西ノ宮停車場の写真検証/茜堂 西ノ宮停車場で有る事の検証=茜堂 |
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平成30年2月19日、西宮市在住の、T氏から、当方WEB画像の「西ノ宮停車場」画像を以って、 昭和29年、国鉄発行の文献「国鉄阪神間の80年」以降、「神崎停車場」とする画像が、多々有る旨の連絡を頂きました。 早速、調べて見ましたが、国鉄発行の文献「西ノ宮駅100年の歩み」以外の殆どが「神崎停車場」としています。 ● 尚、当方のWEB掲載の、明治期の写真は、全て明治期当時の「生写真」に依る物です。 また、該当WEB上での「写真帳」と言うのは、当時の個人が「生写真」を貼付けた、私設アルバムの事です。 ● その私設アルバムには、撮影年(一部)や、撮影場所等が、全ての「生写真」の表題に、大きく筆で記載されています。 そして、その写真の表題には、左書きにて「塲車停宮ノ西」と、精緻な筆致にて記されています。 更に、アルバムには、新聞記事切抜の貼付等も有り、制作者の緻密性が伺われ、記録性の高いアルバムとなっています。 ● 撮影者は、神戸を中心に撮影され、モデルの法被、裾の「田」並びから、阪神間の鉄道敷設を、撮影した人物として有名な、 明治3年開業、市田写真館(元町通三丁目)の館主、写真師の第一人者、市田左右太の撮影だと、確信しております。 余談ですが、明治10年前半には、立派な二階建洋館、市田写真館(元町通二丁目)を、移転開業しています。 西ノ宮停車場で有る事の証明=茜堂 |
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そして、T氏から確定的な「西ノ宮停車場」を証明する、画像の有る事を、ご教示頂きました。 平成29年11月7日発行の洋書、Dan Free 著、Tuttle Publishing; Reprint版「Early Japanese Railways 1853-1914」全296P。 その、89Pの画像に、全ての答えが隠されていました。それは、当WEB掲載の画像と、全く同じ物でした。 ● 当方のWEB画像では背景の山が、褪色にて空に溶け込んでおり、原稿の「生写真」を良く見ないと、判らない状態ですが、 この文献では、背景がしっかり映し出されています。そして答えが、背景に映されている「山」に有ります。 その「山」が、平野部から伸びる「摩耶山(標高702m)」と、右側に続く「六甲山(標高932m)」です。 ● |
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残念乍ら、山が写る文献「Early Japanese Railways 1853-1914」の画像は、著作権の関係で、お見せ出来ません。 該当する稜線を、専用アプリ(カシミール3D)にてトレースし、モノクロに変換した茜堂WEB画像に、被せて見ました。 画像の稜線は、国土地理院の等高線を基に、旧西ノ宮駅地点から望む、摩耶山から六甲山手前迄の断面画像です。 稜線を結ぶ一定の断線ですので、谷の部分が極端に凹み、実際の眺望とは、異なっておりますが、洋書の画像に似通っております。 ● 英国式のシグナル(信号機)には、フィニアルトップ(頂華飾り)が施された、お洒落な構造になっています。 トーンタイルの模様や、寄棟屋根周りの美しい境界線と煙突、跨線橋には灯篭が設けられ、開業当初の駅造りの拘りが随所に有ります。 英国人技師の、高基準を満たした駅で有り、遅ればせ乍ら追加開業をした「神崎停車場」とは、その拘りが自ずと異なります。 西ノ宮停車場で有る事の確証=茜堂 |
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当画像が、下り方(西側)を撮影してる事は、山が右側へ登る洋書画像にて、一目瞭然です。
結論から申し上げれば、この山々が斯様に見える「駅(停車場)」は、唯一「西ノ宮停車場」しか、有り得ません。 ● 何故ならば、共に、駅構内を通過するレールの前後は、カーブ区間では無く、直線区間で有り、 方角的に申せば「西ノ宮停車場」の、下り方(かた)を望むと、レールは「真西」に向かい「摩耶山」が望めますが、 件の「神崎停車場」の、下り方を望むと、レールは「西北西」に向かっていますので、物理的に「摩耶山」は望めません。 ● 故に、本画像は、昨今の文献や、巷で言われている「神崎停車場」では無く、 写真帳に記載された、表題通り「西ノ宮停車場」で有る事は、紛う事無き真実だと推定致します。 設備からも、西ノ宮停車場の先端には、中間駅らしくスポート(給水栓)が見えますが、これは神崎停車場には、必要の無い設備です。 ● また、当時の「西ノ宮停車場」と「神崎停車場」は、酷似していたとの説も有る様ですが、それは考え難いと思われます。 何故ならば、機関車の運行上、終着迄、残駅を考慮して、火夫(機関助士)は、炭投(石炭を入れる)致しますので、 乗務員の視認で、現在駅の勘違いを誘発する様な「隣駅ソックリさん」には、大いに疑問符が付きます。 ● 更に、急遽開業が決まった「神崎停車場」では、当時として貴重な、英国からの輸入(船便)品で有った、煉瓦(レンガ)は、 予算的にも、日数的にも調達出来なかったと思われ、跨線橋の橋台は煉瓦造りでは無く、橋脚一体の木造で有ったと思われます。 ● 国産煉瓦が、多量に流通したのは、明治20年に来日した、お雇外国人ナスチェンテス・チーゼ煉瓦製造技師の指導に依り、 明治21年に、現在の深谷市上敷免に於いて、煉化場(れんがじょう=煉瓦工場)が、操業してからの事です。 これらは、鉄道事業や近代建築に、数を要する煉瓦の必要性から、明治19年に臨時建築局を設置し、国策として推進しています。 |
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