故郷神戸駅の歴史今昔/茜堂 | |||
我が故郷神戸駅の写真で見る歴史=茜堂 |
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汽笛一声新橋より二年後の、明治7年5月11日、大阪~神戸間に、第二の鉄道が開業され、神戸駅が誕生します。 神戸駅から大阪駅までの全長は、32.7Kmで、神戸駅~三ノ宮駅間は、複線で開業しました。 その事から神戸駅は、同率乍ら、日本で2番目に開業した駅となります。 ● 当時の大阪~神戸間の所要時間は、1時間10分。料金は上等=1円、中等=70銭、下等=40銭。 現在の金銭感覚では、当時の1円は現在の1,000円程度で、下等運賃40銭では実に4,000円となる。 ● 明治22年7月1日には、新橋~神戸間の官営鉄道が、全線開通します。実に片道20時間余りの長旅でした。 当時の、新橋駅~神戸駅間は、長浜駅までの支線を除き、全長605.6Kmで、大正3年12月20日に、東京駅が誕生します。 東海道本線の終点が、大阪駅では無く神戸駅なのも、当時の終点を、現在に受継いでいるからなのです。 ● 因に、現在の東海道本線は、隧道等の新設や路線の整備等で、支線を除く全長589.5Kmに短縮されています。 それでは、歴代の神戸駅舎の移り行きを、茜堂所蔵の明治期の鶏卵写真や、絵葉書等で紹介致します。 写真キャプション上の丸数字は、下段に有る地図にて、大凡の撮影位置を示しています。 ● |
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写真-1、初代神戸停車場(東側)、レンガと木造平屋駅舎、茜堂所蔵の鶏卵写真。 明治7年4月30日に、竣工(完成)した、初代の神戸停車場は、 現在の神戸駅から、少し東南寄りに位置し、駅舎は線路の海側に造られていました。 客車庫、客車修繕工場、仕上工場等のヤードは、駅舎山側に設けられています。 ● 駅舎の設計は、英国人の設計による物で、レンガは貴重な輸入品で、 英国から運ばれたレンガは、一個づつ、丁寧に紙に包まれていたとの事です。 また、ビードロと呼ばれた、ガラスの窓も設けられ、当時では、最先端の建物でした。 ● |
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駅の西側から、上り方面を向いています。 駅前には、広場が設けられ、 立派な公園、庭園や、噴水も備えられていました。 |
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写真下-2、初代神戸停車場(西側)、レンガと木造平屋駅舎、茜堂所蔵の鶏卵写真。 当時は、神戸ステーションの呼称の他に、兵庫ステーションや、川崎ステーションとも呼ばれていました。 構内には、鉄道寮(工部省鉄道寮神戸支寮)や、山側には駅長官舎が、海側には職工官舎、外国人官舎が建ち並んでいます。 火の見櫓等が設けられ、また、当時では珍しい噴水も、駅前に備えられています。 ● 当時のホーム形式は、2面2線の相対式で、機回し線がその真中に、1本走っていた様です。 初代の駅長は、副島氏が努め、駅長の制服は、2列の金ボタンが並ぶ、英国製ラシャ地仕立ての、折襟マンテルと言う物で、 制帽は黒ラシャ地に金帯巻、前章は金属製で「丸に工」の浮彫りが、あしらわれていました。 ● その斬新な制服の、出立ちから、目新しく洒落たと言う意味を持つ「ハイカラさん」と、呼ばれていました。 ハイカラは、文明開化の明治時代に流行った言葉で、語源は「high color」では無く、高い丈の襟(high collar)から来ています。 |
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我国初めての、鉄道桟橋、 その姿は、記録写真としても、余り露出は無く、 非常に気宇な、存在となっています。 |
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日本で初めての、鉄道桟橋は、 海と陸を結ぶ、重要な桟橋です。 高架の上には、貨物が見て取れます。 |
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写真-3、初代神戸停車場先の鉄道桟橋、有蓋車と無蓋車が写っています。茜堂所蔵の鶏卵写真。 船からの、貨物積み降ろしの便を図る為に、神戸駅構内の海寄りに設置された、我国初めての鉄道桟橋。 鶏卵紙印画(アルビューメンプリント)は、100年以上も前に使われていた印画技法で、 鶏卵紙は、コロジオン湿板ネガを密着し、太陽光で焼付けした後、水洗と定着だけで、プリント出来る印画紙です。 ● |
