明治時代の神戸続編/茜堂 古の寫眞で見る明治期の神戶-續篇=茜堂 |
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明治期の神戸の頁から、お越し頂いた方は、引続き明治期の神戸続編を、お楽しみ下さいませ。 別頁からお越しの方は、最下段のリンクバーの「戻る」を、クリックして頂けましたら、 前編となる、明治期の神戸の頁をご覧頂けます。それでは、明治初期の神戸の施設や、建築物や風景等をご覧下さいませ。 ● 古の写真で見る明治期の神戸-続編。 |
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写真帳の表題では「電信郵便両察」と、記載されています。 明治7年に、横浜、神戸、長崎の三港に、郵便役所を建築する伺書が提出されました。 ● |
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神戸の郵便役所は、木造二階建てで、予算の関係から電信局との合同で、建てられました。茜堂所蔵の鶏卵写真。 近代郵便制度は、前島密により、東京~京都~大阪間の、政府の手紙等の配達に、民間の手紙も受け入れて、利益を上げる提案をし、 明治4年4月20日に、英国から導入され、東京~大阪間62箇所の郵便取扱所で、官吏が引き受け、管理、配送時間厳守で始まりました。 ● 明治7年には、神戸を含む三つの港町に、郵便役所を建築する計画が立ち、横浜はレンガ作り、神戸と長崎は木造二階建てとなり、 総工費3万円の計画でしたが、経費節減の為に、横浜は木造に、神戸と長崎は、電信局との合同で、建設が認められました。 |
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写真帳の表題では「三井銀行」と、記載されています。 天和3(1683年)年5月、三井八郎右衛門高利が、江戸駿河町に開いた、越後屋三井両替店を起源とします。 ● |
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英国銀行よりも11年も早く、越後屋三井両替店を、天保3年5月に創業しました。茜堂所蔵の鶏卵写真。 幕府御用から、王政復古の発令を経て、維新政府の為替方となった、三井組は、大蔵省の前身である、金穀出納所御用達を受諾し、 御為替方三井組となり、政府の殖産資金創出策に提携し、銀行業者としての、貴重な体験を得て、為替会社を設立しました。 通商、為替会社は東京で設立され、ついで大阪、横浜、西京(京都)、大津、神戸、新潟、敦賀に設けられました。 ● 設立した、為換座三井組の各支店では、1両を1円とする、交換業務を行っていました。 栄町通に有った、旧三井銀行神戸支店は、大正5年に改築し、後に移転した後には、第一勧業銀行が入っています。 |
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写真帳の表題では、それぞれ「居留地、海岸居留地」と、記載されています。 兵庫の開港は、長崎より9年遅れで有った事が幸いし、長崎の経験を生かした、合理的な都市計画が、立てられました。 ● |
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海から山に掛かる居留地、六甲山系を背にした通りが、エキゾチックです。茜堂所蔵の鶏卵写真。 六甲の山々(植林不全で容姿悪し)を背景に、南北に伸びる明石町筋の居留地。建ち並ぶ洋館群が、異国の雰囲気を醸し出しています。 江戸幕府は、外国人と日本人との接触を、極力回避しようと、外国人専用の居留地を、制定した物と思われます。 ● |
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街並が整備された海岸通の居留地、全ての通りには、車道と歩道が区別されていました。茜堂所蔵の鶏卵写真。 風光明媚な海岸通の、神戸外国人居留地の街並。現在とは異なり、海岸通の直ぐ近くに海岸が有り、砂浜を形成していました。 日本人は、外国人居留地内での居住は、一切禁止され、開港当初は、居留地への立入自体も、硬く禁じられていましたが、 明治元年~2年目以降になると、鑑札所持者については立入が許可され、居留地内の警察組織にも、日本人警察官が一部、所属していました。 ● |
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芝生が綺麗に整備されています。茜堂所蔵の絵葉書(発行元不明)。 神戸外国人居留地は、安政五ヵ国条約に基づき、慶応3年(1867年)12月7日~明治32年7月16日の間、 兵庫津の約3.5km東に位置する、神戸村(神戸市中央区)に、設けられた外国人居留地で、神戸居留地とも呼ばれていました。 ● 東を、旧生田川(フラワーロード)、西を鯉川(鯉川筋)、南を海岸、北を西国街道(花時計線)に囲まれた、約7万8000坪の区域が、 都市計画に基づき、合理的に開発され「東洋における居留地として、最も良く設計されている」と、英紙に評されました。 また、一定の行政権、財政権等の、治外法権が認められ、居留外国人を中心に組織された、自治機構によって運営されていました。 |
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写真帳の表題では「諏訪山常盤樓」と、記載されています。 多くの著名人も訪れたと言われている、諏訪山温泉を有した神戸一の高級料亭、今は無き常磐楼。 ● |
