幻の筑前芦屋駅/茜堂 | |||
幻と言われた国鉄芦屋線筑前芦屋駅=茜堂 |
|||
且つて、九州には国鉄芦屋線と言う「幻の路線」と呼ばれた、旅客鉄道路線が有り、 鹿児島本線遠賀川駅から分岐し、終点の筑前芦屋駅迄を結ぶ、たった1駅区間の路線距離5.5キロの、短い路線でした。 戦後、日本陸軍芦屋飛行場を進駐軍が接収し、米空軍芦屋基地になり、その際に、物資輸送用の進駐軍専用側線が建設されました。 ● 建設費は、大蔵省の終戦処理費に依って支出され、第二次世界大戦後に、日本を占領した連合国軍の経費の内、 講和条約締結時に、相互請求権の総額を確定させる為の、経費区分で、占領当初は大蔵省が、日銀に立替払いをさせると言う、 暫定予算でしたが、昭和21年、芦屋線建設時には、正式計上され、日本政府が一般会計から、支出した物となっています。 |
||||||||
芦屋線の路線は、大正7年から昭和7年迄、運行されていた軽便芦屋鉄道の、廃線ルートの大部分を利用しています。 軍用線の為、路線の管理形態が複雑で、当初は大蔵省の所有路線として、昭和22年3月3日月曜日に開業します。 ● 開業日の始発列車は、遠賀川駅発の混合列車の筋で、貨物列車として、7175列車が努めました。 翌日4日からは、乗客輸送が開始され、前日は運行されなかった7172列車、芦屋乗降場発が始発列車として運行します。 その後、昭和25年2月10日に、業務を国鉄に委託する事になり、国鉄芦屋線として、一般乗客に開放される事となりました。 ● 昭和36年6月1日には、米空軍芦屋基地輸送が前日に終了されると共に、人知れず芦屋線は、静かに廃止されています。 営業期間中は、委託路線と言う事も有り、正式な国鉄路線との認識が各方面で薄く、九州地方の時刻表には、辛うじて記載されていましたが、 全国版の時刻表には、記載されていない場合が多く、多くの方々が、芦屋線の存在すら知ら無かった事は、言う迄も有りません。 ● 以上の理由から、幻の芦屋線と言われ、切符類等、滅多にお目に掛かる事は無く、又、写真資料等も余り残されておりません。 米軍基地で有るが故に、携わる関係者も余り居らず、当時の鉄道ファンですら、存在自体の情報も希有な上、 芦屋線自体の営業期間が、一般開放後11年4ヶ月弱と短い事から、幻の駅たる所以となっています。 ● 終着駅の筑前芦屋駅は、駅の構内形態も複雑で、基地の敷地内外に股がり、筑前芦屋駅は基地外に有った運転室を指し、 基地従事者のみが利用出来る、芦屋乗降場は、構内唯一の旅客用ホームで、基地内に有った駅本屋を指しています。 日本人が乗車可能な営業距離は、遠賀川駅~筑前芦屋駅間の5.5キロで、全長を、遠賀川駅~芦屋乗降場間の、6.2キロとしています。 |
||||||||
その幻の駅で有るが故に、存在する切符類も非常に乏しく、資料制に欠け、正に幻の切符となっています。 入場券に至っては、わざわざ駅迄、訪れる旅人も少なかった事から、鋏痕の無い無傷の入場券は、稀な存在となっています。 さて、気になる、筑前芦屋駅発行切符の鋏痕ですが、以下に有る様な、鋏痕番号1番の四角の痕形をしていました。 ● |
||||||||
昭和36年3月5日、普通入場券、筑前芦屋駅、10円、筑前芦屋駅発行、国鉄、門司印刷場10円3期券。 当入場券の裏面券番が、0944番となっていて、以下の最終日入場券の券番が、0974番で有り、発行日から21日が経過していますが、 同券間の通算発行枚数は、廃止間際にも関わらず、僅か31枚となり日割りをすると、1.4枚の売上頻度となっています。 恐らく入場券は、地元の方々の需要では無く、遠来の愛好家達が購入した、数字ではないかと推測致します。 ● |
||||||||
昭和36年5月31日(廃止最終日券)、普通入場券、筑前芦屋駅、10円、筑前芦屋駅発行、国鉄、門司印刷場10円3期券。 入場料金は、他駅と同様の初乗り料金で有る、10円が課せられています。 日付印字機は「菅沼式乗車券日附器」を使用しています。当然この時代に「天虎式」は、まだ登場していません。 因に、天虎式乗車券日付器は、天虎工業設立時の昭和41年に登場し、後に「菅沼式」を駆逐するかの様に、駅での定番となっています。 ● 筑前芦屋駅のダッチングの、日付けの後ろの2桁目、若しくは3桁目には、見慣れない「長方形」の印が、付けられています。 さて、このマークは何だろうか、2桁~3桁目に付く、翌収印なのだろうか、時期的には符合するが、最終日券に付けられる訳が無い。 昭和25年1月24日には、菅沼で翌収扱いの印である「ヨ」が付いた、日付印字機が既に登場している為、また謎が深まります。 ● 筑前芦屋駅での、入場券の売上頻度は、廃止間際の半年間でも、滅多に売れず、平均すれば週に1枚程度の、発行で有った様です。 旅客列車は、折尾駅起点となり、蒸気機関車牽引の客車1両のミキスト(混合列車)で、一般乗客は余り居なかった様です。 また、時刻表に依っては「筑前芦屋」と「芦屋乗降場」の、2箇所の時刻が記載されたり、複雑怪奇な路線となっていました。 ● |
||||||||
昭和36年3月5日、普通乗車券(前期流用券)、筑前芦屋駅~遠賀川駅、20円、3等、筑前芦屋駅発行、国鉄、JNR赤地紋、門司印刷場券。 ● |
||||||||
昭和36年3月12日、普通乗車券(前期流用券)、筑前芦屋駅~遠賀川駅、20円、3等、筑前芦屋駅発行、国鉄、JNR赤地紋、門司印刷場券。 昭和35年7月1日の施行(6月23日=国有鉄道公示第294号、総裁達第344号)にて、従来からの、等級制度が変わります。 従来の三等級制(1等、2等、3等)から、新たに二等級制(旧2等=1等、旧3等=2等)へと変更され、旧2等が新1等へ、旧3等が新2等へ、 これにより、3等が廃止されますが、特殊な過疎路線で有った為、売切れずに、余剰券を流用しています。 ● 次の乗車券同様、小児断線右、乙片の駅名表示は発駅着駅共々、短く省略する事無く、全ての文字が表示されています。 当然の事乍ら、中間駅が無い為、当券には、下の券に付けられている、下車前途無効の記載は有りません。 若し、現在の九州支社管内に、筑前芦屋駅が存在していたら、鋏痕は「い段」の駅で、2番の家形になっていた事でしょう。 ● |
