明治時代の神戸/茜堂 | |||
古の寫眞で見る明治期の神戶=茜堂 |
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初代神戸停車場駅舎前、茜堂管理者所蔵の鶏卵写真。
写真帳の表題では「神戶停車塲」と、記載されています。 港の街、神戸。明治時代の初期の頃の、神戸の風景を紹介します。 ● 神戸市は、異国情緒豊かな、明治以来の国際的な港町で、 穏やかな瀬戸内海に面し、間近には緑豊かな、六甲山系が東西に走ります。 平氏政権での福原京の造営、一ノ谷の合戦の地で、古来より式内社(名神大)生田神社の、社領に属していました。 ● 租庸調により、神社の維持修理にあたった民戸を、神戸(かんべ)と称した事に起因する、地名だと由来されています。 神地神戸(かんべ)に始まり、中世には紺戸(こんべ)と称し、近世に神戸(こうべ)へと、変換されました。 ● ここでは明治6年頃からの、神戸周辺の鉄道施設と、名所旧跡等の風景写真を、当時の鶏卵写真(絵葉書含む)の画像で、紹介をしています。 鶏卵紙印画(アルビューメンプリント)は、明治期に流行っていた、百年以上も前に使われていた印画技法で、 鶏卵紙は、コロジオン湿板ネガと密着し、太陽光で焼付けした後、水洗と定着液だけで、プリント出来る印画紙です。 ● 上記イメージは、開業当初の「神戶停車塲」の西側です。 尚、以下の解説内での表現が、停車場と駅との表示が混合していますが、同じ意味だとご理解願います。 古の写真で見る、明治期の神戸。 生写真と絵葉書で見る明治期の鉄道風景=茜堂 |
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上り列車の始発駅、神戸停車場の開業当初の姿や、沿線の貴重な鉄道風景等をご覧下さいませ。 |
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写真帳の表題では、神戶停車塲に続き「停車塲」と、記載されています。 神戸停車場が開業したのは、明治7年5月11日で、場所は今のJR神戸駅では無く、海側の旧湊川駅(貨物駅)辺りに有りました。 ● |
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初代神戸停車場駅舎前の、公園の様な植栽、茜堂所蔵の鶏卵写真。 新橋停車場開業より二年後の、明治7年5月11日、大阪~神戸間に、第二の鉄道が開業され、神戸停車場が誕生します。 神戸駅から、大阪駅までの全長は32.7Kmで、神戸駅~三ノ宮駅間は、複線で開業しました。 駅舎は、レンガと木造平屋で、線路の海側に位置し、駅前には噴水や植栽が、公園の様に整備されていました。 ● 駅舎の向こう側には、客車庫や駅長官舎に、仕上工場、客車修繕工場、貨物工場、木工場等が、広い構内に設備されていました。 左側(西側)は、海側にカーブをし、少し行った所に転車台が、明治9年には、貨物上家に鉄道桟橋が、設けられていました。 神戸駅周辺の土地(24万㎡)は、兵庫の豪商北風家当主第66代当主、北風荘右衛門正造貞忠(残念乍ら後に破産)が、無償提供しています。 ● 駅舎の右側(東側)には、機関区との間に有る、大きな中庭公園へと渡れる、跨線橋の入り口が見て取れます。 この中庭公園へは、ラッチ外の跨線橋と、西側に有る引込線を横断する、通路の両方向から、自由に出入り出来ました。 中庭公園は、表玄関で有る駅前公園の、実に3倍以上の規模を誇る、立派な公園でした。 ● |
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初代神戸停車場駅舎、跨線橋には三条の煙煤、茜堂所蔵の鶏卵写真。 我国の鉄道は、英国人、建築師長エドモンド・モレル(Edmund Morel)の、鉄道計画(東京~神戸間)に依って、進められましたが、 道半ばにして没し、その意志は建築副役のジョン・ダイアック(John Diack)らに受継がれ、明治5年10月14日に、鉄道が開業しました。 翌々年の、明治7年5月11日に開業した、大阪~神戸間では、イングランド(John England)、ダイアックらが、担っています。 ● 大阪~神戸間の鉄道工事は、建築副役イングランドの主管の下、住吉~神戸間を、建築副役ハーディー(Charles Hardy)が受け持ち、 ダイアックについては、開業を急ぐ為、神崎川~芦屋川間の鉄道工事を、工区分割の元、担当しています。 神戸停車場の建築は、鉄道桟橋共に、フィンランド人の建築副役ノルデンステット(N.Nordenstedt)が、担当しています。 ● 神戸停車場の、随所に使用された、煉瓦は貴重な輸入品で、一個づつ、丁寧に紙に包まれていたとの事です。 また、ビードロと呼ばれた、ガラス窓も設けられ、最先端の建造物でした。画面左が駅舎で、右が建家式のホームです。 左側には、火の見櫓が建てられています。また、駅舎と建家式のホームの手前には、中庭公園へと通ずる、跨線橋が見て取れます。 ● 因に、新橋駅~横浜駅(現、桜木町駅)間の開業は、旧暦重陽の節句、9月9日(10月11日)を予定していましたが、 当日が暴風雨の為、急遽延期され、旧暦9月12日(10月14日)に正式開業をしています。尚、招待切符の日付変更はされませんでした。 この10月14日を、鉄道記念日として、大正11年に鉄道省が制定。平成6年に運輸省が民鉄に配慮し、鉄道の日に改称しています。 ● 右肩の表題は、パーチメント紙(硫酸紙)の裏側(湿板を汚す恐れが有る為)に、左右陰陽逆に手書きの上、表側左と下直近を切取り、 印画紙と湿板(ネガガラス)の間に挟み込み、ベタ焼きをすれば出来上がりますが、劇薬を使う為、量産は不向きでした。 |