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諏訪山の東側に佇む、今は無き二階建ての温泉料亭、常磐本店、茜堂所蔵の鶏卵写真。 明治6年、前田又吉が諏訪山に鉱泉を掘り出し、神戸宇治川に有った料亭「常磐花壇」を、この諏訪山の東側に移し、 二階建ての温泉料亭「常磐楼」を開きました。又、前田又吉は、明治21年には、京都で三階建ての「常磐ホテル」を、開業しています。 京都を代表するホテル、京都ホテル(現、京都ホテルオークラ)の、前身となります。 ● 常磐楼は、諏訪山の東側に有った、常磐楼本店(西常磐)と、その隣店の常磐楼中店(中常磐)と、 御影山手の深田池を望む地に、常磐楼東店(東常磐)が有り、沖縄県の那覇通堂にも支店を持ち、神戸では最高級の大料亭でした。 |
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写真帳の表題では「福原病院」と、記載されています。 福原と聞くと、風俗街としてのイメージが湧いて出る。昔は「さんばら」と並び称される程、有名な所でした。 ● |
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海外からの伝染病の蔓延防止の為、英国公使の助言で建てられた福原病院、茜堂所蔵の鶏卵写真。 神戸は、横浜、長崎と並び称される港湾都市の為、外国船員の来往を含めて、伝染病の流行が、常に憂慮されていた事から、 明治八年には、英国公使の助言によって、遊廓が在った福原に、病院が開設されました。 ● 福原(ふくはら、ふくわら)は、古くは平清盛を中心とした、平氏政権の「福原京」で知られている、地名ですが、 当地の福原は、明治以降に付けられた、地名ですので、由来的には、福原京との直接の関係はありません。 残念乍ら、福原病院の記憶や記録はございません。何となく頭の奥深くに、音の響きとしては残ってるんですが、詳細は不明です。 生写真と絵葉書で見る明治期の神社仏閣や史蹟等の風景=茜堂 |
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明治初期の神戸の神社仏閣や、貴重な史蹟や風景等をご覧下さいませ。 |
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写真帳の表題では「兵庫眞光寺」と、記載されています。 福原西国三十三箇所、今は無き、大きな阿弥陀如来座像が置かれていた、第33番札所の時宗西月山真光寺。 ● |
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時宗西月山真光寺、戦前には大きな阿弥陀如来座像が、置かれていました。茜堂所蔵の鶏卵写真。 阿弥陀如来座像の横には、一般的に山門と呼ばれる、立派な三門(三解脱門)が建っています。 山門は、仏教寺院の正門で、本来、寺院は山に建てられ、山号を付け呼んだ名残りから、平地でも山門と呼ばれています。 ● |
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奥に本堂が写っています。茜堂所蔵の絵葉書(発行元不明)。 開祖一遍上人の時宗のお寺さん、伏見天皇の勅願により、真光寺と号し、播州守護職赤松円心より、寺領を寄進されました。 ご本尊は、阿弥陀如来仏で、七堂伽藍は荘厳を極め、寺地三十八町四方に、及んだと言われています。 次いで、後醍醐天皇より西月山の山号を勅賜され、南朝の皇族尊観法親王が住持されてから、更に、念仏の大道場として繁栄しました。 ● 座っておられる阿弥陀如来は、衆生をどの様に救おうか、お考えになられているお姿だと思います。 若しくは、西方極楽浄土で往生人に、説法されておられるお姿でしょう。 また、お立ちになられておられる阿弥陀様は、念仏する衆生に、救いの手を差し伸べようと、前に歩み寄られるお姿です。 ● 昭和20年3月の神戸大空襲で、全伽藍を焼失し、残念な事に、多くの寺宝が失われています。 現在残っている、五輪石塔(一遍上人墓塔)は、県指定文化財となっています。 |
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写真帳の表題では「三ノ宮」と、記載されています。 三宮神社は、古来より生田神社の社領となり、八柱の裔神を祭る、一宮から八宮までの生田裔神八社の内、三番目に当たります。 ● |
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三宮神社は生田神社の社領で、生田裔神の三番目。現在では、周囲をビルに囲まれています。茜堂所蔵の鶏卵写真。 三宮神宮は、神戸の中心地三宮町に鎮座し、三宮町の名称の、由来となっています。 宗像三女神の一神、水の神様である、湍津姫命を御祭神とし、航海の安全と商工業の繁栄を守る神とし、古くから崇敬厚い神社です。 また、境内の井戸水から湧き出す上質な水は、開港間もない神戸港を出入りする、船舶の飲料水として、重宝されていました。 ● 昔は、写真の様に深い森が広がっていました。慶応4年(1868年)に三宮神社前に於いて、岡山藩士と仏兵との衝突が発生し、 明治政府発の外交事件となった。これを神戸事件(備前事件)と言い、境内には神戸事件発生地碑と、当時の大砲が置かれています。 旧三ノ宮停車場の、駅名由来となった神社で、真西に約200m程の所に、駅(現、元町駅)が有りました。 ● 三ノ宮駅は、西ノ宮駅と同様に、駅の所在地名や、由来の神社には「ノ」は、付けられていません。 東京の人には、読めないとの理由から、当時の工部省鉄道寮(旧国鉄の前身)の判断で、駅名に「ノ」が、付けられました。 |
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写真帳の表題では「生田宮」と、記載されています。 神戸の地名の由来となった、生田神社。且つては、現在の神戸市中央区の一帯が社領でした。 ● |
