中学校に入った娘が「学校に行きたくない」と行って泣いて休んだ、というぼくのツイートが(ぼくにしては)バズっていた。
今朝も娘が中学校に行きたくないと言いだし、大泣きしていた。夫婦でいろいろ娘と話をしたけど、結局今日は休むことにした。理由のようなものがあるか聞いたが中学校の全てが楽しくないと言い、何も楽しくないところにあんなに長い距離、あんなに重いカバンを背負っていくのは嫌だと言っていた。
例えば娘はサヘラントロプス・チャデンシスのことを挿絵付きでノートに書いているが、それにも「もっとすき間を埋めてね」だけ。いや…もっとなんかこう、「屍肉を食っていたとか言われるらしいよ」とか、知的刺激を与えて何か書かせようという気は無いの? 隙間埋めればいいのかよ。黒く塗れば?
まあ、コロナもあって、中学校始まったばっかりだから、気持ちが不安定なのもしょうがねえなとは思うので、夏休みくらいまでは「学校行きたくない!」に付き合うしかない。
まず、素朴に思ったのは、
- ある程度知ってはいたが、あらためて「学校が嫌だ」「行かなくていい」「私もそうだった」という気持ちの人がこんなにもいるんだな、と思った。
- “学校に行きたくない! って素直に言えてよかったですね”という趣旨のレスの人がちらほらいて、子どもが自分の言いにくい気持ちを親に言えるというコミュニケーションのルートが開通していること自体が貴重なんだなと思った。
ということだった。
娘は1日休んで「休んだから大丈夫」と言って、次の日はけろっとして学校に行った。
ところがその日のうち「疲れた…」と行って帰ってきて、夜は「ああ…学校行きたくないなあ」とまた言い出し、翌日朝も相当葛藤の上、「行くかあ」「まだ木曜かよ」とため息をついて登校してった。
金曜日である本日、「行きたくないなあ」とやはり朝食中に一度だけつぶやいたが、もう一週間が終わるということを楽しみに、わりとスムーズに登校していった。
何が嫌なのか?
彼女に何が嫌なのかをインタビューする。それは聞くたびに変わるし、とらえどころがない。悟性的に原因を突き止めようとすると、煙をつかむような感じになる。以下、彼女が挙げた「理由」を列挙してみよう。
- 担任の先生がいやだ。合わない。
- なんでノートを埋めないといけないの?
- 学校の行き帰り、特に「行き」は友達とも帰れないのでなんの楽しいこともない。そして(8kgに及ぶ)あのクソ重いカバンをどうして背負って1.8kmも歩いて通わないといけないんだ?(先生によれば「使わない教科書は置いて帰ってもいい」とのことだが、家庭学習で一定のものは使うように言われているので「最小限」のものだけ持って帰っても「めちゃめちゃ重い」と娘は述べる)
- 体育で半ズボンでやるのが嫌だ。毛深いから足の毛を剃らないといけない……。でも剃ると剃刀負けするし…。体育だけでも休めないのか?(休みたいって言えば?)うう、でも目立つし。
- 体育で今日ラジオ体操やるのも意味がわからん。なぜ? 学校教育でわざわざ1時間使ってラジオ体操だって?
- 給食がまずい。小学校の給食は美味しかったのに、なぜこんなにまずくなるのか。カレーでさえまずい。そんなものを食べるために長い時間残るのはうんざりだ。その分帰りたい。それは他の子もそう言っている。
- 黙って前を向いて給食を食べさせるのも耐えられん。
- まだ5時間(5コマ・5時制、午前中に5つの授業をこなして給食を食べ、帰る)なら耐えられるが、これで7時間になるとか、無理!
