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この作品には 〔ガールズラブ要素〕 が含まれています。

清楚な彼女と変わり者

作者:にゃー

 特に過激な描写等はありませんが、やたらと『ビッチ』という単語が飛び交っています。苦手な方はご注意ください。

 大学に入ってからできた、わたしの数少ない友人。



 パーツのバランスは言うまでもなく。良い意味で、本当にメイクとかしているのだろうかっていうくらい飾り気がなく、しかし、どんな一流のメイクさんでもここまでは仕上げられないんじゃないかってくらい、綺麗な顔。


 何と言ったか……そう、まさしく濡れ羽色という表現がぴったり似合うような、長く、艶やかで美しい黒髪。


 多くの女性が憧れ、そして多くの男性が一度は触れてみたいと思うような、遠目にもハリと透明感を感じさせる白い肌。

 ていうかこの前、手に触れてみたけど、あり得ないほどすべすべだった。もう、わたしの肌とは別の素材で出来ているとか言われたら、普通に信じるレベルで。



 体型も言わずもがな。すらりと伸びた手足に、グラマーではないけれど、バランスの取れたプロポーション。むしろその均整の取れた体躯が、彼女の完璧さを顕著に表しているようでもある。

 身長も、女性の平均よりは高く、それでいて、ごく一部の狭量な男性の自尊心を傷つけない程度には、男性の平均より低いという、絶妙な高さ。

 体重を聞いてみたら、唇に手を人差し指を当てながら「秘密、です」って囁かれた。誰の唇にかは言わない。不覚にも、ときめいてしまったから。




 外見だけではない。

 楚々とした立ち振る舞い、穏やかな物腰、相手が誰であろうと常に敬語を絶やす事がない、ちょっと今時見ないくらいの育ちの良さ。

 性格?ああ、『大和撫子』って辞書で引いてみたら良いと思う。大体あんな感じ。


 きっと教養とか思考力とかも、相当なものなんだと思う。講義中の真剣な表情からは、わたしのやれやれ系主人公を拗らせたみたいなぐだぐだと薄く浅い思考とは次元の違う、無限の知を探求する深遠な洞察的な何かが窺える。気がする。



 とにかく、日本文化にドはまりした世界中の神様が集結して、洪水とか審判とかその他諸々全部ほっぽり出し、一致団結全力で創造にあたった日本人女性の最高傑作、みたいな感じの彼女。





 そんな尋常ではない彼女と、平々凡々、極めて一般人然としたわたしの人生は、たまたま大学の講義で席が隣合う、なんて機会がなければ、多分交わる事も無かったんだろう。




 逆に言うと、もし彼女とわたしが出会うならば。

 それは必ず大学の、馬鹿みたいに受講者数の多い自由科目講義においてのみ。




…とかだったらちょっと面白い、かも。

 美少女ゲームの、個別ヒロインへのルート分岐条件、みたいな?



 まぁ、ここはまごう事なき現実で、わたしは大学を舞台にした禁断の同性間恋愛ゲームの主人公でもなければ、彼女もまたプログラムされたヒロインではない。

 よしんばゲームの中なのだとしても、わたしが現実だと思っているかぎり、わたしにとってはこの世界こそが現実であり真実なのだ。


 ゲームの中の主人公は、自分がゲームの中にいるだなんて微塵も考えやしない。

…最近は、例外もあるらしいけど。



 とにかくそういうわけで、良き友人を得られた偶然をいるかどうかも分からない偉大なる何かに感謝しながら、わたしは今日も今日とて普通に、彼女と仲良くおしゃべりをしたり食事に行ったりするわけだ。



 ちなみに母親曰く、「そんな当たり前の事をそんな勿体ぶって言うなんて、流石はパパの子だわぁ〜」との事。

 『流石はパパの子』という言い回しが母にとってこれ以上ない賛美であるというのは、父と母の常にときめきを忘れない関係性を見ていれば容易に判断できる事なので、これは素直に褒め言葉として受け取っておいた。

 いつまでも互いの好意を素直に受け取り合える、そんな普通の家族でありたいものだ。







…という、うちの良好な家庭関係は、今は置いておいて。

 彼女の事に話を戻そう。


 わたしが、友人として敬愛してやまない完璧な彼女にも1つだけ、世間一般から見たらどうにも許容しがたいらしい、『欠点』だとされているものがある。



 彼女自身はその事に関して、少なくともわたしは聞いて納得できたようなしっかりとした考えを持っているし、ある種の自衛的な策も万全を期しているようなので、わたし個人の意見としては『ちょっと変わった価値観』とか、そんな程度にしか感じなかったのだけれど。


 大多数の人からしたらそれは、先ほどわたしがつらつらと挙げ連ねていった彼女の良いところを全て帳消しにしてしまうくらいには、重大な問題であるらしい。



 そこに端を発した真実も噂も誇張も、常に彼女に付いて回り。

 あれほど良く出来た人間でありながら、彼女に友人と呼べる人物がほとんどいない唯一にして絶対的な要因ともなっているそれ。


 事実の部分ならまだしも、それに付いた背びれだの尾ひれだのを鵜呑みにして、軽々しく広めていってしまうのはどうかと思うのだけれど。

 大体、ひれなんて、鵜呑みにしても棘とかが喉に刺さって痛いだけだろうに。



 まぁしかし、そういった諸々に対して、本人は「皆さんがそう思ってしまうのも、無理はない事ですから」なんて言いながらふんわり微笑んでいて、やっぱ人間出来てるよなぁ、とか、ほんまええこやなぁ、とか、関西の育ちでもないのにそんなふうに考えてしまうあたり、わたしは相当に、彼女の人間性というやつに惚れ込んでいるのかもしれない。

 ほんと、出来過ぎなくらい良く出来た人なんだって。ほんとだってば。





…少し、話が逸れてしまった。

 いや、「彼女の話」という意味でなら、事の主題は最初から、概ね一貫してはいるか。



 まぁつまり、一般的に考えるなら著しく一般的ではない、彼女のある一面。


 それと、その他の完璧な面とのギャップを揶揄して人々は、いつからかネット上で使われるようになった、一部の女性を指す呼称で彼女の事を呼んでいる。



 事実から膨らんだ誇張まで含めて『事実』と見るならば、確かに彼女の在り様は、そう呼ばれる他の女性達と似通っているのかもしれない。

 しかしその内面にある行動の理由を鑑みると、ネット上でそう呼ばれている女性達と彼女とをただ一緒くたにするのは、あまりにも雑なレッテル張りだと言わざるを得ないのではないだろうか。



