)5月9日 (一本御書所) 野宮:嘉応元年(1169)9月27日 群行:嘉応2年(1170)9月10日 退下:承安2年(1172)5月3日 |
薨去 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
号:大炊御門斎院、萱斎院、高倉宮 法号:承如法 同母兄弟:亮子内親王(1147-1216,斎宮,殷富門院) 好子内親王(1148?-1192,斎宮) 守覚法親王(1150-1202,北院御室) 以仁王(1151-1180,八条院猶子) ※休子内親王(1157-1171,斎宮)も従来同母とされてきたが、近年異説あり(下記参照)。 後白河天皇第三皇女。 母藤原成子(高倉三位)は、父後白河天皇の従姉。 (※成子の父季成と、後白河天皇の母待賢門院璋子が姉弟) 高倉三位22歳で第一子亮子内親王をもうけ、24歳で第三子となる式子が誕生した。 長らく生年不明で以仁王の妹とされてきたが、京都大学本『兵範記』断簡裏書(平松文書)で「御年廿一」とあることから、以仁より2歳上の姉であることが判明した。また『定家小本』(嘉応元年7月24日条)で従来「卅一」(=31代斎院の意)とされてきた箇所も、同じく「廿一」で年齢を表すものと訂正された。 なお式子の同母妹とされてきた休子内親王について、供瀬明美氏は『帝系図』の記述「前左衛門尉平信重女」や『愚昧記』(仁安2年9月21日条)の「母儀右馬助(平)信忠妹」から、休子の生母は平信重女(坊門局、実父は大江範資)であろうとしている。 参考図書: ・『日記が開く歴史の扉』(京都大学総合博物館, 2003) ※兵範記(断簡)嘉応元年7~8月の写真・釈文を掲載 参考リンク: ・上横手雅敬「範国記・知信記・兵範記」(京都大学学術情報リポジトリ紅) 参考論文: ・兼築信行「式子内親王の生年と『定家小本』について」 (『和歌文学研究彙報』(3), p11-12, 1994) ・供瀬明美「『明月記』治承四五年記に見える「前斎宮」について」 (『明月記研究』4, p125-135, 1999) ・米谷豊之祐「後白河院北面下﨟:院の行動力を支えるもの」 (初出:『大阪城南女子短期大学研究紀要』11, p67-119, 1976) ┌─────┐ | | 藤原季成 璋子=====鳥羽天皇 | [待賢門院]| | | | ├─────┬────┬────┐ | | | | | 藤原成子=====後白河天皇 崇徳天皇 禧子 統子 | | [上西門院] ┌────┤ ├─────┬────┬───┐ | | | | | | 好子 ◆式子 二条天皇 高倉天皇 休子 惇子 (斎宮) | (斎宮) (斎宮) | 六条天皇
式子を含む高倉三位腹の三姉妹は全員が斎宮・斎院となり、このうち長女亮子は安徳天皇・後鳥羽天皇の准母となり、院号宣下を受け殷富門院と称した。しかし次女好子は斎宮として下向した伊勢からの帰途で苦難を強いられ、三女式子も父後白河院の死後は不運続きであった。また二人の皇子も、守覚法親王は11歳で出家し、以仁王は親王宣下も受けられず、後に挙兵するも敗死しており、後白河院の子女でありながら平家全盛期は不遇なきょうだいであった。
なお式子ら姉妹の内親王宣下は10~11歳の頃で、いずれも斎宮・斎院卜定と同時であった。母高倉三位は女御に準ずる従三位に叙されたものの、終生正式な妃としての地位を与えられていない。また所生の皇子二人も、守覚法親王の宣下は出家後で、その弟以仁にはついに宣下はなかった。式子たち姉妹も卜定がなければ、あるいは宣下も受けられなかったかもしれない。 式子たち同母姉妹三人の卜定は年齢順と思われ、さらに異母妹の休子と惇子も伊勢斎宮に卜定されており、後白河の皇女たちの中で式子のみが唯一賀茂斎院となった。なお長姉亮子内親王は父後白河の斎宮となるも、後白河が在位三年で譲位したため、伊勢への下向なく退下している。 ※式子ら三姉妹のうち、好子内親王のみ生年不明だが、『山槐記』に以下の記録がある。 式子の初度御禊時の記録はないため、初斎院がどこであったかは不明だが、『山槐記』(永暦2年4月16日条)の初斎院御禊の道順についての記録に「其路出大膳職北門」とある。式子の前後に斎院となった30代怡子女王と32代僐子内親王は共に大膳職を初斎院としており、式子の場合も同様に大膳職を初斎院とした可能性が高いと思われる。 斎院退下後の式子は始め四条殿に、次いで三条第に住んだ。なお「三条第」は母高倉三位の実家高倉三条第(左京三条四坊四町。現在の京都文化博物館周辺)とされてきたが、高柳祐子氏の説では三条実房(式子の再従兄弟)の「三条万里小路邸」であろうとする(ただし斎院卜定前は、姉妹らと共に高倉三条第で成長したのであろう)。 その後は父後白河院の法住寺殿内(萱御所)や、また一時期(1184~1190頃)叔母八条院暲子内親王の下にも身を寄せたが、八条院とその猶子(以仁王姫宮、式子の姪)を呪詛したとの疑いをかけられる。このためか式子は押小路殿(白河押小路殿か)に転居、まもなく出家。法然と交流を結び、死の間際まで音信を交わした。 三条高倉第跡(2013年8月17日撮影) 石碑は東洞院通側北寄りにあり。地図はこちら。 父後白河院崩御により、大炊御門殿(左京二条四坊十町)・白川常光院と幾つかの荘園を遺領として譲られる。これらの財産は、当時准母立后や院号宣下を受けた他の不婚内親王に比べてそれほど豊かな方ではなく、また大炊御門殿は当時九条兼実が邸宅として住んでおり、明け渡しにも応じなかったらしい。このため建久7年(1196)の政変で兼実が失脚するまでの間、式子は主に後見・吉田経房(藤原定家の従兄弟)の吉田の別邸や、勘解由小路の本邸で暮らした(なお兼実失脚半年前の託宣事件では、一時洛外追放の処分に追い込まれかけている)。 建久7年暮から大炊御門殿に住み、これにより大炊御門斎院と号した(なお同8年(1197)3月に後鳥羽天皇が御幸した際は、一時吉田経房別邸に移っていた)。その後正治2年(1200)秋に、後鳥羽院の三男である東宮守成親王(のちの順徳天皇)を猶子とする話が出た。しかし当時式子は既に病(乳癌?)にあり、猶子は実現しないまま翌年薨去した(この結果、後に式子の長姉殷富門院亮子が順徳准母となった)。 京都市上京区の般舟院陵敷地内に残る塚の五輪塔が、式子の墓所と伝えられている。 ※京都市営バス【千本今出川】下車すぐ(駒札・案内板等はない。開門は平日のみ)。 伝・式子内親王墓所(2013年8月19日撮影) 【式子関係者系図】 藤原成子 * ┌─亮子[殷富門院] * | *────┼─式子 * | * └─以仁王─────姫宮(八条院猶子) ┌─後白河天皇 | * | *──────高倉天皇──┬─安徳天皇 | * | | 滋子[建春門院] ├─後鳥羽天皇──┬─土御門天皇 | | | ├─統子[上西門院] └─範子[坊門院] ├─順徳天皇(守成) | | └─暲子[八条院] └─昇子[春華門院] 【式子内親王と和歌】 歴史上あまり重視されることのない式子内親王だが、国文学では『新古今和歌集』に44首入集、家集『式子内親王集』を遺し、小倉百人一首にも入るなど、鎌倉初期を代表する女流歌人として名高い。とりわけ「忍ぶ恋」の歌を多く詠んだが、その思慕の相手が誰であったかは諸説あり定かでない(恋歌はあくまで題詠であり、実際の恋愛を詠んだものではないとの説もある)。 藤原俊成に師事し、彼の著作『古来風躰抄』は式子に奉られたと言われる(同母弟の守覚法親王とする説もある)。俊成の娘の前斎院女別当と龍寿御前も式子内親王家に仕え、特に龍寿は式子の没後もその墓参を続けた。また龍寿の同母弟・定家も親しく出入りした記録をその日記『明月記』に遺しており、このため式子の恋の相手は定家であると長く信じられて、謡曲「定家」の題材にもなった(岸部誠氏は、『明月記』の記述からは式子と定家が直接の主従関係にあったとは考えにくく、俊成が経房と共に式子の後見を担っていたものかとしている)。 現在では式子・定家の恋仲説を否定する研究者が多いが、ともあれ『明月記』の記述や『新古今集』に入集した歌の多さから見て、定家が優れた歌人としての式子を高く評価し敬愛していたのは確かであろう。 なお式子が東宮守成の准母に内定した理由について、三好千春氏は式子の歌人としての才能を認めた後鳥羽天皇が、それゆえに式子を東宮准母にふさわしいと見なしたためとしている(ただしこれは上記の通り、式子の病死で実現しなかった)。 詠歌:忘れめや葵を草に引きむすび仮寝の野辺の露のあけぼの(新古今集) ほととぎすその神山の旅枕ほの語らひし空ぞ忘れぬ(新古今集) 神山のふもとになれしあふひ草ひきわかれても年ぞへにける(千載集) みたらしや影絶えはつる心地して志賀の波路に袖ぞぬれにし(千載集) さりともと頼む心は神さびて久しくなりぬ賀茂の瑞垣(千載集) 身にしむは庭火の影もさえのぼる霜夜の星のあけがたの空(式子内親王集) 玉の緒よたえなばたえね長らへば忍ぶることのよわりもぞする(新古今集、百人一首) 斎院時代を詠んだ式子内親王の歌は、斎院であることに肯定的な内容のものが多いとされる(奥野陽子『式子内親王集全釈』『式子内親王』)。姉好子内親王は斎宮となって遠い伊勢へ下向し、その帰途でも苦難を極めたが、都近い紫野斎院に入った式子は荒れる世俗を離れたことで穏やかな少女時代を送り、退下後の苦難の中でかつての斎院時代を懐かしく回想することも多かったと思われる。 なお馬場あき子氏は、治承4年(1180)5月に式子の弟以仁が敗死したことに触れ、「式子は、この事件の後、かつてのように美しく時鳥を歌わず、さわやかに夏を歌うことをしなかった」と指摘し、「式子が、夏をなつかしく、美しく思い出すのは、斎院時代に限られていたということもできる」と述べている。 参考リンク: ・『式子内親王集』(国際日本文化研究センター) ・京都地方裁判所~大炊御門殿跡。発掘品の写真や式子についての説明もあり。 ※式子内親王の東宮准母計画については、「用語集」の考察を参照のこと。 参考図書: ・『式子内親王』(馬場あき子, ちくま学芸文庫, 1992) ・『式子内親王・永福門院』(竹西寛子, 講談社文芸文庫, 1993) ・『式子内親王集全歌注釈』(小田剛, 和泉書院, 1995) ・『式子内親王集全釈』(奥野陽子, 風間書房, 2001) ・『式子内親王』(平井啓子, 笠間書院, 2011) ・『式子内親王:その生涯と和歌』(小田剛, 新典社選書, 2012) ・『新古今集:後鳥羽院と定家の時代』(田渕句美子, 角川選書, 2010) ・『異端の皇女と女房歌人:式子内親王たちの新古今集』(田渕句美子, 角川選書, 2014) ・『式子内親王:たえだえかかる雪の玉水』(奥野陽子, ミネルヴァ日本評伝選, 2018) 参考論文: ・吉岡眞之「『平治元年十月記』」 (『古代文献の基礎的研究』吉川弘文館, p380-399, 1994) ・村井俊司「式子内親王の後見:吉田経房を中心として」 (『中京国文学』14, 1995) ・高柳祐子「晩年の式子内親王」 (『和歌文学研究』88, p16-27, 2004) ・三好千春「准母論からみる式子内親王」 (『女性史学』19, p15-31, 2009) ・奥野陽子「言葉集所収式子内親王周辺歌:高倉三位と前斎院帥の歌」 (『大阪工業大学紀要. 人文社会篇』56(2), p52-46, 2011) [機関リポジトリ全文あり] ・岸辺誠「藤原定家と式子内親王―後見という観点からの一試案―」 (『愛大史学:日本史学・世界史学・地理学』(24), p45-67, 2015) [機関リポジトリ全文あり] ※その他関連論文はこちらを参照のこと。 |
二条天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
兵範記 平治元年十月記 |
平治元年10月25日 | 【式子内親王、斎院卜定】 『兵範記』(嘉応元年10月20日条、32代僐子内親王卜定記事内) 平治元年十月廿五日乙亥、式子内親王卜定、 上皇(後白河上皇)々女、 二条院初、 『平治元年十月記』 初斎院令渡給、卜定御所給、出車進了、四條東洞院云々、 |