||||||||
昭和36年3月12日、普通乗車券(前期流用券)、黒崎駅~筑前芦屋駅、40円、3等、黒崎駅発行、国鉄、JNR赤地紋、門司印刷場券。 当券の乗車当時の駅数は、黒崎駅、(陣原駅)、折尾駅、(水巻駅)、遠賀川駅、筑前芦屋駅の3駅間となり、乗車時間は35分程の旅でした。 括弧内の駅は近年の新駅です。また、当券の乗客は、折尾駅での乗換では無く、遠賀川駅での、乗換で有ったと思われます。 何故ならば、確率論的に言えば、下り列車の殆どが、折尾駅発では無く、遠賀川駅発となっていた為である。 ● 筑前芦屋駅迄の乗車形態は、近隣のみが硬券で、やや複雑な措置が取られ、九州内の各線相互間でしか、直通の乗車券の販売は行われず、 その他の区域から、筑前芦屋駅迄を乗車する場合には、遠賀川駅で一旦、距離計算が打ち切られ、 芦屋線内は、3等20円の別立運賃となっていました。当然、硬券類は存在せず、通しは補充式乗車券の発行のみでした。 ● 尚、昭和25年8月1日、鉄道機構改革の為、幡生駅迄が門司鉄道管理局の、管轄となったのを受け、 同日から、本州への乗車距離最長駅常備券として、幡生駅の一駅手前の下関駅迄の、筑前芦屋駅発の、常備A型硬券を発行しています。 また、幡生駅へは運賃乗車距離が、米子局の綾羅木駅にも股がる為、常備券は無く、補充式乗車券の発行となっています。 |
||||||||
昭和36年5月31日(廃止最終日券)、普通乗車券、筑前芦屋駅~遠賀川駅、20円、2等、筑前芦屋駅発行、国鉄、JNR青地紋、門司印刷場券。 開業以来、1等は疎か、2等車も入線せず、筑前芦屋駅発の乗車券(異級除く)では、二等級制以前、青切符は存在していませんが、 今回、2等(旧3等)乗車券が誕生した事に因り、従来の赤切符に変わって、初の青切符が登場しています。 恐らく、切符愛好家や、お名残乗客を含めても、発行枚数は、僅か200枚にも満たなかったのではと、推測されます。 ● 昭和35年7月1日(昭和35年6月23日=国有鉄道公示第294号)の改正にて、従来からの等級制度が、大きく変わります。 三等級制(1等、2等、3等)から、二等級制(旧2等=1等、旧3等=2等)となり、全ての券面から、3等の表示が無くなります。 区間や金額はそのままで、等級と地紋色のみが変更され、赤切符から、青切符に変更されました。 ● 廃線間際でのロットが、券番3001~4000番迄で、1000枚が最後の3等券(赤券)として、配備されたと推測し、 昭和36年3月5日の発行券では、券番が3637番で、3月12日の発行券が、券番3702番、その差が65枚、日割発行9.3枚となる。 その割合で行くと、4月13~14日頃には、既に完売をしている事となり、正規の2等券が、発売されている事となる。 ● 当、日割り計算では、青券若番との辻褄が合わなくなるが、両日(5日、12日)で、愛好家が多数購入したとすれば、日割り数は減少する。 また、当券には、裏面券番0062の、残番号チェックの痕跡(最終日一番切符と推測)が有る事と、流用3等券の予測残数を考察すれば、 最終日の前日中に、旧券(20円3等、赤地紋)を、新券(20円2等、青地紋)へと切替し、61枚を発券したと考えられます。 路線の基となった芦屋鉄道との関連=茜堂 |
||||||||
軍の引込み専用線で始まり、乗客はオマケで且つ、委託路線で有った事から、国鉄芦屋線は、正式な国鉄路線との馴染みが無かった。 その為、関係者からも、国鉄の営業路線では有るが、国鉄線では無いと揶揄されていた様です。 |
|||||
分岐点、鹿児島本線遠賀川駅からの、大まかな国鉄芦屋線の路線図をご覧下さい。 黒色の路線が、鹿児島本線で、緑色の路線が、芦屋線の基盤となった軽便芦屋鉄道で、赤色の路線が芦屋線です。 路線が重なる部分は、赤色の路線の芦屋線を、優先させて居ります。 ● |
|||||
筑前芦屋駅構内の、貨物操車場跡地には、第二緑ケ丘団地が建てられ、 筑前芦屋駅の駅長や、助役の宿舎跡は、高浜町児童公園となっています。 その公園の一角には「D60 61号機」が、保存されています。 ● 廃線跡の殆どは、福岡県道285号浜口遠賀線(芦屋町浜口~遠賀町今古賀)に、 転用され、筑前芦屋駅近くは、部分的に国道495号に転用さています。 ● 国鉄芦屋線は、米軍基地の物資輸送を、主な目的とした為、途中駅は無く、 遠賀川駅と筑前芦屋駅の、両端の二駅のみでした。 ● 軽便鉄道の芦屋鉄道株式会社線では、西芦屋駅を起点として、東芦屋駅、 浜口駅、島津駅、鬼津駅、松ノ本駅、遠賀川駅の七駅で、営業距離6.06Km。 筑豊地域の石炭を、港迄の積出路線とし、貨物と旅客で開業しました。 ● 浜口駅は、大正6年1月10日に、島津方へ0.2Km移転しています。 また、翌年の11月15日には、島津駅は廃止されています。 ■国鉄芦屋線の時刻表 |
|||||
