お久しぶりです。因果です。
突然だが、ボカロはダサい。
ちょっと言い過ぎたかもしれない。ニュアンスとしては「ボカロはダサい曲が多い」の方が近いかもしれない。
「ダサい」という言葉があまりにもバズワードすぎるのでここで本ブログにおける「ダサい」の定義を簡単にまとめておこう。以下の3点である。
・高速BPM
・音が雑多すぎる
・歌詞が現実離れしすぎているor直接的すぎる
俗に「人気曲」と呼ばれているボカロ曲には以上の3点を見事に全て網羅しきっているものが多い。「ボカロって同じような曲ばっかじゃん?」といった内容の揶揄がよくぶつけられる理由もここにおるのではないかと私は考える。
しかしかといって私は決してそれらの曲が劣っているのだと言いたいわけではない。
今回私がこのような苛烈な言い方をしてまで伝えたいのは、上記の条件を満たす音楽を好まない人々、つまり一般的なボカロファンとは価値基準が異なる人々が、それらの曲だけを聴いて「ボカロってダメなんだなぁ」と思ってしまうことは少々早計なんじゃないか?ということである。
そこで今回は「ダサくない(と私が感じた)ボカロ曲」をいくつか紹介させていただこうと思う。また、その曲を選んだ理由も付記するので暇だったらそちらも併せて読んで頂けると幸いである。
あ、あと初音ミク11周年おめでとうございます。
①つまらない葬式/マスターvation
アナクロに響くギターが彩るポップ・レクイエム。いつも思うけどP名が酷すぎる。
リリックメイキングの過程において最も困難を極める要因の一つに、独白と俯瞰の使い分けが挙げられる。これが両極端に振り切れていると、歌詞の向こうに強烈な自我を感じる、あるいは逆に全く感じないため、実感覚から乖離した歪な印象を受け、「なんかキモいな・・・」と感じてしまう。
一概に言えることではないかもしれないが、俗に「人気」とされるボカロ曲には特にこの傾向が多い気がする。前者に傾倒したものがカンザキイオリの『命に嫌われている』やNeruの『再教育』などで、後者に傾倒したものが日向電工の『ブリキノダンス』やトーマの『バビロン』などだろう。まぁ挙げれば枚挙に暇がない。
その点においてこの曲は非常に秀逸であるといえる。「葬式」という題材は人間固有のイニシエーションであるがゆえにエモーションの発露として機能しやすく、上述した「強烈な自我を感じる」状態に陥りやすのだが、このPはそこに俯瞰的ーつまり建前的なー視点を織り交ぜることで、バランスの取れた歌詞世界を構築することに成功している。だからこそ時折顔を見せる「本音」がリアリティを帯びて響く。
②あいのうた/haruna808
夜の中央線、70億分の1の日常。
だいたい①と理由同じ。俯瞰と独白の間をゆったりと反復するような、さながら帰りの電車の微睡みのような、輪郭のない歌詞が特徴。
haruna808はリリックもさることながらサウンドも一級品。夜を紡ぎ出す電子ピアノの優しい旋律、感情の起伏に合わせ転変するリズム。キック音はさながら電車のジョイント音のよう。リリックが内面についての描写に徹している一方でサウンドは外面についての描写に徹しているのだ。
そしてこの役割分化が総体としての「曲」に立体性を付与する。この曲を聴いていると感じる柔らかな没入感はまさにこの立体性によって生まれている。
ここでは省略させていただくが、これが気に入ったら氏の『Haruna』もぜひ聴いてほしい。スゲー良いので。
③sleepy dance/temporu
全編9分の超大作。広義ではハウステクノにカテゴライズされそうだが、それよりかは先鋭性が強い。
全ての音が終盤のカタルシスに奉仕していながら、奉仕している音それ単体にも一切の抜かりがないのだ。
この曲は、「ABメロ→サビ→ABメロ→サビ→Cメロ→サビ」のようなよくあるシーケンスではなく、完全に「静→動」という二項において2分割されているため、前者のような手っ取り早く消費(=カタルシスを享受)できる音楽以上に、技巧的な外連味が求められる。
しかし『sleepy dance』はこの課題を難なく突破している。映画の場面が切り替わるように二転三転するアトモスフィアは聴く者の意識をグッと自身の中に引き込んでいき、4拍子のトランス的なうねりの渦中へとゆっくり沈潜させていく。多分「トリップする」というのはこういうのを指すんだろう。