 それどころか逆に考えるならば、そのような女性達にも彼女と同じような、ある意味で当人にはどうしようもない、良きにしろ悪きにしろそうならざる得なかった、何か根幹的な要因があったのかもしれない。

 であればそもそも、まだ生まれてそう長くはないその言葉の意味と定義を、再び検討し直す必要があるのではないか、なんて思わないでもないのだけれど。


 まぁ、彼女以外の女性云々については単なるわたしの推測、いやそれ以下の妄想でしかないので、自分で考えておいてなんだがその辺は正直どうでもいい。



 重要なのは、本当に彼女を指す言葉としてその呼称が正しいのかよく吟味されもせず、イメージが先行してそう呼ばれてしまっているのではないかという事。


 長々と語ってしまったけれど、つまりその呼び名というのが。






――清楚系ビッチ。






 色々と、不服を申し立てたいところではあるけど、とりあえず。


 『清楚系』じゃなくて正真正銘の『清楚』だろうと声を大にして言いたいね、わたしは。









−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−









 清楚系ビッチ。





 巷では、誰もが私の事をそう呼んでいます。


 巷とは言っても、私が通っていた、そして今通っている高校と大学という、ごく狭い範囲での話なのですけれど。





 なんでもこの言葉、もとはインターネット上で広まっていったものらしく、意味は概ね言葉の通り。




 つまり、見た目や振る舞いは一見清楚でありながら、その裏では不特定多数の男性と関係を持っている女性。




 成る程確かに、「不特定多数の男性と関係を持っている」という点においては、私には『ビッチ』という言葉がまさに相応しいと言えましょう。


 それ自体は、事実以外の何物でもないのですから。



 ただ、清楚という言葉が当てはまるとは、自分ではどうにも思えません。


 以前その事を、私の唯一と呼んでも差し支えない友人に話すと彼女は「あんたが清楚じゃないというのなら、日本中の全ての辞書から清楚っていう文字を削除しなければならなくなる」なんて口にし、その後もあの独特の言い回しで私が如何に清楚で完璧な女性であるかを延々と熱く語りだしてしまって……


 褒められるのは嬉しいのですけれど、流石にあれは恥ずかしかったです……



…それに一般的には、多数の男性と関係を持つような女性を、清楚とは呼ばないのではないのでしょうか。

 だからこそ、『清楚系』なのですし。


 私自身がそうであるように、彼女もまた人とは少々異なった価値観を持っているようで、その彼女からしてみたら私こそがまさに『清楚』である、との事らしいのですが。

 何というか、買いかぶり過ぎ、ではないでしょうか。




…あ、今唐突に思ったのですけれど、『清楚系』と『塩素系』って、何だか響きが似ているとは思いませんか?

 そのうちに、『清楚系洗剤』や『塩素系ビッチ』などといった言葉がインターネット上で流行しだしたり……しませんか。そうですか。






 と、とにかく。

 幾人もの男性とコトに及んでいるという事実からして、私が清楚系ビッチと呼ばれるのは当然の事であり、それに対しては特に不満を覚えるといった事もありません。


 内容が何と言いますか……若い男女の興味を刺激してやまないであろうものだけに、関連した噂などが広まってしまうのも、これもまた致し方のない事でしょう。



 ただやはり、それに付随する、私自身の信条に反する尾ひれのような噂には、どうにも良い気分はしないものです。





――曰く、複数人の男性と同時に、コトに及ぶ事が多々ある。


――曰く、快楽を得るために、行為の最中に違法な薬物を使用している。


――曰く、関係を持った男性を囲い、ハレムのようなものを形成している。





 細かく挙げ始めたらきりがないのですが、概ねこのような噂はでたらめ、まさに尾ひれの部分にあたります。



 私は、大前提として『性交は1対1で行われる』ものであり、その中において『行為以外で快楽を得る』事など以ての外だと考えています。

 よって、先に挙げたような類の噂というものは事実無根であり、私の価値観からは大きく外れた振る舞いだと断ずる他ありません。




 しかし。

 世間一般でいう『ビッチ』というものは、そのような過激な性交を行っている事が多いようで、いえ、普通に考えれば私のように、複数人と関係を持っている時点で十分過激なのですが…


 つまるところ、常識的に考えて過激な性交に耽っている女性をビッチと呼称し、数多あるそれら『過激な性交』のどれか一つでも満たしていれば、その女性はビッチである、と。


 そしてビッチであるのならば、かような過激な行いに、見境なくあれもこれもと手を出しているに違いない…という、ある種おかしな循環論のようになってしまっている、という事なのでしょう。


 呼ばれる当人達にしても、全てではなくとも実際に何らかの過激な性交を行っているのは確かであり、それゆえに周囲の方々にとっては当人の否定の言葉など何の説得力も持たない。

 だから結局、言われるがままになってしまう。と、そういう事だと、私は考えているのですが。



 この噂と憶測の循環は、残念ながら一個人でどうにか出来るものではありません。

 ですから幾分かの異議はあれどそれを唱える事は無く、胸の内にしまっておく事にしました。


 何だかんだと理由をつけても、私が非常識な情事を行っているという事自体は事実ですし。

 別に、本当に嫌で嫌でたまらない、と言うほどでもないですし。

 所詮は噂、どうせもう碌な話は出回っていないのだから、好きに言わせておきましょう。




…ただ、この小さな不満を何故だかぽろりと零してしまった彼女だけは、私の言う事に真摯に耳を傾けてくれました。

 私の価値観を、信念を理解し、言う資格の無いはずの愚痴にうんうんと頷いてくれたその姿に、不覚にも少し、どころではなく目頭が熱くなってしまったのを、今でも覚えています。


