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東京都
目次
概況
東京都の被差別部落の統計
調査年 | 地区数 | 戸数 | 人口 |
---|---|---|---|
1907年 | 155 | 1508 | 8356[1] |
1921年 | 46 | 1651 | 7658[2] |
1922年 | 26 | 1156 | 7347[3][4] |
1935年 | 20 | 1378 | 7248[5] |
1941年5月 | -(21区町村) | 1675 | 9221(男4674+女4547)[6] |
1942年 | - | 520 | 3113[7] |
1946年 | - | - | 6240[8] |
被差別部落民の混住化が進む東京都に正式の同和地区は存在しなかったものの、荒川区、墨田区、台東区、練馬区は準指定地区の扱いを受けていた[9]。作家山口瞳の妻治子は向島の皮革業者の娘だが、部落民かどうかは明らかでない。声優の森田成一も墨田区の履物屋の息子だが、部落民かどうかは不明である。
東京都の被差別部落の数について、本田豊は「大体30部落ぐらいといわれているが、実際歩いてみると、300近くある。まとまっている部落そのものでも90くらいはある」[10]と主張する。本田は、別の本では自身の調査結果に基づき「約150地区が確認できる」[11]、「23区内をみると部落数は33ヵ所」[12]、「品川区内には8ヵ所の部落があるといわれ、内3ヵ所ははっきりしている。部落と関係が深い白山神社も1ヵ所だけ残されている」[13]とも述べている(解同品川支部による『いばら 10年のあゆみ』35頁にも同じことが書かれている)。都の行政は都議会で「都内の部落は234地区である」[14]と答弁したことがあるといわれる。『東日本の被差別部落』(明石書店)15頁によると、東京都の被差別部落の数は248地区である。[15]
ただし全解連は、東京都の部落の地区数をめぐり、解放同盟都連にこう反論している。
「解同」都連は、答申が「東京における同和問題の歴史と現状を十分に認識し、現実性のある立場を心がけた」と述べているのに対して、「これは真赤なウソである」と「批判」し、同和懇が「二百数十の被差別部落のうちいくつの部落を現に委員の目と耳で調査をしただろうか」といっています。(中略)彼らは、東京に二百数十の部落があるといっていますが、これは、一九六六年四月、解同東京都連合会台東支部調査室編ということで出された『東京未解放地区(ブラク)沿革便覧』という個人的発行の性格の強いガリ刷りのパンフレットが「根拠」になっています。しかし、二百三十ヵ所ばかりあるというこのパンフは、部落でない所が圧倒的に多い谷戸・宮前・元宿などの地名のところ等を部落にしてしまっているのです。(中略)「これらの地区はすべて一軒一軒にいたるまで把握可能であり、現にわれわれは九割方把握している」とか、あれこれいっていますが「真赤なウソ」を「根拠」にした主張であるから、なりたたないことは明白です。(以下略)[16]
部落解放同盟東京都連合会委員長・長谷川三郎は以下のように述べている。[17]
それと、靴職人さんたちは安い家賃を求めて、別の地域に移住することもできますが、皮革業はどこでもやっていい仕事ではなく、東京都の許可が必要です。いまは、荒川と墨田に限定されていますが、荒川と墨田はもともと部落ではなくて、明治時代につくられた部落です[18]。全国から部落の人が来て皮革業に従事していますが、本人たちは部落出身を隠しているつもりでも、その県に多い部落の名字で、わかる人にはわかります。
部落解放同盟東京都連合会は古地図と現代地図を重ね合わせることのできる書籍『大江戸今昔マップ』に「穢多村」の表記があり、差別を助長すると告発した。[19] この件に関し
- 部落解放同盟東京都連委員長・長谷川三郎
- 部落解放同盟中央執行委員・和田献一
- 東京都法務局人権擁護部第一課長・東博之
- 東京都法務局人権擁護部第二課長・北村修
- 東京都法務局人権擁護部第三課長・中嶋武彦
等が出版社と協議し、白抜きされた地図を出版することで合意した。 [20] [21]
一方、武田清・明治大学文学部教授は自身のブログで以下のように述べている。[22]
山谷堀に入ってすぐの上側(北側)に、江戸切絵図で見ると縦長に白抜きの町があって、中が空白になっている。文字が逆さになっているので読みにくいが「穢多村(えたむら)、俗ニ新町ト云フ(ぞくにしんちょうという)」と書きこまれている。彼らは長吏(ちょうり)と名乗ったが、非人層を支配した身分の人たちが、この寺々に囲まれた土地に集住していた。 この町がかき消されたようになくなっている。現代の地図で見ると、ちょうど都立浅草高校がある辺りが、新町への入り口であった。今この辺を歩いても、昔を感じさせるものは何一つない、ふつうの町になっている。区の教育委員会が立てるおせっかいな説明板もない。完全に消えた町なのだ。
結果的に、部落解放同盟東京都連は今日では完全に消えた町「穢多村」をわざわざ部落だと暴露し、都立浅草高校が部落だとも暴露した。[23] [24]
部落解放同盟が同和地区Wikiを業務妨害を理由に提訴した裁判において、原告側弁護士に河村健夫がいる。河村健夫は2016年11月24日、「部落解放・人権文化フォーラム2016」にて「ネットの人権侵害をなくすために」と題し講演している。同じイベントの25日の特別分科会では「八王子市の被差別部落フィールドワーク」が実施され、参加者に被差別部落の場所が暴露されている。河村健夫は特別分科会で部落の場所が暴露されるのを知りつつ黙認していた疑いがある。[25]
部落解放同盟東京都連の長谷川三郎(ABDARCの上川多実の父親)は差別図書『全國部落調査』を悪用し、「東京には多くの被差別部落が存在する。」「戦前の融和事業の対象とされたところをはじめ、多くの同和事業が実施されなかった地域が、またそのまま放置されるのを看過できない。」などと述べ、既に一般地区である東京都の一部地域を「同和地区」に指定するよう画策している。これらの地域住民は、部落解放同盟の画策により「同和地区」に指定されると「同和地区出身者」となり、就職差別・結婚差別等の部落差別を受けるおそれがある。[26]
品川区は「みなさんは、同和問題をご存知ですか?」と題して啓発活動しているが、そもそも東京都に指定同和地区は存在しない上、こと品川区では準指定地区も存在しない。この啓発活動こそがマッチポンプであり、えせ同和行為となっている。[27][28]
東京都の被差別部落として文献に登場する地区
- 足立区本木 - 1890年には荒川沿いに屠場が設けられ、そこに浅草から皮革業者が流入[29]。1913年、荒川放水路の完成により、屠場は千住屠場(1913年4月開設、1937年1月、芝浦屠場への統合に伴い廃場)に吸収された[30]。その後、1923年の関東大震災で焼け出された浅草の業者の流入を含め、靴職人や草履職人の「靴屋長屋」が多数建設され、隣接する梅田地区と共にバタ屋・皮革業・在日朝鮮人の都市細民が集まる巨大スラムに発展[29]。もともと本木や梅田では江戸時代から浅草紙の紙漉業が農家の副業として盛んだったため、バタ屋の移住はその原料入手に便利だとの理由で地元民の受け入れるところとなり、「一夜にしてバタ屋千軒」と呼ばれる状況が出現した[31]。以後、1930年以降の昭和恐慌期から第二次世界大戦中にも貧民や被災民が多数流入し、今日に至る。不良住宅が大規模に密集しているため、1960年頃の「不良住宅調査」では「全国最大のスラム」と形容された[29]。
- 品川区南品川 - 徳川時代の品川宿には非人頭松右衛門に支配された非人系部落があったが、第一京浜国道の建設にともなって南品川に移転。世帯数は約2000。[32][33]品川寺(ほんせんじ。南品川3-5-17)の付近には、非人頭松右衛門の住居や抱非人の居住小屋143軒、預かり罪人を収容した品川溜(南品川2-4)があった。『品川小屋頭藤左衛門書上(1828)』の記述によれば、寛永12(1635)年12月頃、松右衛門の先祖三河長九郎が品川に居住、集めた流浪の民の頭領となり、寛文年間(1661~1673)に松右衛門と改名、「芝非人頭」として新橋以南、六郷川以北を担当した。天保14年(1843)の配下の抱非人は984人。明治2年(1869)の弾左衛門調査では、配下の非人200人、野非人・乞食160人。又、松右衛門は貞享4年(1687)9月26日に町奉行所から行倒れの無宿人や未決囚を預けられたのを機に、元禄8年(1695)当時、畑と化していた法禅寺火葬場の土地300坪を譲り受け、更に大井村長吏小頭弥左衛門から土地36坪を買い取り、元禄13年(1700)に「品川溜」を自費で開設した。明治維新直後の収容人数は7人(一年間で218人が死亡)。新政府により溜は閉鎖され、その役目は明治2年(1869)9月設立の「高輪救育所(高輪3-13)」に、解放令公布の明治4年(1871)まで引き継がれた。高輪救育所の収容者数は900人にも上り、非人達が引き続き世話役に充てられた。京急北品川駅~大森海岸駅間の開通(1904年)や、第一京浜の拡幅・改築(1919~1927年)により、松右衛門の南品川の地区は拡散、現在は消滅。