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素人さんが挑んだ、手彩色。筆致が散漫で、やはり絵心が無いと難しい。茜堂所蔵の鶏卵写真。 生田神社の境内に入ると、三の鳥居と、御神門、楠木が生い茂る鎮守の森(生田の森=樹林は楠木)。 生田さんは、災害から、何度も復興した事から「蘇る神」としても崇敬され、神仏霊場巡拝の道では66番で、兵庫1番となっています。 ● |
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生田神社、三の鳥居と御神門、茜堂所蔵の絵葉書(発行元不明)。 後年の絵葉書(発行元不明)で、同じ方向からの三の鳥居と、御神門、周囲はかなり整備されています。 一の鳥居は、生田ロードの先端に位置し、参道はセンター街を抜け、生田新道を越えた所に、社号標と二の鳥居が有ります。 ● |
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生田神社、社号標と二の鳥居、茜堂所蔵の絵葉書(発行元不明)。 手彩色が施された、後年の外国人向け絵葉書で、二の鳥居と、右側に社号標が写っています。 生田神社は、旧社格は官幣中社。同じ兵庫県内の廣田神社や、長田神社と共に、神功皇后以来の歴史を、有しています。 ● 当初は、布引山(砂山=いさご山)に祀られていましたが、延暦18年(799年)4月9日の、大洪水により麓が崩れ、山の崩壊の恐れが出た為、 御神体を、現在の地である生田の森に、移転をしたと言われています。また、中央区一帯が社領であった所から、 神地神戸(かんべ)の、神戸(かんべ)が地の呼称となり、中世に紺戸(こんべ)、近年に神戸(こうべ)と、呼ばれる様になっています。 ● その大洪水の際に、社の周囲には、松の木が植えられていましたが、洪水防止には、全く役に立た無かった為、 松が大嫌いな神様となり、生田の森には、楠木が植えられ、現在では、松の木は一本も有りません。 また、正月の楼門前の飾りも徹底して、松では無く杉盛りで、以前有った能楽堂の背景迄も、松では無く杉でした。 |
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写真帳の表題では「長田神社」と、記載されています。 地元の方々から、長田さんの愛称で親しまれている長田神社。その歴史は古く、神功皇后摂政元年(201年)とされています。 ● |
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長田神社、上棟銭、絵銭、銅銭、表、裏。 | ||||||||
長田神社の本殿、灯籠と狛犬、茜堂所蔵の鶏卵写真。 事代主神(於天事代於虚事代玉籖入彦厳之事代主神)を、主祭神として、本殿瑞垣内に天照大御神、応神天皇を祀っています。 延喜式神名帳では、名神大社、更に祈雨八十五座に列され、商工業や産業の護り神として、崇敬されています。 ● 上棟銭は、上棟式の日に祝いとして、施工主が棟の上から、集まった人達(参列者)に、撒いた撒き銭(まきせん)で、 神社、仏閣等では、特別に鋳造した絵銭(えぜに)が、用いられました。絵銭は流通通貨では無く、記念品の一種です。 昭和2年3月21日、現在の社殿の上棟式が行われていますが、絵銭は大正期頃迄、使われていた為、この時の物かも知れません。 ● |
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兵庫長田神社の拝殿、Nagata Yemple Hyogo. 茜堂所蔵の絵葉書(楠正堂発行)。 生田神社や、湊川神社と共に、神戸を代表する神社で、室町時代から続く「追儺式神事(国指定無形文化財)」が有名です。 境内には鶏が放たれていて、且つては、数百羽の鶏も飼われていた為、外国人からは、チキンテンプルと呼ばれていました。 現在は、鶏の放し飼いは無くなり、境内からは一層され、代わりに、多くの鳩が生息しています。 ● 鶏が、境内から一掃された理由は、戦後の食糧難の時代に有って、神様の恩恵として、全てが食料に回されています。 鶏を放し飼いにしていた事から、且つて、祈願の際には、境内に鶏を奉納したり、鶏の絵馬を捧げる風習が有り、 当時の氏子達は、鶏肉や鶏卵を一切食す事も無く、また、婦女の歯をお歯黒として、鶏の羽根を用いて染める風習も有りました。 |
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写真帳の表題では「五百五十年祭、十八年七月中、楠公」と、記載されています。 湊川神社は、楠木正成を祭る神社で、地元では「楠公(なんこう)さん」と、親しみを込めて呼ばれています。 ● |
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明治18年7月の湊川神社、楠公五百五十年祭、茜堂所蔵の鶏卵写真。 湊川神社は、建武中興十五社の一社で、旧社格は別格官幣社となります。写真手前が表門、奥が社殿です。 社号標が二基建てられていますが、現在は右側に建てられています。宝物殿や楠公会館等が無いので、境内は至ってシンプルです。 ● |