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初代神戸停車場駅舎、神戸ステンショー及ひ相生𣘺。神戸名所。 駅前の人通りが、賑やかで当時の神戸駅の、活気が十分に伝わって来る、錦絵となっています。 |
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機関車は、2号機関車として知られた、D1クラス(後の5000形)で、日本最初の機関車群の中では、唯一1形式のテンダー機です。 明治5年、鉄道開業に先立ち、英国から輸入された、5形式10両のタンク機とは別に、同時発注の2両のテンダー機で、 マンチェスターに有った、シャープ・スチュアート社 (Sharp, Stewart & Co. Ltd.,) 製、化粧煙突に、2(製造番号2141)の表記を確認。 ● B1と言う珍しい軸配置、動輪直径=1,372mm、従輪とテンダー車輪=914mm、全長=1372mm、陸蒸気の中では巨人機で、 客車は、ハユ(下等、郵便合造車)、ハ(下等車)、ロ(中等車)、イ(上等車)、ハフ(下等緩急車)の5種、基本編成は9両となります。 全長5mにも満たない、木造(未塗装のマホガニー材)車両で、足周りはマンセルホイール、緩急車のみ、スポーク車輪を採用しています。 ● |
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神戸汽車、古典列車、初代の神戸停車場、茜堂所蔵の鶏卵写真。 列車は、1番線での発車シーンでは無く、3番線での到着シーンで、機関車は西を向き、完全に絶気状態です。 ホームの間越しには、表と中庭を連絡する、跨線橋が見て取れます。右側の分岐線は、駅舎西端の留置線へと続きます。 左側が山側(中庭、機関区側)で、右側が海側で表(出入口)となり、駅舎が有ります。機関車左手には、仕上工場が写っています。 ● 乗場はニ箇所で、線路は1~3番の3本で、2番は3番東側から分岐し、3番が2番西側に接続する、機回し、渡り線(2番線)を設備しています。 機関車の転換では、ホーム西を左にカーブした場所に、駐留庫が有り、その左側にターンテーブル(転車台)が有りました。 ホーム東手前から、山側に分岐し扇状に膨らんで、客車庫や各種工場等が、配置(上段参照)されていました。 ● |
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神戸汽車、古典列車、初代の神戸停車場、茜堂所蔵の鶏卵写真(茜堂の手彩色)。 大凡のイメージ作りとして、フォトショップCS4にて、手彩色を施してみました。 機関方(機関士)は「お雇い外国人」と言われた、英国人が行い、日本人の火夫(機関助士)が、炭投係として添乗していました。 頭にターバンを巻いた人が、前端梁のバッファーに、手に掛けていますが、インド(当時、英国領)から来た、機関方(機関士)かも知れません。 ● 当初、お雇い外国人は、日本人に鉄道技術を一切教える事は無く、日本人の火夫が乗務中、盗み見たダイヤグラムを、理解した事から、 明治12年4月14日、建築師長のホルサムの上申で、平野平左衛門、落合丑松、山下熊吉が、日本人初の機関方となり、 同年9月1日からの、列車運転(最初は新橋駅~横浜駅間)に従事し、明治13年11月1日以降の機関方は、全員が日本人となりました。 ● |
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神戸汽車、古典列車、初代の神戸停車場、茜堂所蔵の鶏卵写真(モノクロ化、拡大原稿の24%縮小)。 モノクロ化し、拡大(600dpi/120%)をすると、客車の側板は縦張りで、ホーム建家の壁板は、横張りで有る事が良く分かります。 テンダー前の人物は、ハットにステッキ、立派なヒゲを蓄え、ベストにスーツ姿で、お腹の出た、ダンディーな英国人風の紳士です。 若しかすると、大阪~神戸間の鉄道工事の立役者、建築副役イングランド(John England)なのかも知れません。 ● 機関車前のターバン姿の男性も、立派なヒゲを蓄えていて、客車前の男性群の8割方は、金ボタンの制服姿から、鉄道員だと思われます。 客車の中央付近に、位の高そうな、制服制帽姿の男性が居ますが、恐らく、駅長か助役クラスの鉄道員だと思われます。 また、客車の窓の人物も乗客では無く、金ボタンが見えますので、鉄道員でしょう。ホームの人物も、三ツ揃えの紳士風です。 ● 撮影時期としては、ホーム建家の出入口が、煙で汚れておりませんので、開業前の試運転時での、鉄道員達の記念撮影だと思われます。 牽引機に繋がれているのは、ハユ(下等、郵便合造車)では無く、オープンデッキの、ニ(手荷物緩急車)で有る事が、分かりました。 更に、中央の2両の客車の、ベンチレーターが、他の車両より大型で有る事が分かり、優等車両なのかも知れません。 ● 尚、拡大サイズのデータ原稿は、掲載画像の4倍弱も有りますので、隅々迄、鮮明なる調査観察が可能です。 また、当画像では、タイトル、目立つゴミや汚れ等を、画像修正にて取除いております。 |