- 新宿区若葉(四谷鮫ヶ橋) - 徳川初期の火葬場の所在地。江戸時代から続く「三大貧民窟」の一つ。「鮫ヶ橋乞食町」と呼ばれ[34]、代々木の非人頭久兵衛の支配下にあった[35]。佐藤千纏は『社会新策』(1903年)の中で「昔時は皮造り即ち旧穢多と言ひし者多数住棲」と述べており、穢多系部落を核に形成されたスラムと見る向きもある[36]。元鮫ヶ橋北町には願人坊主が住む木賃宿「ぐれ宿」が存在した。天保14年(1843)の時点で願人系の鞍馬円光院所属の「ぐれ宿」が2軒。
- 新宿区(早稲田々甫)- 「門廻り」と呼ばれる有戸籍の非人の居住地だった[38]。
- 新宿区新宿四丁目(四谷旭町) - 天龍寺境内の墓地の中に非人部落があったという[39]。「新宿の部落にしても今は稲荷神社なんですが、これも源義家の伝承が残っている」[40]。これは新宿区新宿4丁目4-23の雷電稲荷神社をさす。なお、この部落のすぐ南側の都立新宿高校は近世には刑場と火葬場であったという[41]。四谷天竜寺門前には願人坊主や乞胸が住む木賃宿「ぐれ宿」が存在した。天保14年(1843)の時点で願人系の鞍馬大蔵院所属の「ぐれ宿」が2軒、鞍馬円光院所属が1軒。乞胸系の「ぐれ宿」も数軒あった。天保13年(1842)の乞胸頭仁太夫提出文書によると、四谷天竜寺門外の乞胸は18人。
- 墨田区東墨田(木下川地区) - 旧向島区吾嬬町に相当。寛政12年(1800)の弾左衛門の文書に「木下川の非人頭久兵衛、手下七人」とある。1873年には浅草亀岡町や新谷町(鞣し業が集中していた)の部落が臭気問題で当地に移転。1881年には神田橋本町の非人系部落が火災により当地に移転、鞣し業が栄える。明治20年(1887)時点での木下川地区の鞣し業者は3軒。明治35年(1902)の皮鞣し業の市外強制移住施行後の、明治43年(1910)の木下川地区の皮革業者は25軒程度。1925年から1930年代半ばまで当局により再移転計画が検討されたが、住民の反対運動で実現しなかった。1970年に部落解放同盟の支部が成立。1984年のデータで1000世帯弱、2500人が住む。[42]
- 墨田区向島1丁目・3丁目ならびに押上1丁目2丁目の各一部(向島小梅町) - 「無宿」と呼ばれる無籍の非人の居住地だった[43]。
- 墨田区江東橋(本所柳原町) - 「無宿」と呼ばれる無籍の非人の居住地だった[43]。
- 台東区東上野4丁目ならびに北上野1丁目(下谷万年町、下谷山崎町とも) - 江戸時代から続く「三大貧民窟」の一つ。かつて乞胸頭仁太夫とその配下が居住。仁太夫は1843年に浅草松葉町に移転させられたが、万年町にはその後も非人頭車善七の支配下の人々が多数居住していた。[44][45]下谷万年町には願人坊主や乞胸が住む木賃宿「ぐれ宿」が存在した。天保14年(1843)の時点で願人系の鞍馬大蔵院所属の「ぐれ宿」が7軒、乞胸系の「ぐれ宿」も数軒あった。天保13年(1842)に乞胸頭仁太夫の提出した文書によると下谷山崎町(万年町)の乞胸の人数は478人。又、明治2年(1869)の弾左衛門の調査では、180人の乞食(非人、乞胸、願人坊主)が下谷万年町の「ぐれ宿」に集住していたという。明治2年に万年町と改称されてからも住民は人足・日傭取・人力車夫・屑拾などの貧民が多く、山窩の集住地ともなった[46]。
- 台東区松が谷(浅草松葉町)- 非人部落[47]。
- 台東区鳥越二丁目 - 弾左衛門と配下の者たちが日本橋室町から移り住んだ場所[49]。
- 千代田区東神田1丁目(旧・神田橋本町) - 乞食や願人坊主などの集住する[50]非人系部落があり、「乞食町」と呼ばれていたが[51]、1881年の火災で全焼。以後、被災者たちの現地立ち入りは当局によって禁じられ、1902年に立ち退き命令を最後に、鞣し業に従事していた部落民たちは荒川区の三ノ輪付近や墨田区の木下川地区に移転を余儀なくされた。三ノ輪付近からはさらに荒川8丁目や木下川地区に移転し、今日に至る。[52]神田橋本町には願人坊主が住む木賃宿「ぐれ宿」が存在した。天保14年(1843)の時点で鞍馬大蔵院所属の「ぐれ宿」が28軒、鞍馬円光院所属が18軒。又、明治2年(1869)の弾左衛門の調査では、550人の乞食(非人、乞胸、願人坊主)が神田橋本町の「ぐれ宿」に集住していたという。
- 中央区日本橋人形町2丁目(旧・日本橋松島町) - 「門廻り」と呼ばれる有戸籍の非人の居住地だった[37]。車善七の旧屋敷があった。明治20年(1887年)日本橋蛎殻町より出火し松島町一帯も焼失したため細民街の跡を絶つ[53]。
- 中央区日本橋本石町二丁目(旧・日本橋室町)- 家康が江戸に移る前の、弾左衛門や一族党類の屋敷の所在地[49]。現在は日本銀行本店がある。
- 練馬区練馬 - 1871年、解放令当時に80戸の部落があった。1935年3月当時は向島区吾嬬町に次いで東京府内で2番目に大きい部落があり、352戸、1587人の住民がいた。実際にはこのほか隣接地に約60戸の部落出身者が居住しており、部落外からの移住者もこれとは別に172戸あった[54]。
- 港区浜松町2丁目(芝新網町) - 「三大貧民窟」の一つ。乞胸・願人など江戸特有の賤民の居住地。「この『三大貧民窟』は、いずれも徳川時代の賤民居住地、すなわち被差別部落であった」[55]。「この『三大貧民窟』は、いずれも旧非人系地区であり、資本主義の発展のもとで都市スラムとして拡大したものであった」[56]芝新網町には願人坊主が住む木賃宿「ぐれ宿」が存在した。天保14年(1843)の時点で鞍馬大蔵院所属の「ぐれ宿」が4軒、鞍馬円光院所属が21軒。1886年3月24日~4月8日付の『朝野新聞』に「新網町の中北十六十七十八十九二十番地を以て最も極貧者の住ふ長屋となせり」とある[57]。
- 港区浜松町1丁目、海岸1丁目、東新橋2丁目(芝新銭座町)- 「門廻り」と呼ばれる有戸籍の非人の居住地だった[37]。
- 文京区大塚5・6丁目(小石川大塚坂下町200番地[58])- 「門廻り」と呼ばれる有戸籍の非人の居住地だった[37]。通称、五十軒長屋[58]。「江戸小屋」と呼ばれる非人小屋が、護国寺裏にあった[37]。
- 文京区小石川四丁目の一部ならびに五丁目(久堅町) - 永井荷風は随筆「傅通院」で「久堅町の穢多町から編笠を冠つて出て來る鳥追の三味線を何處に聞かうか」と記している[60]。「門廻り」と呼ばれる有戸籍の非人の居住地で、「江戸小屋」と呼ばれる非人小屋が、伝通院の西寄りにあったともいわれる[37]。「久堅町も、明治のはじめまで部落の存在したところであって、大正以前には掃除町と呼ばれていたところである」[61]ともいわれる(ただし正確には久堅町と掃除町は別の町)。「統計には載っていないが、東洋大学からは後楽園の方にちょっと離れるが、今現在40戸ぐらいの部落があります。ただ、混在しているから、わかりませんが」と、本田豊は述べている[62]。文京区白山の白山神社に近く、菊池山哉は「部落で祀っていた白山神社だった」と推定している一方、本田豊は「文京区の本郷の白山神社は[63]、現在は一般的な意味での白山信仰の神社でしょう。部落の成立の方がかなり遅いようですから、部落とは関係がない。と思われる」[64]と述べている。
- 江東区木場6丁目から東陽1丁目近辺(旧・深川久右衛門町) - 非人町との呼称があった[65]。旧地名"洲崎"。元禄年間(1688~1704)に海岸を埋め立て"洲崎の原"と呼び、元禄13年(1700)弁天社(洲崎神社)を祀った。元禄16年(1703)名主の久右衛門が買い受け"久右衛門町"と呼ばれた。寛政3年(1791)暴風雨・大津波で壊滅的打撃を受ける。明治2(1869年)洲崎神社を中心に、西を深川平久町、東を洲崎弁天町に分けた。明治21年(1888)、文京区の根津遊廓が洲崎弁天町に移転し、1958年(昭和33年)の売春防止法成立までは吉原と並ぶ都内の代表的な歓楽街であった。戦後の通称は"洲崎パラダイス"。
このほか、
- 品川区東大井(浜川町) - 『新篇武蔵風土記稿』によれば、長吏小頭弥左衛門の大井村の59軒の地区は、1652年までは品川寺(当時は大円寺)にあったという。東大井方面(京急鮫洲駅周辺)への移転は、1651年の鈴ヶ森刑場開設に伴ったものと考えられている。又、戦乱により荒廃していた大円寺は、弘尊上人により1652年に再興され現在の寺号となった。『渡辺(東京)知事府管内巡回記』(『近代部落資料集成』第3巻収録)の記載に、「松方デフレ」後の明治18年(1885)の大井村について「村に工業者八十余名あり、これは旧穢多にして、多くの下駄の表を製し生活す。その中二一戸はかなりの生活をなすものあり」とある。移転後の地区も、京急北品川駅~大森海岸駅間の開通(1904年)や、第一京浜の拡幅・改築(1919~1927年)により現在は消滅。