山槐記 | 永暦2年4月1日 | 【斎院司除目】 (前略)可被行初齋院司除目、仍人々申文書目六於折紙奏覽、仰云、早可申關白(藤原基実)、次以尹明給折紙、新大納言申中務丞遠範申兵部丞馬助事、 顯時顯長卿申正三位事、 (藤原)兼雅申四位事、 已上四箇條(平)清盛卿傳奏也、然而此事可然之由非奏聞、依爲人々申事申達也云々、此事可申關白、予申云、不可申院歟如何、仰云、早可申也、 次參大殿覽折紙、仰云、早可申院、 次申關白殿、仰同前、(後略) |
山槐記 | 永暦2年4月16日 |
【斎院(式子)初斎院御禊】 今日初斎院<院(後白河上皇)第三女(式子)、母儀三品(藤原)季子、高倉局是也>禊東河入御紫野院<所謂一条北本院也、>日也、藏人方事予日來申沙汰之、而去六日觸内裏穢了、<五體不具也、>穢中奉行神事太有恐、仍申事由仰付藏人少納言信範了、但可供奉諸司云々、行事所事申皆沙汰具了、雖不可有殊沙汰、臨事有可奏事者可無便宜之故也、一昨日猶可還奉行之由有敕命、然而近日左目小患、仍辭申了、又同有所存之故也、申刻爲見物密々立車於西洞院一條邊相待之處、日脚漸没事太微々、日入之後適行事官等渡晴、 先行事左少辨俊經駕車、<不切物見、黒鞦、>牛童縹濃◆冬衣、黄單、不出衣、 辨侍、 雜色六人、<白張不出衣、白衣、> 有笠持、 次外記中原長盛、<去十三日任、駕車不切物見、牛童香上下白衣、> 小舎人童淺黄、 雜色四人、 次史大江高重賀車、<已上局外記、但牛童香白裏縹衣也、又不相具小舎人童、> 行事官駕車渡晴不渡事、初齋院禊了先例不同、或説今度公卿騎馬前行、彼以前駕車似無便之故用閑路云々、 次御祓物一荷、<可列京職後歟、> 次左右京職等、 次五位前駆、<下●爲先、但行列太狼藉、一兩渡間擧松明、> 丹波守隆行、<小舎人童二人、萌黄◆冬衣、上★、雜色六人着白張、> 侍從有房、<小舎人童二人、朽葉萌木衣、無雜色、> 左兵衛佐實清、<小舎人童二人、二藍◆冬衣、随身二人、着蠻繪、指鞭、無雜色、> 治部権大輔國雅、<小舎人、雜色四五人、着白張、> 次四位、 右少將實宗朝臣、<随身二人、着蠻繪、差鞭、> 右少將基家朝臣、<随身二人同前、着白張雜色四五人在共、常陸介教盛朝臣歟、> 刑部大輔頼輔朝臣、<小舎人童、雜色四五人許、> 周防守隆輔朝臣、<小舎人童一人、雜色九人、> 次参議左近中將俊通卿、<随身四人、着蠻繪、負平胡▲、佐爲左用鷲羽、皆取松明、二人在馬前、二人在馬副後、馬副不取松、無雜色、> 右兵衛督顯長卿、<随身四人、着蠻繪負平胡▲、佐爲右用粛愼羽、皆取松明前行、馬副二人取松明在馬後、無雜色、> 次權中納言(藤原)實長卿、<馬副▼之外四人取松明、馬前後各二人也、無雜色、> 權大納言(藤原)光頼卿遅參在御輿後、▼外馬副皆取松明、二人左馬前、四人在後、雜色相具七八人、 已上和鞍付杏葉、<鞦皆有總、無用楚鞦之人、>着靴、 次々第使左馬助義憲、<随身二人差鞭取松明前行、小舎人童一人、雜色不着當色、> 次長官主殿高階爲清、<雜色一人取松明前行、凡着當色雜色皆可取松明歟、> 次御輿、<無腰輿之例也、> 次藏人所陪從可供奉歟、而早以前行、雜色二人渡車、今度依爲初齋院、雜色四人<〃〃〃橘信保、>衆二人、<大江隆守、藤景忠、>供奉也、存例先日雜色二人衆四人出納相催之、予下知如此也、 次一車、 次院司次官加判官等、 次敕使典侍車、<在前駈、督別當典侍、(平)清盛卿女子也、非渡祭之典侍者不具女房車例也、> 次行列右馬允歟、黒暗之間不見及、 次女別當車、 次宣旨車、<其内童女一兩也、> 次出車六兩、女房裝束、三兩紅匂、<二四五車、>一兩紫匂、一兩萌黄匂、 次馬寮車歟、 其路出大膳職北門、待賢門、宮城東大路北行、一條東行也、月出事了帰畢、 可尋記事、 一、牛御覽事、 殿下例獻一車牛給、出納仲政<二●也、一人闕也、禊祭行事五位出納也、>引肥牛、小舎人着布袴引之云々、 一、所陪從御覽事、 其儀同祭日云々、雜色信保遅參云々、已上頭辨雅頼朝臣候簀子云々、 一、扇使事、 行事藏人頼保云々、<一●判官也、> 一、敕使典侍參北陣哉否事、 一、垣下殿上人事、 一、采女催獻列爲禊幄哉事、 一、餝馬車、 一、三車鞦事、 殿下令獻給云々、 今日依爲凶會日、齋王(式子)不入御神殿云々、先例有凶會日禊、然而入御神殿否事無所見、仍以大殿御使行事左少辨俊經、同申中御門大納言、<宗能、>大納言殿兩人、中御門大納言被申云、密々後日以吉日入御可宜歟者、大納言殿令申給、可准群行例、後日入御可宜者云々、仍今日不入御云々、見廿八日記、 ●=﨟(臈の異体字。こちらを参照(字源)。 ◆=欵(款の異体字。こちらを参照(字源)) ★=絬(糸偏+舌。くくり。こちらを参照(字源)) ▲=籙(竹冠に禄または録。こちらを参照(字源)) ※「胡籙(やなぐい)」=矢を入れて携帯する武具。武官や随身が身に着けた。 ▼=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源)) |
山槐記 兵範記 |
永暦2年4月19日 | 【賀茂祭】 『兵範記』 賀茂祭、 上皇今朝自東山新御所、初御幸上西門院、前駈公卿以下殿上人直衣々冠人數々、儀式存晴、次密々御幸烏丸別當棧敷有御見物云々、但行事辨以下檢非違使等不下車馬、乍乘渡云々、 |
山槐記 | 永暦2年4月28日 | 【斎院(式子)初めて神殿に入る】 (前略)齋院始入御神殿云々、明日依凶會日不入御、去廿一日雖可入御本院有犬死穢、今日入給云々、 |
山槐記 | 永暦2年8月14日 | 【賀茂御祖社仮殿遷宮】 |
山槐記 | 永暦2年9月16日 | 【賀茂御祖社遷宮】 |
山槐記 | 長寛3年1月21日 | 【除目。斎院(式子)に申文一通】 除目始、 今夜不審事、院宮申文有十二通、近御[衛?]御給所十所也、其中大宮(藤原多子)不被獻、然者可有九通之處、院(後白河)八條院各二通、齋院(式子)一通云々、右大辨復座之後示曰、至此事宰相力不及、爲封、不知可留何文、仍皆獻之者、予答曰、於兩院(後白河、八条院)御申文實難進止、何爲至于齋院(式子)者非准后、更不可加院宮之中、不加封可付職事、可入公卿當年給之内歟、然者不可被取之歟、大丞尤可然之由緒、(後略) |
山槐記 顕広王記 |
長寛3年4月16日 | 【斎院(式子)御禊】 『山槐記』 斎王禊如例、 左兵衛佐雅隆、<小舎人童一人、二藍●冬衣、隨身二人、着蠻繪着[差?]鞭、無雜色、> 伊賀守資能、<小舎人童二人、萌黄●冬衣上括、雜色、六人着白張、> 左兵衛佐頼實、<小舎人、雜色四人、着白張、隨身二人、着蠻■■■[字数不明]> 右兵衛佐隆房、<隨身四人、着蠻繪負平胡◆、依爲右用肅羽、皆取松明前行、馬副二人、取松明在馬後、無雜色、> 次四位、 右少將■■■■■[字数不明]<隨身二人、蠻繪着鞭、> 右少(以下不明) [美]濃守■■■■■[字数不明]<■■■■■[字数不明]童一人、■雜色九人、> ■藏人五位六人、殿上六位二人、共兵衛尉爲前駈、■■■紅黄也、盡美麗也、■■■相具七八人、 皇后宮(藤原忻子)使權大進懷經、<淡路守也、> 引馬▲■■官人助弘、<公弘子息也、> 番長武助、<武道法師子息、> ■■■■■■■■■■[字数不明]不可用口取云々、 ●=欵(款の異体字。こちらを参照(字源)。 ◆=籙(竹冠に禄または録。こちらを参照(字源)) ※「胡籙(やなぐい)」=矢を入れて携帯する武具。武官や随身が身に着けた。 ▲=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源)) |
山槐記 顕広王記 |
長寛3年4月19日 | 【賀茂祭】 『山槐記』 ■■[賀茂?]祭如例年、 使右中將實守、■■■■■[字数不明] 重近、 兼頼、 兼任、 近種、 已上院(後白河)御隨身也、爲●大宮(藤原多子)使亮經盛朝臣、 兼國、兼成爲引馬●、■■■[字数不明] ●=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源)) |
六条天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
師守記 | 仁安元年4月24日 | 【賀茂祭】 |
山槐記 兵範記 愚昧記 |
仁安2年4月2日 | 【斎院出車定。賀茂祭・御禊の延引について】 『山槐記』 (前略)三條中納言曰、今日依可有齋院(式子)出車定、參本院之間、於路上頭辨<權右中辨(平)信頼朝臣也、禊祭行事云々、>送使曰、延引了者、仍廻車參内也、但可有前駈定、并供奉官可被任云々、六角宰相爲書之被祇候、禊祭上宰相也、而頭辨參内、定除目又延哉云々、(後略) 『兵範記』 (前略)巳剋着白重參齋院(式子)、依可有出車也、上卿<實房(右傍書)>三條中納言<齋院出事、(右傍書)>未被參、暫候客殿、鋪設饗饌如去年、奉行史信時同參入、此間長官有房稱女房仰、示云、去年七月奉仕故殿御事、一●中猶可有憚歟、公家沙汰異他、可有議定者、下官退出、(中略) <出車定、(右傍書)> 今日於本院出車定了、於仗座可申行前駈定由、兼雖經奏聞、依無本院定、申延了、 『愚昧記』 今日禊祭出車并禊前[駈]定、また平座也、依未刻束帯、先為定出車本院之間、於大炊御門堀川頭弁(平信範)<禊祭弁也>、雑色云、今日定延引了、 ●=闋(こちらを参照(字源)) |
山槐記 兵範記 |
仁安2年4月9日 | 【斎院(式子)御禊前駈定】 『兵範記』 參院門、禊祭供奉官未被任事、奏外記申状等、即爲御使參殿下、次歸參院、申御返事、 <禊祭、(右傍書)> 今日禊祭、上卿新中納言(中山)忠親、右中辨長方參齋院(式子)、定申出車事、次參内申行御禊前駈事、參議家通朝臣執筆云々、 但出車定辨書之、仍參議者不參本院、 |
兵範記 | 仁安2年4月10日 | 【斎院(式子)御禊除目】 依召參院門、可被行小除目事、奉仰豫仰官外記、又告申禊祭上宰相、任人事等注申文目録、先覽殿下(摂政松殿基房)、次奏院(後白河)、有御點事等、又注折紙申定了、其中可勤祭使之左馬助長[以下欠分] 左馬少允藤原爲信、 齋院判官源範澄、 權判官源久盛、 山城權守藤原邦康、<臨時内給、> 介大江久兼、<史、> 肥後權守藤原宗長、<臨時内給> 武藏介中原盛實、<同、> 敍位、 從四位平信範、<臨時、> 從五位下大江景良、<外記、> 大江久兼、 今夕大神祭使立如例、 |
山槐記 兵範記 愚昧記 顕広王記 |
仁安2年4月14日 | 【觸穢により、賀茂祭・御禊を延引】 『山槐記』 (4月14日条) 去月廿三日夜院中<法住寺殿、>有卅日穢、天下不可混合之由、雖被仰下、觸穢之輩十之及八九、依有其疑、於藏人所有御卜、藏人右衛門權佐(吉田)經房奉仰問之云々、時晴來申此旨、卜形書取之、 院中有穢氣、觸來内裏否、并被行賀茂祭如何、未刻參内府(藤原忠雅)、藏人權佐送書曰、禊祭延引了者、後聞、賀茂祭中山祭下酉日、日吉祭下申日、吉田祭擇吉日可行之由、藏人權佐書口宣、向左大臣(藤原経宗)亭下云々、 (4月15日条) 依穢御禊延引、子細昨日記、 (4月18日条) 依穢賀茂祭延引、子細見去十三日記、 『兵範記』 (4月14日条) 院中穢氣殊被誡仰、去朝平野梅宮祭等、守式日被行了、近日天下風已有不浄疑、禊祭難被行之由議定出來、藏人右衛門<(吉田)經房(右傍書)>權佐奉仰、禊祭<藏人所御卜、(右傍書)>延否尋問先例於外記、依不分明、於藏人所被行御占、陰陽頭(賀茂)在憲朝臣以下兩三人參入、推申不浄由、仍御占趣内覽攝政殿、次奏院、可延引由有仰、即詣<(藤原)經宗(右傍書)>左府、宣下禊祭可延引由、左府召大外記頼業眞人被仰下云々、 (4月15日条) <賀茂祭延引例事、(右傍書)> 御禊延引來二十七日云々、參院、於門外、如日來先奏事、可參上由伺御氣色之處、仰云、依不浄疑被行御占、依其趣雖延禊祭、至于内裏院中混合者、猶憚思食、不可參入者、仍不昇堂上、歸參殿下、申此旨、又参内披露了、 (4月18日条) 不出仕、賀茂祭延引日也、 『愚昧記』 禊祭延引云々 ●=螣(架空の蛇。こちらを参照(字源)) ▲=虵(虫偏+也。蛇の異体字。こちらを参照(字源)) ※螣虵=騰蛇(とうだ)。中国の伝説上の蛇。 |
山槐記 兵範記 愚昧記 顕広王記 |
仁安2年4月27日 | 【斎院(式子)御禊】 『愚昧記』 今日御禊也、為見物向一条大路、(藤原)朝宗・親宗同車、申終外記■■渡如常、弁長方也、而依為前駈騎馬渡、行列外記・史後、前駈等前也、今日前駈等左衛門佐(平信基)外皆以代官、如何々々 |
