昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

2020/06/03

 養成所にはその後も通ったが、なかなか芽が出ない。そのため「こんな養成所にいたって俳優にはなれない」と周囲に言っていたところ、撮影所の偉い人の耳に入り、やめさせられてしまう。それから俳優としてブレイクするまでは紆余曲折の連続だった。養成所を追われるとまず、地方回りをしている養成所の先輩を頼って、遊園地やデパートの「仮面ライダーショー」の一員に加えてもらう。撮影所の手伝いも続けたが、もちろんそれだけでは食えず、バイトしながらどうにか食いつなぐ日々だった。俳優になる糸口をつかむべく、どうにかして目立とうと、テレビの素人参加のバラエティ番組にサラリーマンなどを装って出演したこともあった。さらには一緒に地方を回っていた仲間に声をかけて劇団を結成、自主公演を始める。

歌手で芽が出ず、ショーパブで客とトラブル……20代の日々

 そのころ、テレビ番組の素人参加コーナーに出たことがきっかけで、ある大手芸能プロダクションにスカウトされる。そこでついたマネージャーは、どういうわけか唐沢に歌をうたってみろと勧めた。マネージャーはやがて事務所をやめて、彼を歌手にするべくレコード会社に売り込みをかけ続ける。しかし先方にはまるで相手にされず、歌手になるつもりのない唐沢としてはつらい日々だった。《おれがダメになる時期があったとしたら、あのときだったと思う》と唐沢はのちに書いている(※4)。そんな彼を救ったのは「自分はダメじゃない」というプライドだった。

 劇団とプロダクションのレッスン、レコード会社回りを続けながら、バイト情報誌で見つけた六本木のショーパブの仕事に応募し、合格する。パブの初任給は大学卒と同じぐらいの18万円だった。しかしショーへの出演以外にも、ウエイターとして接客せねばならなかった。すぐカッとなるたちだった彼は客とトラブルを起こすこともしばしばで、何度となく店をやめると申し出た。それでも不思議なことに、トラブルが起きるたびに給料は上がったという。ショーのほうでは確実に認められつつあった。最終的に給料は36万円となり、稼いだカネはすべて、スポーツジム通いなど自分への投資に使った。映画やドラマのオーディションも何度となく受けた。24歳のときには、舞台『ボーイズレビュー・ステイゴールド』に出演する。このとき、書類を出して選考を待つのはもういやだと思い、制作会社の社長に直接会って話をした。それでだめだったらあきらめがつくと考えたのだ。果たして、その場で出演が決まり、主役こそ逃したものの、もうひとつのいい役を得た。

こちらは1992年、ブレイクのきっかけになった『愛という名のもとに』のスタジオで

山口智子との出会い

『ボーイズレビュー・ステイゴールド』への出演を機に、舞台制作を手がけていた事務所に所属する。社長は橋爪功の元夫人で、さまざまな助言を受けた。それまで冬でもTシャツに革ジャンという格好だった唐沢を見かねて、社長が、Vネックのセーターとポロシャツを買ってきて着るように言った。彼は当初拒んだが、数日後、いままでの自分を変えてみようと決意して、やっと袖を通す。社長はさらに彼の名前も、本名の「唐沢潔」から「唐沢寿明」と変えて売り出すことにした。やがて大きな転機が訪れる。NHKの朝ドラ『純ちゃんの応援歌』への出演が決まったのだ。同作は1988年秋より半年間放送された。このとき主演を務めたのが、モデルから女優に転身したばかりの山口智子だった。