- 品川区荏原
- 品川区西五反田
- 杉並区荻窪
- 杉並区成宗 - 現在の杉並区大宮・成田東・成田西のそれぞれ一部。
- 杉並区方南町
- 大田区鵜の木
- 大田区調布峯町(ママ。恐らく嶺町の誤記。調布嶺町は現在の大田区鵜の木1〜3、北嶺町、下丸子4、田園調布本町、田園調布南、東嶺町、西嶺町、南雪谷4、南久が原2、久が原1を含む)[66]
- 大田区矢の口(ママ。現在の大田区矢口と町域が同じかどうかは要調査)[66]
- 大田区久ケ原町(現在の大田区久が原とは町域が異なる。久ケ原町は現在の久が原1〜6、南久が原2、池上3、北嶺町、千鳥1、南雪谷5、東嶺町を含む)[66]
- 渋谷区山谷町(現在の千駄ヶ谷3、代々木1〜5、初台1、代々木神園町を含む)[66]
- 豊島区雑司が谷[66]
- 稲城市百村[67]
- 板橋区前野町 - 天保年間編纂の『新篇武蔵國風土記稿』によれば、前野村に「長吏二十四」。
- 目黒区柿の木坂 - 旧・荏原郡衾村。『目黒区史』1961年版の328-329頁に「最下層の特殊身分」の項目があり、部落解放同盟からの糾弾を恐れた都教委によって図書館から回収されたことがある。以下、全文引用する。
このように目黒地域においても、本百姓・水呑と大別された中にも、さらにいろいろな階層・身分があったことがわかるが、この外にこれらの諸身分とはっきり区別された最下層の特殊身分があった。それはすなわち、穢多、非人である。両者は中世以前では区別がなかったが、江戸時代にははっきり分けられ、前者は生涯その境遇を脱することができなかったが、非人は犯罪者の多くがこの身分におとされたためゆるされればもとの身分にかえることができた。宝暦13年(1763)の碑文谷村絵図をみると「馬捨場」という場所があるが、当時村々にはこういう斃死した馬を捨てる場所があり、そこに番太とよばれる穢多が住んでいて死馬の皮をはいで革細工などを営なんで(ママ)いたといわれる。また死体の処理もかれらの仕事であった。また安永8年(1779)10月衾村平根の稲荷の所に行倒れがあったのを、等々力村の小家者(こやもの)が発見したが放っておいたので、衾村で相談し、奥沢村の穢多にいいつけて曲台(まがりだい)に小屋をたてさせ、その行倒れを居住させるようにしたとある。これをみると穢多を小屋者(ママ)ともいったようである。番太も非人も村の犯罪を取りしまる手伝いをしたり、狼藉者を追い払ったりして村の治安維持に使われた例が多い。近世後期、年月は不明であるが、衾村の百姓金五郎という者の家に夜中、無宿者の長吉ら二名が押入ったので、かねてこういう時にと頼んでおいた元非人松助と同居人彌兵衛の両名がかけつけて取押えたという史料がある(栗山家文書)。
- 目黒区下目黒
- 世田谷区等々力 - 相州大磯宿小頭古文書『助左衛門文書』の記載によれば、嘉永3年(1850)の等々力村の小頭名は"市左衛門"。又、世田谷区史料 第四集収録の『小池家文書(等々力町小池駒次氏蔵)』には、「穢多三軒 市左衛門、長右衛門、佐右衛門。非人小屋壱軒 六助」と記載。1912年まで等々力村は、多摩川を挟んだ対岸の川崎市中原区等々力を飛び地として含んでいる。
- 世田谷区南烏山 - 文化6年(1809)の烏山村下山家古文書『御水帳写』記載では、「穢多 無御座候。番非人 家壱軒(中略)小屋頭勘助」。下山家は開幕以来の地頭名主であり、やはり当地の土着旧家である杉田家、志村家等と共に旧白山神社時代から祀るのが、昭和37年に改称した現烏山神社である。
などが「同和(改善)地区」として東京都から調査を受けていた[68]。
本田豊はさらに、以下の地区も被差別部落であると主張している。
- 世田谷区八幡山[69]
- 世田谷区奥沢(穢多系)[70] - 『旧奥沢村原家文書』に「安永九年(1780)武蔵國荏原郡世田ヶ谷領奥澤村(中略)外に穢多拾軒 弐拾人男 拾五人女」と記載。1920年10月の『社会改善公道』24号に東京府下の部落として「南多摩郡元八王子村二百戸、北豊島郡下練馬村二百戸を始めとし、南多摩郡多摩村卅五戸、同郡谷保、砧両村、荏原郡玉川村等各十戸内外にて其他は二三戸宛点在し居れるに過ぎず、亦東京市内は浅草区花川戸、亀岡町等なるが」とある中[71]、荏原郡玉川村の部落とは奥沢を指すものと考えられる。
- 北区赤羽(穢多系)[72] - 天保年間編纂の『新篇武蔵國風土記稿』によれば、稲付村に「長吏三家」。
- 板橋区志村(穢多系)[75] - 現板橋区前野町のこと。前掲の通り、『新篇武蔵國風土記稿』によれば、前野村に「長吏二十四」。
- 港区六本木(非人系)[76]
- 荒川区南千住(非人系)[77]
- 中野区新井(非人系)[78]
- 板橋区下赤塚[79] - 1921年の内務省調査『全国部落所在地調』によると戸数17、人口85、職業は小作農、草履作り、日雇い人夫、土方など。『新編武蔵國風土記稿』で、"上"赤塚村に「白山を祀る(中略)穢多十一軒あり」の記載はあるが、"下"赤塚村の項には特に無い。但し、大字としての"上赤塚、成増、下赤塚"は、"赤塚村"として合併した経緯もあり、現行町名では互いに入り組んでいる。
- 江東区白河(深川霊岸町、非人系)[80]
- 江東区海辺(深川海辺町、非人系)[47]
- 台東区浅草[81] - 1877年の『内国勧業博覧会出品目録』に、浅草駒形町からの靴の出品者として"弾直樹"及び"小林治助"の名が確認できる。なお衆院議員の深谷隆司(自民党)は浅草の靴職人の息子。「深谷家は、江戸時代から浅草一帯で代々、生活を営んできた」と『自由民主』(2006年)第634~637号78頁にある。
- 荒川区荒川八丁目[82] - 旧称は東京府北豊島郡三河島村字菅苗(すげなえ)。「荒川8丁目地区は、『強制移転』などの結果東京市内から移転を余儀なくされた部落の皮鞣し業者たちが、当時まだあまり人の住んでいなかった隅田川の氾濫源(ママ)を自力で開発した皮革の町である」と『解放新聞』東京版が2012年9月に暴露している。明治10年代後半に皮革工場が作られ、この地に屠場・油脂工場などの関連産業が集中することになった。そのため、屠殺業が盛んであった滋賀県をはじめとする各地の部落から住民が移り住んできた[83]。1941年5月現在の「東京都同和地区調」に記載のある、荒川区の同和地区とはこの地区を指す。なお滋賀県の部落と共通する姓農(うじの)姓の分布や高岩昌興(解放同盟都連荒川支部長)の住所からして、部落は八丁目だけではなく一丁目や二丁目にも拡大している可能性がある。[84]
- 足立区保木間[85]
- 東村山市久米川[88]
- 東村山市廻田町[89]
- 多摩市関戸 - 地区の別名は佐伯谷戸で、有山方面の者は今でも佐伯姓を名乗っているという[90]。東光寺も白山神社もなく、牢番や処刑にだけ関係していたとされ、佐伯姓の者は農化して字荻山や字有山に居住しているという[91]。
- 日野市百草 - 「其の十人を全部土方(ひじかた)と申します。東光寺は丘陵の中腹にありますが、この人々は麓の泥地(ひじ)つまり卑地に居りました。そこで由木の本郷の人々から泥地(ひじ)方の人々と呼ばれ、その泥地(ひじ)が姓になつたものでしよう」と『日本の特殊部落』(菊池山哉、東京史談会、1962)にある。
このほか、本田豊は中世の角筈村(新宿区西新宿)に雷電神社を守る賤民の一団が居住していた可能性を想定している[92]。
古賀誠三郎は「田中製革は明治20年頃、芝白金に設立され、事業拡大に伴って明治30年戸越へ移ってきたものであった。戸越は古く刑場があったと言われるところで、被差別部落が存在していた。田中製革がこの被差別部落の労働力に目をつけたことはうたがいない」と述べている[93]。
「府中市を中心にして、国立市、国分寺市、調布市をふくむ地域に、現在七地区の被差別部落がある。そしてそのうちの六地区はほぼ甲州街道沿いにあるといえる」[94]
- 国立市谷保(下組) - 1935年3月末の時点で戸数は20戸、人口は158人。主たる職業は農業、副業は履物表づくり。本来は崖下の低地(国立市谷保6015の旧白山神社付近)にあったが、多摩川の出水が重なったため、嘆願により現在地へ移転。このとき共に移転を嘆願したのが昭島市の「上組」部落であった。なお、白山神社に隣接する「谷保下組公会堂」は1970年前後に部落解放同盟東京都連合会の要求で建てられたものである。[95]
- 八王子市泉町 - 旧・南多摩郡元八王子村大字下一分方字四ッ谷茶筅村。また下壱分方村字福岡とも。1876年頃には800人以上の被差別部落民が住んでいた[96]。