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湊川神社、表門、茜堂所蔵の絵葉書(発行元不明)。 楠木正成は、延元元年(1336年)5月25日に、湊川の戦いで足利尊氏と戦い、殉節しました。 元禄5年には、荒廃していた墓に、徳川光圀公自筆の石碑「嗚呼忠臣楠子之墓」が、建立されました。 以来、水戸学者らにより、楠木正成は、理想の勤皇家として崇敬され、幕末には維新志士らにより、祭祀されるようになりました。 ● 慶応3年(1867年)に、尾張藩主徳川慶勝によって、楠社創立の建白がなされ、明治元年に、明治天皇は大楠公の忠義を、後世に伝える為、 神社を創建するよう命じ、明治5年5月24日に、湊川神社が、創建されました。 現在の社殿は、戦災に因り消失した物を、昭和27年10月24日に、復興新築されたものです。 |
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写真帳の表題では「布引瀧」と、記載されています。 布引の滝(瀧)は、神戸市中央区を流れる、布引渓流(名水百選)の4つの滝の総称で、日本三大神滝のひとつ。 ● |
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布引の滝の代表格、落差43メートルの、勇壮な雄瀧、茜堂所蔵の鶏卵写真。 周辺は整備が成されてなく、山道も足許が脆弱で、粗雑な木橋が見て取れ、まだまだ、開発半ばと言った感じがします。 また、植林が未整備なので、岩肌が一部剥き出しの状態で険しく、まだ美を求める様な場所では、無かった様です。 ● |
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屋根付きの橋や、周辺整備が整備されています。茜堂所蔵の絵葉書(発行元不明)。 布引の滝は、布引滝とも表記され、名瀑として知られる古来からの景勝地で、六甲山の麓を流れる、生田川の中流(布引渓流)に位置し、 上流から順に、雄滝(おんたき)、夫婦滝(めおとだき)、鼓滝(つつみだき)、雌滝(めんたき)の、4つの滝からなっています。 栃木県日光市の華厳滝、和歌山県那智勝浦町の那智滝と共に、三大神滝とされています。 ● 絵葉書は、光村出版部発行の物で、表面には1銭5里の切手が貼られ、消印として、明治44年1月25日の押印が有ります。 且つては、滝勝寺の修験道行場として、下界とは一線を画す地域でしたが、絵葉書では、木橋が観光用に、綺麗に整備されています。 現在は、渓流沿い及び、布引山(森林浴の森100選)一帯から、滝を経て布引ハーブ園へ迄の、遊歩道が整備されています。 |
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写真帳の表題では「海岸飛脚船」と、記載されています。 船に帆柱が林立し、帆を張った飛脚船(ひきゃくぶね)が沖合に、流石に明治の風景です。 ● |
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神戸沖に数隻の帆船が、利便性の高かった飛脚船、茜堂所蔵の鶏卵写真。 飛脚船は、江戸時代に始まった、主要な港湾や浦々を結ぶ急ぎの船で、官民問わず、急ぎの用をこなしていた、足の速い便船です。 陸の飛脚に比べ、やや大きな物でも、遠方に迅速に輸送出来る為、鉄道網が整う迄の間は、重宝されていた様です。 |
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写真帳の表題では「平清盛墓所」と、記載されています。 平清盛の墓所は、各地に5箇所も有り、写真は神戸市兵庫区切戸町に有る、清盛塚(供養塔)です。 ● |
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立派な造りの十三重の石塔、平家清盛塚(供養塔)、茜堂所蔵の鶏卵写真。 平清盛は、平安時代の武将で公卿、娘の徳子を、高倉天皇に入内させ「平家にあらずんば人にあらず」と、言われる時代を築きました。 平家の独裁は、貴族や寺社、武士から反発を受け、源氏による討伐の最中、京都にて、治承5年(1181年)旧閏2月4日に、病で没します。 その後、元暦2年(1185年)の、壇ノ浦の戦いに敗れて、平家は滅亡しました。 ● 平清盛の墓所は、神戸の清盛塚(供養塔)の他に、同じく、神戸の宝積山能福寺平相國廟、京都の補陀洛山六波羅蜜寺の平清盛塚と、 同じく、京都の祇王寺の供養塔、そして、下関の彦島の清盛塚の、5箇所が有名です。 高さ約8.5メートルの十三重の石塔の、清盛塚(供養塔)には「弘安9年(1286年)2月」の、年号が刻まれています。 |
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写真帳の表題では「兵庫一ノ谷」と、記載されています。 兵庫は広域を表し、現在では須磨が一般的で有る。須磨の一ノ谷は、源氏と平家が戦った「一ノ谷の戦い」で有名な所です。 ● |
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且つての合戦場、一ノ谷、茜堂所蔵の鶏卵写真。 平安の後期、平清盛が、京都から福原に都を移すが、後に、須磨の一ノ谷の源平合戦で、源義経に破れました。 源平興亡の舞台となった、須磨の一ノ谷周辺には、源平ゆかりの約60箇所にものぼる、様々な史跡が点在しています。 須磨浦公園には、源平史跡「戦の濱」の石碑が建てられています。 ● |