 好きに言わせておきましょう、なんてのたまっておいてなんですが……やっぱり心のどこかで、理解者というものを求めていたのでしょう。




 願わくば。


 彼女をこそ、我が生涯の友に。




 なんて、大仰でしょうか。








−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−








 では、そもそも何故私は、多数の男性と関係を持つ事を是とする女性となったのか。

 その理由は、少し変わった我が家の家訓にあります。



 お侍様の闊歩する時代から、その思想自体は脈々と受け継がれてはいたのですが。

 それが具体的な家訓として、言葉という形で残されるようになったのは、つい何代か前の事です。







 『生涯を添い遂げられるほどの相性の良さは、情事の中でしか見出し得ない』







…ええ、その、つまり。そういう事です。




 2人きりで、お互いに全てをさらけ出してこそ初めて、両者の相性の良さが分かる、というわけです。


 ここで言う相性とは勿論、身体のそれも含むのですが…

 何よりも、コトに及んでいる最中に、精神的な繋がりや充足をお互いが如何に得られるかという、いわば心の相性の事を指しています。

 より正確には、『心の相性が良ければ、自ずと体の相性も良い』との事で。



 「好きだから繋がる」のではなく、「繋がった先に好きがある」と言いますか。

 でも、この言い方では何だか、ふしだらな女性みたいで……


…ああいえ、一般的に見たら、もう十分にふしだらでしたね。失礼。



 とにかく、この家訓に従って我が家は代々、結ばれ、続いてきました。


 ですから私も、学校の保健体育で性交云々を習うよりも、同級生と恋愛話に花を咲かせるよりも早く、この家の教えを知り、結果としてそれを基に価値観を築いてきたのです。



…ああ。決して、勘違いしないで欲しいのですが。

 家族の誰も、私にこの家訓を強制しようとはしませんでした。



 大昔ならいざ知らず、現代日本においては、このような考え方は一般的な倫理観とはかけ離れていると言わざるを得ません。

 その事は皆十分に分かっていて、そしてそれによって、世間から白い目で見られる可能性が高い事もまた、十二分に理解していて。



 だから私の家族は、家訓を隠しはせずとも押しつけもせず、私が、世間一般の恋愛や性交に関する知識も身に付けたその時に。




――良く見聞きし、よく考え、お前自身が決めなさい。お前の在りたい様に。




 そう言ってくれました。

 優しい、私の自慢の家族です。 



 丁度中学の頃でしたが、それからしばらくの間私は、自分自身がどう生きて行きたいかを深く考える様になりました。


 思春期に入り、恋愛というものを知り始めた級友達を見ながら、自分はどのようにして、それを育むべきかと、考えに考え……


 そして、決めました。



 家訓の通りに、生きようと。



 決め手はやはり、家族。

 いえ、肉親に対する義理立てなどではなく。




 とても幸せそうだったんです。


 両親が、祖父母が、今は亡き曾祖父母が。

 仲睦まじく、幸せそうに、満たされていた。


 それを見ていて、私もああなりたいと思ったのです。

 まだ見ぬ生涯の相手と、あんな風に在りたいと。


 だから、家族と同じ道を進む事を、決めました。




 行動を起こし始めたのは、高校生になってから。


 身も蓋もない言い方をすると、性交に耽り始めた、という事なのですが…


 ロマンチックな表現をするのなら。

 生涯のパートナーを、最も相性の良い人を、探し始めました。





 とはいえ流石に、誰彼構わず、という訳ではありません。


 人々をよく観察し、この方はどうか、と思える男性が居たら、声をかけていきます。

 会話を重ね、人となりを知り、そして知ってもらい、ある程度交友を深めたところで。

 お誘いを、かけるのです。



 もちろんコトに及ぶ前に、うちの家訓の事や私自身の考え、なぜ、誘いをかけたのかという事を全て説明……白状と言っても良いですね、とにかく洗いざらい話してしまいます。

 その上で、合意してくれた方とのみ、実際に行為に至る、というわけです。




 私の話を聞いた方々は、様々な反応を示しました。戸惑う方、ショックを受ける方、憤る方……

 侮蔑の目を向けてくる方もいました。「この淫乱一家が」などと言われた事もありますね。


 『淫乱一家』って、なんだか語呂が面白いと思いませんか?