中央融和事業協会によって1935年10月に調査された被差別部落、すなわち板橋区練馬南町五丁目、向島区吾嬬町など18地区(後掲)はいずれも穢多村である[97]。このほか東京都の穢多部落には以下のものがある[98]。
- 浅草新町 - 旧浅草亀岡町、現台東区今戸1、2丁目。1870年代に417軒1143人の旧穢多がいた[99]。「東京で穢多町としている亀岡町は、玉姫、橋場を加えて約二千四百人位は居る」(『新公論』第25年9号・1910年9月)。1941年5月現在の「東京都同和地区調」に記載のある、台東区の同和地区とはこの地区を指す。長吏頭"浅草弾左衛門"役所と住居、手下の居宅があった。都立浅草高等学校(今戸一丁目8-13)は、弾左衛門居宅跡に建つ。伝承によると、解放令の後、亀岡町の住民の3分の1は弾左衛門の出資で地区外に転出したという[100]。浅草今戸町は作家の川口松太郎の出身地だが、川口が部落民か一般民かは不明。浮世絵商の小林文七は亀岡町出身で、父は弾左衛門の手代の小林権七、「穢多の総頭から三番目の家筋である」と宮武外骨は述べている[101]。弾左衛門の手代に小林与七、笠原伊左衛門、石垣元七、石渡作兵衛などあり[102]。弁護士で検事で東京水平社同人の石渡春雄も浅草吉野町(現・今戸)の出身で部落民[103][104]。石渡家は旧南部藩領の部落出身といわれる[105]。2000年電話帳でも今戸二丁目11-7に石渡姓の住民の登録がある。今戸一丁目18-4に深川姓の住民もいるが、深川武の親類かどうかは不明。亀岡町出身の製靴業者に小林健次郎、笠原文蔵、瀧上次郎、大塚隊之丞(丸川珠代の夫である大塚拓衆院議員の祖父の養祖父)の名前あり[106]。ただし大塚隊之丞は佐倉藩士。現在でも今戸地区には(株)パナマシューズ、(有)テツ・レザー、靴修理の専門店スズキ、早川製靴工業(株)、(有)フレールシューズ、ルビアンシュ-ズなど靴屋や皮屋が多い。現在は台東区元浅草2-10-10に移転しているが、1689(元禄2)年から続く太鼓製造販売会社「南部屋五郎右衛門」も浅草新町で創業した店で、東京最古の太鼓の老舗である。元社長の石渡(いしわたり)司郎は十三代目、現社長の石渡浩司(1971年生まれ、今戸1-9-1)は十四代目で、南部屋という屋号からして石渡春雄の親類と思われる。南部屋の始祖、南部屋五郎右衛門は、元禄2年(1689年)に現在の岩手県平泉から江戸に出て来た[107]。なお今戸1-2-13で毛皮屋を営む大津屋(代表取締役は林英彦)は福島県会津若松市祝町部落にルーツを持つ豪商である。
- 品川宿 - 品川区南品川3-5-17。長吏部落の規模は近世初期に26軒、1799年(寛政11年)の絵図で59軒、1855年(安政2年)には65軒[109]。長吏小頭"弥左衛門"は、1651年の鈴ヶ森刑場開設に伴って[110]東大井4丁目に移転。その後消滅。
- 上赤塚村 - 板橋区赤塚4丁目。消滅。天保年間の『新編武蔵國風土記稿』で「穢多十一軒あり、白山社穢多村にあり」。
- 三輪・三河島 - 荒川区西日暮里から南千住。
- 青戸 - 史料では「葛西」とも[111]。葛飾区青戸6-36~39。旧青戸町4丁目に含まれる。天保年間の『新篇武蔵國風土記稿』記載では、「長吏三十五軒も古くより住せり」。青砥神社に合祀前の白山神社は青戸6-37-5付近に鎮座。地区の墓地は同6-36-7~11に囲まれた一画と、同6-39-18北側の二箇所。高橋、中島、平井姓。
また非人部落には以下のものがある[112]。
- 浅草溜 - 台東区浅草4-32~34、千束小学校付近。"溜"は病囚、幼囚の収容施設。"浅草溜"は非人頭"車善七"が管理した。車善七役所と住居、手下の居宅は新吉原に隣接する台東区千束3-2に、又、預かり女囚の"溜"は同千束3-3にあった。
- 油堀 - 江東区森下。
- 品川溜 - 品川区南品川2-4、京急青物横丁駅前。"品川溜"は非人頭"松右衛門"が管理した。元は法禅寺火葬場。『品川小屋頭藤左衛門書上(1828)』によれば、元和~寛永の頃はイエズス会士の隠れ家もある畑となっていたという。
- 鈴ヵ森 - 品川区南大井2-5-6の大経寺隣りに鈴ヶ森刑場跡地。鈴ヶ森刑場は1651年開設、1871年閉鎖。
- 代々木村 - 渋谷区代々木。代々木非人小屋があった。「無宿」と呼ばれる無籍の非人の居住地だった[43]。非人頭は"久兵衛"。天保14年(1843)の配下の抱非人は272人。明治2年(1869)は非人79人、野非人100人。和田堀の明治大学校舎と築地本願寺廟所の地所にあった「和田新田御焔硝蔵」(火薬庫)の補助番人も、久兵衛手下の者が勤めたという。
- 狼谷(おおかみだに) - 現在の渋谷区西原。江戸時代の記録に「非人の家三軒あり。四谷西念寺、勝典寺、戒行寺、麹町栖岸院、必法院など五か寺の拝領地にして荼毘(だび)所あり。文禄年中まで四谷千日谷にありしが、後年千駄谷村に移り、寛文四年八月当所に移る」とある。代々幡火葬場(渋谷区西原2丁目42-1)は江戸時代からの火葬場で、東京では最も古いものの一つ[113]。かつて関東医療少年院もあった。
- 中野村 - 中野区。中野宿には名主の家に囚人寄場があり、宿からの要請で看守役を引き受けた非人、"番非人"がいた。「番非人」は1844年に幕府により正式に制度化。1930年の『東京府郡部に於ける集団的不良住宅地区状況調査』60頁には「野方町字上高田寺ノ墓地裏」の落合火葬場付近に「総テ一戸ノ堀立小屋ニテ非人部落若シクハ『山ノ人』ト云フ」9世帯23人余の地区の存在が記載されている。
- 西巣鴨 - 豊島区西巣鴨。巣鴨に部落があったことは『部落問題研究』1970年3月号63頁にも記されている。
- 前野村 - 板橋区前野町。前掲の通り、『新篇武蔵國風土記稿』によれば「長吏二十四」。むしろ"穢多系"。
菊池山哉の調査によると、中世には以下の場所に被差別部落があった(カッコ内は菊池山哉の解説)[114]。
- 多摩郡町田町(原町田が江戸以前に、小机、八王子城を通ずる街道に発生した市場であり、その前身なのですから、少なくとも室町初期へ遡ると思う)
- 多摩郡府中町(府中町の東端、昔の大井駅街道中であります。この部落も南北朝まで遡ることは確かでしょう。大井駅までの途中、布田宿(旧地を移転)、喜多見村、多摩川上流へかけて谷保村などは配下です)
- 多摩郡久留米村(この部落は、街道には関係のない村なのですが、やはり、古い部落のようです)
- 都内文京区白山町(小石川植物園の地におりましたのですが、五代将軍・綱吉が、白山御殿を造営するについて移されました。しかし、部落民は、白山神社を残して、再度、神明町の方へ移りました。この部落は、「和名抄」・豊島郡占方郷(王子方面)の入口を扼して居ったようです)
- 都内文京区湯島妻恋坂(「和名抄」・豊島郡湯島郷の入口を掘して居ったところが妻恋坂です。湯島郷は豊島駅と乗瀦駅とを結ぶ往還の中間です。「延宝江戸図」に、この地を地獄谷と書いてあり、「江戸談」や「江戸誌」に志太の小太郎なるものが、小山判官を「つま恋が野辺に引据えて、首打しけり」などとありますので、ある時代、湯島郷の長吏がおったことがあるのでしょう。駅路は早く止まり、岩槻街道が、文明中開通されまして、湯島本郷は移転し、廃道同様となりましたので、何時とはなく解消されたものと思われます)
1921年の中央融和事業協会の記録には、現・文京区では久堅町のほか神明町(現・文京区本駒込五丁目)と片町[115]と東片町(現・文京区西片二丁目の一部ならびに向丘一丁目の一部、ならびに本駒込一丁目の一部)も被差別部落として収められているが、全解連の立場からはこれら4地区が全て「関東大震災などにより完全に消滅」したとされる[116]。
現在の千代田区鍛冶町と中央区日本橋本石町に跨って乞食橋(白旗橋)があったが、旧賤民と関連しているかどうかは不明である。
文献
全國部落調査(1935年)
東京府 昭和十年三月現在
部落所在地 | 部落名 | 戸数 | 人口 | 主業 | 副業 | 生活程度 | 現在地 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