山槐記 兵範記 愚昧記 顕広王記 |
仁安2年4月30日 | 【賀茂祭】 『愚昧記』 爲見祭向白川尼公棧敷、入道在其後、事〃如常、但近衛使(藤原光雅)・中宮(藤原育子)使(源国雅) 等渡車、又有取物等、如何、有不審、春宮(憲仁親王)使(平教盛)不渡、存式法歟、 |
兵範記 | 仁安2年11月3日 | 【斎院相嘗祭】 齋院相嘗云々、 式部大輔(藤原)永範朝臣注進准后御了名字、 書様、 勘申、 御名字事、 專、 盛、 右勘申如件、 仁安二年<十一月三日、 式部大輔兼春宮(憲仁)學士藤原朝臣永範、> 即持參院(後白河)、付右兵衛督奏覽了、可有議定云々、 |
高倉天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
兵範記 | 仁安3年2月28日 | 【滝口大寄。斎内親王(式子)のこと】 (前略)今夕瀧口大寄事、兼日定日次并給人所々、被仰下名被獻名簿、今朝内覽、次奏院(後白河)、(中略) 齋内親王(式子)與白川准后上下有議、親王可爲上由、 大外記頼業眞人注申、公卿同議定畢、(後略) |
兵範記 | 仁安3年4月6日 | 【斎院(式子)不替奉幣告、御禊前駈定】 (前略)今日右衛門督(藤原)實國卿參著仗座、進發齋院不替給由奉幣使、參議(藤原)家通朝臣書使定文、即爲使參向、左中辨俊經朝臣奉行、下官申定仰上卿了、 俊經朝臣被聽昇殿、女叙位申文議定之間、家司可加職事座之故也、下官依院宣下之、次右衛門督(実国)被定申御禊前駈事、右兵衛督(平時忠)執筆、治部少輔奉行、 |
兵範記 愚昧記 餝抄 |
仁安3年4月15日 | 【斎院(式子)御禊】 『愚昧記』 <御禊(右傍書)> 昨日自殿示給云、明日有見物之志者、可來者、仍午刻許欲參仕之處、有遲參之命、即●參入、先是人〃多以參■■相乘予車向棧敷、左大弁以下多以扈從、有此棧敷能登守(藤原)頼實所相儲也、獻種〃破子等、又盃酌一兩<巡(右傍書)>及申刻齋王(式子)渡給、行事弁左少弁重方、<八葉車、有物見、懸赤鞦、多是君達弁所爲也、但爲地下之間、依可混合上官等如此歟、>前駈右兵衛佐(平)保盛<蠻繪随身二人、不具雜色、依度〃勤仕歟、>・左兵衛(平)通盛<随身二人、小舎人童二人、雜色、<朽葉■■■青打出衣付轅、有取物等、■[一]院(後白河)左番長中臣近武爲◆、褐衣、反付款冬花、>>・右衛門權佐(藤原)盛隆 <院右府生泰頼文相副、褐衣、反付■■扇、門部、二人火長、二人■■■■雜色白襖、取物四人、薄花田、>右[左]衛門佐(平)信基、不具雜色、■ ■昨日奉仰云々、日來(左衛門)權佐(吉田)經房可勤仕之儀也、而<皇(右傍書)>太后宮(藤原多子)使依可闕如、俄勤仕云々、仍被催改也、 『兵範記』 天晴、御禊、左衛門佐向騎馬所、下官依去夕勘氣、出行不存之間、大臣家牛、所前駈等御覽之間、藏人頭必候御前、而頭藏頭教盛朝臣依兵衛佐通盛前駈出立、不可參内云々、頭不候之條違例之由、號攝政仰、藏人少輔告送、無左右參入依有恐憚、内々啓皇太后宮(平滋子)、勘氣不重歟、是非罪過之故也、代始禁中儀違例不便之由有御返事、仍★參内、此間毎事集會藏人少輔行事、未剋主上出御、<垂南庇御簾、階當間敷大庄子圓座、此御馬御覽也、>此間教盛朝臣參入候第二間簀子、次牛御覽、攝政御牛也、出納盛俊牽之、近江山城肥牛十頭、御藏小舎人十人著布袴引之、前庭三匝畢引出畢、各奉齋院畢、次雜色二人所衆四人參入、先帶御覽、次騎馬、其儀如例、此間下官退出、故被召藏頭、御氣色尚不快歟、爲恐蟄居畢、 上卿右衛門督實國、 參議右兵衛督(平)時忠、 右少辨重方、<地下、> 中八葉車、緋鞦、 雜色白張白衣、 少外記中原宗尚、 右大史惟宗盛直、 前駈、 左衛門佐信基、垂纓冠、闕腋袍、二藍半臂下襲、紅 打衵、同張單、帷、巡方帶、木地螺鈿長劔、▲平緒、淺沓、院御馬、<葦毛、>沃懸地螺鈿鞍、小豹下鞍、連著鞦、泥障、<懸伏輪、>楝▲手綱、白差縄、<已上鞍皆入道大相國(平清盛)借給、>御厩舎人貞澤、二藍狩襖袴、山吹打衵、<不出、>青單衣、 居飼如常、 小舎人童二人、朽葉狩襖袴、青打衵、<不出、>生單衣、著藁沓、 門部随身二人、蠻繪袍、<熊文、>二藍半臂下襲、蘇芳末濃袴、濃打衵、同張單、布帶、藁脛巾、差鞭、紅打赤緒、<無文、>淺沓、 依卒爾不具雜色、不調渡車、加之去已年整式法勤畢、 尉平盛隆、 右衛門権佐盛隆、 尉藤原重季、 左兵衛佐通盛、 尉■■■ 右兵衛佐保盛、 尉源親■ ●=忩(公+心。怱の異体字。こちらを参照(字源)) ◆=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源)) ★=憗(こちらを参照(字源)) ▲=緂(糸偏+炎。こちらを参照(字源)) |
兵範記 愚昧記 百錬抄 餝抄 |
仁安3年4月18日 | 【賀茂祭】 『愚昧記』 <賀茂祭(右傍書)> 午刻參殿、即相乘予車令向棧敷、參仕人〃如一日、右大弁雖有招引不參、檢■[非]違使八人渡、皇太后宮(平滋子)使左衛門權佐(吉田)經房、亮・權亮等依故障■ ■勤仕之、●等、餝馬、<院右將曹秦兼頼、褐衣、襖袴、如常、付走馬、不置鞍、有指縄等、左府生同兼任、<候府、>裝束如先、付笙・横笛等、各相具袋、>引馬置<黒地鞍、虎皮切付、不染、蘇芳鞦、無鞍覆、>●、<右府生秦兼清、<殿下随身、>冠褐衣、反上下、紅打衣、付胡◆杓、件杓<如(右傍書)>銀、脛巾以白堅文紗爲巾、左番長中臣■■[近武]、■白唐綾上下、付■師裝束等、近衛使左近將(条範)■ ■、餝馬●、<左將曹中臣重近、如付風流、右府生秦頼文、<已上候院、>付龍王、>引馬<銀地鞍、青瑠瑠[璃]、雖置葵形、無鞍覆、>●、<左府生中臣末[季]■[近]、<院随身、>褐衣冠、普通引馬●普通有衣冠也、着褐衣事不足言等閑事云々者閑等事云々、右番長秦公景、花田上下、付夾形、>馬寮使(源)仲房、不具手振・雜式等、猶可相具雜色歟、内[「蔵」脱]寮又如此、近衛使車唐墻・唐花・螺等也、兼又如此、頗似稻荷祭笠車、■中■雜色二藍、付唐花、 『兵範記』 賀茂祭、山城介三善頼行、内藏助賀茂尚榮、近衛使左少將脩範朝臣、左馬助 皇太后宮權大進(吉田)經房、同女使權少進經仲出之、 中宮使少進光能依本宮穢不渡之、 『百錬抄』 (六条天皇) 賀茂祭也。 皇后宮使藏人左衛門權佐兼(皇太后宮)大進(吉田)經房 餝馬●<院右將曹秦兼頼<雖五位給將曹之條希代也>/同左府生秦兼國> 引馬●<殿下右府生秦兼清<自院召給之>/院左番長中臣近武> 近衛使左少將兼美濃守修範朝臣 餝馬●<院左將曹中臣重近<無風流>/同右府生秦頼文> 引馬●<殿下左府生中臣季近/院右番長秦公景> ●=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源)) ◆=籙(竹冠に禄または録。こちらを参照(字源)) ※「胡籙(やなぐい)」=矢を入れて携帯する武具。武官や随身が身に着けた。 |
兵範記 | 仁安4年2月12日 (嘉応元年) |
【斎院(式子)記事】 |
兵範記 | 仁安4年4月6日 | 【斎院(式子)御禊前駈定】 (前略)次右兵衛督(藤原)兼雅卿被定申御禊前駈事、修理大夫成頼卿執筆、 左衛門權佐(吉田)經房、 右衛門權佐盛隆、 右[左?]兵衛佐季能、 右兵衛佐雅賢、 此外尉并次第行列使不遑記録、(後略) |
兵範記 | 嘉応元年4月14日 | 【斎院(式子)出車定】 (前略)右兵衛督(藤原兼雅)被參齋院了、今日可有出車定云々、(後略) |
兵範記 | 嘉応元年4月20日 | 【斎院(式子)御禊。後白河上皇、高倉桟敷に臨幸】 自依甚雨、御禊也、午剋許參内、攝政殿(松殿基房)御牛并山城近江國牛等儲陣頭、出納并御藏小舎人十人<布袴、>同候、前駈雜色二人所衆四人參入、先給懷紙、此間雨脚不止之上、頭中將遲參、行事藏人奉仕御覽御裝束、<如御馬御覽、>待申彼參也、下官依非奉行、爲[向?]見物棧敷了、 藏人右衛門尉藤原親光隨身行事所扇等、參齋院(式子)、其儀如例云々、上皇(後白河)密々渡御權大納言高倉棧敷御見物、 行事官、 上卿右兵衛督(藤原)兼雅、 參議右大辨実綱卿、 右中辨長方朝臣、以下渡大路、 中八葉車、<切物見、打立縁、>赤鞦黑黄牛、<私、>牛童、<私、>著虫色狩襖袴、山吹衵、黄單、例遣繩、 辨侍貞時、<如例、> 雜色八人、薄色裏白狩襖袴、黄衵、生單、 少外記中原盛季、 左大史三善尚光、 次車三兩渡、 左衛門權佐、 讃岐兵衛佐、 土佐兵衛佐、 右衛門權佐不渡、土佐兵衛佐車雖雨下不張筵、但牛童令末仕差笠、 左衛門權佐(吉田)經房、<五位藏人、> 闕腋袍、赤色下襲、黑半臂、縮線綾袴、他事如例、院(後白河) 御馬御厩舎人著萌木狩襖袴山吹衣、 居飼如例、 ●院右府生秦頼文、著紺青仁紅打衣付白繩小魚等、 府隨身二人、蠻繪隨身二人、看督長四人、火長二人、<冠、>雜色六人、<白襖白衣、>取物四人、<花田白衣、> 尉源康信、 右衛門權佐盛隆、 尉源季國、 左兵衛佐季能、 尉藤原宗高、 右兵衛佐雅賢、 尉ーー兼宗、 次第使右馬助信業、 藏人所前駈長官等渡之間及秉燭、仍不見齋王御車以下、歸六條了、 ●=龓(有+龍。くちとり。こちらを参照(字源)) |
兵範記 | 嘉応元年4月23日 | 【賀茂祭】 <賀茂祭、(右傍書)> 天晴、賀茂祭、巳剋向典侍(平清子)出立所、<姉小路烏丸、典侍宰相中將(平宗盛)室家也、>先是新中納言、<邦綱、>六角宰相、<家通、>左京大夫<定隆、>被坐、頃之別當來坐、勘解由次官相共行事、此間童女二人著裝束、<清職雅亮令裝束、>屐子著八人、糸鞋著八人、同著装束、糸毛車立南庭、車副十二人、<著褐襖袴、藁脛巾、>手振廿人<●塵袍、襖半臂下襲、黄單衣、朽葉末濃袴、布帶藁脛巾、>等相從、次女房乘車、毛車四兩、々別四人乘之、 山吹匂、 紅打衣、 二藍表著出之、皆持扇、 童女毛車一兩二人乘之、<依納言車、懸下簾、巻上前簾、> 已上五兩、車副各四人、皆布衣、 次寄典侍車、先在反閇、在憲朝臣勤之、垂母屋簾、典侍坐其中云々、陰陽師與祿、藏人所前駈參集、依御物忌無御覽云々、内藏寮使助安倍有親參御湯殿方、内侍下給宣命、即使向列見了云々、 藏人文章得業生基光爲扇直視參齋院(式子)了云々、未剋典侍參陣、以西洞院面北門准北陣、向其門立糸毛車、行列次第、先掃仕丁、次前駈藏人判官資綱、散位信廣、美作守時家、越後守時實、刑部大輔信季、兵部少輔信國、勘解由次官親宗、左衛門輔信基、木工頭親雅、<已上下藤爲先、>此外次諸大夫六人同前駈、次典侍糸毛車、次手振廿人、<下臈取物、>次屐子著八人、次糸鞋著八人、次出車四兩、次童女車、糸毛以下攪放牛立榻、前駈列車邊、此次命婦藏人國司參入、同可連車、而遲參未見、仍令六位藏人奏事由、主上密々渡御北對東妻有御覽事、召入屐子糸鞋等也、別當宰相中將被候、下官以下雲客四五輩同候、次賜典侍祿褂一領、藏人取之、寄糸毛邊、女官受取了、次被向列見了、此間親昵人々猶騎馬前駈、次下官向棧敷了、次近衛府使右中將(藤原)實宗朝臣率行列參内、依御物忌、雖無御前儀、<雖無御前儀賜紅打御衣、(右傍書)>奏事由之時賜紅打御衣、是爲路頭見目云々、近例也、 ●=麴(麹の異体字。こちらを参照(字源)) |
兵範記 | 嘉応元年4月24日 | 【賀茂祭還立】 今日公事重疊之上、依祭還立無試樂、是天仁二年四月廿四日例也、(中略) 祭還儀如例、女使典侍去夜宿神主重忠朝臣堂廊、今日巳剋整行列、率參神ヤ館、連車入齋王(式子)見參、社司獻葵於齋王御所、即給祿、次奉典侍、<於車前付典侍、>又神主以下與祿、親昵前駈等及諸大夫取之、次向柏社了、下官向彼宿所訪申儀式、參内、不向神舘、以男共説注之、(中略) 今日無行幸試樂、寛治二年三月九日、代始八幡行幸、七日有試樂、天仁二年四月廿六日同行幸、廿四日賀茂祭還立之上、他公事等指合、被止試樂、今日准彼吉例無試樂、有御馬御覽事也、 |
兵範記(断簡) | 嘉応元年7月23日 | 【斎院(式子)病悩】 ■[廿]三日丁丑、(中略) 斎王(式子)俄御悩云々 |
兵範記(断簡) | 嘉応元年7月24日 | 【斎院(式子)退出】 早旦依召参院、仰云、斎王(式子)昨日未剋以後御悩■■■夜■■■■■■殿、其後(中略) 帰参奏殿下(藤原基房)御報、此次下官申云、斎王御退出由、可有奉幣歟、仰云、尤可然之、次第事等、可申沙汰之、代々例、遺尋大外記頼■行■、 或人云、斎王午剋御退出、院御車、前駈諸大夫三四人■■左兵衛督(藤原成範)扈従渡■■■■■■宣旨家了云々、 検非違使左衛門尉大江遠業■■■■■■依院宣、斎王出御之間、禁制■■■■■■ 【裏書】 ■斎王、高倉三位(藤原成子)腹、御年廿一 |