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写真-4~5、初代(明治7年4月30日)構内。二代目(明治22年3月7日)神戸停車場、茜堂所蔵の絵葉書(発行元不明)。 明治33年9月1日、逓信省令第42号郵便規則第18条に因り、私製はがきの発行が認められます。 右下の写真は、明治8年撮影の初代神戸停車場構内、外国人を含む鉄道員達が、無蓋車でポーズを取っています。 ホーム中程には、輝く大きな砂箱が特徴のSL、2号機関車(2-4-0、後の120形)が、顔を覗かせています。 ● 左上の写真は、明治45年撮影のニ代目神戸停車場構内、ホームには、ダブルルーフ(二重屋根)の荷物車が、停車しています。 中央には、客車を牽くSLが前進して来ます。形態から見て、神戸工場製の国産1号機の860形と思われます。 広大な構内の左側には、埠頭に向かって大きくカーブをする、数本の線路も写されています。 ● |
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写真-6、二代目(明治22年3月7日)神戸停車場構内(大正15年~昭和元年度、神戸驛要覧、グラビア印刷)。 明治45年撮影のニ代目神戸停車場構内、ホームには、ダブルルーフ(二重屋根)の客車や荷物車が、停車しています。 手前には、車掌室が設けられた、無蓋車を牽引する、神戸工場製の国産1号機の860形が、煙を上げています。 本線4本、山陰発着線3本、東京線4本、裏線10本、機関庫線9本、中線10本、貨物線8本、奥には洗條線9本と壮大です。 ● 神戸駅の最大規模の姿で、これ以降は拡大される事もなく、昭和3年5月1日には、神戸鉄道局は大阪へ移設され、 その後、諸々の設備は、昭和9年12月5日迄には、駅舎共々全廃される事となります。 |
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鉄道桟橋手前に、設置された、 ニ代目神戸駅時代の、貨物上家。 船に向かう全車両が、ここを通ります。 |
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写真-7、ニ代目駅舎時代、神戸貨物上家ホームに停車の、荷客牽引の28650蒸気機関車、茜堂所蔵の絵葉書(発行元栄屋印行)。 貨物上屋では、一般的な構造として、ホーム側の側面は開放型で、反対側の側面は壁になっていますが、 特殊な場合、前面にも壁が有り、荷物の搬入等の為に、壁の一部が開放されているか、扉になっているものも有ります。 お分かりのとおり、当駅では、ホーム側に堅牢な扉が設置されて、特に重用視されていた施設である事が、良く分かります。 ● |
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写真-8、ニ代目駅舎時代、神戸貨物上家ホームに停車の、荷客牽引の28650蒸気機関車、茜堂所蔵の絵葉書(発行元不明)。 上記の写真とは同一アングルですが、撮影時間が異なり、人力車の車夫、ホーム上には制服姿に腕章の職員や、 機関車の前にも、制服姿に腕章の職員がいます。その傍らには荷物掛かりの方々等、結構な人影が写り込んでいます。 全ての掲載絵葉書は、切符対比で、85%の縮小となっています。 ● 場所は、ニ代目神戸駅舎の手前から、大きく海側にカーブをした、鉄道桟橋の手前に建てられていました。 画面の機関車は、大正8年に汽車会社で製造された、28650で、船車連絡の為に停車しています。 横のホームの建物は、神戸貨物上家で、壁には「たばこのむな NO SMOKING」の表示が、見て取れます。 ● 場絵葉書の発行元は、上段が栄屋印工ですが、下段には、ハネ写真で版元が異なるのか、発行元が記されていません。 また、写真キャプションの括弧内では、上段が(神戸)に対して、下段では、少し変更をし(貿易の神戸)となっています。 |
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二代目の駅舎は、今より北側に位置し、 明治22年3月7日に、開業した後、 昭和6年10月9日迄、営業。 |
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写真-9、二代目(明治22年3月7日)神戸停車場(駅西側)、駅舎は煉瓦造、茜堂所蔵の絵葉書(手彩色、発行元不明)。 二代目駅舎は北側に移り、開業と同時に、神戸鉄道局も新舎屋内に移設されました。写真は開業当初の姿を維持しています。 西側が良く分かる写真で、下の写真と比べて、まだ、1階と2階の窓には、日除けの幌が設置されていません。 また、西側には人力車の姿が無く、荷役に使う大八車(リヤカー)が、所狭しと置かれています。 ● 駅舎の移転開業後、約4ヶ月経った明治22年7月1日に、新橋駅~神戸駅間(376哩31鎖≒605.6Km)が、全通開業します。 所要時間は、上り列車が、20時間10分(表定速度=毎時30Km)、下り列車が、20時間5分(表定速度=毎時30.2Km)。 運賃は、上等=11圓28銭、中等=7圓52銭、下等=3圓76銭。有効期間は、300哩(マイル)以上となり、通用期限5日間の有効。 ● |