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写真帳の表題では「仓」(倉の意、拠点となる貨物上家を表しているのか、些か不明)と、記載されています。 神戸停車場先の、貨物上家から続く鉄道桟橋、長蛇の有蓋車と無蓋車が写っています。 ● 貨物上屋(かもつうわや)は、鉄道駅や港、空港等に設置され、貨物の荷捌き、積降ろしや、一次保管等に使用される建物の事で、 倉庫とは違い、壁が無いか、一部の側にだけ設けられて、大半の場合は開放構造となり、荷は丸見え状態では有るが、 ここ「神戸貨物上家」は、軍も使用している為、機密上、広域に渡り頑丈な扉が有り、正に「倉庫」その物となっています。 ● |
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神戸貨物上家から、先に伸びる、日本初の鉄道桟橋、茜堂所蔵の鶏卵写真。 船から神戸駅構内への、貨物積降ろしの便を図る為に、ノルデンステットらに依り設置された、日本最古の鉄道桟橋です。 明治9年6月に、完成した鉄道桟橋は、現在のJR西日本大阪資材センター横の、川崎造船第四ドックハウスから伸びる、突堤部に有りました。 戦争時代には、軍事拠点として、陸軍の統治下に有り、多くの物資と人員を運ぶ為、昼夜を問わずに、フル稼働をしていました。 ● 昭和3年12月1日、貨物駅と鉄道桟橋に続く連絡線は、小野浜駅~湊川駅間延伸開業で、本線の東灘信号場から、神戸臨港線経由となり、 貨物部門が、湊川駅として分離されました。但、湊川駅が、神戸駅と別線別駅扱いとなったのは、昭和46年4月6日の事です。 また、神戸臨港線は、平成15年12月1日に、廃止されています。詳細は「神戸駅の歴史」頁に掲載。 ● 因みに、神戸桟橋での荷役会社「神戸桟橋株式会社」が、五代友厚らに依り、明治17年11月15日に設立されていますが、 鉄道局の、国内用の神戸鉄道桟橋とは、関係が無く場所が異なり、今の第三突堤付近に有った、全長=約150m、幅=約13mの、 当時としては、3000屯級の、内外の船舶が接岸出来きる、巨大な鉄製の桟橋の事を言います。 |
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写真帳の表題では、それぞれ「三ノ宮銕道、相生橋銕道、相生町楠公」(三ノ宮銕道は三ノ宮方の鉄道の意)と、記載されています。 相生橋は、神戸停車場構内の東外れに有った、跨線橋で、三ノ宮方を望む鉄道風景は、絵葉書になる程、有名な鉄道のお立ち台でした。 ● |
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日本初の跨線橋、相生橋から線路を望む。茜堂所蔵の鶏卵写真。 相生橋から、三ノ宮方を望む。画面中央には六甲の山々が、当時は、神戸駅~三ノ宮駅の一駅間のみ、複線区間でした。 両側には、人の背丈以上の木柵が連なり、中央の大きな松は、下の絵葉書の様に、明治後期には全て伐採されている様です。 元町通から多聞通りへ通じる、西国街道を、立体交差の日本第一号となる、相生橋が繋ぎます。 ● 開通当初は、僅か幅5.5m足らずの、人専用の階段式木造陸橋で、車(人も)は、直近の踏切を渡っていました。 列車本数も少なく、陸橋は余り使われず「無くても良いのが相生橋、べらぼうにデカイのが造船所」と、当時の歌にも詠われていました。 また、神戸三不思議として「相生橋には川が無い、湊川には水が無い、ザンギリ頭にゃ髷(まげ)が無い」と、挙げられました。 ● 明治22年には、車も通れる様に、道幅を広めて鉄橋に改築され、明治43年には、市電も橋上を通る様になりました。 斯くして、相生橋は人も敬遠する陸橋から、鉄橋へと変貌し、西国街道の大動脈へと、変身して行きます。 ● |
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神戸相生橋、日本初の跨線橋、相生橋から線路を望む。茜堂所蔵の鶏卵写真。 上段写真と、ほぼ同じアングルで、時間帯もほぼ同じ頃の、相生橋からの俯瞰写真ですが、地形的に残念な写真となっています。 栄町側の街並が、広く写されている反面、相生町側の線路通りが、木柵に被さり、全く写し出されていません。 ● |
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日本初の跨線橋、相生橋から、市街を望む。 茜堂所蔵の絵葉書(発行元不明)。 |
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外国宛の書面、消印は、明治43年3月11日。 上記の開業当初と比べて、線路の本数が、格段に増え、ポイントが、かなり増やされています。 また、相生通には、電柱が立ち並んでいます。線路奥の煙の横には、善福寺(後のモダン寺、現在の本願寺神戸別院)が、写っています。 因に、ここ善福寺は、浄土真宗本願寺派(お西)のお寺ですが、北区にも、同じ名称の善福寺で、曹洞宗のお寺が御座います。 ● 輝く大きな砂箱が特徴のSL、2号機関車(2-4-0、A4形-国鉄120形)が、可愛い貨車を連ねて、入替え作業をしています。 機関車の制動は、手ブレーキで、当時の貨物列車の先頭には、無蓋車の中央にハンドブレーキを設置した、車両も連結されていました。 