右上の時刻表は、日本交通公社発行、昭和26年9月1日号、九州編時刻表の、国鉄芦屋線の列車時刻で、先月から1往復増便されています。 列車番号が、7000番台の珍しい番号が、付けられていますが、これは臨時列車の内、季節列車として使われる数字です。 芦屋乗降の記載となっていますが、こちらは時間的に芦屋乗降場を指し、何故か筑前芦屋駅は省略されています。(周囲、画像処理) ● 国鉄芦屋線に中間駅が無いのは、距離的な事以上に、米軍の貨物輸送を主体とし、従で有る乗客も、基地従事者だけで有った為で、 後に、乗客として日本人にも、開放されたとしても、中間駅を設けると言う事は、主となる貨物輸送上、有り得無かったのです。 ● 芦屋乗降場は、米軍専用線時代に米軍が設置した物で、国鉄に移管された後での位置付けは、 国鉄本社の認可に基づき、設置される一般の鉄道駅とは一線を引かれ、地方の管理局の判断で認められ、設置される、 仮乗降場として扱われています。その為、国鉄の慣例に因り、新設時の筑前芦屋駅の駅名標の隣駅表示箇所には、表示されて居りません。 ● 立派な屋根の有る、旅客ホームと駅舎を持つ、芦屋乗降場に対し、当初の筑前芦屋駅は、運転室を間借りする貧相な駅で、 まるで、駅と仮乗降場が入れ替わっている、そんな状況下に有りました。 戦後の、勝戦国米国と敗戦国日本の、立場を表す縮図の様な、国鉄芦屋線でした。 ● 昭和25年6月25日~昭和28年7月27日間の、朝鮮戦争に於いては、米軍芦屋基地が、朝鮮半島の前線への、一大輸送基地となり、 軍事物資の、輸送量が増加するに伴って、時刻表に掲載される混合列車とは別に、臨時貨物の運行本数が増えています。 現在の国鉄芦屋線の終着付近の風景=茜堂 |
|||||
現在は、国鉄芦屋線の遺構を、直接見る事は出来ません。単線区間で有ったその路線の多くは、廃線後に拡張工事がなされ、 その殆どが、県道285号と、国道495号とに変貌している為、橋脚跡はおろか、良く目にする境界杭すら見つかっていません。 昭和の後期頃迄は、遠賀川駅博多方の芦屋線への離合部には、当時のレンガや石積壁の跡が、有ったと言う事です。 ● 現在、当時の路線跡として残されているのが、遠賀川駅を出て、今古賀の大きなUカーブの有った、 八劔(はっけん)神社付近の一画に残る、100m余りの曲がった道と、終着地付近の大カーブの跡地の、僅か2箇所です。 それでは、駅手前の戻り大カーブが始まる地点と、筑前芦屋駅貨物操作場跡地の、現在の画像をご覧下さい。 |
||||
右下(3枚目)の画像を除き、全て筑前芦屋駅進行方向に向かっての、撮影です。 当時のこの地点は、一面の田畑で、遠賀川駅からは遮る物が無かった為、180度もの戻り大カーブは、圧巻で有った事でしょう。 ● |
||||
鹿児島本線遠賀川駅から、西川橋梁を越えて、西川に隣接する西川下踏切からの、眺望です。 芦屋線の分岐点は、右から2本目の、コンクリート架線柱辺りから、右側に急カーブを切って、本線から離れて行きます。 次画像は、大カーブ地点を横切る県道299号から、丁字交差点で始まる彎曲した道路で、100m先も丁字路で、公園に突き当たります。 ● |
||||
周辺道路は全てが直線に対して、この道路のみ、緩やかに右カーブを切り、僅か100m足らずで途絶え、直進する道は無い。 先を進むと、塔ノ元第二公園で突き当たる、丁字路(右写真=公園側から鹿児島本線方を望む)となっている。 恐らく、この区間のみ、神社前に集まった家屋が、線路際に有った為に、廃線後の区画整理でも、道路として残されたので有ろう。 ● 鹿児島本線分岐の大曲区間で、この一区画のカーブ以外は、一切道路化されていない。 当時この道路は、線路際に張り付いた、生活小路だったと思われる。それ以外の大カーブ線路跡の全ては、田畑と宅地化され、 残念乍ら芦屋線の遺構は、何一つ残されてはいません。撮影は共に、平成27年6月21日。 |
||||
現在の国道495号と離合する、左カーブ地点は、可成りの急カーブで有る事が良く分かります。 終着の直近で有る事から、然程、カントは付けられていなかったと思われます。 ● |
||||
左側の画像は、中央の建物左側をカーブをし、現在の国道495号から離合して、駅へと進入する地点です。 撮影地点は、東芦屋小学校前の鶴町団地バス停付近から見た、終着地の貨物操車場、芦屋乗降場へと向かう、国鉄芦屋線の廃線跡です。 右側の道路では無く、中央に写る狭い道が、国鉄芦屋線の廃線跡となり、左へ急カーブを切り、少し奥が柵外の筑前芦屋駅跡地となります。 ● 右側の画像は、急カーブを切った廃線跡の道路が、住居に因って閉ざされています。 ちょうど、この建物や銀行辺りが、筑前芦屋駅構内の東側辺りとなります。撮影は共に、平成27年5月29日。 ● |
||||
左側の画像の、青色の銀行看板が有る辺りから、分岐入線し、米軍基地内の貨物操車場へと、広がって行きます。 左右の画像は、概ね、繋がってパノラマ的になっていますので、この貨物操車場の規模が、大凡分かるかと思います。 当時の米軍基地との境界線は、この道路となっていて、柵内に道路が入っていました。尚、現在の道路は拡張されています。 ● 右側の画像は、同じく広大な米軍基地貨物操車場構内跡に林立する、10階建てと5階建てからなる、10棟もの大規模な第二緑ケ丘団地です。 竣工は、昭和46年(一部、昭和50年)で、実に筑前芦屋駅が廃止されてから、10年後の竣工となっています。 古の写真で見る筑前芦屋駅の姿=茜堂 |
||||
以下の画像には、晩年期の国鉄芦屋線、筑前芦屋駅で出発を待つ、蒸気機関車牽引の上り混合列車と、 貴重な、筑前芦屋駅の改札口や駅前広場、ホームには花壇と木製駅名標に、植栽に因る、ラッチ外の大きな木が写されています。 |
|||||
設備も時代相応に整って来た、国鉄芦屋線の、晩年期の筑前芦屋駅の姿ですが、 開業当初は、軍の重要な施設とリンクしていた為、残念乍ら、開業当初の筑前芦屋駅の姿は、余り記録されて居りません。 当然、米軍基地内に位置する芦屋乗降場の写真等は、防諜の観点から撮影されず、お目に掛かる事は無いでしょう。 ● |
|||||