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写真-10、二代目(明治22年3月7日)神戸驛(西側)、駅舎は煉瓦造、茜堂所蔵の絵葉書(手彩色、発行元不明)。 駅前の道幅も狭く、路面電車(神戸電気鉄道、後の神戸市電)の線路が、まだ敷かれていません。 神戸電気鉄道に、内務省から敷設特許が交付されたのが、明治39年11月の事(開業は明治43年4月5日)ですから、 明治後期頃の神戸駅で有る事が、分かります。以下、1階屋根下に、ひさしと小窓が増設されています。 ● |
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写真-11、二代目(明治22年3月7日)神戸停車場(駅東側)、駅舎は煉瓦造、茜堂所蔵の絵葉書(手彩色、発行元不明)。 写真-14の手彩色版で、外国人向けの高級絵葉書で、下の国内向けと比べ、可成り丁寧に手彩色が施されています。 駅舎前の電柱もまだ真新しく、以下の画像とは異なり、垂直に立ち並び、傾き等はまだ有りません。 改築が施され、一階の屋根の下側にひさしが追加され、屋根とひさしの間に、明り取り用の側面小窓が設けられています。 ● |
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写真-12、二代目(明治22年3月7日)神戸停車場(駅東側)、駅舎は煉瓦造、茜堂所蔵の絵葉書(手彩色、発行元不明)。 珍しい東端からの写真で、数多くの人力車と車夫が映っています。電信柱がかなり傾いているのが分かります。 人力車は、明治3年頃から配備され、差詰め、現在のタクシー乗場の、客待ち駐車の様です。 表に有る切手の消印は、国内用で、和文櫛形印の日付は、KOBE、25.5.07(明治25年)となっています。 |
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人力車は、鉄道駅からの、 重要で便利な移動手段。 数多くの駅前で、営業していました。 |
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人力乗車券(10.8×7.8センチ)、軟券、表、裏、明治期、乗車区間は、神戸駅前ヨリ朱印ノ場所迄、奥平野に赤印。 人力乗車券、神戸駅前~奥平野、金十二銭、軟券、神戸駅前人力車乗車券発売所発行。 裏面には、車夫の不正行為等が有った場合には、人力車の登録番号を通知請う旨の、注意書きが記されています。 行き先地の奥平野は、現在の兵庫区楠谷町辺りで、神戸駅からは、上り坂で大凡2キロの道程。 ● 人力車の発明者は、1848年頃に米国の鍛冶職人アルバート・トルマンにより、 宣教師の乗り物として、ウースターで作られたという説や、1869年頃に、来日米国人宣教師ジョナサン・ゴーブルが、 病弱の妻の為に考案して、横浜で使っていたと言う説も有りますが、 ● 記録上では、日本の和泉要助、高山幸助、鈴木徳次郎の、3名が発明者として、明治政府から認定されています。 明治3年、政府は駅からの交通手段として、この3名に「人力車総行司」の許可を与えています。 ● これが、運転免許証制度が始まりとなりますが、開業するには同人からの許可制としたが、全国的に人力車が広がった為に、 管理が行き届かなくり、有名無実な制度となってしまいました。 |
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神戸駅前の、下水道整備工事、 神戸市では、西洋式下水道として、 明治5年に、煉瓦造りで誕生。 |
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写真-13、二代目(明治22年3月7日)神戸停車場(駅西側)、駅舎は煉瓦造、茜堂所蔵の絵葉書(手彩色、発行元不明)。 駅前の下水道管の補修工事を、行っています。神戸市の下水道は、明治5年に西洋式下水道として、煉瓦造りで誕生しました。 日本の下水道普及率は、現在で大凡7割半と、かなりの水準を達成していますが、 先進国としては低い値で、 地域格差が非常に大きく、神戸等の主要都市では、早年に整備が進んでいますが、地方では、手付かずなのが現状です。 |
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写真-14、二代目(明治22年3月7日)神戸停車場(駅東側)、駅舎は煉瓦造、茜堂所蔵の絵葉書(発行元不明)。 比較的珍しい、東側からの写真です。写真-11のモノクロ版で、国内向けの廉価版絵葉書となります。 手前の2階が「みかど食堂」で、下には手前から、駅員詰所と「みかど」が有りました。 また、東側の棟には、貴顕を迎える為の貴賓室や、一二等待合室、三等待合室等が、備えられています。 ● みかど食堂は、明治時代から近畿地区で、駅構内で食堂経営をする老舗で、日本初の駅構内食堂を開いた企業で、 明治30年に神戸駅近くに、自由亭ホテル(ミカドホテル)を開業し、山陽鉄道急行の食堂車営業を手掛けました。 近年の駅食堂と言う、ニーズの変化に順応出来ずに、残念乍ら、平成24年に、みかど株式会社は整理されています。 ● 一時は、花形特急列車の食堂車や、2代目門司駅、関西、名古屋、東京、函館地区等、広範囲に食の提供を行っていました。 尚、神戸駅構内食堂の、みかど食堂(みかど)は、平成15年11月29日に、閉店をしています。 ● |