神戸駅停車場構内の出入口付近なので、上記の開業当初と比べて、列車本数も増えた為、分岐線の数が、格段に多くなっています。 ● 手彩色された、高級(外人用)絵葉書です。初期の頃としては、細かな箇所も手際が良く、かなり丁寧に彩色が施されています。 外国宛の葉書で、四銭の切手が貼られていて、消印として、JAPAN、10(1910)年3月11日の押印が有ります。 郵便葉書である旨の表示は、日本語も含め、5カ国語で記されています。国際的にも発展しつつ有る、神戸を表しています。 ● 外信葉書(菊4銭貼り)欧文櫛形印「NAGASAKI JAPAN 11.3.10」と有り、日月年の並びから、1910年3月11日で、明治43年の物です。 国内用の、和文櫛形印の日付けは、左書きで元号表示ですが、外信葉書では世界標準の右書きで、西暦末尾2桁表記となります。 ● いつもお世話に成っています、戦前の切手貼りエンタイア(葉書、書状等)のコレクター、土井さんよりご教示頂きました。 また、土井さんは、紙もの収集家で、貴重な地方私鉄の古い切符等も、幅広く集められています。 ● |
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相生橋から、海側(神戸駅舎側)を見る、右端に映ってるのは、鉄道技師の外国人官舎か、茜堂所蔵の鶏卵写真。 相生橋の構内側(右)に有るのは、位置的に鉄道技師の外国人宿舎で、更に、奥に有る建物が、職工宿舎だと思われます。 橋の上から構内を望むと、駅駅舎前の庭園と、それより大規模な機関区側の庭園が、広がっていました。 ● 橋の下には線路が、左側は三ノ宮方、右側は神戸駅構内となり、三ノ宮方辺りから、構内の分岐は始まっています。 この分岐点では、橋梁に因る明暗の切返しと、大きなカーブで見通しが悪く、後に、大規模な列車事故を、2度発生させています。 相生橋から、海側(神戸駅舎側)の元町通は、湊川神社が有る、山側の相生町や多聞通と比べ、まだ賑わいが無い様です。 ● |
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相生橋から見る、相生町、多聞通、右手に見える森が、湊川神社(楠公さん)、茜堂所蔵の鶏卵写真。 日本で2番目の鉄道が、大阪~神戸間に開通した時、旧来の西国街道が、鉄道で分断された為に、作られたのが跨線橋の相生橋です。 相生橋は、日本最初の跨線橋となり、英国人が設計し、幅三間(5.45m)の木製で、車の通行は禁止されていました。 橋上から、汽車が見える名所として「川が無いのに橋がある」と歌われ、跨線橋の袂には「兵庫県里程元標」の木柱が、設置されました。 ● 明治12年には、相生橋の東詰めに、神戸警察署が設置されます。明治22年に、相生橋は鉄橋となり、車も通行出来る様になりました。 明治43年に、神戸電気鉄道(後の神戸市電)が、相生橋を通る様になり「兵庫県里程元標」が、石柱に変わります。 昭和6年には、鉄道高架の為、相生橋が「兵庫県里程元標」の石柱共々、撤去されました。 ● 兵庫県里程元標は、一次行方不明に成りましたが、3年後に偶然発見され、神戸市の保管の基、 湊川神社正門右手に、再建立されていましたが、平成16年には、相生橋の有った付近の「きらら広場」へ、移設されました。 正面=兵庫県里程元標 神戸市相生橋西詰、側面=北緯34度40分57秒 東経135度10分47秒、裏面=明治四十三年二月が刻まれています。 ● 一部、画像の人物が、ブレていますが、これはレンズのF値が、今より可成り悪く、且つ、ネガの感度も低く、 更に、被写界深度を高める目的で、アイリスが絞り切られ、それらの反作用となる、シャッタースピードの低下に起因する物です。 |
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写真帳の表題では「三ノ宮停車塲」と、記載されています。 三ノ宮停車場が開業したのは、明治7年5月11日、場所は今のJR三ノ宮駅では無く、現在の元町駅の場所に有りました。 ● |
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初代三ノ宮停車場、下りホームから、神戸方(西側)を望む。茜堂所蔵の鶏卵写真。 下り方(神戸停車場方面)は、一旦、山側にカーブを切った後、海側にカーブを切る、緩やかな逆S字カーブとなっています。 大陸との連絡港に隣接する、神戸停車場へ誘う為、勾配を緩和する、線路敷設からなっています。 ● 開設当初の三ノ宮停車場は、駅名の通り三宮神社の、山側近くに有りましたが、明治から大正にかけて、 外国人居留地設置での、要件事項であった、生田川(二級水系の本流)の、氾濫水害防止の為の、付け替え工事を契機に、 集落が東側に、大きく拡張した為、三ノ宮駅は、昭和4年3月の国鉄高架化に伴い、東へ移動し、現在の場所に移設されました。 ● 然し、旧国鉄三ノ宮駅付近は、官公庁や海運商事会社等が有った為、政治経済の中心地となっていた事から、 地元から、再び駅を設置して欲しいとの、請願が出され、昭和9年7月20日に、旧三ノ宮駅跡に、旧国鉄の元町駅が開業しました。 因に、旧生田川河川敷は、加納宗七に払い下げられ、これが加納町の由来となっています。 ● |