- 月曜から金曜まで死ぬ思いで登校しているのに、これで土曜日まで授業されたら耐えきれない。
と、ひいふうみい…9つの「原因」がとりあえず並んだ。
先ほども述べたとおり、「それはどうなの」と思うものもあるが、まあ、複合的なんだろ。本人もよくわかっていないし、ムカつくことが泡のように浮かんでは消え*1、それが楽しいことで打ち消されずに残ってしまうような感じなのではないか。
「もっと埋めてね」
娘は学校の勉強もそれほど好きな方ではない。
中学校に入り生活日誌と一体になった学習ノートを渡され、1日1ページ「埋める」ように言われている。しかし、まだろくすっぽ授業も始まっていない。授業の様子を聞いてもオリエンテーション的なものがほとんどだ。たまに中身があっても例えば理科では顕微鏡の各部名称などを教えられている。
そんなもの、ノートを埋めようがないだろ? と思う。
ましてや予習の仕方など教えてもらってもいない。左翼組織で、市内の学校の先生たちと広く懇談をした時、市教委がコロナ下で各家庭の学習用に作成したプリントが「新学期の予習」的な中身になっていて、集まった左派系の先生たちは「小学生に予習前提でプリントさせたりするのは無理ですね」と言っていた。
つい最近まで小学生だった娘も同断であろう。
4月です、あなたたちは中学生です、もう小学生じゃありません、計画的に学習しましょう、ノートをさあ埋めなさい、と言っても埋まるものではない。
ツイッターにも書いたが、娘は市教委の配信している動画を見ながら、「歴史」「裸子植物・被子植物」についてノートを書いた。
あなたは「最古の人類」を言えるだろうか? ぼくは堂々と「アウストラロピテクス」と述べたが、全く「不正解」だった。現在では「サヘラントロプス・チャデンシス」が最新知識になっている。これは市教委の動画配信でも冒頭で紹介し、教科書にも確かに出てくるのである。娘に学ばされた1つである。*2
しかもノートには、「二足歩行ができるようになって人類に何が起きたか?」を娘なりに予想して書いた。「動画」ではその「答え」を述べているのだが、娘の「予想」とは外れていた。しかし、そういう論理こそ歴史である、そこに踏み出したことは歴史を学ぶ上でとても重要なことだ。
しかし、担任の先生は、その中身については一切触れず、ノート欄のついてのコメントはただ一言。
「もっとすき間を埋めようね」
だけであった。これが2日連続した。
すき間を埋めるのがこの先生にとっての至上の価値なのである。
40年前の元・優等生のぼくとしてはわからないでもない。まず「書く」という形で学習をし、それを量をこなすことによって質に転化するのだと。その訓練としてこのような生活日誌があり、すき間を埋めさせようとするのだろう。
だが、動画も参考書もこれだけ発達した現代に、この方法は引き続き有効なのか。本人がわかるように図を書いて理解してもいいではないか。
百歩譲って、すでに授業もかなり行われ、学習の方式を体得している生徒ならそういうコメントもわかる。しかし、コロナが終わっていきなりの宿題ノートにこれはないだろ。
どうしてもすき間を埋めさせたいなら、何か知的刺激を与えてはどうなのか。
「昔の人類は死んだ肉を食べていたとかいうらしいよ」とか。
「裸子植物って恐竜時代には栄えていたけど、被子植物に負けたらしいね。果実があったほうがなんか有利なのかね」とか。
そんな工夫は一言もなく、ただ「すき間を埋めろ」って頭がおかしいのでは。黒く塗れば満足なのだろうか。低レベルのAIかよ。
娘は果敢にも「すき間ってどれくらいですか?」とノートに書いたらしいが「とにかく出来るだけ埋めてください」と臆面もなく返事が返ってきた。すごいな。
わざわざ学習を無味乾燥にさせる天才ではないかと思う。知的好奇心を必死で切断しているとしか思えない。
桜乃そら先生みたいにやれとは言わんから。
(娘の中学の先生の一人で「永遠の18歳」って自己紹介した先生いたらしいで)
友達はいないのか?