兵範記(断簡) | 嘉応元年7月25日 | 【斎院(式子)退出後の報告】 ■■[廿五]日己卯、(中略) 次下官参殿下(藤原基房)、申斎王(式子)退出、斎王昨日退出之後、夜間別事不坐云々 |
皇帝紀抄 | 嘉応元年7月26日 | 【斎院(式子)退下】 高倉院(中略) 斎院。式子内親王。<如故。嘉応元年七月廿六日。依病退下> |
兵範記(断簡) | 嘉応元年8月3日 | 【斎院(式子)退下のこと?】 早旦参院、申斎院(式子)之定間事■■■■■■就 |
兵範記(断簡) | 嘉応元年8月6日 | 【斎院(式子)退下の賀茂社奏上文草案】 ■■草 天皇<我>詔旨<良万と>、掛畏<支>某皇大神<乃>広前<尓>、恐<美>恐<美毛>申給<辺と>申<久>、皇太神<乃>阿礼<乎止女>御■[杖]代<尓>令侍<留>式子内親王、身<乃>安<美>有<と之弖>、去月廿四日<尓>、退出<勢利と>聞食<之>、驚給<不古と>、叡襟無聊<之>、若是神慮<乃>所許<カと>思食<シ弖奈弖>、故是以、官位姓名<乎>差使<之>、礼代<之>大幣<乎>令捧持<弖>、奉出給<布>、斎内親王<波>、令卜食、定<弖>卜<尓>令■、内親王退<弖>可進状■■■■■■■■■■■■給<覧と>令申給<布>、皇太神平<久>聞食<勢と>、恐<美>恐<美毛>申、 嘉応元年八月 日 |
兵範記 愚昧記ほか |
嘉応元年10月20日 | 【僐子内親王斎院卜定】 『兵範記』 (前略)今斎王(僐子)、二条先帝皇女、母当時大博士(中原)師元朝臣女。 彼院御宇官仕、斎王御年十一歳、卜定并次第行事、准寛治三年令子太后、平治元年<先斎院式子>例、可奉行由、預被仰下左大臣了。 十月卜定例、 貞観元年十月五日丁亥、儀子内親王卜定、 文徳天皇々女、 清和天皇初、 康和元年十月廿日戊午、禛子内親王卜定、 白川院皇女、 堀川院御宇、 平治元年十月廿五日乙亥、式子内親王卜定、 上皇々女、 二条院初、 寅日卜定例、 天延三年六月廿五日丙寅、卜定選子内親王、 斎王間歴五代、 最吉例也、 天仁元年十一月八日丙寅、是殊吉例也、 此間延喜三年、承平元年、長元九年在其例、併吉例云々。(後略) |
愚昧記 | 安元3年1月1日 (治承元年) |
【前斎院(式子)へ拝賀】 (1月1日条) <参院事(右傍書)> 千秋万歳幸甚〃〃、未刻着束帶<諒闇、>參向殿、則相率參院、(中略) <參前齋院(式子)事(右傍書)>■[歸]家之後、及秉燭着直衣<吉服、>參前齋院(式子)、先於■■[西廂]謁女房、次依女房命參東■[對]舎、先■■[見小]兒(実房二女)、<■[小]兒戴餅事(右傍書)>次於同屋東庇■■[面妻]戸、有小兒■■[戴餅]事、別當局<(藤原)俊盛卿女、(右傍書)>抱之、左衛門佐<家行女、>持餅、 (1月2日条) (前略)次參齋院(式子)、有戴餅事、其後退出歸家、(後略) |
愚昧記 | 安元3年2月24日 | 【前斎院(式子)へ参向】 (前略)入夜參前齋院(式子)、依聞小兒(実房二女)病悩之由也、次歸家、 |
愚昧記 | 安元3年3月11日 | 【母高倉三位(藤原成子)薨去】 (3月12日条) 傳聞、高倉三品(藤原成子)去十一日暁薨逝云々、歳五十二云々、臨終甚吉云々、十念不誤云々、可尊々々、同暁移丘崎堂了云々、是判眼行仁堂也 |
愚昧記 | 安元3年7月25日 | 【斎院(式子)へ参向】 參院、于時朝座説■[法]之間也、兩座了取布施、則退出之歸參前齋院(式子)、依聞煩給邪氣之由也、謁女房別當局(藤原俊成女)了、參向殿、則退出了、(後略) |
愚昧記 | 治承元年10月28日 | 【功子内親王斎宮卜定。斎院式子先例】 |
愚昧記 | 治承元年12月9日 | 【斎院(式子)へ参向】 (前略)入夜着直衣、先參女御殿(藤原琮子)、其後參向齋院(式子)、是二女魚味之故也、前物<臺六本・盤二枚、銀器、>并女房衝重<廿前云々、>等、(藤原)行國所調也、役料、(源)盛信・泰貞・俊宗・朝行・仲信・(源)通清等參仕、 |
山槐記 | 治承3年1月10日 | 【東宮帯刀給所を宣下】 |
安徳天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
玉葉 山槐記 明月記 |
治承4年5月15日 | 【弟以仁配流】 『山槐記』 (前略)亥剋自京下人走來云、高倉宮(以仁)、<一院(後白河上皇)御子、故高倉三位腹、新院(高倉上皇)御兄也、>有配流事、只今檢非違使兼綱、<大夫尉、>光長向三條北高倉西亭、武士等圍之者、後聞、今日可有免物之由被仰下、仍官人等着冠參陣、<大内、>三條大納言<實房、>依召參内、實者無免物、被仰下宮(以仁)御事、仍官人忽召寄烏帽、於陣邊着之、晩頭參向彼宮之處、皆閉門、無答之人、仍光長令踏開高倉面小門之間、左兵衛尉信連射之、被疵者有兩三人、宮不御坐、早以令遁出給畢云々、今夜猶武士圍之、女房等裸形東西馳走、可悲々々、抑彼宮御名以仁也、而仁字有憚之由有沙汰、改仁字、爲光字被仰下云々、宮乘張藍摺之輿、令持幣、如物詣人令向寺給云々、或云、着浄衣御騎馬給、又乘馬者有二人、御共人凡四五人云々、未知一定歟、渡御平等院寺也、(後略) 『明月記』 (5/16条) 今朝伝聞、三条宮(以仁)配流事、日来云々、夜前、検非違使相具軍兵、囲彼第<賜源氏之姓、其名以光云々>、先是主人逃去<不知其所>、同宿前斎宮<亮子内親王>、又逃出給、如漢主出成皐与勝公共車歟、巷説云、源氏入園城寺、衆徒等槌鐘催兵云々、平中納言頼盛卿、参八条院、捜検御所中、申請彼孫王(道尊?)、依遅〃、及捜求云々、良久孫王遂出給、重実<称越中大夫>一人相随、但納言相具向白河、宮出家云々、 一昨日、法皇、自鳥羽、渡御八条坊門烏丸<八条院旧御所云々、> ※孫王については異説あり(『明月記研究(4)』「「彼孫王」について」)。 |
玉葉 山槐記 |
治承4年5月22日 | 【源頼政戦死】 『山槐記』 今曉源三位入道<頼政、>卒、男伊豆守(源)仲綱以下五十餘騎向三井寺、參高倉宮(以仁)云々、聞可蒙罪之由、仍逃去云々、行舜律師來云、昨日朝園城寺僧綱等赴如意嶺逃歸、衆徒全不用敕定、不可奉出宮云々、(中略) 戌剋自大内行幸八条坊門櫛笥二品亭云々、(中略)行幸之間東北方有火、頼政入道家<近衛南、河原東、>云々、曉逃去、不令爲見其跡、自令指火云々、(後略) 『明月記』 今朝云々説、(源)頼政卿<入道、年七十七>、引率子姪、入三井寺云々、今夕、俄行幸八条坊門匣亭、新院(高倉上皇)又遷御于東第、北方有火、頼政卿家放火云々、 |
玉葉 山槐記 明月記 ほか |
治承4年5月26日 | 【弟以仁王敗死】 『山槐記』 (5/26条) 去夜半許高倉宮(以仁)出園城寺、令向南都給、日來延暦寺衆徒有同心之疑、而昨朝座主僧正明雲登山制止此事、一向承伏、聞此旨忽被向南都云々、又日來有同心之聞也、聞其告、飛騨守景家上總守忠清等發向宇治之間、宮先渡橋給、彼方甲兵引橋、景家責寄於橋上合戰之間、忠景又追來、伴類十餘騎作時、打入馬於河中、橋上方有渡瀬、或又雖深淵、以馬筏郎等二百餘騎渡河、於平等院前合戰、景家得頼政入道頸、忠清得兼綱、<大夫尉、>頸、平等院廊自害者有三人、其人一人着浄衣無頸、有疑、頼政男伊豆守仲綱死生不詳、又宮(以仁)遁入南都給云々、藏人頭(平)重衡朝臣、左少將(平)惟盛朝臣追向宇治、各不構城郭之前直可進責者、忠清等云、臨晩着南都之條、可有思慮、若人々不知軍陣之子細、所被示也、不可然者、仍相具首卅餘、返洛、在前右大將<(平)宗盛、>亭、<八條北、高倉東、>予着直衣、辰終剋馳參親院(高倉上皇)、<八条坊門南、大宮西、主上御西町、>公卿五六輩、殿上人十餘人參入、予參入之後多以參入、七條邊武士有五十餘騎、門内外無武士、合戰之間事一定未聞其説區分、午剋惟盛朝臣<衣冠、重服着橡袍、>自東門方參入、重衡朝臣<着冑、>自西門方參入、惟盛朝臣所語子細大慨如右、巳剋許叡山衆徒參御方在祇園、隨仰可發向之由申云々、暫可候之由被仰下、亦召藏人頭左中辨(吉田)經房朝臣、於新院御前被仰云、可候警固、經房朝臣申云、如此之時不及宣下、武官可存知歟、然而猶可問外記之由奏聞、於西南方問之、歸參申云、非常警固各可存知、不可被宣下者、仍經房朝臣告旨於人々、及申剋藏人左少辨行隆奉仰云、人々明日有可議定事、巳剋可參入者、此後諸卿退出、(後略) 『明月記』 謀反之輩、引率三井寺悪徒、夜中過山階、赴南京、官軍追之、於宇治合戦、遂奔至于南京、賊徒多梟首、蔵人頭(平)重衡朝臣・右少将(平)惟盛朝臣、帰参献俘云々、有夾名、 |
明月記 | 治承5年1月3日 | 【藤原定家、式子三条第へ初参】 (前略)次参三条前斎院(式子)<今日初参、依仰也、薫物馨香芬馥>(後略) |
明月記 | 治承5年9月27日 | 【藤原俊成・定家、萱御所斎院(式子)へ参上】 入道殿(俊成)、如例引率、令参萱御所斎給[院](式子)給、有御弾筝事云々、 |
玉葉 愚昧記 山槐記 吉記 一代要記 ほか |
寿永元年8月14日 | 【姉亮子内親王、安徳天皇皇后宮に冊立】 『山槐記』 (8/22条) 今日有政、皇后宮(亮子)御封請求印云々、 <去十四日立后、>、傳聞、皇后宮權大夫、<實方、>左大辨宰相、<經房、>左少弁光長、少納言仲家參入、上卿遲參之間及戌剋、(後略) 『一代要記』 (安徳天皇 後宮) 皇后 亮子<寿永元ー八月十四日立之、前齊宮、准國母、爲御禊同輿也、文治三ー六月 [廿八]日號殷富門院、> |
安徳天皇・後鳥羽天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
吉記 | 寿永2年11月20日 | 【上西門院(統子)・皇后(亮子)、五辻御所に渡御】 『吉記』 上西門院(統子内親王)可有臨幸五辻御所之由、自前斎院(頌子)有其仰、仍逐電参上、申尅、女院、皇后宮(亮子内親王)、前斎院(式子内親王)等、御同車渡御、偏略儀也、宮大夫、<御車寄、>右京大夫光雅朝臣、基宗朝臣等扈従、以御堂御所為御所、予加検知、謁人々之後、晩頭退出、于時別當宮権大夫等参入、 |
吉記 | 寿永2年11月26日 | 【女院(上西門院)と両宮(亮子・式子)、斎院(頌子)の五辻御所に渡御】 午時許参院、<五條殿、>(中略) 次參五辻宮、今日女院(上西門院)両宮(亮子・式子)令同宿斎院(頌子)御方給、<日来御坐御堂御所、>鋪設雑事御菓子等類、 <「鋪設已下奔筥事、」> 予一向奔營、予遅参之間、先令催参子息令行之、折節如大宮、人以嗟嘆云々、院宮以御輿渡御、予入夜退出、 |
吉記 | 寿永2年12月17日 | 【三条前斎院(式子)、八条院に同宿】 (前略)次参八条院。三条前斎院(式子)、御同宿。入両方見参退出。(後略) |
吉記 | 元暦2年1月3日 | 【吉田経房、後白河上皇・八条院・前斎院(式子)に拝賀】 (前略)先参院(後白河)、八条院・前斎院(式子)等御同宿云々。入女房見参。(後略) |
後鳥羽天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
吉記 | 元暦2年7月12日 | 【大地震。前斎院(式子)、八条院と共に被災】 (前略)地震猶度々有。午剋先参最勝光院。(中略) 次参八条院。御所皆悉傾倚。内作併破損。当時女院并前斎院(式子)御北対前庭。打屋取儲御ー有事也。(後略) |
山槐記 | 元暦2年8月10日 | 【前斎院(式子)、准后の御封】 (前略)又有内文、別當<家通、>行之、前齋院(式子)准后之御封事云々、 |
山槐記 | 文治元年8月14日 | 【前斎院式子、後白河法皇御所へ渡御(同日改元)】 (前略)頭右大辨光雅朝臣示送曰、今夜前齋院(式子)准后之後初可渡御院(後白河)御所、人々可被扈從、(中略) 次參八條院、<八條北、烏丸東、八條院御所、東洞院面爲前齋院(式子)御方、>前齋院<故高倉三位腹、法皇御女、>准后之後初渡御院御所、<六條北、西洞院西、>頃之寄御車、<院御車也、物見上有庇、袖網代也。>御車副不賜當色、出車三兩、殿上人車也、予、大宮中納言、<實宗、網代車、>左兵衛督、<頼實、>平宰相<親宗>扈從、左武衛候御車寄、殿上人十餘輩前駈、左將曹中臣近部<黄木賊上下、帶釼、立烏帽子、>在御車後、出車於院在六條面築垣外、御車入東門、奉寄寝殿南階、下御之後予逐電歸東山、(後略) |