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初代三ノ宮停車場、住吉停車場へ向け、出発。 茜堂所蔵の絵葉書(発行元不明)。 |
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外国宛の書面、消印は、大正3年2月24日。 一見、複線区間の様に見えますが、左線路はこの先で、途切れていて、ここから先は単線区間となっています。 右線路の客車2両目辺りに、下りホーム入線用の、分岐線が見て取れます。 ● 英国生まれのネルソン、6200(型式D-9)に牽引される、木造ボギー客車の列。上り列車が三ノ宮ステーションを、発車しました。 三ノ宮停車場ホームに掛かる跨線橋には、SLの煤跡が2条確認出来ます。左側が薄いのは絶気してホームに入る為で、 逆に右側が濃ゆいのは、出発時の力行の爆煙によるものです。当時の鉄道事情が良く分かる、貴重な絵葉書です。 ● 手彩色された、高級(外人用)絵葉書です。空の青のグラデーションや、細かな箇所にも手際が良く、可成り丁寧に彩色が施されています。 外国宛の葉書で、四銭の切手が貼られていて、消印として、JAPAN、14(1914)年2月24日の押印が有ります。 郵便葉書である旨の表示は、日本語も含め実に14カ国語で記されています。国際的にも発展しつつ有る、神戸を表しています。 ● |
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神戸市内高架鉄道、旧三ノ宮駅付近、下りC51牽引客車、茜堂所蔵の絵葉書(KOBE AKANISHI発行)。 旧三ノ宮駅辺りの山側から望むと、C51型蒸気機関車が、ダブルルーフの客車を牽引する、下り列車が写っています。 左端には、春日野道の、葺合ガスタンク(神戸瓦斯、現、大阪ガス)が、写っています。 昭和48年頃迄は、円筒形タンクでしたが、現在は、液化天然ガス貯蔵の為、球形タンクに変わっています。 ● 左側遠方の海岸沿いには、今は無き、川崎製鉄葺合工場(平成7年12月末生産終了)の、煙突群が写っています。 また右端には、元町通り沿いに有る、立派な構えの大丸神戸店が有り、大きな大丸マークと、屋上の旗等が、写っています。 ● 高架ですので、昭和6年10月10日以降となり、同日移転した、旧三ノ宮駅の施設の一部と、思しき物が機関車の後ろに写っています。 また、手前に有る電柱は信号架線で、まだ非電化ですので、昭和9年7月20日以前の、画像と思われます。 昭和9年7月20日に、電化されると同時に、旧三ノ宮駅跡地に、元町駅が開業をしています。 ● 旧駅舎の一部が残っている事と、電化の為のポール等がまだ無い事から、昭和7~8年頃の撮影だと推測致します。 |
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写真帳の表題では「攝津住吉川銕道 明治六年」と、記載されています。 東から、芦屋川と、住吉川に、石屋川の、3つの河川は、線路より高い所を流れている為、河川を隧道(天井川隧道)で通過しています。 ● |
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住吉川隧道、明治6年撮影、隧道先の山頂や地面が、右下がりなので、上り方面を撮影、茜堂所蔵の鶏卵写真。 日本で最初の隧道の座を、一足先に完成した、石屋川隧道に譲りましたが、隧道の始祖の一つとしてまだ健在です。 英国人技師に依る、芦屋川、住吉川、石屋川での河川の隧道工事は、隧道自体を設置した後に、埋め直す「開削工法」がとられました。 梅雨の後、夏の乾季の利点を利用し、河川が管理可能な流れになる時期を見計らい、掘り下げられました。 ● 住吉川は全長4.073Kmで、流域面積11.490K平方メートルの二級河川で、表六甲河川群に属し自然が残る綺麗な河川です。 現在は高架の為、お隣の石屋川のみ、隧道は埋められ、線路は河川の上を通過しています。 因に、旧石屋川隧道跡には「日本で最初の鉄道トンネル旧石屋川隧道跡」の石碑が、JR西日本にて、平成15年3月に設置されました。 ● 当初の路線は、勾配が少なく、建設費用も安く、且つ、人口の多い海岸線に、敷設する計画でしたが、 灘五郷の酒蔵から「汽車の出す煤煙で酒が腐る」と猛反対され、止む無く、問題点の多い山麓部に、変更を余儀無くされます。 山麓部では、石屋川、住吉川、芦屋川の三河は、天井川となる為、川底隧道(トンネル)の計画に苦心をします。 ● 当時の機関車の性能から、天井川を渡る鉄橋では、勾配がきつくなり、選択肢は川底隧道のみとなりました。 側壁のレンガは、駅舎造り用の、高級な輸入レンガでは無く、手作りに近い形の、和製レンガが使用されています。 開通時は単線で、明治27年4月16日には、複線となり、その後、大正15年11月15日に、複々線の川底隧道が完成しています。 |
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写真帳の表題では「西ノ宮停車塲」と、記載されています。 西ノ宮停車場が開業したのは、明治7年5月11日、ホーム端の神崎(尼崎)方(東側)には、煉瓦積みの立派な跨線橋が造られています。 ● |