東京市 板橋區 練馬南町五丁目 | 谷戸 | 三二〇 | 一〇三〇 | 下駄表製造 | 日傭 | 下 | 練馬区 練馬 4丁目1~5、3丁目20~23、2丁目7~10、1丁目8~16、同39~44[117] | 明治4年(1872)の解放令当時は棕櫚表加工を中心とした80戸余(東京人権連HPより)。 『渡辺(東京)知事府管内巡回記』(『近代部落資料集成』第3巻収録)の記載に、「松方デフレ」後の明治18年(1885)の地区について、「百戸中、乞食をせざるは僅々五、六人に過ぎず」とある。近年では都内の他、埼玉、神奈川の地区からの流入が多数を占めているという。 近隣の「としまえん」は、文明9年(1477)に太田道灌が焼き討ちした練馬城の跡地であり、戦国時代のこの地は練馬城の濠の外を守る曲輪であったと推定される。 有力小頭"杉本惣兵衛"の居住地であり、武蔵野国西部と浅草を繋ぐ要地でもあった。練馬白山神社は村社の扱いだが、元々は同家の個人持ち(但し、創建自体は弘安4年(1280)以前に遡るという)。小頭一族の本家は第二次大戦中には移転している。 杉本、勝本、谷本、寺崎姓が、江戸時代からの土着姓として同白山神社の奉納碑で確認できる。「練馬部落と赤塚・前野との関係は、実際に密接であった。練馬には両部落に出自をもつ家が多く、特に地域の東部の多くを占めるK姓は前野の姓であり、近世に前野から練馬に移ってきたという。赤塚の小頭家と同姓の家も多く、出自は赤塚にある。近世に80戸あったという練馬の戸数に、相当数の赤塚・前野からの移住者がいたのである」[118]と言われるが、Kが勝本かどうかは要調査。なお練馬地区と赤塚地区・前野地区に共通して多い姓は、白山神社社殿御造営奉賛者芳名にも見える小泉姓である(2000年電話帳で練馬16件、赤塚20件、前野町22件)。 箱館戦争に敗れた榎本武揚は、辰ノ口牢獄から一時釈放、練馬谷戸療養所で静養中に小頭家の娘との間に婚外子をもうけ、赦免後も養育費を払っていたという。実子は後に地区を離れ、公立学校の教員を勤めている[119]。 又、分家筋で中央融和事業協会所属の杉本重利氏は、"夏山茂"の筆名で融和文芸小説『祖国』を書いている。 「部落内には土地の値上がり等で資産数億と言われるボスも6名ばかりいます。彼等は自民党の中村梅吉の配下で銀行資本を通して部落の民主化を阻害する役割を果しています」といわれる[120]。部落解放同盟東京都連練馬支部は練馬区の被差別部落のフィールドワークを開催する旨インターネットで告知したが、その中で豊島園遊園地、白山神社、練馬駅北口区有地(カネボウ跡地)が被差別部落だと暴露している。[121] |
〃 向島區 吾嬬町 | 東七丁目、西八丁目、西九丁目、(木下川) | 五〇〇 | 二六〇〇 | 皮革油脂膠製造 | 草履表製造 | 下 | 墨田区 東墨田 | 寛政12年(1800)8月の『弾左衛門書上』に「木下川の非人頭久兵衛、手下七人」とあり。天保13年(1842)2月の同書上には"木下川久兵衛"の名は無い。明治2年(1869)の弾左衛門の調査では、非人8人、野非人30人。 明治政府の意向で東京市中の皮革業者の強制移転先となった後、戦争特需で潤い、血縁や地縁を頼って特に滋賀県の部落からの流入が進行[122]。弾直樹の四男の弾慎平(矢野慎平、矢野祐之助とも)が、この地区で製革工場「東京皮革製造所」を営んでいた。声優の横山智佐の実家兼事務所「バンビーナ」が東墨田三丁目にある。 |
〃 北多摩郡 府中町 | 谷戸 | 一六 | 八〇 | 農業 | 〃 | 〃 | 府中市 清水が丘 3丁目 | 古名金尻村。東郷寺の北側の「かなしい坂」は旧村名が由来。弾左衛門役所から発せられた文書の廻し順を示す『寛政元年(1789)五月廻状順覚』によれば、金尻村の小頭名は"半左エ門"。 同3丁目に池田姓7件、古川姓16件。2000年電話帳。 |
〃 昭和村 | 上組 | 二一 | 一〇六 | 〃 | 〃 | 〃 | 昭島市 宮沢町 2丁目 | 1928年に昭和村の大字として宮沢が成立。1941年には昭和町の大字となる。宮沢から宮沢町に改称したのは1954年。 |
〃 谷保村 谷保 | 下組 | 二〇 | 一五八 | 〃 | 〃 | 〃 | 国立市 谷保 字一本松 | 宮瀧順子・部落解放同盟国立支部支部長は「今そこには、「同和」対策事業の一環として建てた「下組公会堂」がありますが、私が小学校一、二年くらいまでは、狭山事件に出てくる荒神様のような感じでまつられていました。下組公会堂を建てる際に白山様をすこし動かして、その後に現在の公会堂が建てられました。」と、「谷保下組公会堂」(東京都国立市谷保4133-11)周辺が同和地区だと暴露している。[123]弾左衛門役所から発せられた文書の廻し順を示す『寛政元年(1789)五月廻状順覚』によれば、谷保村の小頭名は"嘉左衛門"。 杉本姓17件。2000年電話帳。俗称「杉本部落」。 |
〃 久留米村 下里田無飛地 | 西村 | 二六 | 一八〇 | 〃 | 〃、日傭 | 〃 | 東久留米市 下里 | 弾左衛門役所から発せられた文書の廻し順を示す『寛政元年(1789)五月廻状順覚』によれば、下里村の小頭名は"四郎兵衛"。 西山姓21件。2000年電話帳。 |
〃 東村山村 野口 | 中ノ通 | 四三 | 二七二 | 草履表製造 | 農業 | 〃 | 東村山市 久米川町 4、5丁目、諏訪町 1、2丁目 | 1964年に野口の一部から諏訪町が成立。同年に久米川は久米川町に改称。元々南北に500m程離れた二つの地区(上宿と西宿)を更に西武新宿線が東西に分断している。旧鎌倉街道沿いの白山神社(久米川町4-41-2)周辺と線路を挟んだ反対側が"上宿"。又、東村山諏訪郵便局(諏訪町1-21-10)の前は"西宿通り"である。 久米川町と諏訪町に東原姓3件、栗原姓17件、小田井姓5件、木下姓21件、北久保姓5件、竹内姓3件、山下姓5件。2000年電話帳。 |
〃 砧村 喜多見 | 下宿 | 二二 | 二一〇 | 農、日傭 | 草履表製造 | 〃 | 世田谷区 喜多見 5丁目 | 世田谷区史料 第四集収録の『広田家文書』によれば、文化12年(1815)の地誌の写しとして「穢多 拾三軒 人数 男三拾四人 女三拾九人 合七拾三人 是ハ延宝六午年(1678)喜多見若狭守様当村内御檢地之節、(中略)右穢多共ニ者相勤させ(後略)」と記載。 喜多見5-3付近にバス停「下宿」あり。同5-3には、旧白山神社(現稲荷神社)もある。 同5丁目に小島姓9件、宮本姓8件。2000年電話帳。 |
〃 国分寺村 国分寺 | 下村 | 二四 | 一三二 | 農業 | 製革 | 〃 | 国分寺市 東元町 1丁目 | 東元町1-29-20の平安神社が旧白山社。 埼玉県所沢市から移転して成立した部落といわれる[124]。本田豊によると「近世には、その職業が『鉦(かね)打ち』であったらしい。今もその職業を思わせる名字をなのっている」という[125]。この記述は埼玉県所沢市の地区に多い"金子姓"を指す。 東元町1丁目に榎本姓5件、金子姓20件、椙本姓6件、西本姓5件、入口姓1件。2000年電話帳。同2丁目の金子姓は土着の"一般"。 |
〃 拝島村 | 第六區 | 二四 | 一五九 | 〃 | 草履表製造 | 〃 | 昭島市 拝島町 | 地区名は下村とも[126]。『新編武蔵国風土記稿(天保年間)』記載では、拝島村の東、小名"下"に「穢多居住をなせり、戸数十七軒ばかりあり」。弾左衛門役所から発せられた文書の廻し順を示す『寛政元年(1789)五月廻状順覚』によれば、拝島村の小頭名は"五良(ママ)左衛門"。 |
〃 多摩村 是政 | 神尺 | 九 | 六九 | 〃 | 荷馬車挽 | 〃 | 府中市 是政 2丁目 | 多摩村は多磨村の誤記。神尺の読み方はシンジャク。同2丁目に篠塚姓14件。2000年電話帳。 |
部落所在地 | 部落名 | 戸数 | 人口 | 主業 | 副業 | 生活程度 | 現在地 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
南夛摩郡 夛摩村 字連光寺 | 船ヶ台 | 四八 | 三二四 | 農業 | 草履表製造 | 下 | 多摩市 連光寺 | 舟ヶ台とも表記[127]。字"船郷"とも。天保14年(1843)の村明細帳で20戸余(90人余)。 天保年間の『新編武蔵国風土記稿』記載では「家数十八軒あり。語り伝へに此の穢多、昔は村民忠右衛門(連光寺村初代名主、富澤忠岐の通称)が屋敷にありて、その所を守り居しが、慶長三年(1598)検地ありしとき、當所にて十五石の地をのぞき與へられしゆえ移り住せり」。 弾左衛門役所から発せられた文書の廻し順を示す『寛政元年(1789)五月廻状順覚』によれば、船郷村の小頭名は"作兵衛"。 萩原家(萩山より移住)、長沢家(菅生村長沢より移住)は、同村名主富沢家により一帯の森林警備の山番を任され、農作も営んだ。年貢米を納める他、山番という職務故、名主と弾左衛門の二重の支配下にあった。明治新姓時に出身地から創姓したという[128]。 長沢(澤)姓29件、萩原姓41件。2000年電話帳。地区内には称名寺(府中市宮西町1-9-1。時宗)の墓地がある。 |
〃 堺村字 相原 | 中ヶ谷戸 | 六 | 三八 | 農業 | 草履表製造 | 下 | 町田市 相原町 | 境川沿いの白山社(相原町770)周辺を"中ヶ谷戸"と呼称した(『堺村誌』)。 白山社付近に川端姓が5件。2000年電話帳。 境川を挟んだ元橋本町側(神奈川県)にも川端姓。これが"高座郡相原村橋本前村"の地区に当たるのかどうか不明。この境川を武蔵・相模の国境と定めたのは、文禄3年(1594)の太閤検地によるものと言われている。 |