玉葉 姉言記 百錬抄 一代要記 |
文治3年6月28日 | 【姉亮子内親王、殷富門院の院号を受ける】 『百錬抄』 被定院号。皇后宮(亮子内親王)為殷富門院。 『一代要記』 (安徳天皇 後宮) 皇后 亮子<寿永元ー八月十四日立之、前齊宮、准國母、爲御禊同輿也、文治三ー六月 [廿八]日號殷富門院、> |
愚昧記 | 建久元年1月3日 | 【三条実房、各所へ拝賀】 今日中将令申慶於所々。予相具参内。(中略) 次参院<此次、殷富門院御同宿>、次八条院<前斎院(式子)同所>(後略) |
明月記 | 建久3年3月10日 | 【前斎院(式子)女房達、定家を訪問】 前斎院(式子)女房達<女別当・大納言殿>被来、臨昏帰参、(後略) |
玉葉 明月記 百錬抄 |
建久3年3月13日 | 【父後白河法皇崩御。御領を処分】 『明月記』 (3月13日条) 未明、雑人云、院(後白河)已崩御、或説云、亥刻許御気絶了、而被秘之間、人不知云々、(後略) (3月14日条) (前略)人々云、殷富門院御処分 押小路殿<彼御後、可為主上御領> 宣陽門院<六条殿・長講堂已下事、庄〃等> 前斎院(式子)<大炊殿・白河常光院、其外御庄両三被分奉云々、> 前斎宮(好子) 花園殿<仁和寺> 法住寺殿・蓮華王院・六勝寺・鳥羽等、惣可為公家御沙汰、即宝倉以下、被付殿下御封云々、(後略) 『百錬抄』 寅時法皇(後白河)崩于六條殿。 |
明月記 | 建久3年3月23日 | 【斎院(式子)御方へ参向】 参院<布衣、>(中略) 即参斎院(式子)御方、相次参七条院、又参八条院、(後略) |
明月記 | 建久3年4月20日 | 【殷富門院(亮子内親王)御仏事】 (前略)又帰参六条殿、殷富門院御仏事也、導師澄憲、(後略) |
明月記 | 建久3年4月21日 | 【仁和寺宮(守覚法親王)・宣陽門院御仏事】 辰時許参院<束帯>、仁和寺宮(守覚)御仏事也、講師澄憲、公卿已下取布施、(中略) 宣陽門院御仏事、又取布施、(後略) |
明月記 | 建久3年4月28日 | 【定家、式子に水晶の念珠を献上】 (前略)今朝、進水精念珠十二於前斎院(式子)御方、(後略) |
明月記 心記 |
建久3年4月29日 | 【斎院(式子)・斎宮(好子)・仁和寺御弟子(道法)法親王御仏事】 『明月記』 (前略)今日、斎院(式子)・斎宮(好子)・仁和寺御弟子法親王(道法)御仏事、衣冠・布衣相交云々、 |
明月記 | 建久3年4月30日 | 【八条院・殷富門院・宣陽門院・諸親王御仏事】 午時許参六条殿、八条院御仏事なり、殿上人殊以不参、朝参布衣之輩多云々、素服公卿等評定、殷富・宣陽両院御仏事日、布衣不交、諸親王御仏事、布衣・冠相交、(後略) |
玉葉 | 建久3年5月1日 | 【後白河院処分のこと】 前斎院(式子)可被渡此亭<依法皇処分也>、云々、仍以兼親為使、触遺右大臣並経房仰<件卿、為彼斎院後見云々> |
玉葉 明月記 心記 |
建久3年5月2日 | 【斎院(式子)、吉田経房邸へ転居】 『明月記』 (前略)斎院(式子)遷御戸部(吉田経房)吉田、殿上人騎馬供奉云々、下官献出車了、基宗兄弟今夜帯剱、 |
吉部秘訓抄 | 建久3年6月30日 | 【斎院(式子)、六月御祓を行わず】 |
吉記 (吉部秘訓抄) |
建久3年7月27日 | 【前斎院(式子)、南亭へ転居】 前斎院(式子)、遷御南亭<予、日来居侍方也>。築改築垣、塗腋壁。貴人、渡御凡人家、雖一両日留御之時、先例必塗之。近代上下、忘礼、絶而無此事。先人、七条亭法性寺殿渡御之昔、被塗之。仍申合内府<(中山)忠親公>之処、去元三、寄宿左大弁<(藤原)定長>之許、雖示可塗之由、家主好倹約、不承引。令塗之条、不可及異議之由、被答之。仍塗之。前庭掘小池、構秋野、出居并南面押色紙形。内府<忠親公>・按察使<(藤原)朝方>・藤大納言<実家>等、書客殿色紙形、南面平中納言<親宗>・新宰相< (藤原)光雅>、右大弁<定長>・伊経朝臣等書之。 |
吉記 (吉部秘訓抄) |
建久4年3月8日 | 【斎院(式子)、後白河院一周忌(13日)に行啓】 前斎院(式子)有行啓。入御西門<不放御牛>并南向中門、藤宰相中将<公能>候御車寄。 |
加行事 | 建久5年6月5日 | 【前斎院(式子)、道法法親王(異母弟)に十八道を受ける】 北院御室日記云、同(建久五年)六月五日、甲午、宮(道法法親王)被詣前齋院(式子)御所、<勘解由小路信房卿宅、>被奉授十八道次第、有御贈物、<水精念珠一連、付銀蓮枝、> |
明月記 | 建久5年11月11日 | 【定家、斎院(式子)に参向】 暁騎馬、見白川方、参梶井宮、見参退出、 卯時許、参歓喜光院、(中略) 参大炊殿、又参斎院(式子)、帰家、 |
明月記 | 建久5年11月25日 | 【定家、斎院(式子)に参向】 (前略)入夜参大炊殿<殿下御九条殿>、謁女房、参斎院(式子)、(後略) |
明月記 | 建久7年6月9日 | 【定家、勘解小路殿(経房亭)に参向】 巳時、参内大臣殿(九条良経)、御共参大炊殿(兼実邸)、(中略) 参勘解殿、臨昏帰参殿、(後略) |
明月記 | 建久7年6月16日 | 【定家、勘解小路殿(経房亭)に参向】 入夜参殿、今夜御参内云々、(中略) 参勘解殿、入夜退出、(後略) |
明月記 | 建久7年6月17日 | 【勘解小路殿(経房亭)に鵺の風説】 去夜、勘解小路殿●鳴云々。仍可令立給之由、人〃申之云々、 ●=鵼(空+鳥。ぬえ(鵺)。こちらを参照(字源)) |
明月記 | 建久7年6月18日 | 【定家、勘解小路殿(経房亭)に参向】 夕参勘解殿、(後略) |
明月記 | 建久7年6月19日 | 【前斎院(式子)、七条坊門大納言局旧宅に移御】 巳時参大炊殿、御共参内、(中略) 今夜、斎院(式子)、密〃渡御七条坊門大納言(式子女房。定家の姉龍寿御前)旧宅、依無其所、戸部(吉田経房)可然由<被>申云々、(後略) |
平戸記 | 建久7年12月20日 | 【前斎院(式子)、大炊御門殿に移御】 |
皇帝紀抄 | 建久8年3月 | 【橘兼仲夫妻、妖言により流罪】 (後鳥羽) (建久)八年三月之比。藏人大輔橘兼仲并妻女。依謀計事。被配流國々。又一心房上人歡心依同意事。被召禁武士許。前齋院式子内親王<後白川院皇女。>同意此事之間。不可坐洛中之由。雖有沙汰。有議被止了。 |
玉葉 猪隈関白記 |
建久8年3月16日 | 【後鳥羽天皇、閑院内裏より前斎院(式子)御所(大炊御門殿)へ遷御】 『玉葉』 従閑院、遷御大炊御門斎院(式子)御所云々。或云、為蹴鞠云々。或云、有御夢想事、但秘蔵云々。 『猪隈関白記』 (前略)今夜行幸於前斎院(式子)大炊御門第云々、殿下例參給、 |
源家長日記 | 建久8年3月20日? | 【後鳥羽天皇、蹴鞠のため大炊殿(式子邸)へ行幸】 (建仁元年) (前略)ひととせやよひの廿日ごろに、御まりあそばさせ給とてにはかに御幸[行幸の誤り?]侍りしに、庭のはな跡もなきまでつもれるに、松にかかれる藤、まがきの内の山吹、心もとなげに所々さきて、みやうがうの香の花の匂ひに争ひたるさま、御ぢ仏堂のかうのかもを[お]とらずにほいいでて、世をそむきけるすみかはかばかりにてこそはすみなさめと、心にくく見え侍りき。(後略) |
猪隈関白記 | 建久8年4月30日 | 【後鳥羽天皇、大炊御門殿(式子御所)より閑院内裏へ還御】 (前略)此夜天皇(後鳥羽)自大炊御門殿還御御閑院也、(後略) |
明月記 | 建久9年1月6日 | 【叙位。式子内親王年給】 (前略)従五位下(中略) 平仲忠<式子内親王当年給>(後略) |
明月記 | 建久9年1月7日 | 【前斎院(式子)、吉田殿に移御】 (前略)去五日、被申渡御之由於斎院(式子)、仍又渡給吉田云々、(後略) |
猪隈関白記 | 建久9年1月9日 | 【後鳥羽天皇、大炊御門第へ遷幸】 今夜天皇(後鳥羽)自閑院行幸於大炊御門殿(式子御所)、是明後日可有御譲位事新帝(土御門天皇)可御坐閑院之故也、殿下供奉給、 |
猪隈関白記 明月記 ほか |
建久9年1月11日 | 【後鳥羽天皇譲位、土御門天皇践祚】 『猪隈関白記』 此日天皇(後鳥羽)有譲位第一皇子(為仁親王)事、<年四歳>、(後略) 『明月記』 (1月8日条) (前略)今日云々説、明夕行幸大炊殿(式子御所)、十一日暁行幸大内、其日譲位、其夜御幸大炊殿、(後略) |
土御門天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
明月記 | 建久9年1月15日 | 【定家、吉田殿に参向】 午時許参吉田殿、申時許退出帰家、日入了、入夜参八条殿<依一品宮御節供也>、(後略) |
明月記 | 建久9年1月20日 | 【定家、吉田殿に参向】 (前略)参吉田殿、即帰家、依病気不快、不参他所、 |
猪隈関白記 明月記 |
建久9年1月21日 | 【後鳥羽上皇、三条殿へ御幸】 『明月記』 今日、大上天皇(後鳥羽上皇)初度御幸云々、路大炊御門西行、東洞院南行、三条西行、可入御三条殿<烏丸西>東門云々、(後略) |
明月記 | 建久9年2月24日 | 【前斎院(式子)、定家に桜の木を下賜】 巳時許、参上大臣殿、御参<(藤原)有家朝臣御共>、其後向坊門、又参三条<入道殿>、見参之後、帰坊門、(中略) 今日請并[斎?]院(式子)桜木、栽此宅、(後略) |
猪隈関白記 吉大記 師直記 |
建久9年4月21日 | 【後鳥羽上皇、大炊御門殿から新造二条殿へ移徒】 |
明月記 | 建久10年1月5日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に拝賀】 (前略)午時許参宮、相次参八条院、今年御給、(中略) 参大炊殿(式子)、申時許参三条、昏退出帰宅、(後略) |
明月記 | 建久10年1月23日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 参角殿、見参之後退下、参大炊殿(式子)、奈良僧都出京、在近辺宿所云々、行向相謁、権別当不被補事、無術計由被語、申時許退出、 参八条殿、入夜参宮、(後略) |
明月記 | 建久10年1月26日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 早旦、参角殿退下、午時許参大炊殿(式子)、謁僧都<於北宿所(右傍書)>、入道殿令渡給、申承退出、参八条殿、昏帰、(後略) |
明月記 | 建久10年2月5日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 午時許、参大炊殿(式子)、<夕(右傍書)>参宮、 |
明月記 | 建久10年2月26日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 依召参御堂、聊蒙仰、相次参八条院、又参大炊殿(式子)、(後略) |
明月記 | 建久10年3月4日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 巳時許、参大炊殿(式子)、昏依召参角殿、見参、深更退下、(後略) |
明月記 | 建久10年3月17日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 早旦参大炊殿(式子)、午時許帰、申後参上<御堂(右傍書)>、(後略) |
明月記 | 建久10年4月18日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 (前略)先参大炊殿(式子)、昏黒帰九条、(後略) |
明月記 | 建久10年4月26日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 <巳時許参大炊殿(式子)、未時帰家(右傍書)> 静闍梨来、晴光来臨、(後略) |
明月記 | 正治元年5月1日 | 【式子発熱】 大炊殿(式子)女房告送云、雑熱事御之間、召医師等云々、 |
明月記 | 正治元年5月4日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向。式子平癒】 為上格子参宮、午時許退下、参大炊殿(式子)、御雑熱、■[昨]今無御増云々、(後略) |