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須磨一ノ谷、玄平古戦場、View Ichinotani.an Old Battlefield at Suma. 茜堂所蔵の絵葉書(神戸元町栄屋印行発行)。 大正6年4月12日に、須磨~明石間を延伸した、須磨の海岸沿いを走る、兵庫電気軌道(現、山陽電鉄)で、左側(海側)が、山陽本線です。 車両番号は、明確には判読は出来ませんが、恐らく明石駅延伸の3年後に製造された、36形(36~40号)だと思われます。 右上には、須磨温泉「須磨寿楼(現在でも存在しています)」の桜の朱印が、押印されています。 ● 線路脇の、松の木の横には「一ノ谷鯖大師」の、石碑が建てられています。 貞照寺の本尊の、弘法大師木像は、右手に鯖を一尾さげている為、俗に、鯖大師の名で呼ばれています。 ● 弘法大師が、四国からの修行途上、塩鯖を運んでいた馬子に、一尾所望したが、馬子が断った途端、急に馬が腹痛を起こしてしまった。 大師が、加持水を与えたら直ぐ治ったので、馬子は深く感謝し後に庵を建て、鯖を持った弘法大師を、祀ったと言う伝説が有ります。 平成7年の阪神淡路大震災により、貞照寺は全壊した為、現在、鯖大師と石仏は、須磨寺へ移されています。 ● |
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須磨一ノ谷戦いの浜(汽車進行)、Beach of Ichinotani Suma. (須磨名所)、茜堂所蔵の絵葉書(発行元不明)。 山陽本線、須磨一ノ谷を通る、下り貨物を牽引する、大きな前照灯の6120形 NO.6121。 前身は、山陽鉄道が、アメリカのスケネクタディ社(Schenectady Locomotive Works)から、明治33年11月に新製で輸入した、 飽和式2Bテンダー機で、山陽16形NO.89です。明治39年12月1日には、鉄道国有法に拠り、官営鉄道が買収し、官鉄NO.89となります。 ● 配属先は神戸運輸事務所ですが、神戸運輸事務所は、明治41年の職制変更で、西部局に改称されています。 明治42年10月1日、鉄道院車両形式称号規程に拠って、NO.89から改形改番され、6120形 NO.6121となり、神戸区で活躍します。 幾度かの転配を経て、大正14年3月17日に鷹取工場にて、2B2タンク機関車に大改造され、1063形NO.1063に、改形改番されました。 ● 撮影は、6120形 NO.6121の左右に、バッファーが有り、リンク式連結器の装備から、明治39年~大正14年の間だと思われます。 左奥には、線路沿いに立てられた、二種類の懐かしき、通信線用の電柱(ハエタタキ)が見えます。 ● |
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須磨一ノ谷海岸、Ichinotani at Suma.、列車の進行、茜堂所蔵の絵葉書(発行元不明)。 須磨一ノ谷海岸を疾走する、下り列車、牽引機は、神戸区所属の急行旅客用の、18925号機(18900型)で、 昭和3年10月1日(5月17日=鉄道省達第380号)の、車輌形式称号規程改正に拠り、C51 26号機に、型式変更及び改番されました。 ナンバープレートは、型式入のボックス文字、ランボードには、白線が施されています。 ● 18925号機は、大正10年に、汽車製造大阪工場で新製され、C51に変更される迄、神戸区で活躍をしていました。 撮影は、カマの状態から大正後期頃だと、思われます。また、左上に須磨温泉「須磨寿楼」の桜の朱印が、押印されています。 ● |
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昭和11年6月、塩屋駅~須磨駅間の、須磨の海岸沿いを走る、上り2列車特急燕号牽引の、C53 43号機流線型です。 画像は、銀塩印画紙への焼付け生写真、茜堂所蔵の生写真。 世界的な、流線型ブームに乗った鉄道省は、昭和3年の秋に、汽車製造大阪工場で製造された、梅小路機関区所属のC53 43号機を、 昭和9年11月に、流線型に改造すべく試験的に、鷹取工場で20日の突貫工事で、流線型化改造を終えています。 ● 鉄道省唯一の、日本製3シリンダー機のC53型、その43号機は同型式では、唯一の、機流線型の蒸気機関車となっています。 その流線型は、C55型に受継がれ、昭和11年から製造された、2次型の20~40号機の21両が、新造流線型仕様機として、誕生しますが、 点検や補修が煩雑な為、昭和25年から翌年に掛けて、流線型ケーシングが全機撤去され、標準型に戻されています。 ● 将来の複々線化に向け、海側に道床の拡張が済み、後は線路敷設を待つばかり、鉄道が一番輝いていた、良い時代です。 昭和13年9月22日、兵庫駅~鷹取駅間に、複々線とは別に単線の小運転線を持つ、5線化が完成しますが、以西は戦争で頓挫します。 待望の、鷹取駅~西明石間の複々線化は、可成りのブランクの後、昭和40年3月28日に完成致します。 ● 編成は、スハニ35700、スハ32800、スハ3280、スハ32800、スハ32800、スハ32800、スハ32800、スハ32800、 スシ37800、スロ30850、スロ30850、展望車スイテ37020~30、何と最長編成で、スハ32800増の12両編成となっています。 尚、車両称号は、昭和16年11月4日達639号(10月1日施行)の、車両称号規程改正前の称号です。 |
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写真帳の表題では「兵庫一ノ谷敦盛墓、十六歳討死、敦盛」と、記載されています。 一ノ谷の戦いで、寿永3年(1184年)2月7日に、若くして散った、16歳の美少年、平家の若武者敦盛供養の敦盛塚五輪塔、鶏卵写真。 ● |