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写真-15、二代目(明治22年3月7日)神戸停車場(駅西側)、駅舎は煉瓦造、茜堂所蔵の絵葉書(発行元不明)。 日除け用の可動式テント、オーニングが2階に設置されています。2階西側には手前から、電話交換室、車掌室が有りました。 荷物の輸送に使われていた、総木製の人力荷車(大八車)が行き交い、荷待ちの大八車が、並べられています。 鉄道駅が、当時の物流の拠点であった事が、伺えます。 ● 大八車が置かれている辺りは、平屋建ての駅長室で、小荷物室は、駅長室と正面口の間の1階に置かれていました。 小荷物取扱いは、正面口に窓口を設け、入口寄りに受注引渡が、ホーム寄りに一時預かりが置かれていました。 ● |
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写真-16、二代目(明治22年3月7日)神戸停車場(駅西側)、駅舎は煉瓦造、茜堂所蔵の絵葉書(手彩色、発行元不明)。 日除け用の可動式テント、オーニングの使用時の形態が、良く分かります。 一階の屋根と、その下側に有るひさしとの間に設けられた、明り取り用の側面小窓の造りが、良く分かります。 明り取り用の側面小窓と、屋根とひさしとの移り変り等が、写真-18と対比出来る西側からの写真です。 |
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帝国鉄道庁神戸営業事務所発行、 神戸駅改札掛への辞令。 |
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雇氏名は画像処理、55%縮小。 | ||||||
明治41年1月8日発行、辞令、神戸驛改札掛ヲ命ス、帝國鐵道廰神戸營業事務所。 辞令(サイズ=28mm×20mm)で、薄い和紙乍ら、作りの良い和紙からなり、当時の和紙作りの熟練度が良く分かります。 因に、この方の前赴任地は、明治40年11月27日付けで、隣駅、三ノ宮駅の出札掛に赴いています。 ● 帝國鐵道廰神戸營業事務所(帝国鉄道庁神戸営業事務所)、逓信省帝国鉄道庁時代は、明治40年4月1日~明治41年12月4日の、 僅か、20箇月4日と言う短命組織で、近代化に向けて、以降「内閣 鉄道院」へと推移されています。 また、国鉄事業体で有る「逓信省 帝国鉄道庁」と、監督行政官庁に分離され「逓信省 鉄道局」が、引続き当たっていました。 ● 尚、神戸営業事務所は、明治40年4月1日に、神戸運輸事務所から改称されています。 その後、明治41年12月には、西部鉄道管理局及び、神戸運輸事務所を別途設置しますが、 翌年の6月には、神戸運輸事務所のみ、廃止されています。 |
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神戸の路面電車は、 春日野道~兵庫駅前間を、結び、 明治43年4月5日に、開業。 |
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写真-17、二代目(明治22年3月7日)神戸停車場(駅東側)、駅舎は煉瓦造、茜堂所蔵の絵葉書(神戸栄屋商店発行)。 駅前が整備中で、道幅も拡張されていて、ダブルルーフ、ダブルポールの路面電車が、写っています。 明治43年4月5日に、神戸電気鉄道が、神戸(春日野道)~兵庫(兵庫駅前)の両市街地を結ぶ、路面電車として開業。 駅舎にはまだ、明り取り用の側面小窓が有る事から、神戸電気鉄道開業当初の物だと、思われます。 ● |
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写真-18、二代目(明治22年3月7日)神戸停車場(駅西側)、駅舎は煉瓦造、茜堂所蔵の絵葉書(神戸栄屋商店発行)。 上の写真の反対側の西側から望む、神戸駅舎と、兵庫(兵庫駅前)方面へ行く、神戸電気鉄道が、写っています。 駅前の整備が整い、上の写真では下水管修理の為か、掘削されていた道路も、綺麗に整えられています。 時代的には、上の写真とほぼ同時代で、神戸電気鉄道開業当初の物だと、思われます。 ● |
