ずい分昔の話ですが、
横浜、山下公園近くにあった
バンドホテルの最上階に
「シェルルーム」というナイトクラブがありました
1950年代から1970年代にかけての
大人の社交場、
生のバンドが入り、
中央のダンスフロア―は
綺麗に磨かれ、
ガラス張りの窓からは、
横浜の港の灯りが遠くに映り
各テーブルの赤いロウソクが揺れて
あの頃の日活の映画に出て来そうな、
大人のムード一杯のクラブでした。
その頃、
少しテレビから遠ざかっていた、
「和田宏とマヒナスタ―ズ」や
ヒットし始めの、
「敏いとうとハッピー&ブルー」が毎夜出演、
その後大ヒットとなる「星降る街角」で
ダンスフロア―はジルバや、
甘く流れるムード歌謡で
チ―クを踊る男女で溢れ、
いっぱいになるのでした。
そんなクラブの
「尾崎紀世彦」のステージに誘われ、
チョット背伸びして、出かけて行きました。
彼の声量のある、日本人離れした、
歌声に引き込まれ
テレビで見るよりも小柄かなと感じながらも
彼の歌を楽しみました、
歌の途中、
ト―クでこんな事を言っていました。
少し髪の毛が後退している彼は
髪を長くして後ろに束ねていました。
「実は今髪の毛を伸ばしています、
おじいさんも、父親もはげているのです、
遺伝と言われていますから、
私もこの通り、後退して来ました、
出来れば
自分の髪の毛でかつらを作るのがいい、
そう聞きましたので、
伸ばしたこの髪の毛でかつらを作ります」
少し経って
そんな彼がテレビにかつらを着用して出演、
あっ!あれが自らの髪の毛で作った・・・・・
彼の訃報を聞いてそんな事を思い出しました。
「また逢う日まで」のヒット曲を残し、
逝ってしまいました。《合掌》
bonji
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「また逢う日まで」これでずっと一流を維持した、声の持ち主でした。
横浜で聴かれたのですね。
髪の毛のお話し、成程と納得しますね。
ジャズ楽団を率いた、猪俣猛氏。
彼の記念コンサートをサントリーホールで聴きました。
その時のゲストが尾崎紀世彦さんでした。
聴かせる歌声は、誰にも心地良いのですね♪
釧路にいたとき失恋して生活が荒れていました。
スナックで飲めないお酒を一人で飲んでいたら
有線で当然この曲が流れました。
思わず涙が溢れ出し、マスターが
『早く帰ったほうがいいよ』とささやいてくれたのを
思い出しましたねぇ~~
皆さん、
この曲にはいろんな思い出がありますよね?
迫力ある、くせのない歌声、
実力派の一人でしたね、
東京からもくり出してくる程の
ナイトクラブが横浜には沢山ありました。
最後の時期に残ったクラブでした。
新藤兼人監督、
昭和は遠くなりにけりという言葉を
感じる歳になりました。
bonji
また釧路のスナックなんて、
本当に絵になりますね、
ドラマしたね、
彼が亡くなって、
テレビでこの歌が
あちらこちらで流れていて、、
思い出しますね、
良い事も、辛い時でも、
思い出の歌、皆さんにありまね、
私にも思い出の歌ありますよ、
bonji
彼の歌は迫力があり高い声まで奇麗に出て
こんな人が本当の歌手だな~と 思わせる人でしたね~
大好きな歌手の一人でした
bonjiさんは生で聞かれた事があるんですね
良かったでしようね~
また逢う日まで 本当に良い曲です
私達が結婚した翌年、長女の生まれた年です。
あの抜群の日本人離れした顔立ちと歌唱力に魅了され、レコードを買い、
主人と二人でよく聞いたものです。
まだお若いですのに、とても残念です。
晩年は渋みがでてきて、素敵に歳を重ねていらっしゃると思っていたのですが。
そういえば最近お見かけしませんでしたね。
お具合が悪かったのでしょう。
今でも目をつぶると、あの魅力的な歌声が聞こえてくるようです。
ご冥福をお祈りいたします。
bonjiさんは生で聴かれたのですね。さすが横浜!
晩年はしb
日本人離れした声で、
まだまだ、
良い歌を聞かせてほしかったですね、
最後に「また逢う日まで」を
歌いながら、
それぞれのテーブルを回りました、
そばに来た時には、
身体に響くような声量でした、
病気には負けたくないですね、
元気でいましょうね
bonji
テレビ出ていました。
レコード大賞受賞あとですから、
1972~3年の頃だと思います。
そのあとディスコがはやり、
大人の社交場の、
ナイトクラブがすたれて行きました、
港横浜のナイトクラブ全盛時代は、
裕次郎始め
日活の俳優達が出入りしていました。
もう戻らないであろう、
懐かし思い出です。
bonji
尾崎紀世彦・・残念です。彼がモミ上げで、ガンガン歌っていた頃を思い出しました。その当時、私は、池袋の安アパートの3畳半の部屋に住んでいました。後で6畳の部屋に移りましたが、若かりしころ、六本木のナイトレストランに仕事に行ってた時です。その頃、半同棲していた恋人の彼女との思い出も一緒に思い返されました。彼女は今頃、どうしてるやら、「また逢う日まで」・・もう会えないが、白髪もかなり生えてるだろうし、あの頃、もっと優しくしてあげればよかったなと思う今日です。
年取ると、目が見えにくい。ボニーとクライドの
「ボニーbonii」かと思いました。
正しくは、「bonji」なのですよね。