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各輪四方に、大きな梵字が彫られています。茜堂所蔵の鶏卵写真。 一ノ谷の戦いで、一番乗りの功名を果たした、熊谷次郎直実が、馬に乗って沖の船に逃げる、敵武者を見つけ、戦う事になり、 組み伏せて、首を討とうとしたが、その武者は薄化粧をした少年で、清盛の弟経盛の子、敦盛16歳でした。 直実の実子と同じ年齢だったので、逃がそうとしたが、近くまで友軍が迫っていた為、断腸の思いで首を刎ねました。 ● 熊谷次郎直実は、武家の無情を悟り、後に出家して高野山に登り、法然に仕えています。 源平攻防の大舞台となった、須磨一ノ谷にある、敦盛塚五輪塔は、高さ3.97mの大きな石塔は、室町末期~桃山時代の作と言われ、 各輪四方に大きな凡字が刻まれ、京都の石清水八幡宮五輪塔に次いで、日本で2番目の大きさを誇る、石塔となっています。 |
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写真帳の表題では「兵庫舞子ノ濱」と、記載されています。 舞子の浜は、東西1Kmにものぼる、白砂青松の景勝地、松林から望む淡路島は絶景、鶏卵写真。 ● |
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白砂青松の景勝地、舞子の浜、茜堂所蔵の鶏卵写真。 うっそうとした舞子の浜の松原ですが、残念な事にこの写真には、自然造りの根上り松らしき松は、映っておりません。 人工的な根上りの松は、土を盛り上げて、松が大成した頃に盛土を外し、根を浮上げます。趣きが有って兼六園等が有名です。 ● |
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松原の中に佇む東屋、舞子の浜公園、茜堂所蔵の絵葉書(発行元不明)。 東の須磨の浦から、西の明石の浦に接する景勝地、明治33年に、初の県立公園として「舞子公園」と、呼ばれる様になりました。 戦前迄、松林は保たれていましたが、戦後の環境悪化に因り、松林が衰退しましたが、対策に因って昔の松林に戻します。 明治時代には、海風や強い波に因って、砂が流された「根上り松」と、呼ばれた松が有り、再生の試みも始まっています。 ● 明石海峡大橋の建設により、舞子公園の松が、南東の埋め立て地に移植され、舞子の浜を再現した、アジュール舞子が出来ました。 絵葉書は、発行元不明の物で、表面には1銭5里の切手が貼られ、消印として、明治45年1月3日の押印が有ります。 |
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写真帳の表題では「兵庫ノ濱」と、記載されています。 兵庫の浜と言えば、和田岬東の事を言うのだろうか、この写真からは些か不明、鶏卵写真。 ● |
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兵庫の浜、和田岬なのか、須磨浦なのか判別不能です。茜堂所蔵の鶏卵写真。 写真帳のタイトルが「兵庫ノ浜」とだけ記されていて、写真からは、判別は出来ませんが、「兵庫津」の事だと思われます。 兵庫と言えば、和田岬東部を指し、その和田岬に因って、西風を遮られ自然の良港を形成する、神戸港の前身でも有る、 大輪田泊(おおわだのとまり=奈良時代=後の兵庫津)は、現在の兵庫区、北区を中心に、長田区の一部を含む、地域に有った様です。 |
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写真帳の表題では「和田ミサキ明神」と、記載されています。 和田岬明神とは、和田神社の事を言います。写真は移転前の、元の場所にあった和田神社、鶏卵写真。 ● |
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移転前の和田神社の姿、別名、和田岬明神、茜堂所蔵の鶏卵写真。 太古の昔、蛭子大神が淡路島から、船で本州に到着した所が「蛭子の森」と言われました。 平清盛が、承安3年(1173年)に、市杵嶋姫大神を勧請。万治元年(1658年)5月23日に、大雨の影響で大洪水が起こり、 神輿が流れ着き、大きな木に引っ掛かっていた。天御中主大神の坐す押照宮の神輿で、後に、種々の神異を現した。 ● それを知った、当時の尼崎城主が、天御中主大神を主神にして社殿を造営し、その木を影向の松とし、和田の明神と言う様になりました。 明治34年(1902年)には、この地に造船所が建設された為に、和田神社は、現在の和田宮通りに移転されました。 |
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写真帳の表題では「和田ノ岬燈臺」と、記載されています。 和田岬燈台は、明治4年に竣工した、神戸港では、最初の近代的な八角の木製灯台です。左は、砲台(実戦未使用)、鶏卵写真。 ● |
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和田岬に建つ、初代八角の和田岬燈台、茜堂所蔵の鶏卵写真。 慶応3年(1867年)4月に、幕府は、英国との間で結んだ大坂条約の中で、航路安全の為、5基の洋式灯台の建設を約束しました。 和田岬灯台は、この中の一つで、兵庫の開港を前に設置されたもので、明治5年10月1日に、初点灯されています。 初代の和田岬燈台は、木造様式灯台として誕生し、平面八角形で白色に塗られていました。 ● 初代は木造の為、耐久性や耐火性に乏しいので、明治17年には二代目として平面六角形の鋳鉄製に、建て替えられました。 その際に、従来からの石油燈から、ガス(石油ガス)燈に、変更されています。 掲載の写真では、光源の灯室の下に有る、胴壁の丈が短いので、初代の木製灯台である事が、分かります。 ● ニ代目の灯台は、昭和39年に和田岬から、須磨海浜公園に、移設保存されてい「須磨の赤灯台」として、親しまれています。 移築後は、廃灯となっていますが、現存する、日本最古の鉄製灯台となっています。 因に、左手に有る円筒の建物は、勝海舟の設計で、文久3年(1863年)に着工し、元治元年(1864年)に完成した、砲台(臼砲台)です。 神戸を走った明治の陸蒸気=茜堂 |