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写真-19、二代目(明治22年3月7日)神戸停車場(駅西側)=北口、茜堂所蔵の絵葉書(発行元不明)。 手前の一階屋根は、送迎場の利便性から、ひさしとして延長され、更に、孫びさしが、道路側へと延伸されています。 それに伴い、特徴的であった、屋根下側面の明り取り用の小窓は、姿を消しています。 明治43年製の、市電の前身の神戸電気鉄道のA車で、兵庫方面の正面向きで、ダブルポールが下がっています。 ● |
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写真-20、二代目(明治22年3月7日)神戸停車場(駅西側)=北口、茜堂所蔵の絵葉書(神戸本庄写真部発行)。 二階の窓には、下の20の画像に有る様な、日除け用の可動式テント、オーニングが、外されています。 画面左手には、出発前の860形だと思われる、蒸機の煙りが上がっています。 手前は、明治43年4月5日開業の神戸電気鉄道、大正6年8月1日に、神戸市電気局(後の神戸市交通局)となります。 ● |
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写真-21、初代(明治7年4月30日)神戸驛(駅西側)、 二代目(明治22年3月7日)煉瓦造りの神戸驛、茜堂所蔵の絵葉書(織田写真館発行)。 初代の神戸停車場(右小枠、明治8年頃)は、南側に位置し煉瓦造りと木造を組合わせた、平屋の駅舎として始まります。 当時は、神戸ステーションや、大ステーションとも、呼ばれていました。駅前には、人力車から輪タクへと変わっています。 絵葉書キャプションの「明治二十二年頃ノ神戸驛」は、路面に線路が有る事から、明らかに間違いです。 ● |
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写真-22、二代目(明治22年3月7日)煉瓦造りの神戸驛(駅西側)=北口、茜堂所蔵の絵葉書(栄屋印行発行)。 こちらの画像には、右手前二階に施設が増築されています。増設された二階には、車掌室が移設されました。 尚、上記の驛と停車場のそれぞれの表現は、絵葉書のキャプションによる物です。 この絵葉書は、焼付け写真の様で、印刷には見えませんが、コロタイプ印刷と言う手法で、印刷された絵葉書です。 ● 写真製版の網点(ドット)を使った、オフセット印刷とは異なり、写真製版に網点を使わず、ゼラチンのシワを利用するので、 写真の微妙な調子を再現するのに、最適の印刷手法とされています。但、版が軟弱な為、多量印刷には向いていません。 又、写真分解に依る、網点での掛合わせが困難な為、多色刷りには不向きで、単色印刷のみとなります。 ● |
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写真-23、二代目(明治22年3月7日)煉瓦造りの神戸驛(駅西側)=北口(大正15年~昭和元年度、神戸驛要覧、グラビア印刷)。 増築部分の、ほぼ全貌が良く分かる写真です。この頃には人力車の数も激減して、円タクが並ぶ様になりました。 右側の小さな建家は、配車係と運転手の詰所と思われます。円タクは、タクシー自動車会社の、1円タクシーの略称で、 1円均一で大都市を走りました。大正13年6月27日に大阪で始まり、同年6月10日には、東京にも伝わりました。 ● 大正元年8月5日に、初めてタクシーが登場した頃の運賃は、バラバラで苦情が多かった為、均一制が登場しています。 昭和の時代に、料金が代わった後も、円タクの名称は通称として残ります。 画像は、20番の画像の原版と、同じネガからの物です。どちらが先に使用されたのかは不明。 |
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ニ代目神戸駅舎の、 二階増築後の、施設や機能を、 面図で紹介します。 |
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二代目(明治22年3月7日)煉瓦造りの、神戸驛の一階と二階の正面図面と、ホームと一階部分の展開図面。 正面図の、二階右(西)側に施設が増築され、増設の二階には、車掌室が移設され、従来から有った二階右(西)側には、 電話交換室と、事務室が入っています。また、二階左(東)側には「みかど食堂」が入っています。 ● 展開図は、一階のみを表していて、右(西)側から駅長室、そして職員用の西出入口を挟んで、小荷物を扱う部屋が有ります。 コンコースには、一時預かり窓口と、受註引渡窓口が置かれ、小荷物室の道路側には、人力車乗降場が設けられています。 ● また、コンコースには、案内所と改札場が設けられ、それより、左(東)側には1、2、3等の待合室が有り、 貴賓室も設けられていて、更に、左(東)側には、二階の「みかど食堂」と同じ系列の、軽食「みかど」が置かれています。 そして職員用の東出入口を挟んで、駅舎本体から離れる様な形で、平屋の駅員詰所が並んでいます。 ● |