上記写真は、廃止1年前の昭和35年5月31日に、筑前芦屋駅構内にて、撮影された物です。 牽引機の直後の客車は、切妻のスハフ44で、曲線と影の具合から、午後の上り列車で、筑前芦屋駅の出発待ちのところです。 機関車の右奥に便所と植栽が、左側には、貨物操車場へ伸びる、複数の引込線が見て取れます。尚、下りは機関車が逆牽きとなります。 ● 写真の機関車38642は、昭和32年11月1日~昭和38年3月31日迄は、運用区で有る若松機関区に、在籍をしています。 この機関車38642の読み方は、3万ハチロクの42と読み、その型式は8620型と呼ばれ、8620が1号機となり、8699が80号機で、 次の81号機は、頭に1を付け18620となります。この順列から38642は、8620型の263号機となっています。 ● この複雑なナンバー方式は、昭和初期以前の型式の付け方で、以降の分かり易いC型、D型のナンバー方式とは大きく異なり、 型式を全て数字だけで表し、1~4999迄をタンク機関車に、5000~9999迄が、テンダー機関車とされていました。 その為、C型、D型のナンバーでの、号機の解り易さに比べ、とても複雑な計算が必要となっています。 ● 若松区に所属した、38642号機は、後に鳥栖区へ転配され、昭和39年7月27日、第二休車指定で、鹿児島区へと転出。 鹿児島工場留置の侭、昭和39年11月14日、同区にて廃止解体されています。 ● |
|||||
昭和30年前半の、筑前芦屋駅の駅名標が見えます。一見、終着駅の趣きですが、基地内の外国人専用の乗降場へと続きます。 何故、終着の乗降場が、隣駅に記されていないのか、それは国鉄の規定で隣駅表示には、乗降場は記載しない事になっているからです。 その為、駅名標の隣駅表示(下り側)が空白となり、あたかも、この地が終着駅で有るかの様に、見えてしまうのです。 ● 木製の駅名標は、駅ホームの植栽内に設置されています。撮影は、終点側から入線方向を向いています。 昭和30年12月29日に、ホームは駅舎方に70m延伸されていて、カーブを切っていますが、延伸迄は直線ホームで有ったと思われます。 ホームの端の先方には、扇状に広がりつつ有る、貨物上屋へと伸びる線路が垣間みて取れる、とても貴重な写真です。 ● また、写されている建家は、上段写真と同じ建家で、線路に面している為、手前に駅舎を兼用した、操車掛かりの詰所だと思われます。 旅客ホームに花壇が有り、その後方に樹木が有る事から、昭和30年6月15日以降の、撮影に依るものです。 ● |
|||||
昭和30年前半の、筑前芦屋駅の改札口が、写っていますが、上段写真の建屋の左側となり、ラッチ内とラッチ外に、段差が有りませんが、 この場所はホームからの坂を、下って来た場所に位置し、画面手前には、建屋の左側のホームの一部が写されています。 左側に、補助改集札口が4箇所有る事から、昭和30年8月29日以降の、撮影に依るものです。 ● |
|||||
図面上の矢印表示は、上段に有る三枚の画像の、 大凡の撮影方面を表しています。 ● ホームは、線路形状から、円弧を描く様に設置され、 線路渕では、コンクリート造りで、内面は土にて、盛土されています。 改札口へは、盛土のなだらかなスロープにて、誘導されています。 ● ホーム画像の、グラデーション部分が、 改札口に連絡する、スローブ部分を表しています。 |
|||||
● 上記3枚の画像は共に、芦屋町教育委員会生涯学習課文化係様から、提供して頂きました。 尚、データ化に当り、現場にて生写真を、茜堂にて撮影複写し、歪み傷や汚れ等、緻密な画像修正を施しております。 また、以上3点の画像は、芦屋町教育委員会生涯学習課文化係様依り、許諾を得た画像につき、転載等の二次使用は出来ません。 ● 画像の「大量盗用事案」が発生致しましたので、大変お見苦しいですが、画像にウォーターマークを入れさせて頂きました。 芦屋線芦屋乗降場と筑前芦屋駅の歴史=茜堂 |
|||||
明確な資料が無い中、当時の現場で従事されていた、国鉄職員の個人的な日記メモが見つかりました。 事細やかに、記録をされていますが、残念な事に辞められたのか、転属になったのか、廃止前の5年半程の記録が欠落しています。 開業日が、巷で言われている2日や、公園碑文の10日では無く、3日となっていて、旅客輸送が4日からとなっています。 ● 文中一箇所、列車本数の件では、当時の旅客時刻表と、1本(1列車)のみ、異なる部分が有り、 貨物専用列車等の、別途運用が有ったのかも知れませんが、これのみ、旅客時刻表の本数に合わせて居ります。 また、運行形態、略語や専門用語、通達表示に就きましては、当方にて補足をさせて頂きました。 |
|||
昭和22年3月3日##●芦屋線が開通し、遠賀川駅駅長管理として発足。 昭和22年3月4日##●航空基地労務者の輸送開始。(発駅より往復乗車券購求) ###### 乗降は柵内の乗降場(駅本屋)とし、当取扱いは、筑前芦屋(運転室)の柵外で取扱う。 昭和22年4月27日#●RTO(進駐軍鉄道事務所=Railway Transportation Office)事務室が、駅長室常置となる。 昭和22年9月15日#●要求に依りRTO事務室と、駅長室間に壁を設く。 昭和22年11月17日●3番線縦(高床)ホーム設置、第2ボイラー線(200m)新設。 昭和23年7月19日#●占領軍貨物事務取扱開始。遠賀川駅RTOが、筑前芦屋駅と分離する。 昭和23年9月1日##●遠賀川駅駅長管下から独立して、筑前芦屋駅駅長を任命する。従来の全員特種日勤が徹夜勤務となる。 昭和23年12月28日●柵外傍乗降場設置(浜口側)。労務者輸送、遠賀川駅~筑前芦屋駅間の所、その一部が折尾迄、延長運転される。 昭和24年2月28日#●RTO倉庫に、RTO事務室が移転。 昭和24年3月25日#●駅長宿舎新築。 昭和24年8月1日##●LCL(米軍小口扱貨物=Less than Container Load)の取扱の開始。 昭和24年9月1日##●従来の遠賀川~筑前芦屋間列車の票券式が、通票式となる。 昭和24年10月22日●小倉駅~筑前芦屋駅間に近郊列車運転開始の為、連合軍人及びその家族に対し、乗車券の発売を開始する。 