友だちはいないのかと言えば、6年生のとき、同じクラスの6〜7人の男女のグループを作ってよく遊んでおり、今でもラインで毎日つながっている。5・6年生の時は担任・友だち関係に恵まれ、本にも「早く学校に行きたい」「楽しい」「リア充すぎるwww」とか言っていたのだが、中学校でクラスは解体してしまった。このグループメンバーはクラスに1人だけいる(男子)。
校門のところで帰りは一緒に帰るのだが、もう昔の共同体ではないのである。
これは志村貴子『娘の家出』(集英社)の5巻で、高校時代に自分の中学時代のことを登場人物の2人が振り返るシーンで出てくる事情に似ている。下に示した右ページの3コマ目にあたるシーンのモブ的な描き方と、4コマ目の本当に親友たちとの違いがそれを表しているし、左のページのコマで登場人物が相手の語ることをしみじみと的確だと思う表情が実に良い。
友だちとの関係がクラスとの雰囲気などと「込み」で感じられ、クラスという土壌を離れてしまうと、友だちとの関係自体が変化してしまう、というか、一体で価値を持っていたものが失われてしまうのである。
学校に楽しいことがまだない
「勉強」ができることでアイデンティティの大きな部分を獲得していた、元・優等生のぼくとつれあいに対して、娘は、「勉強」を楽しいとは思っていないようである。かなり苦痛な作業のように捉えている。それでも彼女が学校に行くのは「学校が楽しい」からである。それは小学校では友だちであったり、担任の先生であったりした。
友だちについては修学旅行を始め、何度も何度も楽しいことを口にする。
5年生の時の先生が、クラスメート全員を一斉に動かせてプールで巨大な波を起こさせた経験などは異様に楽しかったらしく、何度も娘から自然に「楽しかった思い出」として語られる逸話である。
だから、ぼくら夫婦は一時不登校気味(小学3・4年生)であった娘に対して「もう安心」と思っていたのである。
しかし、新たに中学生になって、学校に楽しみがない今、学校は緊張と嫌なことだけが、小さく、個別に浮かび上がってくる場でしかないのだ。
どうにも先が見えない。
共産党の提言を読む
そんな折に、共産党が出した学校再開についての提言を読んだ。
政党の政策提言をこれほど自分にとって心に染み入るように読んだ経験はあまりない。それほどの体験であった。
提言は、子どもたちの課題を「学習の遅れと格差の拡大」と「心身のストレス」という2つに設定している。これはまさに娘に起きている問題である。
学習の遅れと格差の拡大
コロナで学校が休みとなり、家に閉じ込められた娘のもとには85日ほどの期間中に合計120ページほどのプリントが届けられた。
何より長期に授業がなかったことは、子どもの学習に相当の遅れと格差をもたらしました。学校は課題プリントの配布などで家庭学習を促すなど、さまざまな努力を行いましたが、まだ習っていない基本的な知識を、いろいろなやりとりのある授業なしで理解させるのは無理があります。保護者から「とても教えられない」と悲鳴があがったことは当然です。ネット教材に取り組んだ子どももいれば、勉強が手につかなかった子どももいます。長期の休校は、学力の格差を広げた点でも深刻です。
1日あたり1.5ページである。計画的にやればそんなに難しくはないだろう……と思うのは、元優等生であるぼくの視点。1日ためれば次の日は3枚、3日で6枚、5日で9枚……そしてもうやる気が全くなくなる。
娘は青息吐息でこれをこなした。最終盤にまとめてやっていたので、絶対できまいと思っていたが。特に計算が死ぬほど嫌いのようだった。
しかし全くやっていない子どももたくさんいた。
プリントやった子どもとやっていない子ども、自学ができた子どもとできなかった子どもの間に確かに格差が広がっていったに違いない。