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二代目(明治22年3月7日)神戸停車場構内線路略図(大正15年~昭和元年度、神戸驛要覧)。 大正末期時代の、神戸停車場構内の線路図から、昭和3年4月1日の、神戸機関区廃止直前の、最大規模の姿が読み取れます。 本線4本、山陰発着線3本、東京線4本、裏線10本、機関庫線9本、中線10本、貨物線8本、奥には洗條線9本と壮大です。 ● 廃止後、残る貨物線8本は、昭和3年12月1日に新設された、東海道本線貨物支線の終着駅、湊川駅の開業まで残されますが、 昭和3年12月1日からは、神戸駅での貨物取扱いを廃止し、海沿いに出来た湊川駅に、貨物取扱業務を移管します。 神戸駅からは、ホーム線関係以外の線路は、全て廃止(跡地は後に住宅地化)される事となります。 ● その後、昭和5年7月には、高架駅化に向け、近代設備を備えた駅舎へと改築が、場所を変えて始まります。 建設用地の関係から、ちょうど初代神戸駅駅舎跡と、ニ代目神戸駅駅舎との、間に挿まれる様な位置に置かれています。 昭和9年12月5日、高架化第2期工事が完了し、近代的な三代目神戸駅駅舎が開業します。 |
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三代目の駅舎は、高架化に伴い、 昭和6年10月10日、現場所に開業。 今日に至っています。 |
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写真上-24、三代目(昭和6年10月10日)鉄筋コンクリートの神戸驛(未完成)=北口、茜堂所蔵の絵葉書(織田写真館発行)。 大阪鉄道管理局工務課の主任技師、柴田四郎氏の手に依り、設計された三代目駅舎は、施行を大倉土木にて、 昭和6年10月10日の、第一期工事高架複線化に向け、昭和5年7月1日に未完成のまま、三代目駅舎として開業します。 完成迄、更に4年程かかります。山陽本線側には、高架部分が写っています。駅前植栽にまだ柵が有りません。 ● |
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写真下-25、三代目(昭和9年12月5日)鉄筋コンクリートの神戸驛(駅東側)=北口、茜堂所蔵の絵葉書(発行元不明)。 第一期工事高架複線化完了の、昭和6年10月10日から、第二期工事高架複々線化に向けて着工が進み、 三代目神戸駅舎の開業から、4年後の昭和9年12月5日に、鉄筋コンクリートと、タイル貼りの、三代目駅舎として完成。 貴賓室も備える、豪華な造りとなりました。現在では貴賓室は役目を終え、駅舎内に保存(後に取壊し)されています。 ● |
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写真-26、三代目神戸驛南側駅前広場=額入竣工(昭和34年3月5日)写真(273×456mm)、東神建設株式会社撮影。 茜堂所蔵の許諾記録写真。 東神建設株式会社、造成工事施行に依り、昭和34年3月5日に竣工された、神戸駅南側駅前広場。 右側が、神戸駅で、左側には、東海道本線の貨物支線(通称、神戸臨港線)湊川駅(貨物駅)が、写っています。 昭和60年3月14日に、鉄道貨物輸送事業縮小で廃止され、跡地は、再開発に因り、神戸ハーバーランドになっています。 ● 左手に有る、東海道本線貨物支線(神戸臨港線)終点駅の湊川駅、その1駅手前に神戸港駅が有りました。 大正13年8月3日に、開業した神戸港駅は、ボートトレイン運行に伴い、開業と同時に旅客扱いを開始しています。 画像の掲載順で、年代が逆行していますが、神戸港駅の関連画像として、掲載させて頂きます。 |
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昭和10年5月30日、乗車券、表、裏、神戸港駅~大阪駅、32.2粁、3等、52銭、神戸港駅発行、鉄道省、GJR赤地紋。 ボートトレインとは、船車連絡列車の事で、船と連絡を図る目的で港へと乗入れし、運行された列車の事で、 新港第四突堤(当初、新港第一突堤)から、日本郵船の欧州航路に接続する為に、京都駅~神戸港駅間で運行されました。 同列車は、海外との連絡口として、神戸港駅の他に、横浜港駅、新潟港駅、敦賀港駅、長崎港駅等、5港で運行されていました。 ● 同区の牽引機は、神戸港の入換えで使われていた、汽笛の変わりにチャペルの様な鐘が有る、8620が使用されていました。 港湾沿線の為、船舶から発せられる幾多の汽笛が、汽車の汽笛と紛らわしいので、鐘が使われていました。 ● 昭和15年頃、渡航客は航空機に奪われ、開戦前の事も有り、受入れ国の絡みから、ボートトレインは事実上の運行休止となり、 それに伴い神戸港駅は、旅客営業を休止しましたが、そのまま、一度も再開される事は無く、廃止されています。 廃止日は戦前なのか、戦中なのかは、混沌とした時代でも有り、正式な廃止日時は、分っておりません。 ● 東海道本線貨物支線(神戸臨港線)は、東海道本線に有った東灘信号所(後の東灘操車場)~神戸港駅~湊川駅間の事を指し、 神戸港駅からは、別途に支線として摩耶埠頭駅迄続いていました。 ● |