〃 町田町 本町田[129] | 下村 | 一四 | 八〇 | 農業 | 藁細工 | 下 | 町田市 本町田 | 別名、下地区。菊池山哉は『長吏と特殊部落』第1巻87頁で「古くは六軒だったので、六軒村と称して居った」と伝えている。35.558985, 139.454681付近。前田姓25件。2000年電話帳。 |
〃 稲城村 矢野口 | 中島 | 一四 | 九三 | 農業 | 草履表製造 | 下 | 稲城市 矢野口 | 本田豊は「稲城市矢野口の場合、城の名前と部落内の姓が同一である」と記している[130]。稲城市矢野口、神奈川県川崎市多摩区菅仙谷に戦国時代まで"小沢城"があった。 小沢姓32件、小澤姓9件。2000年電話帳。 |
〃 忠生村 下小山田 | 南沢又ハ小沢谷戸 | 一一 | 七八 | 農業 | 草履表及毛皮製造 | 下 | 町田市 下小山田町 | 小丸俊雄による嘉永三年(1850)の古文書からの採集によれば、多摩郡小山田村の小頭名は"源右衛門"。『忠生村誌(1963年)』の記載では「(上根神社に合祀された白山社は)享保4年(1719)9月創建。宝暦9年9月再建し小名"南沢"にあって、"小沢"家の守り神」。今昔マップで見る限り、旧忠生村"南澤"は下小山田町が小山田桜台1丁目に接する辺りか。 同町3368番に小沢姓7件。小冷(こびえ)姓[131]6件。2000年電話帳。 |
〃 由井村 小比企 | 一九 | 九七 | 農業 | 藁製品草履表製造 | 下 | 八王子市 小比企町 | 地区名は下村とも[132]。 | |
〃 元八王子村下一分方 | 福岡 | 一四八 | 七八七 | 履物表、靴、竹細工製造、農業、日雇 | 履物表、竹細工製造 | 下 | 八王子市 泉町 | 下壱分方とも表記。柳田國男は「茶筅及びサヽラ(毛坊主考の七)」の中で「武蔵の南多摩郡元八王子村下一分方字四ツ谷の中に、茶筅村と唱ふる一区あり、之に住するは非人であつた(新選武蔵風土記稿)」と述べている。 泉町会館(柏木豊次郎邸跡)敷地内設置の石碑「先覚之碑」に「山上卓樹、山口重兵衛、奥田兵助、宮崎豊吉、青木松兵衛、武藤勘次郎(村長)、柏木豊次郎(山口重兵衛の兄)、山上卓三(山上卓樹の弟)」の名が"先覚者八氏"として刻まれている。石碑は橋本義夫氏の建碑運動により1957年に建てられた。 青木姓5件、岡村姓3件、奥田姓9件、橋本姓4件、宮崎姓4件、武藤姓1件、山上姓6件、山口姓10件、山中姓10件。西野姓2件。2000年電話帳。 |
西多摩郡 霞村 藤橋 | 久保 | 六二 | 四八〇 | 履物及同表製造 | 農業 | 下 | 青梅市 藤橋 | 『新編武蔵国風土記稿(天保年間)』記載では「村内久保といへる所に穢多の居處あり。凡そ三十軒」。藤橋2丁目、3丁目に分布。青梅市今井と隣接。 明治10年(1877)の『内国勧業博覧会出品目録』に、木綿織筬の出品者として"新條仙蔵"、絹織筬の出品者として"新條斧吉、同貞市"の名が確認できる。関東水平社聯盟(群馬県新田郡)機関紙『自由』の発行元である自由社の霞村支局に谷本光がいた[133]。 小林姓18件、新条姓5件、藤本姓4件、藤原姓14件。谷本姓2件。2000年電話帳。 |
〃 霞村 今井 | 水窪 | 三一 | 二七五 | 履物及同表製造 | 農業 | 下 | 青梅市 今井 | 今井2丁目、3丁目が分布の中心。青梅市藤橋と隣接。 明治10年(1877)の『内国勧業博覧会出品目録』に、雪駄表の出品者として"藤原奥次郎"、駒雪駄表の出品者として"藤原庭造"の名が確認できる。 小林姓18件、藤本姓7件、藤原姓11件。2000年電話帳。 |
計一八 | 二〇 | 一三七八 | 七二四八 |
※1941年5月現在の「東京都同和地区調」では浅草区と荒川区にも同和地区があることを記しつつ、人口戸数や職業、一般との婚姻状況、宗教について、いずれも「調査不能」「不詳」としている[134]。前者は現在の台東区今戸、後者は荒川区荒川八丁目のこと。また東京府社会事業協会『東京府融和事業要覧』(1938年4月)は『全國部落調査』の上記の統計を引用しつつ「なお前掲の地区は、現在、本府に於て融和事業の対象地区として各種の施設を施行しつつあるもののみにして、これ等のほか、浅草区今戸町(旧名亀岡町)、同花川戸、荒川区三河島等に数百戸に及ぶ混住地区の存することは、周知の通りである。また葛飾区の青砥、板橋区の上赤塚をはじめ、府下には十戸前後の地区が数ヵ所存在しているが、これ等は多く混住地区であって、融和事業の対象地区として特別の取扱をなすことの不適当なるもののみである」と述べている[135]。
『物語でつづる部落の歴史』
高山秀夫『物語でつづる部落の歴史』(文理閣、1977年)194頁の「東京の部落分布図(多数解消したところあり)」によると、東京都における市区町村別の被差別部落の数は以下の通りである。出典は不詳だが、
- 秋多町という自治体があったのは1955年4月1日から1972年5月5日までであること。
- 狛江村に町制が施行されたのは1952年11月10日であること。
- 由木村が八王子市に編入合併されたのは1964年8月1日であること。
- 多摩村に町制が施行されたのは1964年4月1日であること。
以上の点から、自治体によって調査年はまちまちであること、およそ1950年代から1960年代の数値であることが推測できる。
区部
- 文京区 - 4
- 新宿区 - 3
- 世田ケ谷区(ママ) - 3
- 港区 - 2
- 杉並区 - 2
- 荒川区 - 2
- 葛飾区 - 2
- 墨田区 - 2
- 江東区 - 2
- 品川区 - 2
- 大田区 - 2
- 練馬区 - 2
- 渋谷区 - 1
- 中野区 - 1
- 板橋区 - 1
- 足立区 - 1
- 千代田区 - なし
- 中央区 - なし
- 台東区 - なし(今戸が無視されているのは不審だが、解消した地区とみなしたのか)
- 目黒区 - なし
- 豊島区 - なし
- 北区 - なし
- 江戸川区 - なし
多摩地域
市部
- 八王子市 - 49
- 町田市 - 26
- 府中市 - 5
- 昭島市 - 3
- 日野市 - 3
- 東村山市 - 2
- 調布市 - 2(上布田宿。弾左衛門役所の『寛政元年(1789)五月廻状順覚』によれば、布田村の小頭名は"重左エ門"。『新編武蔵国風土記稿』に「村南にエタ住居、戸数二」とある)
- 立川市 - 1(柴崎町4丁目。弾左衛門役所の『寛政元年(1789)五月廻状順覚』によれば、立川村の小頭名は"七左衛門")
- 武蔵野市 - なし
- 三鷹市 - なし
- 小金井市 - なし
- 小平市 - なし
郡部
- 青梅町 - 26
- 由木町(ママ。正確には由木村に町政が施行されたことはない) - 15
- 五日市町 - 14
- 村山町 - 9
- 奥多摩町 - 9
- 大和町 - 8
- 多摩村 - 6
- 秋多町 - 6
- 日の出町 - 4
- 清瀬町 - 4
- 国分寺町 - 4
- 瑞穂町 - 4
- 福生町 - 3
- 久留米町 - 3
- 国立町 - 2
- 保谷町 - 2
- 稲城町 - 1
- 羽村町 - 1
- 田無町 - 1
- 桧原町(ママ。正しくは檜原村) - 1
- 狛江村 - 1
島嶼部
記載なし
施設等
隣保館
- 本木隣保館(現存せず)- 足立区本木町1-876。
- 和田堀隣保館・和田堀母子寮(方南隣保館保育園・母子生活支援施設スタルト方南の前身)- 杉並区方南1-4-7。大正14年5月11日開設。[136]
- 王子隣保館(王子隣保館保育園の前身)- 北区王子2-19-21。大正13年10月1日開設。
- 尾久隣保館(尾久隣保館保育園の前身)- 荒川区町屋6丁目28−11。大正14年7月15日開設。昭和6年4月、尾久父子ホーム開設。
- 八王子隣保館(八王子村隣保館保育園の前身)- 八王子市叶谷町1133。昭和14年10月1日開設。松本治一郎の演説会が行なわれたことあり[137]。
- 大井隣保館(現存せず)- 荏原郡大井町鎧ヶ淵3603(現・品川区)。大正14年1月15日開設、昭和20年閉鎖。
- 大島隣保館(現存せず)- 南葛飾郡大島町2-733(現・江東区)。大正14年5月4日開設、昭和20年3月焼失。
- 練馬隣保館(現存せず)- 練馬区南町5(部落解放同盟練馬支部が同居する「練馬区役所 厚生文化会館 - 練馬区練馬4-2-3」の前身)。昭和12年6月1日開設。「この隣保館は昭和13年、全国水平社松本委員長の努力により当時内務省が融和政策として部落改善事業の一部として建てた施設です」(『部落問題研究』1970年3月号68頁)。事業対象地域には練馬南町の他、仲町・春日町・向山町・中新井町・中村町などを含んでいた[138]。