 私、失礼だと分かってはいたのですが……思わず笑ってしまいました。


 っと、これは余談でしたね。



 まあとにかく、そのような中で家訓や思想自体の理解は得られませんでしたが…それはそれとして、行為に及ぶのは吝かではない、といった方もそれなりにいました。

  そういった方々と交わり、しかし私の求めている『繋がり』を感じられるような方は、残念ながら現在まで、いまだ1人もいませんでしたが。


 少なくとも私は、極力その方々と丁寧に接し事情を説明をする事で、交わった方にも、そうでない方に対しても、自分なりの礼は尽くしているつもりだったのです。

 しかし、あくまで私なりの、であって、世間一般から見たら非常識極まりない事には、変わりありませんでしたね。



 そうして高校時代から幾人もの男性と関係を持った私は、やがていつしか、件の『清楚系ビッチ』という呼び名で呼ばれるようになってしまいました。



 通り名が定着し始めてから一度、自分自身の行動を改めて客観的に振り返ってみたのですが……


 何人もの男性に声をかけ、絆し、関係を結ぶ。まさに悪女のそれです。


 後から噂に聞いた話では、私に好意を抱いてくれていた方も、多くいたそうです。

 私の方から話しかけてきて。それから何度も会話を繰り返すうちに、好きになっていった、と。

 そして私の方からお誘いがあり、もしや相思相愛、今が男になる時かと意気込んでみたら。 

 私の方は、恋愛の意味での好意など、抱いていなかった。

 訳の分からない家訓の話をされ、「あなたと私の相性が良いかどうか知りたいので、しましょう」などと言われるわけです。


 思春期の純朴な男心を弄ぶ、悪女。




 事ここに至って、私はようやく、本当の意味での、『価値観のずれ』というものを理解しました。


 正直なところ。

 礼節をわきまえ、こちらの言い分をきちんと示しさえすれば、たとえ理解はされずとも、どちらも嫌な思いをする事は無いと、本気でそう思っていたのです。


 しかし実際にはどうでしょう。幾人もの男性の好意を無下に切り捨て、心に傷を負わせてしまいました。

 この時ほど、自分の行動を後悔した事はありません。なんて浅慮な女なのか、と。


 再三に渡り言っていますが、私は『清楚系ビッチ』と呼ばれる事それ自体には何の不満も、それを招いた事に対する後悔もありません。


 ですが私は、自分の事ばかりを考え、多くの人を傷つけてしまった。その事が、幸いにも健やかに育ってくれた私の良心を、強く苛んだのです。



 いっそ良心すらも、性交についての価値観と同様に普通とずれてしまっていたら、どんなに楽だっただろうかとも考えました。


 他人に嫌な思いをさせて、自分もこんなに苦しむのなら、やはり家訓に従うなんて、やめた方がよいのではと、悩みました。



 しかし、悩めども悩めども。




 両親達のとても幸せそうな姿が、どうしても頭を離れないのです。




…こう言うと、まるで両親が既にこの世にいないかのようですね。失礼。

 存命ですよ、父も母も、祖父母も。毎日、元気でいます。



 とにかくその、幸福いっぱいの両親の様子は、碌でもない事をやらかしてしまった後も変わらず、最も求めてやまない姿として、私の心の中に在り続けていました。


 私も、あんな風になりたい。

 幸せになりたい、と。




 何の事は無い。

 家訓とかそういった事以前に、最初から私は、自らの幸せだけを欲しがる自分勝手な女だった、というわけです。



 長い長い熟考の末にそれを認めた時、何だか、心がすーっと軽くなっていくのが分かりました。



 そうです。そもそも家族は、私の在りたい様に在れと言ったのであって、善く在れなどとは一言も言っていません。

…などと、好き勝手な事を考えたりもして。


 良心よりも何よりも、自分の欲求に従おうと、今度こそ自らの意思でそう決めました。

 勝手な自己解決ですね。ふふっ。




…それから。

 これは、私が声をかけた方々の、優しさなのですが。

 何人もの男性に、家訓の事、代々の風習の事を洗いざらい話したにもかかわらず、それが、噂として出回る事はありませんでした。



 周囲からの私の呼び名は『清楚系ビッチ』であって、『淫乱一家』ではない。



 その事が、酷い事をした、軽蔑の目で見た私に対しての……いえ、私の家族に対しての、それでも彼らがしてくれた配慮なのだと分かり。

 ぶり返した罪悪感と感謝の気持ちで、一杯になりました。



 きっと私、人を見る目は、あると思います。









 そういうわけで、自他共に認める『悪い女』になった私は、それと丁度同じ時期に、大学生になりました。



 自分の欲求に従おうなどと言ったところで、元来小心者の気がある私は、高校時代のようにあちらこちらに手を出して、悪女っぷりを遺憾無く発揮するというのには、流石に抵抗がありました。


 その末に結局、巡り巡って自分が苦しむのならば、それは自分勝手な私の望むところではない。

 そんな事を考えた私は、大学生になってから、男性に声をかける事がなくなりました。

 いえ、もちろん、最も相性の良い人と結ばれる、という目標は、変わってはいませんでしたが。


 これからは、本当の本当に「これは」と思った人にだけ声をかけようと、そう決めたのです。

 私、人を見る目には自信がありますからね。



 そうして今まで以上にえり好みをし、結局誰ともコトに及ぶ事がないまま、大学に入ってから1年と少し、つまり、現在まで来たというわけなのですが……





 入学した時点ですでに、高校時代の噂が、大学でもしっかりと一人歩きしていました。

 事実と無根が入り混じったそれは、身から出た錆でしたし、何と言っても私は悪女です。


 噂など、本気で気にする事も無いだろうと、特に否定する事なく、放っておきました。

 先ほども言いましたが、個人でどうにか出来るようなものでもありませんし。



 当然のごとく、私は独りになりました。

 いえ、入学当初から独りだったのですから、「なりました」というのもおかしな表現ですね。

 最初から、独りでした。


 私が好色家であるとの噂を聞きつけて、そういうお誘いをしてくる男性はいましたけれど。

 全て丁重にお断りしました。



 だって、私の眼鏡に適わなかったんですもの。



…今の台詞、結構悪女っぽくなかったですか?









 正直孤独というものは、かなり堪えるのではないかと思っていたのですが。


 あまり騒がしいのも苦手だし、一人というのも案外気楽で良いものだなんて、私の心はあっさりと孤独に適応してしまって。

 自分の思わぬタフさに驚きつつ、このまま一生独り身でも良いや、などと思い始めたらどうしようかと妙な心配をし始めていた頃。



 彼女と出会いました。



 そう、我が生涯の友、と私が勝手に思っている、彼女です。









−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−










 彼女との出会いは、大きな講演室で行われる、大人数での自由科目講義の場でした。



 少人数講義であればいざ知らず、この手の大規模な講義は、学生と教員の直接的な議論や意見のやり取りなどは、どうしても難しくなってしまいます。

 つまるところ、教員が教科書を淡々と読み上げるだけで面白みのない……もとい、学生の忍耐力を養う講義だったのです。



 そこに彼女は、見事に教科書を忘れてきていました。 



 まあ、それ自体はそう責められるような事でもない……訳では決してないのですが、彼女以外にも同じ境遇の方は教室全体にちらほら見受けられて、そう彼女だけを取沙汰して言う事でもないかなと、私は思っていたのですけれど。


 彼女にとって不幸だったのは―今の私からしたら幸運以外の何物でもないのですが―座っている席が最前列だった、という事です。


 文字を読み上げ、ページを捲るだけの教員の方も、たまには教師らしい事をせねばなるまいとでも思ったのでしょうか。

 最前列で教科書もなくぼーっと座っているだけの彼女を、注意しました。



 曰く、意欲が足りない。


 曰く、集中力が足りない、などなど。



 その投げたブーメランは果たして、きちんと手元に帰ってくるのだろうか……なんて思ってしまうほど自らを省みないその発言は、中々に教室内の空気を悪くしてしまいましたが。