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貨物専用の臨港線、5港に、 日本郵船欧州航路に、接続する、 旅客用ポートトレインが、運行。 |
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昭和16年8月11日押印、駅スタンプ、神戸港駅印、鉄道省。 当頁の駅スタンプ画像は、他の頁とは縮尺が異なり、当頁の切符画像と同率としています。 丁度、A型券の裏面に収まる様になっていて、非常にコンパクトに、客船のデザインが施されています。 尚、昭和16年夏の押印は、休止中の旅客駅としての、正式な廃止最終前で有ったのかは、残念乍ら、定かではございません。 |
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昭和41年12月2日、職員用急行券代用証、表、裏、神戸港駅長発行、国鉄、JNR緑地紋。 ● |
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昭和40年代初頭、 貨物駅での神戸港駅長発行の、 職員用の、急行券代用証。 |
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昭和44年8月5日、職員用急行券代用証、表、裏、神戸港駅長発行、国鉄、JNR緑地紋。 神戸港駅長から発行された、急行券の代用証で、一般の急行券に変わる、職員用の無料急行券となります。 つまり、職員用急行券代用証とは、職員が急行列車に無賃で乗車出来る、証票を指しています。 当然、その都度、管轄の上司の許可を得て、管轄の上司から発行される事となります。 ● 裏面には、この代用証は、職員用普通乗車券と同時に使用する場合で、その乗車券と同一等級に限って有効です。の記載有り。 この時代の、神戸港駅は旅客営業は、既に廃止され、貨物駅としての神戸港駅でした。 これらの、東海道本線貨物支線(神戸臨港線)は、平成15年12月1日に、全線廃止されています。 |
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専用の郵便車両が活躍、 ホームは郵便物で賑わっていましたが、 昭和59年2月1日、廃止。 |
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写真-27、三代目神戸駅初期の頃の、鉄道郵便物の積替え風景=プラットホーム、茜堂所蔵の絵葉書(発行元不明)。 三代目初期の頃の神戸駅ホーム、スハフ34、スロフ31と思しき車両が、停車しています。 当時の郵便車両は、スユ30とスユニ30の夫々の前身、スユ36000形、スユニ36200形が、使われていました。 ● その後、鉄道郵便は交通事情の変化に伴い、昭和59年1月末を以て、取扱い便が休止され、 昭和61年9月末には、護送便、締切便も休止。郵政省が所有していた、鉄道郵便車両は全廃されます。 郵政省所有の為、転用が効かず、クモユ143形や、一部のスユ15形等は、製造から僅か4年で、廃車となっています。 |
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優等列車専用、1番ホームから、 一等展望車を、従えて、 出発をする、超特急燕号。 |
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写真-28、昭和9年、神戸駅1番線、上り特急燕、12列車、マイテ370(一等展望車)、茜堂所蔵の生写真。 神戸駅1番ホームは、元々、神戸駅始発東京行きの、優等列車用に割り当てられた、専用ホームでしたが、 現在では、待避線として使われ、平日朝の快速のみが使用、それ以外は終日閉鎖されています。 ● 昭和5年10月に、牽引機C51で、神戸駅~東京駅間に超特急「燕」が、11列車、12列車で運転開始されました。 東京駅~大阪駅間では、前年から運転を開始していた特急「富士」と比べ、2時間30分近く短縮する、8時間20分で、 東京駅~神戸駅間は、9時間で運転を行い、その速さから「超特急」と称されました。 ● 時間を稼ぐ為、停車駅数を減らした事で、牽引機C51の後ろには、水槽車(機関車付随で型式無し、後のミキ20)が付けられ、 乗務員は車掌室から、走行中に、水槽車の横のステップを伝い、テンダーに登り、キャブ迄、大変危険な乗務員の交代でした。 但、当初は水槽車(水30立方m=30屯)が、付けられていた為、客車の牽引は最大7両が限界でした。 |
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国策の一環で、駅弁にも、 戦意高揚標語が、掲げれます。 |