そしてうねりと自我が完全に同化しきった臨界点に達したまさにその時、静が動へと逆転し、微睡みの中に憩っていた自我は突如その外へと突き放され、ここにおいてマゾヒスティックな快楽の達成、つまりカタルシスが生じる。それも極上の。
映画かよ・・・(2回目)
しかもこれらの精神作用は全てtemporuの思惑の範疇内なのだから恐ろしい。
④L'azur/Treow(逆衝動P)
Treowの作る音楽は冷たい。それは「冷酷」とか「冷徹」といったものではなく、温度的な、「cold」の意味において冷たい。それはまるで永久凍土の氷柱のように一切の不純物を含まない冷たさである。
こう感じる理由は、やはり彼の音楽における「初音ミク」の存在態にあるだろう。彼においてはボーカルとしての「初音ミク」が存在しない。そこにはべ―スやドラムといった諸楽器と並列して「歌詞」という名の音素を紡ぎ出す、果てしなく楽器としての初音ミクがあるばかりなのだ。
つまり彼の音楽は、リリックがありながらインストゥルメンタルであるという捻れた構造を持っているのである。
この捻れた構造を成立させるべく、リリックも一切「人間」を感じさせないようになっている。かといって日向電工のように無意味に難解な単語をただひたすらに羅列するような露骨なダサさもなく、あくまで「私秘性の強い現代詩」くらいの体裁は整っている。歌詞のダサさに対してセンシティブな感性をお持ちの方々も、彼の曲を聴いて嫌な鳥肌が立つことはないだろう。
『L'azur』もその例に漏れない。キラリ輝く氷晶のような冷たい音楽を是非心ゆくまで楽しんでほしい。
⑤違います/目赤くなる
初音ミクは今まで様々なものと声を交えてきた。同じVOCALOIDである鏡音リン・レン、巡音ルカをはじめ、softalk(ゆっくり)や歌い手など、その組み合わせは枚挙に暇がない。
本曲においてその相手役を務めるのは、iPhoneの音声ガイドツール「Siri」。イノセンス論を中心に初音ミク存在論が活発に論じられていた2017年当時のシーンにおいてこういうカップリングが登場するのはある意味必然と言えるかもしれない。(イノセンス論については私の過去のブログを参照していただきたい。暇な方は是非…)
この曲においては初音ミクとSiriの「会話的非会話」が延々と繰り返される。
会話的非会話とは、言うなれば文脈を共有しているようで全くしていないモノローグ同士のぶつかり合いのことである。
曲の初めこそは初音ミクがSiriに語りかけ、Siriがそれに応答するという対話の構図が展開されるが、次第に互いの問答の焦点はズレていき、最後には「語りかけ」「応答」だと思っていたものが単なる独言の連続だったという何とも滑稽なオチがつく。
それはまるで横溢する初音ミク存在論者たちに対して「お前ら本当に初音ミクについて知ってんの?」と疑問を投げかけているかのように痛切に響く。
諧謔味溢れる表層と皮肉に満ちた深層の二面性を持つ非常に「厚い」一曲だ。
⑥Mictronica/Kiichi(なんとかP)
Kiichiはエレクトロニカ、ポストロック系統の楽曲を得意とし、黎明期から投稿活動を続けている古参P。
サウンドに関しては先述のTreowに類似している部分もあるが、Treowのような冷たさはなく、むしろエモーショナルであると形容できよう。リバーブがかった初音ミクの歌声、無限に反復されるフレーズ、白昼夢の中を彷徨うようにぼやけた主観的なリリック。彼の音楽は、今ここにありながら、どこか遠くで寂寞と響いている。
ここでは『Mictronica』を紹介したが、この他にも『置いてけぼりの時間』、『プラスチック・ガール』なども非常に秀逸である。
⑦キーウィ/ATOLS
ボカロシーンにおいてはきくお、回転楕円体、ばぶちゃんと並んで「電ドラ四天王」と称されるATOLS。ノイズやビープのようなギミックを飛び道具的に多用するのではなく、知識や経験に裏打ちされた技術に基づいて理路整然とそれらを用いることによって質の高い電子ドラッグを作曲している。