 それを受けた彼女の発言は、それ以上に教室全体を凍り付かせました。




「あー…はい、すみません…隣の人に教科書見せてもらいます……ごめん、今日だけ見せてもらっていい?」




 前半は、クドクドと注意を繰り返す教師に向けて、後半は、隣に座っていた学生に向けてものです。


 あろうことか、彼女は隣の学生に、声をかけてしまったんです。




 学内のまともな人は、まず話しかけようなどと思わない、







――『清楚系ビッチ』に。







 誰よりもまず、私が驚きました。


 この人は、私の事を知らないのだろうか、と。

 見たところ、同学年。まさか同じ学年で、私の事を知らない人がいるだなんて。




「えーっと…だめ、っぽい?」




 特に残念がるわけでも、無理に要求を通そうとするわけでも、ましてや軽蔑の目で見てくるわけでもなく、少し気だるげに首を傾げる彼女の方に、私は思わず教科書を半分ほど寄せてしまっていました。



「ありがと。…すみません、今日はこれで勘弁してください」



 やはりどこか気だるげな雰囲気を隠そうともせず、明らかに気持ちが籠っていないと分かる謝罪で教師の説教を打ち切った彼女は、教室全体に漂う妙な緊張感に気付く事もなく、私と彼女の中間点にある教科書に目を落としました。

 というかその僅か数分後には、こっくりこっくりと舟を漕いでいました。


…何という肝の太さでしょう。









 結局、教室中が妙な空気のまま、その日の講義は終わりました。


 心なしか、いつもよりも騒がしく教室から出ていく学生達を見ながら、「あれ、今日なんかあったっけ?」などと寝ぼけ眼を擦る彼女。

 私はその彼女に、あまり私に話しかけない方が良いという旨を伝えてから、学生達に続いて教室を出ました。


 先程は驚いてしまいましたが。

 きっと彼女は、少し変わった人というか、あまり噂などを耳に入れない人なのでしょう。

 今日の出来事が広まれば、彼女の友人あたりが私について話してくれるとは思いますが、念のため、私からも言っておいた方が良いかと思ったので。



 確かその時背後から「もしや…リアル中二病か…?」という呟きが微かに聞こえてきた事は覚えているのですが……


 すっかり聞きそびれてしまっていたのですが、今にして思えば『中二病』って結局、なんだったのでしょうか?














 次の週。


 この日、教室の後ろの方に座っていた私の隣に、「おはよ。先週はどうも」なんて言いながら当たり前のように彼女が座ってきた時は一瞬、「もしかしてこの方は、噂話をする友人すらいないのでしょうか…?」と失礼な事を考えてしまいました。


 周囲の雰囲気は、或いは先週のそれよりもさらに歪にねじれていたような気がしますが、正直その時の私には、そんな事を気にかけている余裕はありませんでした。



「え?いえ、あの、え?え?」



 まさに混乱の極み。


 だって、普通思わないじゃないですか。

 また話しかけてくるなんて。



「あれ、忘れちゃった?あー、まぁそっか、わたしって影薄いしねー」



 何を仰るうさぎさん。



「い、いえ、そうではなく……何故私に、話しかけてきたのかと思いまして…」


「んー、何となく、目に入ったから?あと、改めて先週のお礼言っとこうかと」



 律儀なようなそうでないような……いえ、ですからそうではなく。



「あなたは、私の事を知らないのですか…?」


「…?知ってるから話しかけたんだけど」



 そういう意味ではありませんっ。



「……あーっと、もしかして…あんたが呼ばれてるらしい、ネットスラングをリアルで使うに等しい痛々しいあだ名の話?」



 ネットスラング……というのは恐らく、インターネット上での隠語、のようなものでしょう。

 妙に勿体ぶった言い回しではありますが、彼女が言いたい事は、まさしく私の意図するところです。



「知っているのなら、どうして…」


「別に、噂は噂だし。ホントの事なの?」


「っ…」



 何の予備動作もなく、核心を付いてきました。


 真偽を問わず、噂は気に掛けないつもりではありましたが、やはり面と向かってこうも直接的に聞かれると、一瞬言葉に詰まってしまいます。


 ですが。



「…ええ、本当の事です」



 その大元にあるものは、真。

 なので、私は肯定の意を示しました。



「ふーん、そっか」



 なのに。


 なのに彼女は、私の言葉をさして気に掛けるでもなく、先週と同じく気だるげな雰囲気を漂わせながら、カバンから教科書を取り出そうとしています。



「あ、今日はちゃんと持ってきたから。決して、今週も貸してもらおうとか、講義とか面倒くさいけどホントに中二病か否かを確かめに来たとか、そういうのじゃないから」



 また、『中二病』なる単語が出てきましたが、この時もまた、それを気にしている場合ではありませんでした。



「噂が本当なのだとしたら、私とは関わらない方が良いでしょうっ」


「…うーん…公的な人付き合いならともかく…私的な領分でわたしが誰と関わるかなんていうのは、わたしの一存で決める事であって、そこに噂の真偽が入り込む余地はない、みたいな?」


「それはっ…」



…確かにそうです。

 彼女が私と関わる事で危惧されるのは、彼女への在らぬ風評被害のみであって……私には直接の影響はないでしょうし、彼女が自身への悪評を良しとするのなら、それは外様がとやかく言う事ではないのでしょう。