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西ノ宮停車場、撮影は下りを望む、跨線橋の上に、関係者が並んでいます。茜堂所蔵の鶏卵写真。 江戸時代より西宮神社の門前町、西国街道、中国街道の宿場町、そして貿易港や漁港や酒造所として、栄えて来た西宮は、 人口も多かった事から、西ノ宮停車場が開設されました。駅は市街地から北東に離れた、東川の東側農村部(芝村)に、造られています。 鉄道開業により、南北方向の交流が絶たれ、人の流れは、東西方向に広がる様になりました。 ● 西ノ宮駅は、三ノ宮駅と同様に、駅の所在地名や、由来の神社には「ノ」は、付けられていません。 東京の人には、読めないとの理由から、当時の工部省鉄道寮(旧国鉄の前身)の判断で、駅名に「ノ」が、付けられました。 尚、西宮市から、市名と同名駅にとの要請を受け、平成19年3月18日、隣駅の夙川駅開業に合わせて、西宮駅に改称されました。 ● |
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西ノ宮停車場、撮影は下りを望む、跨線橋の上に、関係者が並んでいます。茜堂所蔵の鶏卵写真(手彩色)。 上段の画像では、標準的なスキャニングに因って、ハイライト部分が均一化され、背景が不明瞭な為、 遅ればせ乍ら、写真濃度を、ハイコントレイション(山、雲の可視化)した画像と、抱き合わせ、手彩色し解り易く再現しています。 左側が、平野部から伸びる「摩耶山(標高702m)」で、右側に続くのが、山頂は見えませんが「六甲山(標高932m)」です。 ● また、別途頁「西ノ宮停車場の検証」にて、当駅画像の詳細なる、検証を行っております。 それでは、ここから周辺の建造物、名所風景や鉄道事情、切符類等を、また別項にて、明治期の神戸続編を掲載しております。 最下段に設置されています、リンクバーから、お進み頂けます。 生写真で見る神戸市内の風景=茜堂 |
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摩耶山から神戸市内を望むと、国鉄線が、中程を東西に貫いているのが、見て取れます。 神戸の港に、林立する川崎製鉄所の煙突群、硬度成長に向かう、昭和中期の懐かしい風景です。 |
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昭和時代の写真ですが、この一作のみ、箸休めにご覧下さいませ。 ● |
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父が撮影した、摩耶駅からの神戸市内の眺望、撮影は昭和32年5月19日。 ネガは6×6なので拡大をすると、沖合の防波堤や、省線の煉瓦造りのアーチが、そこかしこに確認出来ます。 ● 左手海側に林立する煙突は、葺合(現、生田町)に有った、川崎製鉄の煙突です。平成7年末を以て、生産を終了しています。 その右手に、大きく付き出している突堤が、第四突堤で、現在、ポートアイランド(人工島)に通じる、ポートライナーが走っています。 画面右手の、白く横に見えるのが、国鉄三ノ宮駅で、最右手の埠頭には三菱造船や、川崎造船が位置しています。 |
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上の写真の摩耶山と、裾野とを結ぶ、摩耶鋼牽鉄道の切符類をご覧下さい。 摩耶鋼牽鉄道とは、ワイヤーで線路の上の車両を牽引する、摩耶ケーブル線の事で、 大正14年1月6日に、摩耶鋼牽鉄道が、摩耶山~利天上寺への参詣路線として、高雄駅~摩耶駅間で開業しています。 ● |
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昭和4年7月1日~12月31日-6ヶ月、優待乗車券、鋼牽線、高雄駅~摩耶駅間、右書表示券、摩耶鋼牽鉄道。 昭和5年7月1日~12月31日-6ヶ月、優待乗車券、鋼牽線、高雄駅~摩耶駅間、摩耶鋼牽鉄道。 ● |
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昭和6年10月1日~昭和7年3月31日-6ヶ月、優待乗車券、鋼牽線、高雄駅~摩耶駅間、摩耶鋼牽鉄道。 昭和8年10月1日~昭和9年3月31日-6ヶ月、優待乗車券、自動車線、大石・上筒井連絡、鋼牽線、高雄駅~摩耶駅間、摩耶鋼牽鉄道。 全て、摩耶鋼牽鉄道の優待乗車券で、上段右の券は、右書き表示の券となり、以降は、現代書きの左書改定券となっています。 それぞれ、裏面には、使用に際する、4項目の注意書が、漢字と片仮名によって記されています。 また、下段右の券は、自動車線との共通優待乗車券となっています。尚、氏名部分は、画像修正を施しています。 ● |
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昭和4~5年頃8月29日、連絡往復券、60銭、自動車線、大石・上筒井連絡、鋼牽線、高雄駅~摩耶駅間、軟券、摩耶鋼牽鉄道。 ● |
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昭和4~5年頃8月29日、往復乗車券、40銭、鋼牽線、高雄駅~摩耶駅間、軟券、摩耶鋼牽鉄道。 昭和4~5年頃8月24日、片道乗車券、25銭、鋼牽線、高雄駅~摩耶駅間、軟券、摩耶鋼牽鉄道。 昭和4~5年頃8月24日、片道乗車券、小児、12銭、鋼牽線、高雄駅~摩耶駅間、軟券、摩耶鋼牽鉄道。 上記券共に発行日は、裏面に押印されている、上筒井の発行印から、8月24日、8月29日で有る事が分かりますが、 発行年号につきましては、上の連絡往復乗車券が、右書き表示で有るのに対して、同日付の下の往復乗車券が、左書改定券で有る事から、 当路線では書式改定の、過度期で有る事が分かりますので、因ってその時期を、昭和4~5年と判断致します。 ● |