明月記 | 正治元年5月12日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向。式子発熱】 巳時許、参大炊殿(式子)、御肩雑熱、自一日、止大黄、被付膏薬之間、又左御臂下〔被見出小瘡、〕仍又被付大黄云々、依此事驚参、〔女房云、但別事不候、〕(後略) |
明月記 | 正治元年5月20日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 参御堂、取布施退下、参大炊殿(式子)、未時許退出、依召■参上、於御前将碁、入夜退下、 |
明月記 | 正治元年5月29日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 参大炊殿(式子)、申時許帰家、入夜、宮女房参大炊殿<達(右傍書)>被入云々、(後略) |
明月記 | 正治元年6月10日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 巳時許、参大炊殿(式子)、申時帰家、 |
明月記 | 正治元年7月9日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 午時許参大臣殿、(中略) 酉時許参大炊殿(式子)、戌時許退出、参八条殿、又参宮退下、(後略) |
明月記 | 正治元年7月18日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 辰時許参大臣殿、巳一点御出、令参院給、(中略) 参大炊殿(式子)<資家少将在御供、仍事不可闕>、良久雑色奔来、告御退出之由<令参御所給云々>、即乗車、大炊御門西行、於二条壬生奉仕待御車、■御供殷富門院<仁和寺安井殿>、小時退出、漸及西日、車中如焼、大宮南行、令参八条院給、又無程還御、自宮御所退下、依暑気難堪也、 人云、出羽守基定妻君代<院御時髪上>、依嫉妬、行向常光院<斎院(式子)御領>、引入件女、打調之、件女従女、参斎院(式子)侍、訴申此子細、民部卿聞之、仰執行召出彼院領、勘発及■検非違使云々、刑罰過法歟、共以不思儀、雖下女心操、可弾指、女髪多落散彼御堂廊云々、 |
明月記 | 正治元年7月26日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 早旦参大炊殿(式子)、午時許向坊門、未時参八条殿、即帰廬、女房此間向西九条、帰来之後、参御所、大臣殿御坐、無程退下、(後略) |
明月記 | 正治元年8月9日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 (前略)巳時参大臣殿、 午時許退出、参大炊殿(式子)、申時許又退出、参八条殿、秉燭以後帰廬、(後略) |
明月記 | 正治元年8月14日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 早旦参大臣殿、承仰、参僧正御房、(中略) 参大炊殿(式子)、申時許帰家、(後略) |
明月記 | 正治元年9月5日 | 【斎院(式子)、八条院に渡御】 (9月6日条) 光資来、昨日斎院(式子)渡御、〃八条殿云々、(後略) |
明月記 | 正治元年9月12日 | 【龍寿御前(式子女房)、健御前(八条院女房)を訪問】 龍寿御前被渡、健御前又同会合、夕両人被帰了、(中略) 光資来、昨日斎院(式子)渡御、〃八条殿云々、(後略) 龍寿御前、今日物語之次云、所召仕之女房<号信濃>、為令吐■[瘧]、令入御所<大炊殿>東車寄南細所、而有怖畏気色、依奇思、強問其故、甚雖秘蔵、強問之間、語云、去年七月之比、為伺見舞女、一身入彼細所之間、同形寸分不違物、六人並坐、与我問答、其詞之内、我約束云、奉為御所、不成凶、不奔散、被坐此所者、何事在乎、全不可語人<ト>申了、仍此事一切不可披露之由、存之云々、重雖問其容躰物様、委事一切<依(右傍書)>成怖畏秘之、不可申之由称之云々、但非法師、非尼、非女、非児之由、称之云々、所推量人<ヨリハ>小物歟、雖極不審、不語之間力不及、抑件女房、雖有如泥尾籠、不好虚言、仍所信受也云々、今聞此事、奇而猶可奇、若非虚言者、末代奇特、何事過之乎、仍記之、惣彼御所、於事有如此之聞、院(後白河)御所之時、女房等見尼、成怖畏云々、又斎院(式子)、先年御寝殿之時、女房周防有驚事、申其事之後、■[宿?]御寝殿云々、予値遇彼御所十五年、云禁裏、云射山、云槐門・椒房、日夜相馴、未嘗見不審事、聞此事、大奇驚者也、 殿下(九条兼実)御坐之時、又女房達、時々称怖畏之気、今思合、頗有云々説等歟、後日問之、全無別事云々、 又云、民部卿参間、為謁周防、在簾中之間、尼来坐傍、存別当殿来由、不驚、又見遣之時、忽然不見云々、(後略) |
明月記 | 正治元年9月14日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 午終許、凌雨参大炊殿(式子)、夜部還御云々、(後略) |
明月記 | 正治元年9月26日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 午時許、依召参南殿、於庭有御祓御拝、即令参北殿給、(中略) 秉燭之程退出、参大炊殿(式子)<乗駄>、亥時許帰廬、 |
明月記 | 正治元年12月4日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向。式子御悩】 鶏鳴以後、御造作所、巳時許帰参御所、午時許、北政所御〃堂、寄御車、相伴此尼御前、御法性寺、即参御共、御所置失■之由申之、不足言、仍直御最勝金剛院、殿下御此所、即賜仮退出、相具女房参大炊殿行三条坊門、 参大炊殿(式子)、令悩給事、逐日如増云々、酉時許退出、(後略) |
明月記 | 正治元年12月8日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向。式子御悩】 (前略)入夜参大炊殿(式子)<騎馬>、御不例猶有増無減、又依雑熱、被付御薬云々<被充御焼石之間、火フクレ出来之間、又被冷之云々、>、(後略) |
明月記 | 正治元年12月10日 | 【除目。式子御給】 聞書不見来、巳時許、右少将任中将由、(中略) 縫殿允紀行光<式子ーー>(後略) |
明月記 | 正治元年12月21日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 (前略)未時許、向坊門、病頗似宜、相次参大炊殿(式子)、秉燭以後、行向春日小家、帰廬、 |
明月記 | 正治2年1月1日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に拝賀】 (前略)午終許、着装束之間、大臣殿已御出、自宮御退出了云々、追参途中、前駈十二人、一員被召具、移馬八疋<葦毛雖異様、今朝此料引進了>、与資家少将在御共、令参院給之間、成定中将参会、院中人未参、此間私退出、参大炊殿(式子)、相次参押小路斎宮、退出、(後略) |
明月記 | 正治2年1月6日 | 【除目。式子内親王(御給)】 見聞書、(中略) 従五下(中略)藤公俊<式子内親王>(中略) 巳時許参八条殿、為申中将殿御慶也、先是参御所、即退出、未時許参大炊殿(式子)、入夜帰廬、(後略) |
明月記 | 正治2年1月11日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 午時許参大炊殿(式子)、申時許帰廬、(後略) |
明月記 | 正治2年1月29日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 参大炊殿(式子)、酉時帰廬、(中略) 戌時許、<欲(右傍書)>、参法性寺之間、行啓已了由聞之、仍参御所、 亥時許、大臣殿還御、〃共後退下、(後略) |
明月記 | 正治2年2月11日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 巳時許、相具女房・小児等、行向三条坊門、下置、参大炊殿(式子)、申時許退出、行向坊門、昏帰廬、(後略) |
明月記 | 正治2年2月22日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 (前略)参大炊殿(式子)、戸部(吉田経房)参入、於殿上相逢、称時行、不修仏事之条、甚奇躰也、更不可有之由、被称之、即被出了、俄而予退出、向坊門、又退出、直参御所、(後略) |
明月記 | 正治2年2月30日 | 【定家、式子邸に参向。式子御悩】 早旦参大炊殿(式子)、自一昨日、御足又被休薬之由、聞之、仍驚参、女房云、戸部(吉田経房)所労如待時云々、於今者天下古老也、可惜可痛、 午時許退出、向坊門、相次八条院、(後略) |
明月記 | 正治2年閏2月11日 | 【吉田経房薨去】 (閏2月12日条) (前略)戸部(吉田経房)、昨日一定入滅云々、是猶末代之重臣也、可惜〃〃、 |
明月記 | 正治2年閏2月13日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 今日欲出京日也、辰時許、青侍等云、坤方竹内有穢物、人頭也、喚木守丸令見、実正云々、適出京、又穢気、極無骨者也、(中略) 未時許出嵯峨、入京、路次参大炊殿(式子)、此御所本目[自]不被忌穢、仍所参也、(後略) |
明月記 | 正治2年閏2月16日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 午時許参大炊殿(式子)、刑部三品、姉小路<三条坊門(右傍書)>京極堂<悲田北、雅俊卿堂跡也、称源氏跡押取云々>供養云々、門前成市、上下挙首云々、 申時許退出、向坊門、問所悩、夕帰廬、(後略) |
明月記 | 正治2年閏2月19日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 巳時許、向白川<借雖聖已講車>、尊勝寺多人、御月忌云々、仍入法勝寺、又雑女等群衆、花未盛、向東山之墟、申時許、又入尊勝寺、相次参大炊殿(式子)、女房向三条坊門、昏黒又次其所、相具帰廬、(後略) |
明月記 | 正治2年閏2月24日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向。式子御悩】 (前略)参大炊殿(式子)、御乳御薬猶無減云々、小時退出、帰廬、 |
明月記 | 正治2年3月2日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 参大臣殿、相次参八条殿、取布施退出、参大炊殿(式子)、酉時許帰廬、(後略) |
明月記 | 正治2年3月6日 | 【定家、式子邸に参向。式子御悩】 今日直物也、 大臣殿、未時許御院参云々、資家少将在御共、酉時許、予向坊門、相次参大炊殿(式子)、御乳物猶六借御之由、聞之、秉燭以後参内<為替資家、依仰也>、(後略) |
明月記 | 正治2年3月9日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 今日、御幸六条殿<御八講始云々>、午時許参南殿、依御幸、令参会六条殿給、無御共人、与州相共、御出以後退下、午終向五条、入道殿令渡給、小時中将被来向、供奉御幸云々、束帯、但導師<聖覚>、御八講訖可来云々、予退出、参大炊殿(式子)、申終許還到之間、聖覚律師同時来臨、即説法了、(後略) |
明月記 | 正治2年3月13日 | 【定家、式子邸に参向。仏事(後白河追善)あり】 辰時参大炊殿(式子)、御心[仏?]事被●云々、先是事始、範円律師説法了、有例時<請僧三口>、読了後、取布施退出<于時午時>、還九条、更着束帯、参大臣殿、(後略) ●=忩(公+心。怱の異体字。こちらを参照(字源)) |
明月記 | 正治2年7月8日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 今日不能念誦、心神猶悩、三名参御所、 夕、扶病参大炊殿(式子)、心神有若亡、手足振甚●、入夜帰、 ●=尫(こちらを参照(字源)) |