「…ていうかあれか、中二病の正体はこれか……なんか、枯れ尾花的な肩透かし感あるなぁ…」



 ですが、そもそもの疑問として。



「…なぜ、噂の事を気にしないんですか…?」


「なぜって…気にしてないから?」


「答えになっていませんっ」


「えー…ほら、あれ、趣味嗜好は個人の自由ってやつ?」


「趣味嗜好ではありませんっ」


「あれ、違うの?じゃあ何?…もしかして無理やりとか?」


「違いますっ」



…何なのでしょう、この人は。


 私がこの時点ではそう思ってしまうのも、無理からぬ事だったと思います。

 のらりくらりというか、適当というか。


 今ではその、打てば妙に軽快に響くような受け答えが、心地良いものに感じられるのですけれど。




「じゃあなんなのさー」


「…簡単に説明できるような事ではないんです」


「じゃあ詳細にがっつり説明してよー」



 本当に適当で、顔見知り程度の相手から、お世辞にも良いとは言えない噂の詳細を聞き出そうとする。

 私が言えた事ではないですが、全くの非常識というものでした。


…ただ。

 そのあまりの適当さに一瞬、本当に全部吐き出してしまいたいな、なんて思ってしまったんです。


 こんなよく分からない人に向かって何を、とすぐに思い直したのですが……何故かこの時妙に、自分の欲求に素直に、っていう気持ちがむくむくと湧き上がってきて。


 今思えば無意識のうちに、この人になら……って、考えていたのかもしれません。

 やはり私には、人を見る目があったようです。



「…分かりました。覚悟してくださいね…」


「よしきた。取りあえずポップコーン1つ、Mサイズで」


「茶化さないでくださいっ」



 私は久方ぶりに、そして女性に対しては初めて、家訓の事、生き方の事、私自身の事を話しました。


 講義が始まるまでは、時折彼女の回りくどい言い回しでの茶々を入れられながら、口頭で。


 講義が始まってからは、ほとんど私からの一方的な筆談で。あ、いえ、彼女も「へー」や「ふーん」といった相槌を筆記でしていたのですが……それに意味はあったのでしょうか。














 全て伝え尽した頃には、とうに講義も終わっていました。


 何枚ものルーズリーフに書き連ねられた『私』を、全て呑み込んだ彼女は。






「まず言いたいのはさぁ、あんたは『清楚系』じゃなくて、正真正銘の『清楚』だって事だよね」






 などと宣いました。




「…は?」




…何を言っているのでしょうか、この人は。

 この時私はまたしても、そんな風に思ってしまいました。



「『系』って言葉でお茶濁す感じじゃなくてさ、見た目的にも中身的にも、辞書に典型例として載せられるレベルで清楚だと思うわけよ、わたしは」


「…複数の男性と関係を持っている時点で、清楚ではないのでは…」



 だから『系』なのだろうと、私の中の冷静な部分が突っ込みを入れます。



「ちゃんと理由があるじゃん」


「いえ、理由があれば良い、というわけでもないのでは…」


「わたしの中では良いの」



 あなたの中だけの話ですか。



「そうだよなんか文句あるのか―」


「世間様からの非難はあると思いますよ」


「……………それ言っちゃう?」



 事実でしょう?



「そーだけどさー…」



 この時、うーうー唸りだした彼女を言い負かせた事に、少し嬉しさを感じたのを覚えています。どうしようもない小さな事ではありましたが。



「…いーや、やっぱり良い。わたしの中でそうだったら、それで良いんだよー!」



 まるで子供の言い分です。


…ですが。

 私だって「自分が良ければそれで良い」をモットーに掲げる自分勝手な悪女です。

 だから、彼女の主張をこれ以上突き崩すのは、やめにしました。

 少し、共感できますから。



「…というか、それだけしか言う事は無いんですか?清楚云々の話しかしていないのですが…」



 他に彼女は、何を思ったのだろう。少し、いいえ、結構、気になりました。

 破天荒な発言を繰り返す彼女を見ているうちに、私の、常人には理解しがたいであろう考えを、面白おかしく笑い飛ばしてくれるのではないか。

 そう、思うようになっていました。



「んぁー、まぁ色々と思うところもあったりなかったりするんだけど……総括するなら」


「するなら?」








「そういう考え方も、あるんだなーって」








 今度こそ、間違いなく、息が詰まってしまいました。



 それは、つまり。



「いやね、あんたがコトに及ぶのにはさ、あんたなりのちゃんとした信念とか、目標?とか、ルールとか、そういうのがあって……そのまた下にはさ、それの基盤になる家訓とか、家に対するあんたの思いとか、そういうのがあって」



 ああ。 



「そういうのを積み重ねた上で、してるんだったらさ、それは、真っ当な手段ていうか、わたしの考えるビッチ像とイコールにならないっていうか……どう言えばいいのかなぁ…うーんごめん、全然総括出来てなかったわ」



 視界が、少しずつ、歪んでいってしまいます。



「あーまぁ確かにこれは『趣味嗜好』っていうより」



 まさか、まさか。

 家族以外で。








「『価値観は人それぞれ』って感じだよねぇ。わたし感心しちゃったよ。『なるほど、そういう考え方もあるのか』ってねー」







 私の事を、受け入れてくれる人が、いるなんて。



「あーでも…さっきも言ったけどさ、あくまでわたしの中ではって話だからね?あんたが言った通り、世間様にはぶーぶー言われるだろうねぇ…てか言われてるか、実際」


「…何、ですかっ……あなたっ…の、中だけですかっ……!」


「ああそーだよ悪いかー」


「…………悪く、っ…ないです……っ…」


「なら良し。だからつまり、わたしの中では、あんたは噂に聞くようなビッチじゃないって事で」



…嬉しくてたまりません。


 ビッチじゃないって言われた事が、ではなく。

 そんな、小さな部分ではなく。



「そこで最初の話に戻るんだけど。『系』も外れて、『ビッチ』も抜けたらさ。あーら不思議、完全無欠な『清楚』が1人」



 口では、気にしないなんて言っても。

 やっぱり、本当は。

 1人だけでも、欲しかったんです。



 彼女もきっと、普通とはずれている。

 でも、ずれているからこそ、分かってくれた、の、でしょうか。



 いえ、ずれているとか、ずれていないとか、もう、どうでも良かった。

 ただ、『誰か』に、分かって欲しかった。







「というわけで。あんたはわたしの中では、他に類を見ないほどに清楚ってわけ。分かった?」






 全てが。



 認めてくれた事、全てが。



 嬉しくて、たまらなかった。











−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−







 昼休み、食堂にて。


 今日も今日とて、清楚オブ清楚な彼女と待ち合わせ中。



 今日は2人とも午前で講義が終わりなので、一緒に食事をした後、彼女の買い物に付き合う事になっている。


 わたしとしては、彼女が普段口にするものとかに何か、所謂清楚成分的なものが含有されているのではないかと4割くらい本気で考えているので、今日の買い物でその秘密の一端を明らかにしてくれよう、と意気込んでいるわけなのだが。