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明治7年5月11日からの、神戸~大阪間鉄道開業に合わせて、英国に陸蒸気(SL)の製造を依頼します。 1号機関車(製造番号2102)、2号機関車(製造番号2103)、3号機関車(製造番号2104)、4号機関車(製造番号2105)の、計4両を輸入。 全てが、ロバート・スティーブンソン社(Robert Stephenson & Co.)製の蒸気機関車で、共に西部地区(神戸)に配属されました。 ● |
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昭和52年9月16日撮影、加悦鉄道加悦駅、2号機関車(SL)。 120型主要諸元=全長/8179mm、全高/3531mm、総重量/23.37t、空車重量/18.66t、軸配置/2-4-0(1B)、 動輪直径/1346mm、ボイラー圧(平方Cm)/8Kg、水タンク容量/2.3立方m、燃料積載量/0.85t。 ● 左手前に、小型の手動式の、焦茶色のターンテーブル(転車台)が、見えています。 また、右側には、4号機関車(SL)が見えています。旧河東鉄道(現 長野電鉄)の3号機で、昭和9年に加悦鉄道に、移籍しています。 ● 撮影当時の、加悦SL広場は、加悦駅構内に設置されていましたが、昭和60年5月1日、加悦鉄道は全線廃止となり、 暫くの間、展示車両は、そのまま当地に置かれていました。平成5年に、加悦駅用地を、当時の加悦町へ、譲渡する事になった事を受け、 平成8年11月に、大江山鉱山駅(加悦駅から2.8Kmの、ニッケル鉱山専用線)跡に、移転し再開をしています。 ● |
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昭和51年2月2日、2号機関車見学入場券、100円、普通入場券、30円、加悦駅、加悦鉄道、裏面無地。 ● |
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昭和51年2月2日、開通50周年記念乗車券、加悦駅~丹後山田駅、相互式、120円、加悦駅、加悦鉄道、裏面無地。 明治6年6月に製造された、英国スチーブンソン社製の輸入機。明治7年に西部地区(神戸)所属、神戸~大阪間の仕業に付きます。 明治45年鉄道院時代に、123号(120形)に改番されます。 ● 昭平成17年6月9日には、車歴簿と共に、国の重要文化財(歴史資料)の指定を受け、現在は、屋根の有る展示場にて、保管されています。 後ろに連結されているのは、ハブ2、横の蒸機は明治11年4月に製造された、川崎造船兵庫工場製の3号機関車です。 ● |
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昭和60年1月2日、普通入場券、110円、加悦駅、加悦鉄道。 硬券の立派な入場券で、雰囲気的には国鉄の、広島印刷場調整の30円1期券に似ています。 ● 加悦鉄道は、昭和60年5月1日に、丹後山田駅~加悦駅間を廃止しています。また、国鉄の連絡駅で有った、丹後山田駅は、 JR化の後、平成2年4月1日に、北近畿タンゴ鉄道移管で、野田川駅に改称、更に、平成27年4月1日には、与謝野駅へと改称されています。 旧加悦駅舎では、特定非営利活動法人加悦鐵道保存会が、与謝野町から管理運営業務を受託し、加悦鉄道資料館を運営しています。 ● |
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明治38年の年賀状。義経号(動態中の有火機)と、C61 2号機(中間検査A入場中)の、ツーショット。 昭和55年11月9日、鷹取工場にて撮影。 年賀状の絵柄は、西部劇風なヘッドライトに、ダイヤモンドスタックや、カウキャッチャーから、7100形と判断出来ます。 押印から差出し局が、兵庫県淡路島の福良であり、官営(山陽本線)化される、一年前となりますので、恐らく場所は、山陽鉄道で、 須磨の海岸線の上り列車(右側通行ですが)でしょうが、当時の7100形は、全車両が北海道。疑問符付きの絵柄です。 ● 7100形は、アメリカ製蒸気機関車で、明治13~22年の間に8両が輸入、その全部が北海道に投入されました。 最後の二両を除き、形式とは別に義経、弁慶、比羅夫、光國、信玄、静と各々に名前が付けられ、 その内、義経(大阪交通科学博物館)、弁慶(東京交通博物館)、静(小樽交通記念館)の、三両は現在でも、大切に保存されています。 ● それでは別途、時代と場所とテンダーから、考査しますと、山陽3形(5300形)か、山陽12形(5900形)と、なるのでしょうが、 山陽3形は、ドームが一本ですので、二本ドームのこの絵柄とは合いません。 山陽12形は、絵柄とは似ていますが、カウキャッチャーは、装備(不要)していないので、正体不明の摩訶不思議な絵葉書です。 ● 尚、上記記載の、大阪弁天町の交通科学博物館は、平成26年4月6日に閉鎖され、義経は京都鉄道博物館に移籍されました。 東京神田の交通博物館は、平成18年5月14日に閉鎖され、弁慶はさいたま市の鉄道博物館に移籍されました。 閉館を繰り返していた、旧手宮駅の小樽交通記念館は、平成19年7月14日に、小樽市総合博物館に統合されています。 付録-生写真と絵葉書で見る明治期の風景=茜堂 |