昭和24年12月10日●従来の航空基地外柵を、日本人輸送の為、線路の内側に移転する。 昭和24年12月13日●芦屋町の請願に依って、日本人輸送用の旅客ホームが完成。 昭和24年12月25日●芦屋町の請願に依って、日本人輸送用の出札手小荷物室が完成。 昭和25年2月10日#●一般日本人の輸送をしても良いとの事で、門司鉄道管理局局長管下の九州線内(除く、連帯線=連絡線)の、乗車券、 ###### 及び、手小荷物の取扱い(配達の取次ぎ無し)を開始。(昭和25年2月4日=国有鉄道達乙第82号) ###### ●旅客輸送の為、混合列車(ミキスト)として、遠賀川~筑前芦屋間に、5往復運転される。 注意=これに関する米軍よりの書類は、筑前芦屋駅には、何も残されていなかったが、 門司鉄道管理局(昭和24年8月1日、鉄道局を鉄道管理局に改組)としては、以下の様な書類により取扱ったと言う。 第八航空隊司令、昭和25年2月4日、関係各位、 1.当司令部は、芦屋町鉄道側線を敷設する事に関し、何らの異義を有しない。 2.進駐軍輸送に支障を及ぼさない限り、遠賀川と上記芦屋側線間の使用に対しては、何らの異義を有しない。 米国航空隊司令、ダニエル・A・クーター大佐 昭和25年2月28日#●第1期運転無事故完成(18箇月)。 昭和25年6月25日#●朝鮮事変勃発(~昭和28年7月27日=休戦)の為、輸送繁忙となる。 昭和25年6月26日#●朝鮮事変勃発(~昭和28年7月27日=休戦)に伴う、弾薬輸送(陸前山王、逗子から)が始まる。 昭和25年7月5日##●入換機関車1機が、筑前芦屋駅へ常駐となる。 昭和25年8月1日##●鉄道機構改革の為、山陽本線の幡生駅迄が、門司鉄道管理局管轄となったので、 ###### 旅客、手小荷物の取扱いに、下関駅、幡生駅の2駅を追加した。 ###### (昭和25年8月1日=国有鉄道告示第14号、門司鉄道管理局達乙第500号) 昭和25年9月19日#●入換機関車3機が、常駐となる。(遠賀川=1機、筑前芦屋=2機) 昭和26年2月15日#●福岡特別調達局から書面に依り、芦屋線、及びその設備の一切を、国鉄に譲渡するとの書面を、局長に取次ぐ。 昭和26年5月21日#●一般運輸営業開始方促進の為、芦屋町長黒山高麿氏より、営業支配人、及び門鉄局局長に陳情書を提出した。 昭和26年8月1日##●5往復の混合列車を、6往復とした。(上段の翌月号の時刻表を参照の事) 昭和26年8月30日#●駅物品倉庫が狭隘(狭くゆとりが無い)の為、その拡張方を申請中で有ったが、予算の関係から出来ないと、 ###### 貨車の廃車1輛を受入れ、仮倉庫とした。 昭和26年8月31日#●第2期運転無事故完成。 昭和26年9月30日#●浴場が無く困っていたが、風呂桶が来たので即日、浴場を作り使用を開始した。 昭和26年12月5日#●常駐機関車2機となる。(遠賀川駅=1機、筑前芦屋駅=1機) ###### ●機関手交代、または給水の為、臨時(不定期の意)列車で遠賀川迄上げていたのを、定期(臨時季節)列車とした。 昭和27年1月19日#●7番線(石炭荷卸場)斜線に、車留5個取付。 昭和27年2月9日##●駅舎内部、ペイント塗替えを終える。 昭和27年3月7日##●電燈の増設、出札窓口=2個、仮改集札口=1個。 昭和27年3月17日#●筑前芦屋駅第2号宿舎(バラック式)が完成したので、第1号宿舎を助役宿舎に変更をし、第2号宿舎を駅長宿舎とした。 ###### 第2号宿舎、駅長の住所は、芦屋町3085番地であった。 昭和27年3月25日#●仮改集札口の開閉扉を、2箇所設置。 昭和27年3月26日#●筑前芦屋駅第1号宿舎に、道庭助役が入舎。 昭和27年3月29日#●道庭助役が退去した、折尾長崎第14号宿舎に、青木運転掛が入舎。 昭和27年3月31日#●連合軍旅客貨物規程が改正され、本日限りで、RTOが廃止される。(国有鉄道全部) 昭和27年4月17日#●要求中であった、列車の発車予告ベルの使用開始。 ###### ●軍専用電話を、筑前芦屋駅から撤去。 昭和27年4月28日#●筑前芦屋駅舎内のRTO柵を取外したので、各職の机配置の変更。 昭和27年5月31日#●POL(積地港=Port of Loading)1番新線(43m)完成。 昭和27年6月30日#●時報伝達用として、折尾交換芦屋1回線の電話機を取替え、同時に時報ベルを設置。 昭和27年7月12日#●3番線が低く、雨で浸水するので地上げ要求中の所、本日、地上げが完了。 昭和27年7月31日#●5番線車止付近、並びに60号、61号転轍器付近に外柵が出来た。 昭和27年8月15日#●芦屋線の諸設備は、鉄道経費と渉外費に分かれているが、本日迄に判明している物は、以下の様である。 鉄道経費として、 線路=80m、建物=駅長室、運転室、線路班詰所、踏切番舎。 渉外費として、 線路=6.2Km及び側線、通信=電柱94本、電話機11台、電話線11張、電話線延長3.9Km、電力=電柱38本、電燈線延長4.015Km。 昭和25年4月30日現在の芦屋線建設費用として、 軌条敷設費=1763万8755円、電燈関係費=64万2070円、通信関係費=67万8072円、駅長室建設費=42万2862円、 運転室建設費=16万9002円、線路班建築費=14万906円、踏切番舎建築費=2万7955円、計=1971万9622円。 土地は、まだ鉄道の物になっていない為、これに土地代は含まない。 出札、手小荷物室、及び橋梁の取替に因る、新設は別とする。 |
|||