「…ぼっち飯とか、憐れすぎて目も当てられないんですけど」


「お前にはまだ見えんようだな。15分後、ここに現れる彼女の姿が…」


「見えてたまるか」







 見知った……いや聞き知った声による容赦ない罵倒に、ほとんど反射的に何も考えずに返事をする。

 すると向こうもそれに対して、間髪入れずに容赦ない突っ込みを再度入れてきた。


 相変わらずよく切れる旧友だ。その調子で、今私の手の中にあるリンゴも切ってはくれないだろうか。ウサギちゃんに。


…というかなぜわたしは、メニューの豊富さに定評があるこの学食で、よりにもよって一切の加工が為されていないリンゴなぞ購入してしまったのだろうか。

 いや、そもそもなぜそのままで売られているのだ、リンゴよ。 



 まぁ、この世界で起こる全ての出来事には何らかの理由がある、なんていう考え方もあるらしいので、わたしが未加工のリンゴを買ったのも、この高校来の数少ない友人が、突然言葉のナイフで私を切りつけながら現れたのも、きっと何か深淵なる理由が存在するのだろう。

…やはり、この友人にリンゴを切ってもらうべきなのではないか。言葉で。



「で、どしたの急に」



 とりあえず、通り魔的に切り裂かれた理由くらいは知っておきたい。



「別に。一人寂しくリンゴ齧ってる知り合いがあまりにも憐れだったもんだから、ちょっと声かけただけ。…てかなんでアンタ、リンゴ食ってんの」



 それはね、お前を食べるためさぁ!



「リンゴ食えよ」



 じゃあ、お前に切ってもらうためさぁ!



「あたしナイフとか持ってないんだけど」



 その恐ろしくもどこか美しさを感じさせる言葉の刃でざっくりいっちゃってくださいよ。 



「……アンタ、相っ変わらずなんも考えないで喋ってるわね…」



 わたしだってわたしなりに、日々色々な事を考えながらのんべんだらりと必死に生きているのだというのに、どうにも酷い言い草である。



「へー。じゃあ今、何考えてたか言ってみ」


「彼女をTHE・清楚だとするなら、この旧友はさしずめギャルまっしぐらと言ったところか」


「悪かったわね、清楚じゃなくて」



 勘違いしないで貰いたいのだが、わたしは決してギャルが清楚に劣ると言っているのではない。そもそもギャルと清楚では、あまりに方向性が違いすぎるのではなかろうか。


 同じ土俵での比較ならいざ知らず、カテゴリーの違うものを比べて優劣をつけるなどという、格別な審美眼でも持っていなければ不可能にしか思えないような事、この平凡を地で行く私には出来るはずもなし。



「いや、普通の人はみんなやってるでしょ、それくらい」


「人は人、自分は自分」


「もう黙れよ」



 どうしてもというのなら、まぁ黙らない事もないけれど。

 わたしとの会話を拒否してしまうとは、この旧友は本当に何のために声をかけてきたのだろうか。



「…声かけたのは、ホントにたまたま、見かけたから。…アンタ、相変わらずアイツとつるんでるみたいね」



 ええ、おかげさまで。今日もこれからショッピングですわよ。


…あ、そういえば。

 彼女と出会ってから、もう半年以上になるだろうか。


 


「……あのねぇ……アイツ最近、女にも手ぇだしてるって噂よ」









−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−








「アイツ最近、女にも手ぇだしてるって噂よ」




 待ち合わせをしていた食堂で、座っている後姿を見かけた彼女に、声をかけようとして。


 しかし、その向かい側に座っていた方の声が聞こえ、わたしは思わず足を止めてしまいました。




…あの、少し派手な格好の女性が口にしたアイツ、というのは十中八九、私の事でしょう。

 この大学で流れる、ほとんどの噂の当事者は、私ですから。

 逆に言えば、私以外は素行の良い学生ばかり、という事でもあります。


 その辺りは一在学生として、少し嬉しく思いますね……なんて、そのほとんど唯一と言っても差し支えない素行不良者が言う事ではありませんが。




 しかし今耳にした噂は、私もまだ聞いた事のない、比較的新しいもののようです。

 なるほど、あの阿婆擦れがついに同性にも手を出し始めたぞと、そういう事でしょうか。


 まあ何と言いますか、およそ考え得る限りの『ビッチ』らしい噂は、もうほとんど出尽くしてしまっていますし……恐らく、これ以上噂を増やすとなると、もうそういった方向性くらいしかない、という事なのでしょうが…



「おーおー、ほんと尾ひれっていうのは、元の魚の体積をまるで無視して無尽蔵にくっついていくものなんだねぇ。全く鱗じゃないんだからさー。ひれだよ、ひーれ」


「アンタのその、人を馬鹿にしたような減らず口もホント無尽蔵よね。鱗と良い勝負よ、削いであげましょうか」


「……すんません…」



…中々過激な会話をなさっているみたいですね。

 何だかとても打ち解けた雰囲気ですし、それなりに古い付き合い、なのでしょうか。

 いつも通りの気だるげな表情も、今はどこか、ほんの少しだけ、生き生きとしているような…


 これはなかなか、声がかけにくくなってしまいました。

 私は元来、人見知りなのです。友人の友人、などと顔を突き合わせても、大して面白い会話もできないでしょう。

 そもそも、あちらの方は私と同席なんて、したくないでしょうし。

 噂話の最中に、その当事者がひょっこり現れでもしたら、気まずくなってしまうのは確実。



 仕方ないですが、あの女性が退席するまで、しばらく様子を窺う事にしましょう。



 私は、2人の会話がギリギリ聞こえ、かつ目に付きにくい絶妙な配置の席に腰を下ろし。

 お昼時でそれなりに混雑しているために辺りを飛び交う種々雑多な声の中から、2人の会話を拾おうと聞き耳を立てます。


 


「…てかさぁ、その手出されてる女って、アンタのことなんだけど」




…なんと。



「覚えがありませんなぁ、いや全く」



 私は、少なからず驚いてしまったのですが。

 彼女の方は、全く動じていないようです。



「マジでヤったかヤってないかは知らないけどさー……アイツと2人でいるだけで、そういう噂が流れてくんの」


「女性2人が一緒にいただけでそんな噂が立つとは……なに、この大学やっぱ禁断の同性間恋愛ゲームの舞台なの?わたしがこの物語の主人公的な?」



…いえ、やっぱりもしかしたら、少し動揺しているのかもしれません。ああでも、ああいう言い回しはいつもの事でもありますし…



「えー困ったなぁ…ヒロイン彼女とあんたしかいないんだけど。ルート2つしかないって昨今の美少女ゲームとしてどうなのさ…」



 えっと、多分、あまり動揺していない、かな?