今娘は中学校の数学で初めに教える「正の数・負の数の加法・減法」を習っている。しかしその箇所は、休校中のプリントですでにやった前提で駆け足で通り過ぎている。教え方がぼくらが40年前に習った頃と変わっていて、ぼくからみても逆に複雑になっているように思えるのだが、彼女にしてみればちんぷんかんぷんである。
教科書にはこうある。
例えば(-3)+(-5)なら、「同符号の2数の和は、符号については2数と同じ符号、絶対値については2数の絶対値の和とする」と書いてある。
(-3)+(+5)なら「異符号の2数の和は、符号については絶対値の大きい符号を使い、絶対値については2数の絶対値の大きい方から小さい方を引いた差とする」と書いてある。
確かにそうなのだが、子どもは「異符号」とか「和」とか「2数」とか「絶対値」とかいう言葉遣いに慣れないので、それを理解し使いこなすのに疲れ果て、かえって分かりにくくなってしまっている。
ところが隣の男子は配られた問題をスラスラと解いていく…のだそうである。
おそらく、(+3)+(-5)なら「+(-5)のカッコの外し方は、+と(-ならマイナスのほうが強いので-5にする」として(+3)+(-5)=3-5=-2。(+3)-(-5)なら「-(-5)のカッコの外し方は、-(-なら反対の反対でプラスにするから、+5」として3+5=8。のようにしているのではなかろうか。理解としては雑だが、こっちの方が計算としては早い(2016年の「家庭教師のトライ」の動画はそういう教え方をしている)。
まさに、格差が開いているのだ。
ストレスと不安
そしてストレス。
子どもたちは、かつてないような不安やストレスをためこんでいます。国立成育医療研究センターの「コロナ×こどもアンケート」では、76%の子どもが「困りごと」として「お友だちに会えない」ことをあげ、「学校に行けない」(64%)、「外で遊べない」(51%)、「勉強が心配」(50%)と続いています。各種のアンケート調査には「イライラする」「夜眠れなくなった」「何もやる気がしない」「死にたい」などの子どもの痛切な声が記されています。
見てきた通りである。自分の娘に起きていることはまさにこれだ。
「何が何でも1年間分の授業を」こなそうとするな
こういう時に学校には何が必要だろうか。
こうした子どもを受け止める手厚い教育が必要です。
かつてない学習の遅れと格差に対しては、子ども一人ひとりに丁寧に教えることが欠かせません。学習が遅れた子どもへの個別の手だても必要です。
子どもの本音を受け止め、かかえた不安やストレスに共感しながら、心身のケアをすすめていくには、手間と時間が必要です。休校の中で特別な困難をかかえた子どもには、より立ち入った心理的、あるいは福祉的な面も含めた支援も求められます。
例年通りの授業をしようと、土曜授業、夏休みや学校行事の大幅削減、7時間授業などで授業をつめこむやり方では、子どもたちに新たなストレスをもたらし、子どもの成長をゆがめ、学力格差をさらに広げることにもなりかねません。
ほんそれ。
建前論のように思えるかもしれないが、福岡市教育委員会はその典型で、「例年通りの授業をしようと、土曜授業、夏休みや学校行事の大幅削減、7時間授業などで授業をつめこむやり方」そのものなのである。学校現場は、この呪縛から一刻も早く解き放たれてほしい。
貧困な学力観に沿って、「主要5教科の1年間での詰め込み」という縛りをかけるために、何もかもがきついのだ。ゆっくりと学校に慣らしていく、という当たり前のことがなぜできないのだろうかと思う。
そのために、「主要5教科」以外が切り捨てられたり、学校行事がなくなったりする。
例えば運動会。ぼくは小学校の運動会は意味がないと思っている派である。やめたほうがいいと思っている。しかし、それはあくまでぼくの思いである。福岡市教委は修学旅行を残し、運動会をやめる方向で号令をかけているのだが、本当に子どもたちがゆっくりとこの「非日常」を受け入れて立ち上がるために、そういう学校行事が必要だと思い、教師集団が子どもたちの意見をよく聞いてそう決めるなら、やったほうがいいと思う。