昭和27年10月1日#●常駐入換機関車1機となる。 昭和27年12月15日●駅長室側に井戸を1箇所新設。 ###### (芦屋線新設と共に駅長室、運転室とも軍の水道に依り、これを使用していたが、夏期水不足の際、 ###### 軍が、飲料水以外の使用を禁止すると云うので、井戸を掘ったもの。) 昭和28年1月10日#●筑前芦屋駅とRTO、及びPOL間に、軍用電話(野戦用)の設置。 昭和28年1月13日#●RTO事務室便所(駅員用)大便所の修理。 昭和28年1月15日#●芦屋ベース内(RTO)に、交通公社の設置。 昭和28年1月22日#●上り出発信号機建植替え。(従来の物と同位置にて取替える) 昭和28年1月31日#●駅長室、運転室共、電燈線の全部取替え。(建設当時の電燈線は、粗悪で有った為) 昭和28年2月7日##●構内照明用電柱を移植。(旅客ホームの照明を兼ねた) 昭和28年3月19日#●芦屋ベース内の交通公社に、鉄道電話を設置。(折尾交換芦屋2回線に連接) 昭和28年3月31日#●駅舎内電燈用配電盤の取替え。 昭和28年6月18日#●駅長室、運転室間の連絡用構内電話機の、壁掛で有った物を、卓上電話機に変更する。 昭和28年6月26日#●遠賀川駅付近水害の為、列車運転不能となる前に、午後6時台の上り7256列車を最後として、 ###### 以降、芦屋線内には機関車、客車共に無し。 昭和28年6月28日#●大洪水の為、芦屋線(遠賀川駅起点)4.3Km~4.95Km間の、線路が流失。 昭和28年7月4日##●保線区と軍の立会に依り、午後7時から線路復旧工事に掛かる。 昭和28年7月6日##●線路復旧工事が、午後2時に完成。 昭和28年7月7日##●線路復旧工事は出来たが、遠賀川駅保安装置が未完成の為、本日午前7時台の下り7175列車から、芦屋線開通。 昭和28年7月25日#●第33号踏切保安装置を撤去。 昭和28年9月9日##●従来の第33号踏切と運転室との間に、軍の要請に因り第1種踏切道を設置。 ###### これに依り、踏切警戒手2名を増加。(場所=遠賀川起点4Km、踏切番号=31号の2) 昭和28年9月10日#●筑前芦屋駅運転無事故表彰は、20箇月となる。(門司鉄道管理局達甲第437号) ###### 次回は、昭和29年10月12日で、4期連続となる予定。 昭和28年9月25日#●54号転轍器の標識取替え。(従来の物が旧式な為) 昭和28年10月5日#●筑前芦屋駅営業無事故表彰の、30箇月をそのままととする。(門司鉄道管理局達乙第-不明-号) ###### 第1期完成の予定を、昭和29年1月3日とする。 昭和28年10月23日●第1ボイラー線63mを230mに延長し、在来の所で石炭荷役、新設の所で冷凍荷役を行う。 昭和29年1月3日##●筑前芦屋駅営業無事故第1期完成。 昭和29年1月7日##●ベース(米軍基地)内の立入りを、パスポートに依り出入りしていたものを、外務課の交渉に因り、 ###### 駅長責任に依る腕章15枚備付けで、これに依り出入りする事とした。 昭和29年1月26日#●駅長室出入口の扉外4軒に屋根を付けた。 昭和29年2月8日##●芦屋線混合列車に、暖房器使用開始。(機関車の逆牽用暖房配管が無い為、当面、テンダー直結の上り列車のみ使用) 昭和29年3月4日##●RTO事務室便所、大々的な修理が完了。 昭和29年9月7日##●駅長室ストーブの煙突取付口、屋根裏に防火設備を施した。 ###### ●荷物保管棚下段に、鍵付簡易保管庫を作った。 昭和29年10月13日●運転無事故第4期完成。(73箇月) 昭和30年2月9日##●出札室切符売場と、荷物取扱所の仕切りを新設。 昭和30年3月25日#●貨物列車1往復を準混合列車とし、旅客6往復を7往復とした。 昭和30年4月14日#●収入事務成績向上期間に於ける、成績優秀を以て表彰。 昭和30年5月5日##●旅客ホームを整斉した。 昭和30年6月15日#●旅客ホームに花壇を造り、駅前に植樹を施した。 昭和30年8月29日#●補助改集札口を4箇所とし、改修完了。 ###### これに伴い、車の出入口(停車)を従来の補助改集札口の所から、職員便所裏に移動した。 昭和30年12月29日●浴場の新築完成。 ###### ●旅客ホームの延伸工事完成。(70m駅舎側に延伸) 以上の国鉄芦屋線沿革は、芦屋町教育委員会生涯学習課文化係様依り、資料提供をして頂きました。(一部、茜堂筆者補筆、無断転載不可) 芦屋町教育委員会生涯学習課文化係の、主任主査学芸員山田様には、大変貴重なお話しをご教示頂き、 また、貴重なお時間を頂戴致しました事、この場を借りまして、感謝申し上げます。 芦屋基地返還関連の年表を、以下に補足致します。 |
|||
昭和17年12月 ##●旧日本陸軍が、戦闘機用飛行場として発足。 昭和20年10月 ##●米軍に接収され、米軍芦屋飛行場として使用開始。 昭和21年8月 ###●米軍芦屋飛行場内に、対地射爆撃場を開設する。 昭和22年3月3日##●米軍芦屋基地への、物資輸送貨物専用線が、鹿児島本線支線として開通。 昭和22年3月4日##●米軍芦屋基地従事者の、旅客輸送が芦屋線として始まる。 昭和35年1月 ###●米軍芦屋飛行場返還計画に基づき、対地射爆撃場を芦屋飛行場から分離し、芦屋対地射爆撃場となる。 昭和35年5月31日#●米軍芦屋基地への、物資輸送列車及び乗客輸送列車が、本日を以て終了となる。 昭和35年6月1日##●米軍芦屋基地への輸送路線、国鉄芦屋線の廃止。 昭和35年8月 ###●臨時芦屋管制隊、及び臨時芦屋気象隊の新編。 昭和35年11月 ##●米軍芦屋基地が返還され、米軍が撤収し、臨時芦屋基地隊の編成。 昭和36年2月 ###●航空自衛隊芦屋基地として、自衛隊が管理し、西部航空施設隊の新編。 ###### ●芦屋管制隊、及び芦屋気象隊(航空支援集団隷下)に改編し、芦屋警務分遣隊の新編。 昭和36年3月 ###●岐阜から、第3術科学校(航空教育集団隷下)移駐。 昭和36年7月 ###●航空救難群芦屋救難分遣隊(航空総隊隷下)新編。 昭和37年10月 ##●宇都宮から、第13飛行教育団(航空教育集団隷下)移駐。 昭和39年12月 ##●航空救難群芦屋救難分遣隊を、芦屋救難隊に改編。 昭和41年2月 ###●第2高射群第2整備補給隊、第5、第6中隊(西部航空方面隊隷下)新編。 昭和44年10月 ##●第2高射群第2整備補給隊、第5、第6中隊を、第2高射群整備補給隊、第5、第6高射隊に改編。 昭和47年3月31日#●米軍より、芦屋対地射爆撃場の正式返還。 昭和47年11月1日#●米軍撤収後に、芦屋町の要請に依り、岡垣対地射爆撃場に名称を変更し、自衛隊が使用。 昭和53年5月 ###●芦屋警務分遣隊を、芦屋地方警務隊(防衛大臣直轄部隊)に改称。 昭和53年6月7日##●岡垣対地射爆撃場を閉鎖し、自衛隊依り返還される。 芦屋乗降場と筑前芦屋駅との相関図=茜堂 |