『キーウィ』という曲名の通り、キーウィの歌。いや、本当にそれ以上でもそれ以下でもない。そこに何らかの寓意があるのかないのかいまいち分からない絶妙な歌詞がクセになる。ちなみに氏の『MIKU DET EP』収録のLONG VERSIONは7分くらいある。しかし完全版とかではなくあくまでロングバージョンなのでニコニコに投稿された2分半の原曲もれっきとした完成品である、ということだけは言っておこう。
⑧フォッサマグナ/baboo
よれよれとした楽器隊にこれまたリバーブがかった初音ミクのふにゃふにゃした声が乗っかった脱力系ロック(?)ナンバー。やる気はないがやけに耳に残るイントロのギターリフが印象的。
二転三転とリズムが変化するが、気だるげな雰囲気だけは徹頭徹尾変化しない。まるでぐわんぐわんと左右に触れながらも決して転倒はしない、やじろべえを見ているような、何とも不思議な気分になる。
また、口語的な文体でありながらどこか少し日常生活の域を出た変な言い回しが出てくるリリックが大変クセになる。こういった感じの曲が気に入った方は是非「VOCALOIDよれよれ曲リンク」で検索してほしい。腐るほど出てくるから。
⑨日暮らし/キツヅエ
アコースティックギターの優しげな音色が夕刻の暗がりにこだまするようなフォークナンバー。
平たく言えば「失恋ソング」なのだが、言葉選びのセンスが群を抜いている。「野良猫は笑っている」「ちいさな日々のすき間で」といった詩的な表現と「君に会いたい」「君とココアが飲みたい」といった直情的な表現が混じり合い、心内環境の不安定さが巧みに描き出されている。
そして感情が臨界点に達したところでふと外で鳴くヒグラシに気が付き、どんなに大きな悩みや葛藤も外から見れば些末な出来事に過ぎないのだなぁという諦観に辿り着く、という何とも切ないオチが付く。
また、曲の時間的な経過に伴って音素が増えていく点も大変にエモーショナルでよい。リリックという観点だけなら今回のブログで紹介した中でもずば抜けて素晴らしいといえよう。
⑩この夏のすべて/平田義久
ボカロ音楽がなんとなく疎遠なものに感じる原因はいくつもあるが、その中でも「実感覚から著しく乖離している」というのはその中でも大きなウェイトを占めるだろう。そしてこの実感覚を規定するのが「固有名詞」である。たとえば「二次元ドリームフィーバー」だとか「ダンスロボットダンス」といったものは、どんなにインパクトはあっても、それらが我々の日常生活に登場することはないため、自身の頭の中でそれを適切に想起することができない。聴いている途中で「ん?」という急ブレーキがかかってしまうのである。この不快なタイムラグ、つんのめるような感覚が精神的な疎遠さを生み出しているのだ。
その一方で平田義久の音楽はいつも日常のすぐ近くにある。「祭りばやし」「路面電車」「風鈴」「金魚」・・・。どれも全て我々の手が届くところに存在する固有名詞だ。これらはすんなりと頭の中で処理できるため上記のようなタイムラグが発生しない。
さらに、彼は固有名詞が連なりすぎるとかえって実感覚が消滅してしまうということも考慮しており、適宜意図的な曖昧さ(「あの海」、「この夏」といった指示語を含んだ表現など)を演出することでちょうどよいバランスを保たせている。このバランス感覚はひとえに氏の知識と経験に裏打ちされた構造的なものであり、その一見質素に思える歌詞の向こうには、深遠なる音楽史の平野がどこまでも無辺に広がっている。
あえて『この夏のすべて』を選んだのは、そりゃもう時期的にピッタリだからである。海か?山か?プールか?いやまずは平田。
⑪玉葱/ピノキオP
今もシーンの牽引役として絶大な人気を誇るピノキオPのアイロニックな初期ロックナンバー。
アイロニーというのは表現の過激さがそのままアイロニーとしての完成度に直結するものでは決してない。たとえ表明したい立場は一緒でも、その過程において言葉選びを間違えればそれは途端に陳腐化する。これはもはやアイロニーですらない、言うなれば「中学生の屁理屈」みたいなものだ。
このようにアイロニーとは高度なセンスが要求される至極難儀なレトリックなのだが、ピノキオPは基本的にこの「言葉選び」が上手い。ギリギリ失笑を買わないラインを知っているし、そこに最大限肉薄していけるような豊富な語彙も備わっている。