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写真帳の表題では「二見浦」と、記載されています。 神戸とは関係性が薄いですが、オマケとして掲載。明治初期の伊勢参り、二見浦(ふたみがうら)の夫婦岩、鶏卵写真。 ● 平成28年15月26~27日、日本では、8年振りのサミットとなった、伊勢志摩サミット(先進国首脳会議)が、賢島で開催されました。 先進国7箇国の首脳達が、夫婦岩の様にいつ迄も、仲良く手を繋いで、平和な未来へと、共に歩んで頂きたいと願います。 ● |
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伊勢市の二見興玉神社、夫婦岩。茜堂所蔵の鶏卵写真。 明治期の写真では、大きな岩の頂上には、二見興玉神社の鳥居が建っていませんが、下の大正期の絵葉書には鳥居が映っています。 夫婦岩上の鳥居ですが、本来、夫婦岩自体が「日の大神」と「興玉神石」を拝する為の、鳥居の役目をしています。 現在の注連縄は5本張られ、大注連縄張神事で氏子の手により、年に3回(5月5日、9月4日、12月第2土日か第3土日)張り替されています。 ● |
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大正元年11月19日、伊勢二見浦夫婦岩。茜堂所蔵の絵葉書(発行元不明)、切手は、平成26年の82円切手です。 明治初期の交通事情を考えると、神戸からの伊勢参りは、可成り大変な旅だったのでしょう。 何せ、関西本線の前身の関西鉄道でさえ、亀山駅開業が、明治23年12月25日の事だから、恐らく、船旅でゆるりと参ったのでしょう。 今では、神戸から近鉄特急(臨)で、お伊勢さんまで一直線、2時間40分の旅、便利な世の中になっています。 ● 伊勢市の、二見興玉神社にある夫婦岩は、一般的には「夫婦円満や家内安全」や「海上保安や大漁追福」の象徴とされ、 古くは、古神道に於ける磐座信仰(いわくらしんこう)で、自然に存在する巨石等を御神体とし、神が宿る場所として信仰しました。 その為、注連縄を飾り、鳥居を備えたりして、そこに神が鎮座している証としています。 ● 因に、伊勢の二見浦に似た夫婦岩の有る海岸が、二見浦にちなんだ名の海岸が、各地に有ります。 福島県いわき市の二見ヶ浦と、福岡県糸島市の二見ヶ浦(筑前二見ヶ浦、桜井二見ヶ浦)等で、後者は非常に良く似ています。 ● |
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大正6年1月25日参拝記念印、宮川電気神都線、内宮行き、御幸通り、錦水橋、茜堂所蔵の絵葉書(NAMIKOSHI ART発行)。 明治36年に、当地の電力事業社の、宮川電気に依り、神都線として本町(外宮前)~内宮~二見間で、電車営業を始めます。 幾度かの延伸を経て、大正3年に全線が開業しました。運営社は幾度もの合併、名称変更を経て、昭和19年に三重交通へと改称します。 戦時中の、不要不急路線として休止されましたが、戦後には復活。その後、車社会の影響で、昭和36年に廃止されました。 ● 御幸(みゆき)道路は、伊勢市を通り、伊勢神宮の豊受大神宮(外宮)と、皇大神宮(内宮)を結ぶ、全長5.5Km程の道路です。 また、国道23号、及び三重県道12号伊勢南勢線、三重県道37号鳥羽松阪線の各一部で、明治43年に開通しています。 天皇の伊勢神宮参詣(行幸、御幸)時の、参拝経路として利用されています。御幸通り、お成り街道(御成街道)とも呼ばれています。 ● |
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大正10年6月9日、回遊切符(全線全区間)、伊勢電気鉄道(旧宮川電気鉄道)発行、裏面無地。 明治36年、市内と郊外を結ぶ、路面電車(後の三重交通神都線)が、宮川電気として開業。翌37年には伊勢電気鉄道に改称します。 尚、同じ鉄道事業を経営した、伊勢鉄道が、大正15年9月11日~昭和11年、伊勢電気鉄道(伊勢電)を称したが、同社との繋がりは無い。 当頁の緻密な手彩色の、外国人向け絵葉書は、米国や英国での発掘品で、当時の日本人がお土産で購入する様な、安易な手彩色では無く、 価格もさる事ながら、緻密で繊細な手彩色が施され、まるで絵画の様な趣きさえも醸し出しています。 ● 尚、掲載画像に就きましては、昭和31年12月31日以前の物で、旧著作権下に有り、既に著作権が失効されていますが、 当頁内の、鶏卵写真画像に就きましては、全面に渡り、スポッティングや、画像補正等の特殊修整加工を、施しておりますので、 作品画としての、新たな著作権が発生しております。無断複写や盗用等は、硬くお断り申し上げます。 ● 尚、当頁内、白茶色(セピア、アンバー系)の生写真のみが、明治6~9年頃に撮影し焼き付けされた、明治期の鶏卵写真となります。 その他の絵葉書、銀塩白黒写真、切手類等は、必ずしも明治期の物では無い事を、ご了承願います。 ● 画像の「大量盗用事案」が発生致しましたので、大変お見苦しいですが、画像にウォーターマークを入れさせて頂きました。 |
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解説に於いて、誤記や解釈の違いにより被られた不利益につきましては、当方では一切関知しないと共に、責務を負えない事をご了承願います。
撮影場所につきましては、区画も変わっており厳密ではございません。町名相違の場合にはご容赦下さいませ。 本文中、敢えて旧漢字を使っている部分も有ります。混在しておりますが、こちらもご容赦下さいませ。 掲載画像に就きましては、茜堂所蔵の絵葉書や鶏卵写真に、画像修正を施して居りますので、新たな著作権が成立して居ります。 無断複写や盗用等は、慎んで下さいます様お願い申し上げます。 ● |
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