- 南千住隣保館(現存せず)- 荒川区南千住6—192。大正12年5月1日開設、昭和20年3月9日焼失。
- 隅田川水上隣保館(現存せず)- 荒川区南千住10—4。昭和4年開設。
- 霞村隣保館(現存せず)- 西多摩郡霞村(現・青梅市)。昭和13年7月9日開設、昭和37年3月31日廃止、青梅市へ移譲。
白山神社
- 練馬区練馬4-2(旧南町5-6744、古くは下練馬村谷戸谷戸山。『北豊島郡神社誌』記載では、氏子区域は「練馬町字谷戸山、谷戸、出頭、谷戸前、栗山の一部(板橋区練馬南町五丁目全部及同四丁目一部)五百戸」)
- 練馬区大泉町5-15-5(大泉氷川神社の境内社)
- 練馬区北町8-22(大松氷川神社の境内社)
- 多摩市落合2-2-1
- 多摩市連光寺6-6-11
- 北区堀船3-11-3
- 北区赤羽北3-1(現在は合祀されて諏訪神社)
- 北区岩淵町22(現在は合祀されて八雲神社)
- 国分寺市東元町1-29-20(創建年代等は不詳。白山社と称し、嘉永元年(1848)に再建され、昭和21年に平安神社と改称。祭神は菊理媛命。石川一雄は14歳の時、国分寺にあった靴屋「石川靴店」(母の兄が経営していた)に住み込み奉公していたことがある)[139]
- 稲城市大丸841(大麻止乃豆乃天神社。大丸882付近の白山神社を合祀)
- 稲城市矢野口394
- 稲城市百村159
- 国立市谷保6015(現神明宮。旧白山神社)
- 国立市谷保4130
- 小平市小川町1-2573(小平神明宮。境内社として白山神社を祀る)
- 小平市仲町361(小平熊野宮。境内社として白山神社を祀る)
- 文京区白山5-31-26
- 清瀬市下宿3-1383-2
- 清瀬市中清戸2-616(現在は合祀されて日枝神社水天宮)
- 西多摩郡日の出町大久野2281
- 東久留米市下里2-8付近 (現存せず。下里2-9の氷川神社に合祀)
- 東久留米市大門町1-3-4(現在の浄牧院、白山秋葉相社)
- 東村山市久米川町4-41-2
- 東大和市芋窪1-2067(祠のみ、豊鹿嶋神社境内)
- 西東京市住吉町1-2-12(東禅寺。大門の外に白山社あり)
- 小金井市梶野町2-7-5(現在の長昌寺。門を入って左に境内の鎮守として白山社があったが現存せず)
- 町田市下小山田町898(下小山田村字大沢の宮ケ腰に鎮座。祭神は志良屋満比売命。『新編武蔵風土記稿』によれば下小山田町1336の萬蔵寺持ちとの事)
- 町田市下小山田町332-13(上根神社。南沢の白山社他数社を合祀の上、1965年に創建、2004年現在地へ移転。南沢白山社は享保4年(1719)9月創建、伝小沢家持ち)
- 町田市小山町3070付近(小山白山神社跡。小山白山公園の南西部シイノキ付近)
- 町田市相原町770
- 町田市図師町1854(合祀されて熊野神社となる)
- 町田市本町田802(35.558990, 139.454678付近に白山神社があったが、合祀されて菅原神社となる)
- 町田市大蔵町2177(慶性寺。寺院背後の滝の上の高丘に古くより慶性寺持ちの白山社があった)
- 町田市大蔵町2822(春日神社。1910年に打越の白山社他七社を合祀)
- 町田市広袴2-14-23(妙全院。境内に天照太神宮白山権現社あり)
- 町田市原町田1-8-13(宗保院。境内鎮守本堂の前に白山社あり)
- 町田市高ヶ坂7-15-1(祥雲寺。本堂の正面に白山社あり)
- あきる野市戸倉字坂下819
- 八王子市泉町1287(明治期に廃社、現在のカトリック泉町教会の場所[140])
- 八王子市片倉町1040付近(釜貫白山神社)
- 八王子市片倉町944(現在の慈眼寺。境内の鎮守として山門の外に白山妙理権現社がある)
- 八王子市川口町392付近(別所) (長楽寺境内)
- 八王子市越野(現存せず。帝京高校付近に存在したが、越野750の日枝神社に合祀)
- 八王寺市小門町
- 八王子市小比企町仲居
- 八王子市小比企町1201(合祀されて小比企稲荷社となる)
- 八王子市子安(現存せず。八王子市明神町4-10-3の子安神社に合祀)
- 八王子市中山806
- 八王子市楢原町(現存せず。明治橋付近に存在したが、楢原町815の日枝神社に合祀)
- 八王子市廿里町48-1
- 八王子市下恩方町
- 八王子市堀之内547(保井寺付近に存在した)
- 八王子市四谷町
- 八王子市打越町(現存せず。1910年に町田市大蔵町2822の大蔵春日神社に合祀)
- 八王子市下柚木4(永林寺。山門の西に白山社あり)
- 八王子市初沢町1425(高乗寺。客殿と相対して白山社あり)
- 目黒区自由が丘3-6-14(社号標は1969年8月に、現社殿は1991年5月に完成。同区八雲1-9-11の東光寺内白山堂を分離、現在地に祀られたと推定される)
- 目黒区八雲1-9-11(東光寺境内に白山堂あり)
- 港区高輪1-21-10(丸山神社。祭神の一つが白山吡咩命)
- 大田区西六郷2-23-14(『新編武蔵風土記稿』によれば、隣接する薬王寺には、社と祠の二社の白山権現があったとの事)
- 大田区東嶺町31-17
- 大田区大森東4-35-3(三輪厳島神社。字"川端"の白山権現を明治42年(1909)に合祀。『新篇武蔵風土記稿』記載は「穢多村 西大森村の内"川端"厨子(辻)にあり。家数12軒。田数1段3畝21歩。白山権現の祠あり」。"川端"は自治会に名が残る。三輪厳島神社の氏子は大森中1-22、大森中2-13~17、大森中3-7、大森東4-19、29(共に一部)、同4-30~41、大森南1-3に広がっている)。
- 大田区石川町2-11(現存せず。村民孝右衛門持の白山社。石川町1-20-1の石川神社に合祀)
- 大田区西蒲田6-22-1(女塚神社の境内社。女塚神社は元八幡社。1888年にJR蒲田駅東口付近から現社地に遷座し改称。境内の白山社は、西蒲田5-12-1に所在したとされる「白山明神塚」に祀られていた祠を合祀したとも。『大田区の文化財第30集』では祠の由来について、「昭和50年頃まで西蒲田5-12と13の接するところに白山橋があり、(中略)この橋は中世にもあって、(中略)橋の番人がいて、白山明神はその人たちの守護神で橋の付近にあったのではないか?今橋は暗渠になって橋はない。」と記載)
- 大田区西糀谷4-9-17(西仲天祖神社の境内社)
- 大田区南馬込1-49-1(萬福寺。客殿の南に秋葉白山聖天合社)
- 大田区羽田6-13-8(玉川弁財天の小祠本社の西に白山社あり。相州大磯宿小頭古文書『助左衛門文書』の記載によれば、嘉永3年(1850)の羽田村の小頭名は"平右衛門")
- 府中市清水が丘3-6
- 府中市是政2-22-9(現存せず。2009年以降に、40m程東側の是政2-28に移設か)
- 江戸川区松江4-15-8
- 調布市布田5-32(白山宮神社。氏子地区は旧称"上布田・南山谷"。主祭神は白山比咩命)
- 調布市小島町2-3(現在の地守神社。旧小島町第四区。社の周囲の杉本姓3軒、斉藤姓2軒で共同祭祀)
- 調布市西つつじヶ丘2-14-1(金龍寺。門の東に白山妙理大権現社あり)
- 調布市深大寺元町5-15付近(白山権現祠のみ、深大寺境内)
- 杉並区成田東2-2-2
- 杉並区上荻1-21-7(荻窪白山神社。文明年間(1469-1486)関東管領上杉顕定の家来中田加賀守が、屋敷内に五社権現社を奉斎、後年当地に社殿を建てたと伝わる)
- 杉並区阿佐谷南2-4(現在は合祀されて馬橋稲荷神社)
- 杉並区永福1-24-6(永福稲荷神社の境内社)
- 杉並区高井戸西1-7-2(第六天神社の境内社)
- 杉並区大宮2-3-1(大宮八幡宮の境内社)
- 杉並区今川2-16-1(観泉寺の本堂の西南方に秋葉白山稲荷合社)
- 新宿区大久保1-16-15(全龍寺の境内)
- 新宿区百人町1-5-2(長光寺の境内)
- 渋谷区代々木5-1(代々木八幡宮に合祀。元の白山社の所在地は渋谷区代々木2-44近辺=後述)
- 渋谷区広尾2-5-11(東北寺の境内)
- 渋谷区千駄ヶ谷2-35-1(瑞円寺の境内にあった)
- 世田谷区南烏山2-21-1(烏山神社。祭神は白山比咩大神他。創建年代不詳。江戸時代以来、烏山村の鎮守社と伝わる。昭和7年に白山神社から白山御嶽神社へ改称、昭和37年に町内の数社を合祀、現社名となる。白山神社の頃からの氏子である下山家、杉田家、志村家は、開幕以来の当地の地頭名主、もしくは土着旧家でもあり、当社が"一般"の村の鎮守社であることが判る)
- 世田谷区奥沢5-22-1(奥沢神社。旧玉川奥沢町3-78の白山神社を合祀)
- 世田谷区喜多見5-3-21(喜多見稲荷神社。創建不詳。祭神は推定で宇迦之御魂神。鳥居は明治36年(1903)の建立)
- 世田谷区宮坂2-1-11(常徳院持ち白山)
- 世田谷区豪徳寺2-24(豪徳寺持ち白山)
- 世田谷区桜1-26(勝光院持ち白山)