その完成形ともいえる一曲がまさにこの『玉葱』なのである。
「涙は全部が玉葱のせい」から始まる数多の偏見が巡り巡って自分に突き刺さるさまを、面白おかしく、しかしどこかもの悲しく描いた傑作。
⑫スーパーワールド/江戸川の水
新進気鋭のボカロP、江戸川の水による脱力系テクノ。
ボカロの技術面における進化はめざましいものであり、その発声は人間それと遜色のないレベルにまでエンハンスされつつある。それに付随して新たなライブラリも続々登場し、まさにボカロダイバーシティ時代が現前しているが、この曲において何度も試行される「全く同じリリックを全く同じ発音で繰り返す」技法はVOCALOIDの機械性を殊更に強めるもので、「ライブラリや発声パターンの多様化」というボカロの技術的進化の流れに完全に逆行している。
だが、こうすることによってダイバーシティの生み出した複雑な構造の木々をかき分けていくことは、その深奥に眠る「初音ミクとは何か?」という根底的なアイデンティティ問題に立ち返る契機になるのではないかと私は考える。
コンテンツというものは、極端な二者の間を一定のスパンで往復する場合が非常に多い。近年、初音ミクについての根本的な存在論が方々で唱えられているのは、ボカロというコンテンツが多様化という一つの臨界点を迎えたからこそなのかもしれない。
⑬celluloid/baker
初音ミクというキャラクターコンテンツとしての側面が強かったボーカロイド音楽を、他の諸音楽に劣らぬ一カテゴリにまで押し上げる嚆矢となった黎明期の名曲。上述のharuna808といい彼といい、2007年のボカロ界隈は実直なアングラ感があってよい。
セルロイドとは加工が容易な合成樹脂のことで、20世紀にはこの素材を応用した玩具としてセルロイド人形が大量に生産された。しかし、セルロイドは燃えやすい、耐久性が低いといった理由から次第に使われなくなり、歴史の闇の中に静かに消えていった。
この曲のリリックもそんなセルロイドのように、か細く切ない。しかしそれでも朝を待ち続ける詩中の彼のひた向きさにホロリとした気分にさせられる。
アイドル一辺倒だった初音ミクというコンテンツの新たなる一面を開拓した珠玉の名曲だ。
⑭(spilled 4 mitutes from)Liquid Metal/ハイネケンP
黎明期からコンスタントに投稿を続けている古参Pの一人。水の中を揺蕩うような浮遊感のあるエレクトロニカを得意とする。よくyahyelっぽいというコメントをよく見かける。
上述したATOLSほどの毒はないが、こちらもまさに聴くドラッグと形容して相違ない。リリックも真夜中に見る夢のようにフレーズごとの相関性がなく、サウンドの波に乗ってあっちへこっちへゆらゆらと漂流している。クラブとかでユラユラするのが好きな方は多分気に入ると思う。
今回はLiquid Metalを紹介したが、彼の真髄はアルバムを通して聴くことによって発揮される。少しでもピンと来たなら是非『Electric&Sleeping』と『Flowers』を聴いてほしい。
⑮walk around/chet_brocker
chet_brockerはとにかくベースラインが気持ちよい。「気持ちよい」とはいってもそれはスラップが早いというような、刹那的な音の快楽を満たしてくれるという点によるものでは決してない。あくまでドラムと電子オルガンの音響を最大限有効化してくれるような、言うなれば寿司におけるワサビのような役割を果たしている。こういうさりげなさ、イイですよね・・・
リリックはほぼ聞き取れないが、多分彼は初音ミクを音素のひとつくらいにしか捉えていないのだろう。サブのオルガン程度の存在感しか主張してこないのである。しかしこれはまさに合成音声ソフトの特徴を最大限活かした「ボカロならでは」のテクニックである。インストゥルメンタルとして聴くのが一番おすすめである。
とまぁたくさん紹介したがこれでもメチャクチャ絞りに絞ったのでそこそこ洗練されたリストが完成したという自負がある。是非多くの方に聴いていただきたい。
それではまたどこかで。