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昭和4~5年頃8月24日、片道乗車券、小児、5銭、畑原線乗合自動車、軟券、摩耶鋼牽鉄道。 昭和4~5年頃8月24日、片道乗車券、10銭、篠原線乗合自動車、軟券、摩耶鋼牽鉄道。 昭和4~5年頃月日不明、片道乗車券、10銭、上筒井大石石屋川線乗合自動車、軟券、摩耶鋼牽鉄道。 連絡乗車券での、自動車線の発着駅は、鋼牽線高雄駅の東南に位置する大石停留所か、西南に位置する上筒井停留所の、 どちらかの選択で、往復での異なった停留所でも、可能となっています。 自動車線では、神戸市電気局(神戸市交通局)と、摩耶鋼牽鉄道の乗合自動車が、運行していました。 摩耶鋼牽鉄道は、その後、戦争での不要不急線として、昭和19年2月11日に運行を休止し、翌年には、軌道も撤去されています。 運行を再開したのは、昭和30年5月7日の事で、実に戦後から10年も経っています。 更に、翌年11月2日には、高雄駅から、南へ延伸する予定で有った計画を断念し、その路線の免許を返上しています。 ● 昭和50年10月29日に、六甲越有馬鉄道と合併し、六甲摩耶鉄道の路線となりました。 翌年1月30日に、利天上寺が放火の為、全焼し参詣路線としての営業が、成り立たなくなり、窮地を迎える事となります。 更に、平成7年1月17日早朝の、阪神淡路大震災で被災し、復旧の見通しが立たず、長期休止となっています。 ● その後、平成12年4月25日、奥に続く摩耶ロープウェーを管理する、神戸市都市整備公社へ無償譲渡し、公社の路線となっています。 以降、復旧工事が着手され、翌年3月17日、摩耶ロープウェーと共に、運行が再開されました。 それに伴って、麓側の駅を「摩耶ケーブル駅」に、頂上の駅を「紅駅(紅の駅=公式通称)」と、改称されています。 ● 尚、神戸市都市整備公社は、平成25年1月1日には、神戸すまいまちづくり公社に、改称されています。 銀塩写真葉書で見る省線電車開通の風景=茜堂 |
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省線電車とは、鉄道省、運輸通信省、運輸省の時代に、大都市周辺(大阪=京阪神、東京=首都圏)で運転された、 近距離専用電車、或は近距離専用電車線の呼称で、国鉄時代には国電と呼ばれていました。 関西では、昭和7年に省線電車が、最初のモハ40系でデビューし、翌々年には吹田駅~須磨駅間が電化開業しています。 ● 大阪鉄道局発行の、銀塩写真に依る、昭和9年7月20日、大阪駅~須磨駅間電化に伴う、省線電車開通念絵葉書にて、紹介致します。 以下タイトルは、タトー(絵葉書カバー)に記載されている、キャプションとなっています。 順番は、タトー記載順では無く、大阪より下り順に配置しています。 |
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昭和9年7月20日、当時の大阪駅は、まだ2代目駅舎の頃で、島式ホームが3面(1~6番乗場)しか無く、 昭和11年頃には、2代目駅舎が取り壊され、3代目駅舎建設のため仮駅舎となり、ホームが5面(1~10番乗場)に増えています。 ● |
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大阪駅ホーム、塚本方を望む、大阪鉄道局発行、阪神間省線電車開通記念、茜堂所蔵の絵葉書、印画紙版(リアルフォト)。 写真は、大阪駅4番乗場から塚本方の、下り方面を撮影しています。 因に、塚本駅は宮原操車場方面への、西回り回送線(デルタ線)設置に伴い、昭和9年5月25日に、鹿島信号場(2代目)の開設後、 昭和9年7月20日、その東側に塚本駅が開業しています。同時に鹿島信号場は、塚本駅に統合されました。 |
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日本初の錬鉄製ワーレン型、武庫川橋梁は、架け替えや幾度もの改修を重ね、各時代の部材が残された、珍しい橋梁となっています。 大正3年~同4年に掛けて、大規模工事の末、現在のプレートガーター橋に、架け替えられています。 上り線側に残されている、煉瓦橋台は当時の物で、下り線側のコンクリート橋桁、橋台は、川下側に増設された、複々線化時の物。 ● |
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武庫川橋梁下り線上のモハ43系電車、大阪鉄道局発行、阪神間省線電車開通記念、茜堂所蔵の絵葉書、印画紙版(リアルフォト)。 撮影は、土手の踏切からの後追いで、過ぎ行くモハ43系電車の、密着連結器が写っています。 踏切から撮られていますので、下り電車で、立花駅から武庫川橋梁を渡り、甲子園口駅へと向かっています。 複々線となっていますので、昭和12年10月10日以降の、画像となります。 |