 出会ってから半年余り、正直、いまだに彼女の事が分からない時があります。


 今、向かいに座っているあの女性には、分かるのでしょうか。



「仮にあたしとアンタが2人で仲良く腕組んでたとしても、別に何にも言われないわよ。あの女だから問題なの」


「…あ、嫉妬?」


「しばくぞ」


「ゴメンナサイ」



 阿吽の呼吸で漫才を繰り広げている様は、何故か、見ていてあまり良い気分がしません。



「はぁ……あのねぇ、これでもあたし、心配してんのよ。アンタの数少ない友達なんだから」


「………………いま、ちょっときゅんと来た」


「茶化すな」


「うぃ」



 会話を聞いていると、分かります。

 あの女性は、言葉は乱暴だけれど、本当に彼女を心配しているんだって事が。


 私といると、良からぬ噂を立てられる。

 実際、あの方の危惧通り彼女を巻き込む形で、新しい噂が出回り始めています。

 それによって、彼女が肩身の狭い思いをするのではないかと、気にかけているのでしょう。友人として。


 良い友人です。私とは大違いの。



 彼女はあの時、私に向かって、噂は噂、自分は気にしないと、確かにそう言ってくれました。

 私といる事で被害を被る可能性を知ってなお、私の隣の席に座ってくれました。


 その事は、とても嬉しかった。


 だけど。


 いざ、彼女が噂の渦中に立たされているのを知ってしまうと、やはりどうしても、辛いものがあります。


 彼女に受け入れてもらえて、拠り所のような人が出来て、今度こそ本当に、自分の噂というものはあまり気に留めなくなりましたけど。


 私ではなく彼女が、その対象になってしまうのは、やっぱり嫌です。



「あー、心配してくれるのは、ありがたいよ。うん、ほんとに」



 やはり……やはり、彼女とは少し、距離を置くべきなのでしょうか。





「でも、わたしは全然、気にしてないから」




「…ホントに?」


…本当に?



「ほんとほんと、ガチ過ぎて逆にやばい」



「…ホントの、ホントに?」


…本当の、本当に?



「ほんとだってー。もうやばいって。何がやばいってもうやばい。いやほんとやばい。やばいやばい」






…あなたが本当に、欠片も気にしていないというのなら。

 これからも、一緒にいてください。






「……そんだけ意味不明な事言えるなら、まぁ、大丈夫そうね」


「でしょでしょー。ってか逆にさ、あんたが大丈夫なん?わたし今、彼女のコレ(・・)だよ?」



 そう言って小指を振る彼女。

 何でしょう、妙に、照れます。



「そのわたしとぉ、仲良くお喋りしててぇ、大丈夫なのぉ〜?」


「うっざ……はぁ」


「……え、ちょっとそういうのマジで効くからやめて、ね?」



 噂。

 私が彼女に、手を出した、という。



「……まぁ、私も大丈夫よ。変な事言う奴いたら、しばくから」


「こわっ。元ヤン今ギャルこわっ」



 えっと、その。

 噂はただの、噂なのですけれど。



「ねぇねぇ元ヤンさーん。やっぱ今も家に置いてあんのっ?釘バットとかっ」


「最初からないわよ」



 この、噂を流し始めた人が、あの。

 どういう意図で、そういう方向に持って行ったのか、とか。 



「じゃあめっちゃぎんぎらで、背中に( `・∀・´)ノヨロシクって書かれた一張羅とか取っておいてるのっ?」


「あるわけないでしょうが」


「えーヤンキーなのにー?」



 そういう事を知っておけば、何か、こう。

 た、対策?に、なる、という、か。



「顔文字背負うヤンキーがいるか……ってか、最近のヤンキーはあれよ、地味目なのよ」


「じゃあなんで今は、こんなギャルギャルしい格好になってんの?」



 そう、ちょっと。

 噂を流す、側の気持ちにも、なってみましょう、と、いいますか。



「……………………大学デビュー」


「フッ」


「よし、その齧りかけのリンゴと顔面をテーブルの上に置け。今すぐ。アンタの大好きなウサギちゃんにしてあげるから。ほら。ほらはよ」


「…………リ、リンゴだけで、勘弁してください…」




 想像、あくまで、想像なのです、けれど。

 万が一、億に一つ。


 彼女と、致す事になった、としたら。


 まずは――




「うしっ!」




 ――っ!!

 わ、私は、一体何をっ。



「話もできたし、あたしはそろそろ行くわ。ま、気を付けなさい。何にかは知らないけど」


「さっき話しかけてきた時と今の温度差が凄い。デレ期?」



…何という事でしょう。

 あれだけ、彼女が噂の渦中にいるのは嫌だと言っておきながら。

 危うく、如何わしい想像を…



「はいはいデレ期デレ期」


「キンキンに冷えてやがる…」



 こっ、これでは本当に、ふしだらな女ではないですかっ。



「でもホント、気を付けなさいよー。もしかしたらアイツに、マジでヤられるかもしれないわよー」


「分かった分かった」



 いえ、私と彼女は、友人同士なのですっ。

 噂など瞬く間に立ち消えてしまうような、健全なお付き合いをですね…



「……実際のところ、もしよ?もし、そんな雰囲気になったら……アンタどうする?」


「えー…」


「もしもよもしも。万が一。億に一つ」


 そう、万が一、億に一つなど、あっては。








「んー……状況如何によっては、受け入れる事も吝かではない………なーんて」








……え?
















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