|||
軍用芦屋線が、昭和22年3月3日に開業し、翌日の4日には米国人専用の芦屋乗降場が開業し、 昭和25年2月10日に、国鉄に業務委託され国鉄芦屋線として、日本人乗降用の筑前芦屋駅が、誕生する迄の推移を図説します。 |
|||||
以下の画像は、現在の筑前芦屋駅構内跡地の、航空写真です。(Google) そこへと繋がる、国鉄芦屋線の廃線ルートも良く分かります。右手には、遠賀川の支流の西川が見えています。 ● |
|||||
画像©2015 Cnes/Spot Image, Digital Earth Technology, DigitalGlobe,、加工、トリミング。 上記画像に、カーソルを当てて頂ければ、貨物操車場、芦屋乗降場と、外れた場所に有る筑前芦屋駅の現在の姿が、ご覧頂けます。 画像イラストは、昭和25年6月1日、国鉄芦屋線となり、初めて日本人が利用出来た、筑前芦屋駅の最終期を表しています。 ● 芦屋乗降場と、筑前芦屋駅との駅間は、700mも有りました。 駅間とは、一般的に駅長室の有る所が、駅の基準点とされますが、乗降場の場合はホームの中心と致します。 左手下側の林の奥に、米軍基地の滑走路(現、航空自衛隊基地)が、位置します。 ● 画像の「大量盗用事案」が発生致しましたので、大変お見苦しいですが、画像にウォーターマークを入れさせて頂きました。 |
|||||
以下の図面は、米軍基地のフェンスの変更移設に因る、芦屋乗降場と筑前芦屋駅の、それぞれの移り変りを表しています。 ヤードの線路数はイメージです。些かアバウトな図面ですが、ご容赦願います。 ● |
|||||
左側の図面が、昭和22年3月3日の、芦屋乗降場(米軍基地関係者専用)の開設時で、 中央の図面が、昭和24年12月10日に、米軍基地外柵移動が完了。後に開業する筑前芦屋駅と、旧外柵の位置を示しています。 右側の図面が、昭和25年2月10日の、筑前芦屋駅の開業時で、外柵が内側と南側に移設されています。 ● 米軍からの委託を受けた、国鉄は、終着の米軍専用の芦屋乗降場の手前、基地フェンス外に、日本人乗降用の筑前芦屋駅を新設します。 米関係者達は遠賀川駅を出ると、終着迄直行でしたが、委託後は、少し手前で停車をし、日本人の降車を待たされる事となり、 不便を強いられていました。また、混合列車で有る編成は、後部に貨物を連ね、目的地の前で一旦、停車しなければならなかった。 ● その為、発車時には余計な燃料が必要となり、下り列車のみならず上りも同様で、運用上、日米共、不合理な仕業となっていた。 然し乍ら、米軍側の基地安全管理上、米国人基地関係乗客と一般日本人乗客とは、乗降地をベース内とベース外に分ける必要性から、 二駅連続停車は、日本人乗客の利便性を図る為の、仕方が無い措置となっていました。 ● これに依り、一般日本人乗客用の筑前芦屋駅は、双方の役務関係の都合上、芦屋乗降場の駅本屋から、700m南下した所に有る運転所に、 設ける事となったが、米軍基地の外柵に掛かる為、昭和24年12月10日に、線路の南側に外柵を移動しています。 斯くして、筑前芦屋駅ホームは、昭和24年12月13日に完成し、翌年の2月10に開業しました。 ● 以下の画像は、米軍用線(大蔵省所有)が、開業をして約1年半後の、昭和23年11月1日に、米軍が撮影をした航空写真です。 この約1年3ヶ月後に、国鉄が米軍から業務委託を受け、国鉄芦屋線となります。 撮影は午前中に行われた物で、影の具合が、構造物の立体感を良く表現しています。 ● |
|||||
以上の米軍に依る航空写真画像は、正規に入手した物であり、複写や転載はご遠慮願います。 国土地理院オーダー番号D07-032に依る物です。また、掲載画像は、縦型ワイド版のトリミングとして居ります。 また、以上3点の画像は、国土地理院依り許諾を得た画像につき、転載等の二次使用は出来ません。 ● 画像からは、扇状に広がる貨物構内に、点在する連なる貨車と、5棟の貨物上屋が見て取れます。 貨物上屋の南側に有る、構内の距離の長い線路は、影の出来具合から見て、ハンプヤード(坂埠)だと推測されます。 このハンプは、廃止10年後の団地竣工後にも、グラウンド予定地には、まだ残されていた様です。(昭和50年3月2日の航空写真にて確認) ● 但、ハンプの位置が、仕分け線の終端に位置する為、貨車の振分けが出来ませんので、少しばかり疑問点が残ります。 これが、扇の要側であれば、貨車の振分けがポイントの切替で、可能となるのですが、 何か、荷の関係で、斜に止めて置かなければならない、特別な事情でも有ったのかも知れません。 ● 貨物操車では、旅客ホームである芦屋乗降場(駅本屋)が、貨物構内へと分岐する、扇の要部分の手前北側に設けられていた為、 運転室(後の日本人が乗降出来る筑前芦屋駅)から、奥に700m程進んだ所迄、貨物車両共に侵入します。 そこで、混合列車の、米軍基地関係乗客を降ろし、客車を切離した後、機回しをし貨物車両をヤードへと牽引しています。 ● 上り編成では、客車を繋いだ状態で、空き貨物が待つヤードに入線し、貨物連結後に本線に引き出します。 その後は、旗振り手を携え、旅客ホーム迄バック運転をし、乗客を乗せた後に出発します。 運用上での機関車の向きは、終着にターンテーブル(転車台)が無い為、下りは後向きで、上りは前向きで運転されていました。 ● 混合列車(ミキスト)は、一本の列車に客車と貨車の両方を、連結編成した列車の事を言います。 芦屋線の運用では、下り編成は、逆向きとなった機関車の頭側に、客車が連結され、次に満載の貨物車両が連なります。 逆に上り編成は、前向きとなった機関車のテンダー側に、客車が連結され、次に空載となった、戻りの貨物車両が連なります。 ● 画像の「大量盗用事案」が発生致しましたので、大変お見苦しいですが、画像にウォーターマークを入れさせて頂きました。 機関車と風光明媚な芦屋町の魅力=茜堂 |