そのような、子どもたちの困難を眼の前にして、子どもたちから出発することをせずに、やみくもに「主要5教科の1年間での詰め込み」を遂げようとする無理。
その思い込みを解除し、期間の設定をなくすべきなのだ。
それはこの提言でも指摘しているように、政府の通知でもいっていることである。
この間の政府の通知の中に、「児童生徒の負担が過重とならないように配慮する」「学習指導要領において指導する学年が規定されている内容を含め、次学年又は次々学年に移して教育課程を編成する」「学習活動の重点化」など、学習指導要領の弾力化につながる要素があることは一定評価できます。
簡単に言えば2〜3年かけて追いつけばいいのである。
そして、この機会に、「学習内容の精選」に踏み込むべきであろう。
いま教員たちの間で、「まずは子どもを温かく迎えよう」「子どもに必要な行事も大切にしたい」「コロナ問題を教材にしたい」など多くの積極的な取り組みが生まれています。たとえばその中の「学習内容の精選」は重要な提案です。「学習内容の精選」とは、その学年での核となる学習事項を見定めて深く教え、それ以外は教科横断で学んだり、次年度以降に効率的に学ぶようにする方法です。そうしてこそ子どもに力がつき、逆に教科書全てを駆け足で消化するやり方では子どもは伸びないと多くの教員が指摘しています。こうした柔軟な教育が求められています。
娘の学校では、先述の通り、理科は顕微鏡の部品名称から教えている。教科書を見ると確かにそこからだ。しかし、どうして顕微鏡の部品名称から教えるのか、と素人考えで思う。これは本当に要るのか。
「提言」にある「学習横断」というのは、例えば総合学習の時間なので「コロナ問題を教材」にして、小学生・中学生なら「もとにする量=比べる量÷割合」で感染率・死亡率を比べてみる。高校生なら指数関数で感染を考えてみる。またWHOのような国際組織の役割を知る。ウイルス・細菌の違い、ある特定の感染症予防策がなぜ有効なのか・無効なのかなどを学んだりするようなことが考えられる。
教育委員会とこの問題(学習内容を精選し、学校ごとに自主的にカリキュラムを組むべきだ)で交渉すると、「えー、あのー、学校が自主的に考えるというのはその通りだと思いますー」と答える。しかし、実際には学校現場は「学習指導要領通りにやる」「市教委の方針に従う」という思いに強く縛られている。よほど大胆に解放させないと、学校は自主的に動き出せない。
「コロナ下での30分卒業式」の際に小学校校長に「こんな短い時間の時くらい、君が代斉唱は外して子どもたちのプログラムを少しでも入れてはどうですか」と文書で請願したことがあるが、返答の場で「いえ、学習指導要領に則って、私の判断で国歌斉唱をやります」と硬い声で言われたことがある。「学習指導要領はあくまで大雑把に準じるもの、『大綱的』なものですよ」と説得したが、ひるがえることはなかった。
憲法の精神は、教育の本質から、教員の一定の自主性を認め、教育内容への国家的介入の抑制を求めています(最高裁学力テスト判決)。ここから、学習指導要領でも教育課程の編成権は個々の学校にあることが明記されました。行政に忖度(そんたく)せず、目の前の子どもたちのために何がいいか話し合って決めていく学校現場を育てることは、現在の厳しい状況を打開するだけでなく、未来の希望ある学校をつくるために大きな力となります。
とにかく言いたいことは、格差が広がり、ストレスをためている、目の前の子どもを中心にしてカリキュラムを組んでほしいということなのだ。何が何でも「1年間で教え込む」という呪縛を外してほしいのである。*3
そして、「どうしても嫌なら無理やり学校に行く必要はない」ということも、選択肢であることが、ぼくのツイートへのたくさんの反応からあらためて気づかされた。