明月記 | 正治2年7月25日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 午時許参御堂、中将殿見参、酉時許参東御所、即退下、権京兆来臨、為示合百首事也、弃置之身、更不及其沙汰歟、依昏謝返、即参大炊殿(式子)、夜半許退出、 |
明月記 | 正治2年8月1日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 (前略)騎馬、参北野、今日御輿迎云々、雖頗晴、猶於閑所<廻廊東>、奉幣、出御之間奉礼、信心殊深、年来常相障不参、適厳重之日奉拝也、殊以感悦、別有祈請申事、神輿出御之後、漸退出、自馬場埒東、大宮南行、帰京、於大御門前、日入了、 斎宮参人々、公卿以下、多出陽明門、各出了後、漸行於待賢門辺、暫待昏黒、中御門東行、参大炊殿(式子)<浄衣雖有恐、自閑所参>、戌終許退出、帰九条、(後略) |
明月記 | 正治2年8月6日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 早旦、依番上格子<院号始参>訖、光資来、相乗参大炊殿(式子)、未時許退出、向三条坊門、謁内供、即帰家、(後略) |
明月記 | 正治2年8月13日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 未時参詣北野、自歌一巻<入箱>、預祝申僧、可奉納之由語付了、先日参詣、心中祈願已以満足、仍重所詠進也、凌雨昇降退出、参大炊殿(式子)、入夜帰廬、 |
明月記 | 正治2年8月17日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 巳時許参院<布衣>、申入女房、退出、参大炊殿(式子)、 申時許退出、 |
明月記 | 正治2年8月25日 | 【定家、後鳥羽上皇に『正治百首』詠進。大炊殿(式子邸)に参向】 又持参歌於殿御前、撰定書連之、午時許退下、猶三首許不甘心之由、被仰、雖案不出来、又一二首許書之、付女房経御覧、宜由有仰、 又申合大臣殿了書連、秉燭以後持参院、付右中弁進入了、(藤原)、隆房卿、同参入進之云々、 当時進人 白川僧正 権大納言 両三位<経家・季経> 隆信朝臣 生蓮<師光> 寂蓮 入道左府 入道殿<已上今朝(右傍書「二人」)云々、> 尚書参御前後、退出、参大炊殿(式子)、夜半許退出、 |
明月記 | 正治2年8月28日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 今日、女房等向東山、 午時許、参大炊殿(式子)、帰路、行向四条三名乳母宅、入夜帰、(後略) |
明月記 | 正治2年9月5日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向。式子の『正治百首』を拝見】 巳時参大臣殿、■■[小時]退下、中将殿、令還八条殿給、仍参御堂、又退出、参大炊殿(式子)、給御歌見之、皆以神妙、秉燭之程帰廬、又参大臣殿、又見御歌、殊勝不可思議、深更退下之後、大雨雷鳴、 今日、延寿御前<少納言上>(左傍書)被渡<被相具女子>、謁健御前被帰了、 |
明月記 | 正治2年9月9日 | 【大炊殿(式子)重悩】 辰時許出京、参詣法輪寺<過四条末田中、出大井河、深泥落馬>、入嵯峨、下人等令食了、参御堂、帰京、(中略) 大炊殿(式子)、自昨日殊重悩御云々、自去二日御鼻垂、此両三日温気御云々、(後略) |
明月記 | 正治2年9月13日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 巳一点、参大炊殿(式子)、以雑色尋右中弁、只今参由相示、仍参院<春日殿>、(後略) |
明月記 | 正治2年9月17日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 午時許、参大炊殿(式子)、酉時許、実宣少将参会<帯■[剱]>、参七夜云々、(後略) |
明月記 | 正治2年9月23日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 午時許、凌雨参八条院<束帯>、(中略) 退出、参大炊殿(式子)、 入夜退出、向押小路御匣殿亭、訪申退帰、(後略) |
明月記 | 正治2年9月26日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 依召参南殿、申時許退下、参大炊殿(式子)、於三条辺、見火<白川>、入夜帰廬、(後略) |
明月記 | 正治2年10月1日 | 【定家、式子邸に参向。東宮猶子、大炊殿修理のこと】 巳時参御堂、(中略) 参大炊殿(式子)、女房云、春宮(守成親王)御猶子渡御事、已以一定、御所修理事并女房等出立、旁御大事云々、昏■[黒]退出、(後略) |
明月記 | 正治2年10月22日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 巳時許参八条院、以女房、申入吉富所課事、 午時許参院、未時許、御幸馬場殿云々、(中略) 参大炊殿(式子)、秉燭以後帰宅、 |
明月記 | 正治2年10月24日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 (前略)相扶未時許参院、御幸馬場殿云々、酉時許退出、参大炊殿(式子)、秉燭帰家、(後略) |
明月記 | 正治2年10月27日 | 【除目。式子内親王当年給】 (前略)除目叙人、下名以前拝賀、又有例歟、未勘見、仰云、恒事也<但御幸ハ依雨不足>、於除目者、即請印者也、何事在乎、早可申也、即退下、馳参院<布衣>、以右中弁家長・女房<相模等>、返〃畏申之由奏達、無程退出<于時未時、雨脚止、日影僅漏>、参八条殿、長経朝臣相逢云、御幸依雨延引明日由、只今披仰、申三位中将殿御慶事、即退出、(中略) 左京少進藤宗光<式子内親王当年給>(後略) |
明月記 | 正治2年11月16日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 朝行三名乳母宅、髪<ヲ>ソリ、巳時許還来、即布衣参院、謁女房、櫛小〃志之、参大炊殿(式子)、即退出、 秉燭之程、着節会装束参内、(後略) |
明月記 | 正治2年11月24日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 午時許参春宮(守成)、七条院、今夜御幸此院云々、南山之間、可御此御所云々、 今日大原野祭、始可有御拝云々、(中略) 御禊已前退出、参大炊殿(式子)、二位<公時>参会、被語此御大事闕如事等、入夜退出、(後略) |
明月記 | 正治2年11月25日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 巳時許参大炊殿(式子)、未時参春宮(守成)、始勤陪膳、(後略) |
明月記 | 正治2年11月27日 | 【定家、斎院(式子邸)に参向】 巳時許参上、御馬・手箱等被刷之間、良久承仰参鳥羽、(中略) 昏参春宮(守成)・斎院(式子)、 |
明月記 | 正治2年11月29日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 取御懺法散花<番>、夜前始二座、取了<此間参東殿>、退下、洗髪、申時参春宮(守成)、物詣仮触女房、秉燭退下、依有申事、参大炊殿(式子)、又参八条院、深更帰廬、風病更発、極無術、 |
明月記 | 正治2年12月5日 | 【大炊殿(式子)御悩】 夜雪僅積、不穏地、今日奉書終経<三巻、仁王二巻・金剛般若経>、京使便聞、大炊殿(式子)御足大腫御云々、驚不少、(後略) |
明月記 | 正治2年12月7日 | 【定家、式子邸に参向。式子御悩、御灸あり】 暁更帰洛、日出以後、拝入高倉、大炊殿(式子)大事御之由、宗[家?]衡来告、 巳一点参入、今日有御灸云々、此事極有怖、折節浅猿、偏此大[天]魔所為也、此吉事定難被遂、御所修理掃除、御悩之間、始不相応歟、 近代医家、於事不可憑、雅基偏申御熱之由、奉許冷、頼基申御風脚気由、而不被用云々、午時許被始御灸、但更熱不思食云々、此条又有恐、此御辺本目[自]無御信受、惣無御祈、今日、人々依申、如形被御祈等<二位土而[公?]御祭、予咒詛御祭、女房参[泰]山府御祭之、又御修法一壇事、申行事未定、申時許退出>、 参春宮(守成)、戸部参会、今日七瀬御祓云々、 謁女房退出、帰九条、昏参上、大臣殿御南殿云々、即参不見参、秉燭以後退下、 |
明月記 | 正治2年12月8日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 辰時参大炊殿(式子)、実快法眼・二品参会、御有様大略同事云々、午終許退出、給御願書、進日吉、未時許参八条殿、(後略) |
明月記 | 正治2年12月10日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 参大臣殿、見参之後退出、参大炊殿(式子)、御足只同事也云々、夕参春宮(守成)、入夜帰参大炊殿(式子)、今夜、宿候乾角進物 屋北方、光資等来宿所、 今夜、内裏有詩歌云々、毎事無興、称病不参、詩、松間望雪月、歌、池辺冬月、暁千鳥、寒草待春云々、 |
明月記 | 正治2年12月13日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 午時許参大炊殿(式子)、昨日頼基参、但申間又不被用云々、雅基奉加火針、今日無別事、 申時許退出、参春宮(守成)、秉燭以前帰廬、 |
明月記 | 正治2年12月14日 | 【定家、式子邸に参向。卿二位と対面】 (前略)巳時許大臣殿、見参後、未時許退下、 参北殿退下、束帯参内、陪膳事蔵人示之、但隆雅朝臣勤了云々、仍退出、参春宮(守成)、秉燭以後参大炊殿(式子)、二位謁談、良久述懐、此御事猶以増、更以不足言、卿典侍、以少納言内侍、有被伝申事、仍申入之、承御返事、又参二条殿、達之退出、此事始終不去[吉?]歟、吉事之聞、折節魔姓所為、猶〃不足言、傍家定解 歟、可哀云々、 |
明月記 | 正治2年12月15日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 巳時許、上皇御稲荷之由、聞雑人説、此間参大炊殿(式子)、上下相待時成朝臣帰洛、遣侍於稲荷、令待之云々、二位謁談、此次被語云、去比仲国妻<二品縁者>、奉託後白川院、世間事種〃雑言、懇望述懐等称之、其事粗世間風聞云々、日入以前、時成参入、殊無申間云々、日来療治宜之由申云々、退出云々、(後略) |
明月記 | 正治2年12月18日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 (前略)巳時参大臣殿、未時許参大炊殿(式子)、先入三条坊門、昨日大略同御方云々、 申時許参院、御馬場殿了、(後略) |
明月記 | 正治2年12月19日 | 【定家、大炊殿(式子邸)に参向】 (前略)巳時許、[「依」脱?]召参大臣殿、 申時退下、参御堂、取例講布施、資頼朝臣以下五六人、事了即退下、束帯参院、参春宮(守成)御方、面入見参、秉燭以後退出、参大炊殿(式子)、昨今御有様只同事也、但人気色頗似宜、小時退出、 参内、御仏名也、(後略) |
明月記 | 正治2年12月26日 | 【定家、式子邸に参向。式子小康】 (前略)未時許、向高倉大納言亭、聊有招請、清談移漏、退出、参大炊殿(式子)、御足事、大略御減之由、医家申之云々、喜悦無極、(後略) |
明月記 | 正治2年12月28日 | 【定家、式子邸に参向。式子小康】 巳時許参八条院、相次参院、又参大炊殿(式子)、事外御減之由、医家申之云々、承悦無極、申時許退出、(後略) |
明月記 | 正治3年1月14日 (建仁元年) |
【定家、大炊殿(式子)に参向。病状重し】 早旦、依召参大臣殿、見参之後退下、(中略) 未時許参院、御馬場殿了云々、参春宮御方、入見参退出、参大炊殿(式子)、二位参会、御悩已重云々、秉燭退出、(後略) |