|||
芦屋線とは直接は関係ございませんが、路線跡を間接的に引継いだ基盤となった、芦屋鉄道の機関車の図面が発見されています。 鉄道考古愛好家にとっては、芦屋町は、宝の山の様に思えてなりません。 |
||||
平成23年2月21日付けの、西日本新聞夕刊の1面トップには「幻の芦屋鉄道、機関車の設計図発見、公開」の見出しが躍っています。 見つかった設計図は、地元の民家宅から発見され、家人から芦屋町に連絡が入った様で、 機関車設計用の青写真は、都合9枚有って、紙面の保存状態も良く、貴重な資料となっています。 ● 記事に依ると、図面は軽便鉄道、芦屋鉄道用に「雨宮」で有名な(茜堂補足)、軽便鉄道会社の大日本軌道が設計した、 蒸気機関車6屯(トン)の詳細設計図(青焼)で、設計図記載に依ると、当時の監督官庁の鉄道院に、提出された後、 現在の北九州市若松区で、機関車が製造された事が、判明したそうです。 |
||||
高浜町児童公園保存の、D60 61号機(元D50 282号機)は、筑豊本線で活躍し、芦屋線とは全く縁の無い機関車です。 公式側(機関士側)キャブの、区名版が「芦」になっていますが、これは遊び心で、芦屋機関区なるものは存在して居りません。 因に、非公式側(機関助士側)キャブの区名版は、且つての所属機関区で有る、若松区の「若」が差されています。 ● 筑前芦屋駅の海側に、駅長宿舎(旧=芦屋町3085番地)や、助役宿舎が有り、その宿舎跡地が、高浜町児童公園(芦屋町)に当たります。 芦屋町の高浜町児童公園、町名が2つ続くが、現在の住所は、福岡県遠賀郡芦屋町高浜町2丁目となっています。 ● |
||||
D60 61号機、 芦屋町、高浜町児童公園にて、 平成24年7月9日、撮影。 |
||||
高浜町児童公園の、碑文に拠れば、芦屋線には「C28型蒸気機関車が使用されていました」と、記されていますが、 芦屋鉄道時代の物でも無く、当軽便では、動輪が2対のB型のナロー6屯機関車を使用し、動輪が3対のC型機関車は走っていません。 勿論、国鉄にも「C28」なる機関車は存在して居りません。芦屋線には若松機関区所属の、8620型のみが入線していた筈です。 ● 憶測の域を出ませんが、C(型)、2(気筒飽和式、或はテンダー付)、8(はちろく)の、意なのかも知れません。 列車番号と間違えそうな、数字だけの8620型の、米軍側の呼称だと仮定すれば、あながち間違いでは無く、記号的には辻褄が合いそうです。 若し、朝鮮戦争激化で、9600型担当の臨時貨物が入線していたら、この法則で言えば「D29」と、呼ばれていたやも知れません。 ● また、公園の碑文には、開通日は1948年3月10日、遠賀川駅~筑前芦屋駅間は6.2kmと記されていますが、どちらも誤記と思われます。 謎多き国鉄芦屋線、いつの日か、更なる詳細資料が出て来る事を願いつつ、日々精査、加筆する所存です。 芦屋線が廃止された、昭和36年6月1日は、奇しくも鹿児島本線門司港駅~久留米駅間が、電化開業した日となっています。 |
||||
弥生時代後期には「岡の津」と呼ばれ、豊津、宇佐と共に、三大軍港の一つとして有名で、奥の深い広大な湾を成していました。 今日の「芦屋」の名称は、既に、平安時代中期から「芦屋津」(津=港)として、記録に残っています。 ● 1185年(寿永4年・元暦2年)、葦屋浦の戦い(治承・寿永の乱)の、合戦場となったおり、平家と共に、地主山鹿氏が滅んでいます。 山鹿氏の後の、地主麻生氏は戦国時代まで続き、室町時代には地主麻生氏と、周防の大名大内氏の保護の元に、 鋳物師集団がこの地に本拠を置き、梵鐘や鰐口等の製作に、巧みな技を発揮し、茶の湯の世界で有名な「芦屋釜」が生まれています。 ● 明治22年の、大日本帝国憲法が公布された、同年4月1日に市町村制も施行され、芦屋は芦屋村と山鹿村の二村で発足します。 但、江戸時代から「芦屋町」と、呼ばれていたこの地が、明治となって「芦屋村」となった事もあり、 庄崎村長から、福岡県知事安場保和宛に、明治24年5月8日付けで「村名変更の義申請」を、提出しています。 ● この件は、直ちに承認され、同年6月10日の県令で「芦屋町」として許可され、遠賀郡唯一の「町」として発足します。 一方の山鹿村は、日露戦争の終了年の、明治38年11月5日に、芦屋町に吸収合併され、新生「芦屋町」が誕生しています。 ● また、豊かな恵みの海と、美しい自然を持つ、風光明媚な芦屋町には、様々な魅力が、散りばめられています。 主な名勝地では、響灘が見渡せる芦屋海岸、岡湊神社、狩尾岬、洞山、波懸遊歩道、魚見公園、城山、夏井ヶ浜の浜木綿等々、 海の幸もバラエティー豊かで、新鮮で美味しい魚介類が、堪能出来ます。 |
||||
掲載内容には、他所よりの資料情報も、含まれて居りますので、無断掲載はご容赦下さいませ。
当ページの掲載写真は、茜堂による原盤ネガからの画像や、他者デジタル画像の為、無断複写や画像への直リンクは禁じております。 記述に於いて、誤記や解釈の違いにより被られた不利益につきましては、茜堂では一切関知しないと共に、責務を負えない事をご了承願います。 ● |
|||