電通を創った男たちNo.76
2015/04/11
松本豊三と電通の満州・大陸帰り、
復員軍人たち(1)
電通銀座ビルに多くの満州帰り、大陸帰り、復員軍人が
敗戦から4年を過ぎた1949年11月、満州マスコミ界のトップにあったひとりの男が、当時の電通社長、吉田秀雄に乞われて電通に入社した。松本豊三という。
この松本豊三をはじめ、当時、電通銀座ビルに集まり、電通を大きく変革させた満州帰り、大陸帰り、復員軍人たちの名と彼らの業績とを、半世紀を経た21世紀の今日、思い起こす者はほとんどいない。しかし、戦後の電通の発展は、松本をはじめとした彼ら満州帰り、大陸帰り、復員軍人たちの力に負うところが極めて大きかった。彼らは、メディアブローカーの域を脱していなかった電通に何本もの横串を差し込み、多くの風穴を開け、古いしがらみを切り捨て、新風を吹き込んで社風を一新し、しばらくするとその風穴から去って行ったのである。
1981年1月から5月まで、『週刊朝日』は18回にわたり、田原総一朗によるルポルタージュ「電通」を連載した。当時の電通は、「マスコミを陰で操る伏魔殿」といったような、あらぬ評判を立てられがちであったが、その実態を知る手掛かりは乏しかった。これは当時の電通が株式未公開の企業であったこともあり、手に入る電通の客観的オープンデータが少なく、噂のみが先行し増幅していった結果によるところが大であった。
これらのあらぬ噂話に比し、田原は数多くの電通社員や関係者に精力的なインタビューを重ね、電通側も田原の求めに応じて豊富な社内資料を提供し、この連載はそれまでにない中身の濃い画期的な電通レポートとなり、巷間の話題を呼んだ。その一節に、次のような文章がある。
広告業界の連中は、だれもが電通ビル(旧電通ビル、中央区銀座7-4)を「第二満鉄ビル」と呼んだ。あまりに満鉄関係者が多かったからである。それにしても、吉田は、経営が危機に瀕していた時期に、なぜ、広告のことを皆目知らない、いわば使いものにならない連中をこれほど集めたのか、
この文章の次に田原は満鉄関係者や旧軍人など、24人の名を挙げているが、その中に、松本豊三の名が含まれていたのはもちろんである。 これらの人々をはじめ、どのような満州帰り、大陸帰り、復員軍人たちが当時の電通社員名簿に名を連ねていたのかを、先ずは記しておこう。
主だった満州帰りの人々は、以下の通り。
市川 敏:満州国国務院総務庁弘報処長から電通東京本社総務局長、専務取締役
松本豊三:神戸又新日報(こうべゆうしんにっぽう)編集局長、満鉄総裁室弘報課長、満州日日新聞社長、満州日報理事長、満州新聞協会理事長から電通秘書役、大阪支社ラジオテレビ局長、同企画調査局長、副社長
米野豊実:満州日日新聞編集総局長、取締役から電通東京本社企画調査局部長待遇
森崎 實:時事新報社会部、政治部、満州新聞新聞局長、満州日報編集局長から電通東京本社企画調査局出版部長、企画調査局長、開発局長、電通PRセンター会長、ビデオリサーチ社長
高橋 渡:満州日報業務局長から電通東京本社営業局中央部長、営業局長、大阪支社営業局長、副社長
高橋威夫:満鉄文書課長から電通東京本社総務局長、常務取締役
古賀 叶:満鉄錦州鉄道局長から電通東京本社ラジオテレビ局長、経理局長、常務取締役、副社長、JIMA(電通グループの外資系広告主扱い広告会社)社長
芝田研三:満鉄、満州日日新聞取締役から電通大阪支社ラジオテレビ局長、関西テレビ常務取締役
金澤覚太郎:満州放送総局副局長から電通東京本社東京放送創立委員、ラジオ東京編成局長、日本教育テレビ編成局次長、日本民間放送連盟放送研究所副所長
古瀬甲子郎:満州日報営業局次長から電通大阪支社営業局次長、日電広告(電通グループの案内広告専門会社)社長
小谷重一:満鉄旅客課長から電通東京本社営業局外国部長、PR部長、営業局次長、国際広告局長、米州総局長、JIMA専務取締役
市川雄次:満州製鉄から電通東京本社PR局長
松方三郎:満鉄、同盟通信、満州国通信社社長、共同通信専務理事、電通社外取締役
塚本義隆:同盟通信経済局長、総務局長、満州国通信社社長、電通社外取締役
電通銀座ビルを「第二満鉄ビル」と呼んでもあながち誇張ではないほど、錚々たる満州帰りの顔ぶれが揃っていた。
大陸帰りの人々としては、
森山 喬:朝日新聞東亜部次長、上海の大陸新報専務取締役から電通秘書役、東京本社経理局長、ラジオテレビ局長、常務取締役、副社長
峯間信太郎:天津米穀統制会理事長から電通東京本社連絡総務、電通映画社社長
復員軍人の人々としては
塚本 誠:陸軍大佐、東京憲兵隊特高課長から電通東京本社連絡総務、取締役
横山一三:陸軍大尉から電通東京本社総務局長、経理局長、常務取締役
大津大八郎:陸軍大尉から電通東京本社万国博室長、人事局長、専務取締役
岩田正孝:陸軍少佐から電通東京本社総務部長、総務局次長
これらの人々の中でも、特に抜きんでていた大物、松本豊三と、共に満州のマスコミ界をしょって立ち、その後電通に入社し、吉田から新設のビデオリサーチ社長就任を頼まれた森崎實、吉田の描いたPR、国際広告の夢の実現にまい進した小谷重一、彼らを見いだして、電通のかけがえのない人材たらしめた吉田秀雄の4人を中心に、その業績を追ってみたい。
(文中敬称略)
◎次回は4月12日に掲載します。