明月記 | 正治3年1月15日 | 【定家、大炊殿(式子)に参向】 午時許、布衣参院、(中略) 参大炊殿(式子)、帰坊門、相具女房、帰九条、(後略) |
明月記 | 正治3年1月17日 |
【定家、大炊殿(式子)に参向。病状変わらず】 早旦、参御所<大炊殿(式子)>、御悩只同事也、(後略) |
明月記 | 正治3年1月21日 |
【定家、大炊殿(式子)に参向。病状変わらず】 (前略)参大炊殿(式子)、只同事云々、即退出、(後略) |
明月記 源家長日記 |
正治3年1月25日 | 【式子内親王薨去】 『明月記』(建仁2年1月25日条) 参大炊御門旧院、今日御正日也、(後略) 『源家長日記』(建仁二年) ひととせぜんさい院(前斎院=式子)はかなくならせ給しことは、いえばおろかなり。(後略) |
玉葉 (柳原家本) |
正治3年1月30日 |
【前斎院(式子)と霊託のこと】 今夜下名云々、見聞書、辰剋程■云々、(中略) 又衛府一度被補廿余人、(山科)教成任中将、被恐霊託歟、趙高始不信此霊託、仲国殆欲処科云々、而依前斎院(式子)<同霊託被猜仰之人也>御事始以有信伏之気云々、能■右ーー■ーー 辛酉之年可被行善政云々、此事等可叶天意哉、 |
明月記 | 建仁元年4月26日 | 【斎院(式子)中陰のこと】 巳時許、先参大臣殿、今日御歌、昨日被仰合、(中略) 二位公時<今日出仕、頗無所拠、和歌非要須、笛被催他人、吉事日、斎院(式子)中陰事奉行之人、何故参乎、> |
明月記 | 建仁2年1月25日 | 【式子内親王一周忌】 参大炊御門旧院、今日御正日也、入道左府(三条実房)被経営<云〃>、彼一門人済〃、予不交衆、謁尼大納言殿(龍寿御前)、退出、<今日出此院、可被害済左女牛小家、仍借車>、 |
明月記 | 建仁2年4月25日 | 【龍寿御前、式子墓参】 (前略)龍寿御前、借車参常光院、帰路又来臨、別当殿・防州等相具来臨、夕被還了、(後略) |
明月記 | 建仁2年5月25日 | 【龍寿御前、式子墓参】 早旦行冷泉、龍寿御前来坐、被参常光院、(後略) |
明月記 | 建仁2年8月22日 | 【以仁王姫宮呪詛の噂について】 (前略)一品宮(昇子内親王)御目病、此間忽御平癒、自広隆寺、直可御院御所云々、此等事皆故歟、末代人口只如狂、彼姫宮(以仁王娘)、於日吉、奉咒詛人々之由、権門辺人々、謳歌披露云々、近代生老病死、只悉有咒詛之聞、非咒詛者、無老<病(右傍書)>死之恐之由、人存歟、此皆<業(右傍書)>報耳、故前斎院(式子)、御八条殿之間、依思御付属事、<奉(右傍書)>咒詛此姫宮并女院(八条院)、彼御悪念、為女院御病之由、種〃雑人狂言、依之、斎院(式子)漸無御同宿、於押小路殿<御(右傍書)>出家■[之]間、故院(後白河)猶以此事、御不請、次故院御病最後之間、女院并三位局、咒詛邪気■[之]由、丹二品謳歌、其間式法難尽筆端、次斎院(式子)奉迎春宮(守成)給、此故丹二品咒詛之由、又宮中謂之、次一品宮・三位中将殿、<并其御妻(右傍書)>近日連〃病悩、是皆彼姫宮咒詛云々、一事以上無益、可悲世也、抑仁和寺宮(守覚法親王)御病、弟子法親王(道法)方人咒詛云々<仁和寺法師又称之云々(左傍書)>、末代之極也、御祈偏祭祓也、悲哉〃〃、(後略) |
明月記 | 建仁2年9月25日 | 【龍寿御前、式子墓参】 龍御前被渡、参常光院実云々、 |
明月記 | 建仁3年11月4日 | 【定家、故斎院周防(式子女房)を訪問】 招時成朝臣、目加針、入夜、白河近衛末有火、行向之間、清水谷尼上<大丞養母、亜相御姉>、御許不遠、寄門前、示参由、帰路次、間故斎院(式子)周防、 |
四条天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
明月記 | 嘉禄2年12月18日 | 【女房禁色と、定家姉妹のこと】 早旦、相門恩札云、女房禁色事、一昨日殊申入、恩許之由、只今有其告、殊悦思者、男女両息、依吹挙之恩、各遂生涯之望、感悦余身之由申之、予姉妹十一人、面〃官仕、悉有此恩、是被優祖父歟、於身無此事、年来之鬱訴也、縦雖沈淪之家、可被優外家之由、月来所申付也、今有此恩、不肖之身、男女之栄、分已以満足、 後白河院<母(藤原)為忠朝臣女(左傍書)>京極局<自仁安至于治承、唯一人祇候、乗御車後、近習奏者無余人、申仮出家之後、以三条局<(源)通親公姉>為替、 内三位・公佐等之母> 八条院坊門<母民部少輔(藤原)顕良女(左傍書)> 同院三条<予一腹、後為(藤原)盛頼朝臣妻> 同按察<已下皆一腹(左傍書)><後為大納言(藤原)宗家卿室、> 同権中納言(延寿御前)<後(源)頼房民部大輔妻> 同中納言<始終官仕、御没後着服、> 高松院新大納言(祇王御前)<乗御車後、時道・敦通朝臣母、後為左衛門督(藤原)家通室、> 建春門院中納言(健御前)<八条院同人、立后時初参、崩御以後参八条院、> 上西門院五条<在仁和寺、為五宮御乳母養子、> 前斎院<式子内親王>女別当<乗禊祭御車■[後?]、他腹> 同斎院大納言(龍寿御前)<当時存生、乗御車後、> 承明門院中納言(愛寿御前)<存生、已上皆禁色、> 先、為籠居之人、官途遂雖沈淪、法皇、於事有思食之故歟、女子禁色、男子昇殿、付時其恩異他、於下官身、以此恩許、為微望之満足、(後略) |
四条天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
明月記 | 天福元年3月20日 | 【定家、物語月次を選ぶ。式子より下賜の絵を宮(中宮九条竴子)に献上】 (前略)此絵、如聞者、可為末代之珍歟、典侍(藤原因子。定家女)往年幼少之時、令参故斎院(式子)之時、所賜之月次絵二巻<年来所持也>、今度進入宮(後堀河中宮竴子)、詞同彼御筆也、垂露殊勝珍重之由、上皇(後堀河院)有仰事云々、件絵、被書十二人之歌<被充月〃>、 正月<敏行云々>、 二月<清少納言・斉信卿、参梅壺之所、但無歌> 三月<天暦、藤壺御製> 四月<実方朝臣、祭使神館歌> 五月<紫式部日記、暁景気> 六月<業平朝臣、秋風吹告鴈> 七月<後冷泉院御製> 八月<道信朝臣、虫声> 九月<和泉式部、帥宮叮門> 十月<馬内侍、時雨> 十一月<宗貞少将、未通女之姿> 十二月<四条大納言、北山之景気> 二巻絵也、表紙<青紗●有絵>、軸<水精>、(後略) ●=鏄(金偏+専。こちらを参照(字源)) |
史料 | 記述 |
一代要記 |
後白河天皇 皇女 式子内親王 前斎院 二条天皇 斎院 式子内親王 上皇三女、母同亮子、平治元年卜定 |
賀茂斎院記 |
式子内親王 後白河院之皇女也。母従三位成子。季成之女。 平治元年卜定。 号大炊御門斎院。能倭歌。出家。法名承如法。 |
今鏡 (8・腹々の御子) |
今の一院(後白河天皇)の宮たちはあまたおはしますとぞ。 后腹のほかには、高倉の三位(藤原成子)と申すなる御腹に、仁和寺の宮(守覚法親王)の御室伝へておはしますなり。まだ若くおはしますに、御行ひの方(かた)も、梵字などもよく書かせ給ふと聞えさせ給ふ。 次に御元服せさせ給へる(以仁王)おはしますなるも、御文にもたづさはらせ給ひ、御手など書かせ給ふと聞えさせ給ふ。その宮も、宮たちまうけさせ給へるとぞ。 同じ三位の御腹に、女宮もあまたおはしますなるべし。伊勢の斎宮にて、姉妹(あねおとうと/亮子内親王、好子内親王)おはしますと聞えさせ給ひし。妹の宮は六条の院の宣旨養ひたてまつりて、かの院伝へておはしますとぞ聞えさせ給ふ。また、賀茂の斎院(式子内親王)にもおはすなるべし。 |
源家長日記 |
建久九年 正月になりぬ。(後鳥羽天皇が)御くらゐゆづり申させ給て、おほゐ(大炊)の御門の前さい院(式子内親王)の御所ニうつりすませたまう[ふ]。 いまだ布衣はじめなき程なれば、かはる所なきすがたども也。 内侍所のかへらせ給しぞ、思しよりげにわかれの涙ところせきまで侍し。 御剣しるし[璽]のはこ内侍とりて、御こしよりおりてわたしたてまつりし程、いでさせ給ふままに内侍所をやぶりののしりなどせし、さばかりあしたゆうべにはい(拝)したてまつりなどせし物を、あらぬさまなることかなとあきれてぞおぼえ侍し。(後略) 建仁二年 ひととせぜん(前)さい院(式子)はかなくならせ給しことは、いえばおろかなり。かずのそひゆくにつけても、みちのれうち(陵遅)なれば、こころまうけのみぞおぼゆる。 建仁元年(式子内親王にまつわる回想) 斎院(式子)うせさせ給にしまへのとし、百首の歌(正治二年院初度御百首)たてまつらせ給へりしに、「軒端の梅もわれをわするな(式子内親王作「ながめつる今日はむかしになりぬとも軒端の梅はわれを忘るな」)」と侍りしか、大炊殿(大炊御門殿、式子内親王御所)の梅の、つぎのとしのはるここちよげに咲たりしに、ことし斗は(引歌「深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け」古今集)とひとりごたれ侍し。 ひととせやよひ(弥生)の廿日ごろに、御まり(鞠)あそばさせ給とてにはかに(後鳥羽院が)御幸侍りしに、庭のはな(花)跡もなきまでつもれるに、松にかかれる藤、まがきの内の山吹、心もとなげに所々さきて、みやうがう(名香)の香の花の匂ひに争ひたるさま、御ぢ(持)仏堂のかう(香)のかもを[お]とらずにほいいでて、世をそむきけるすみかはかばかりにてこそはすみなさめと、心にくく見え侍りき。 ものふりたる軒に、忍わすれ草みどりふかくしげりて、あたらしくかされるよりも中々にぞみえ侍りし。 御まりはじまりて人がちなる庭のけしきを、さこそはあれ、人かげのうちしてここかしこのたてじとみにたちかかりのぞく人も見えず。 人のするかとだにおぼえで、日のくるるほどにおくふかく鈴のこゑして、打ならしたるかねのこゑも、心ぼそくたうと(尊)かりき。 いくほどのとし月もへだたらで、ぬし(主=式子)なきやと見るぞかなしく、涙もとどまらずおぼゆる。 きやうこく殿(京極殿、後鳥羽院御所)へあしたゆうべに参りかへれば、今は馬車よりを[お]りなとすることもなくてすぎありき侍に、つい(築)地のくづれより(大炊殿の様子を)見いれはべれば、庭のよもぎは軒をあらそひ、一村すすきも処えてぞ見え侍。 ちかきほどなるに京極殿へ参りたれば、玉かがみとみがきたれられるれば、さもと[か]はりたるものかなとぞおぼえ侍。 |
千載和歌集 | |
新古今和歌集 |
式子内親王 (182)わすれめや葵を草にひき結びかりねの野べの露のあけぼの
(1486)ほとゝぎすそのかみ山の旅枕ほのかたらひし空ぞ忘れぬ ※成立年は馬場あき子氏説「これほどの名歌が「千載集」に採録されていないのは、その撰進(1188年)以降の作であると考える方が妥当であろう」に従う。
(1487)立ち出づるなごり有明の月かげにいとゞかたらふ郭公(ほととぎす)かな 返し 左衛門督家通 いく千代とかぎらぬ君が御代なれどなをおしまるゝけさの曙 ※馬場あき子氏は応保2年(1162)または長寛元年(1163)頃かとする。 なお家通の中将在任は、永暦元年(1160)2月から永万2年(1166)6月。また賀茂祭の近衛使は、応保元年(1161)右少将源通能、永万元年(1165)右中将実守、仁安元年(1166)右少将源顕信。 |
実家集 |
返りごと (36)言の葉もひく方しかはあれど家路を長く忘るべしやは ※実国の宰相中将(参議)在任は、永暦元年(1160)4月から永万元年(1165)1月。 |
建礼門院右京大夫集 |
かへし (73)しめのほかも花としいはむ花はみな神にまかせて散らさずもがな ※式子の本院入りは永暦2年(1161)4月16日(夏)なので、翌1162年以降か。 また退下は嘉応元年(1169)7月24日につき、下限は同年春までとなる。 |
言葉和歌集 |
みせばやないろもかはらぬこのもとのきみまつがえにかかるふぢなみ (見せばやな色も変はらぬ木の元の君松が枝にかかる藤波) 返し 高倉三位 しめのうちにのどけきはるのふぢなみはちとせをまつにかかるとをしれ (標の内にのどけき春の藤波は千歳を待つにかかるとを知れ)
むつごともいまはたえたるよつのをはなにによりかはものがたりせん (睦言も今は絶えたる四つの緒は何によりかは物語せん) 御返(式子?) むつごとも■のかはせんよつのをのむかしのこゑをきかばこそあらめ (睦言も■の交わせん四つの緒の昔の声を聞かばこそあらめ) |