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昭和16年11月6日、神戸駅駅弁、金三十銭、戦時高揚標語(スローガン)付き掛紙、神戸駅みかど和食部。 戦時標語の「熱だ!! 力だ!! 協力だ!! 」と、メインの標語となる「総力戦 一人一人が みな戦士」が、配置されています。 図柄では、艦戦のアンカーチェーンを背景に、左から兵士、工員、銃後を守る主婦が、手前に並んでいます。 旅のお供の駅弁ですが、楽しみや旅情、食を進める要素なんて、悲しいかな、この掛紙には、微塵も有りません。 ● 戦時体制時の、国民戦意高揚の為の、国民精神総動員スローガンは、当時のあらゆる媒体に登場します。 鉄道関係で言えば、駅弁等の掛紙を筆頭に、市電の乗継券等の比較的面積の広い切符や、駅ポスター等が挙げられます。 ● 有名な標語では「贅沢は敵だ! 」「欲しがりません勝つまでは」等で、近年のTVドラマでも、良く出て来るフレーズです。 当時は、戦時スローガン等の「敵性語」では無く、戦時標語と、全てが「日本語」で、言い表されています。 ● 因みに「贅沢は敵だ! 」は、主に一般庶民に対してで、上流階層の人々には、完全に無視をされていた様です。 上流階層の人々とは、軍人、政治家、官僚、大企業の役員等々の上流階級を言い、贅沢のレベルが違うので有ろうが、 その為、庶民の間では、やっかみから「贅沢は素敵だ! 」と言う揶揄が、密やかに広まりました。 ● 旅の楽しみを奪う様な、悲しい戦争が、二度と起こらない事を、願って止みません。 |
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国鉄バスの神戸駅としては、 昭和39年10月5日に、駅南口に開業。 JRバスの停留所名称は、神戸駅南口。 |
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写真-29、国鉄バス神戸駅開業初日、神戸駅=南口、茜堂所蔵の許諾記録写真。 昭和39年10月5日、名神高速線開業(神戸~名古屋間、215.5Km)、始発神戸駅。 現在の名神高速線の神戸系統は、三宮バスターミナル(一部、神戸ポートピアホテル)での、始発着となっています。 ● 三菱ふそうMAR820型改、ターボチャージャー付きエンジン(8DB20AT型、290ps)の、国鉄型量産型車両。 精悍な面構えにJNRマークを身にまとい、スワローマークを中央に、銀と青色の精悍なストライブが、速さの象徴でした。 ● 歴代の神戸駅の画像位置関係を、国土交通省の航空写真(データ購入)上に、配列してみました。 次の地図上の丸囲み数字は、上記掲載画像を指し、矢印はその方向から見た、大まかな位置を表しています。 ● |
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駅図の突起は、初代駅~二代目駅に就いては、駅舎側を表し、 三代目駅(現在駅)に就いては、駅舎は高架下に有りますので、主要口(表口)を表しています。 上記掲載の航空写真画像は、昭和60年10月15日撮影の、国土交通省画像(画像整理番号=CKK-85-4-C12A-18)から、 正規の方法で、データ購入(画像オーダー番号=E-4D30-026)をした物です。 初代神戸駅は、現在の神戸駅から東南寄りの、元、湊川貨物駅(現、神戸ハーバーランド)内に、位置します。 構内には、鉄道桟橋も備え、小振りながらも機能的なヤードを、有していました。 ● 尚、初代神戸駅の地であった国鉄湊川貨物駅は、灘駅から分岐した臨港線の最西端に、位置した貨物駅で、 昭和57年11月に役割を終え、平成4年10月、その跡地に現在のハーバーランドが、誕生しました。 二代目神戸駅は、旧神戸市電沿いに位置し、湊川神社(楠公さん)を下った所に有りました。 ● また、二代目神戸駅は広大なヤードを有し、海路を繋ぐ拠点としても、歴代随一の規模と機能を誇っていました。 その二代目神戸駅のヤード(図面緑丸)は、神戸高速線が直下を通る、国道28号の南側と、 新開地三丁目交差点から、山陽本線まで続く道路と、JR高架線と国道28号が交わる、三角地帯に有りました。 ● 余談ですが、現在の神戸駅出入口では、方位的には西口と東口になりますが、北口、南口の表現をとっています。 それらは、地域の生活感から、一般的に山側が北、浜(海)側が南とされ、その風習から来ています。 事実、方向案内等では北方面を山側、南方面を浜側と記載されたりしています。 ● また、駅より山側を駅山手、浜(海)側を駅浜手とも、呼ばれています。 神戸駅のみ、路線がS字形となっているが、周辺駅との出入口呼称の整合性から、西口、東口の表現はございません。 ● 画像の「大量盗用事案」が発生致しましたので、大変お見苦しいですが、画像にウォーターマークを入れさせて頂きました。 |
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