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昭和9年7月20日の、電化開業と共に、要所要所の中継地点として、変電所が設置されました。 その一つに、芦屋駅とさくら夙川駅の間に有る、山側に向かう廃線跡の送電線の先に、JR西日本芦屋変電所が有ります。 ● |
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芦屋変電所の外観と回転変流機、大阪鉄道局発行、阪神間省線電車開通記念、茜堂所蔵の絵葉書、印画紙版(リアルフォト)。 大正末期に小高い山を削り開いて、鉄道省官舎が作られ、昭和9年にその手前に、芦屋変電所が設置されました。 その時の土砂が、芦屋駅東の引込み線(廃線築堤跡)を、使用して運搬し、神戸港中突堤、新港突堤の築港に使われています。 本線迄の、芦屋変電所からの送電線は、その廃線築堤跡を使用しています。 ● 因に、昭和8年~昭和42年迄、芦屋変電所で使われていた、回転変流機は保管され、準鉄道記念物に指定されています。 回転変流機は、電動発電機よりも効率が良く、交流を直流に変換する、日立製作所製の回転機です。 |
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場所が良く分からないが、神戸駅~元町駅~三ノ宮駅間には、商業施設が入っているので、それ以外の場所であろう。 ● |
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神戸高架下変電所の外観と変流機、大阪鉄道局発行、阪神間省線電車開通記念、茜堂所蔵の絵葉書、印画紙版(リアルフォト)。 若し、神戸駅以西を考えれば、鷹取工場が位置するので、中継地での変電所は不要で有る。 雰囲気的には、三ノ宮駅~阪急春日野道駅(東海道本線に隣接)間の様な、風情では有るし、中継での位置的にも符合はする。 近くには現在、野外に建てられた、JR西日本灘変電所が有るので、高架下から、こちらに移設したのかも知れません。 |
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昭和12年5月23日に、東灘駅(貨物)~兵庫駅間が、複々線化されていますが、画像は複線の侭となっていますので、 電化の昭和9年7月20日~複々線化の昭和12年5月23日の間に、撮影された写真だと推測されます。 昭和9年~同12年頃の、神戸駅西側辺りの、古き良き時代の街並と、最新装備の電車が、綺麗に写し取られています。 ● |
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神戸高架線を走るモハ43系電車、大阪鉄道局発行、阪神間省線電車開通記念、茜堂所蔵の絵葉書、印画紙版(リアルフォト)。 写真を見ると、高架線の手前右側に、医薬品卸会社三星堂が社旗を掲げ、その左側には、文具の三七十(みなと)屋の塔が見て取れます。 また、高架線の後方右側には、特異な容姿のモダン寺(浄土真宗本願寺派、本願寺神戸別院)が写っています。 更に、その山手の方には、下山手通りに有る、神戸聖ミカエル大聖堂が写っています。 ● 高架の山側脇の左手には、村井旅館か、大きな旅館が写っていますが、現在はその名残りは、全く残されていません。 以上の、各被写体の位置関係から、撮影場所は、神戸中央郵便局の屋上からだと、推測されます。 ● 高架線を走っているのは、下り4両編成のモハ43シリーズで、初の20m級長距離省線電車です。 先頭から編成は、クハ58、サロハ59、モハ43、クハ58、台車はモーター部が、TR-25、他は、TR-23を履いています。 パンタグラフはスタンダードな、PS11、この43系電車から、密着連結器を全車揃って、最初から装備しています。 ● 尚、掲載画像に就きましては、昭和31年12月31日以前の物で、旧著作権下に有り、既に著作権が失効されていますが、 当頁内の、鶏卵写真画像に就きましては、全面に渡り、スポッティングや、画像補正等の特殊修整加工を、施しておりますので、 作品画としての、新たな著作権が発生しております。無断複写や盗用等は、硬くお断り申し上げます。 ● 尚、当頁内白茶色(セピア、アンバー系)の生写真のみが、明治6~9年頃に撮影し焼き付けされた、明治期の鶏卵写真となります。 その他の絵葉書、銀塩白黒写真、切符類等は、必ずしも明治期の物では無い事を、ご了承願います。 ● 画像の「大量盗用事案」が発生致しましたので、大変お見苦しいですが、画像にウォーターマークを入れさせて頂きました。 |
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解説に於いて、誤記や解釈の違いにより被られた不利益につきましては、当方では一切関知しないと共に、責務を負えない事をご了承願います。
撮影場所につきましては、区画も変わっており厳密ではございません。町名相違の場合にはご容赦下さいませ。 本文中、敢えて旧漢字を使っている部分も有ります。混在しておりますが、こちらもご容赦下さいませ。 掲載画像に就きましては、茜堂所蔵の絵葉書や鶏卵写真に、画像修正を施して居りますので、新たな著作権が成立して居ります。 無断複写や盗用等は、慎んで下さいます様お願い申し上げます。 ● |
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