- 昭島市宮沢町2-1-14(白山神社跡。1968年に宮沢町2-35の諏訪神社に合祀)
- 昭島市宮沢町2-35(諏訪神社。1968年に宮沢町2-1-14の白山神社を合祀)
- 昭島市田中町2-10-13(田中稲荷神社の境内社)
- 昭島市拝島町5-2-37(龍津寺。本堂の南の方に境内の鎮守として白山社あり)
- 狛江市元和泉1-6-1(泉龍寺。表門の右の傍に境内の鎮守として白山社あり)
- 品川区東大井1-20-10(鮫洲八幡神社。1929年に白山を合祀)
- 品川区東大井4-5(現存せず。本覚寺持ちで、旧"仙台坂"、別名"くらやみ坂"下にあった。1929年に鮫洲八幡神社に合祀)
- 品川区北品川2-30-28(荏原神社の末社の祭神の一つが白山姫命)
- 台東区清川2-13-20(合祀されて玉姫稲荷神社となる)
- 台東区今戸1-5-22(今戸神社。今戸2-11-10の白山神社を合祀)
- 台東区今戸2-11-10(現存せず。今戸1-5-22の今戸神社に合祀)
- 台東区東上野5-5-21(龍谷寺。境内に白山権現が祀られている)
- 墨田区立花1-13-10(明源寺境内)
- 豊島区巣鴨5-32-5(白泉寺。境内に白山権現が合社されている)
- 豊島区駒込7-1-1(泰宗寺。境内に白山権現が合社されている)
- 葛飾区亀有3-42-24(亀有香取神社の境内社)
- 葛飾区青戸6-37-5付近(現存せず。旧青戸町4丁目に鎮座。昭和18年(1943)に青戸7-34-30の青砥神社に合祀)
- 葛飾区青戸7-34-30(青砥神社。昭和18年(1943)に旧青戸町4丁目、現青戸6-37-5付近の白山神社を合祀)
- 葛飾区東水元2-41-1(香取神社の境内社)
- 板橋区赤塚4-22(氷川神社。同4-33付近の白山神社を合祀)
- 板橋区赤塚8-3(赤塚の名の元となった塚に白山社と神明社が祀られていた)
- 板橋区西台3-32-26(円福寺の境内社)
- 青梅市藤橋2-571(現藤橋八雲神社)
- 青梅市吹上385(宗泉寺の境内社)
- 青梅市勝沼2-531(石動神社の境外社)
- 青梅市黒沢3-1578(聞修院の境内社)
- 武蔵野市吉祥寺本町1-11-26(月窓寺。客殿の正面に稲荷龍天白山相殿あり)
- 三鷹市新川4-4-22(春清寺。境内の鎮守に白山権現あり)
その他、『江戸東京重ね地図』の江戸古地図には
- 豊島郡代々木村、寄合中根恵之丞の屋敷の東南隣(現在の渋谷区代々木2-44近辺)に村持の白山社(現在は合祀されて代々木八幡)
- 豊島郡前野村(現在の板橋区前野町3-46-1パークサイド見次近辺)に村民持の白山社(現在は合祀されて熊野神社)
が記載されている。
また町田市金井2丁目25に「金井白山公園」があるが、白山神社との関連は不明。その他、下記の位置に白山公園がある。
- 東久留米市滝山7-24
- 町田市小山ヶ丘5丁目4(小山白山公園)
人権啓発センター
- 東京都人権啓発センター - 東京都台東区橋場1丁目1-6
- (財)人権教育啓発推進センター - 東京都港区芝大門2丁目10−12 KDX芝大門ビル 4F
解同が解放センターと考えている施設[141]
- 墨田区社会福祉会館 - 東京都墨田区東墨田2丁目7−1
- 練馬区役所 厚生文化会館 - 東京都練馬区練馬4丁目2−3
このほか、荒川区立荒川さつき会館(東京都荒川区荒川8丁目16-13)にも解放同盟荒川支部が不法に入居していたことがあり[142]、この会館は同和対策事業の残骸であると指摘されている[143]。現在さつき会館は上川多実が一員である「BURAKU HERITAGE」の交流会に利用されている。[144] また、東京都足立区竹の塚3丁目8-1の保木間公園の「同和対策協議会連絡事務所」を解放同盟足立支部が不法占拠していたこともある[142]。さらに東京都葛飾区奥戸7丁目19-3の「仮奥戸集会所」を、解放同盟に屈した区が支部事務所として提供し、電気・ガス・水道・電話料金から郵便受けの購入費、ガラスの修理代まで全て区税負担(現在も)。1970年代には、6年間で解放同盟が約1億3千万円もの同和予算を独占した。
解放住宅
- 都営東墨田二丁目アパート - 東京都墨田区東墨田2-7(解放同盟は、このアパート69戸のうち、立ち退き用13戸を除く56戸全てに同盟員を入居させるよう集団で都庁に乱入し脅迫的な交渉で認めさせた。この年の都営住宅の入居倍率は1626倍であり、一般都民とかけ離れた特権で解同は入居した)
- 都営高砂団地 - 東京都葛飾区高砂4-4(解放同盟はこの団地に同和地区出身でもない人間を「同和地区出身者」と偽って大量に入居させたことがある。このことは解放同盟葛飾支部の元幹部の大字も証言している)
- 都営橋場二丁目アパート - 東京都台東区橋場2丁目16ほか(解放同盟から「同和地区出身者」と認定されて特権的に入居した世帯の中には、元外国籍の世帯もあった。これを受けて東京都は異例の抗議文書を解放同盟都連に送付した)
関連団体
- 部落解放同盟中央本部 - 東京都港区六本木3丁目5−11 → 東京都中央区入船1-7-1
- 部落解放同盟東京都連合会 - 東京都台東区今戸2-25-3 03-3874-7311
- 部落解放同盟東京都連合会足立支部 - 東京都足立区本木2丁目26-3 03-5681-0814
- 部落解放同盟東京都連合会荒川支部 - 東京都荒川区荒川8丁目1-6 03-3803-4074
- 部落解放同盟東京都連合会葛飾支部 - 東京都葛飾区奥戸7丁目19-3 03-3696-7050[142]
- 部落解放同盟東京都連合会江東支部 - 東京都江東区毛利1丁目
- 部落解放同盟東京都連合会品川支部(現存せず) - 東京都品川区南大井5丁目2-17 03-3762-7117(解同品川支部による『いばら 10年のあゆみ』奥付には03-762-7175とある。同じ番地に「品川区役所人権啓発課同和生活相談」としても登録あり[142])
- 部落解放同盟東京都連合会江戸川支部(現存せず)
- 部落解放同盟東京都連合会港支部(1961年結成、現存せず)[145]
- 部落解放同盟東京都連合会墨田支部 - 東京都墨田区東墨田2丁目7-1 03-3614-1903[142]
- 部落解放同盟東京都連合会台東支部 - 東京都台東区今戸2丁目8-5 03-3874-7311(以前は東京都台東区今戸1丁目3-6の台東区立今戸児童館3階の「台東区同和対策協議会連絡事務所」にあった)[142]
- 部落解放同盟東京都連合会練馬支部 - 東京都練馬区練馬4丁目2-3 厚生文化会館内
- 部落解放同盟東京都連合会国立支部
- 部落解放同盟東京都連合会府中支部(現存せず)
- 部落解放同盟東京都連合会八王子支部 - 東京都八王子市泉町1324 西野由雄方 0426-22-2460
- 自由同和会中央本部 - 東京都千代田区平河町2-3-2
- 自由同和会東京都本部 - 東京都中野区大和町3-7-3 マルヤビル3F
- 自由同和会東京都連合会 - 東京都墨田区東向島2-13-12-203
- 全日本同和会東京都連合会 - 東京都中央区日本橋小網町1番5号401
- 全日本同和会全国本部 - 東京都千代田区永田町2-17-10 サンハイム永田町503号室
- 東京都部落解放運動連合会・全国部落解放運動連合会 - 東京都台東区浅草6-30-3(現在の人権連)
- 東京人権連 - 東京都荒川区南千住2-16-6
- 部落解放同盟全国連合会江戸川支部 - 東京都江戸川区新堀2-6-11-202
- 部落解放同盟全国連合会杉並支部(のち全国水平同盟杉並支部となる) - 東京都杉並区久我山1-8-420
- 部落解放同盟全国連合会品川支部(のち全国水平同盟品川支部となる)
「部落解放同盟関東連合会」が東京都港区虎ノ門3丁目18-6にあるものの、行政対応していない泡沫団体。部落解放同盟との関係は不明。
「全国新同和連合会関東統括本部」が東京都文京区大塚4-51-3 21宮廷ビルにあるものの、行政対応していない泡沫団体。全日本同和会や自由同和会との関係は不明。
東京府水平社は、浅草、練馬、府中、八王子、国立の5支部350名で発足し、後に青梅、稲城、多摩、木下川などの部落も運動に参加した[146]。「三多摩の水平社同人は、霞水平社の他八王子、府中、多摩等に散在していた。三多摩の被差別部落は霞、八王子をのぞき10戸前後の少数点在部落である」と『いばらと鎖からの解放: 東京水平社と皮革産業労働者』57頁にある。
太鼓店
- 武蔵屋太鼓店 - 東京都府中市是政5丁目19−1
- 菅沼太鼓店 - 東京都八王子市元本郷町3丁目11−9
- (株)宮本卯之助商店 西浅草店 - 東京都台東区西浅草2丁目1−1(創業は茨城県土浦で1861年であり、1893年に浅草聖天町に店を構えた[147])
- 株式会社岡田屋布施 - 東京都台東区雷門1丁目16ー5
- (有)南部屋五郎右衛門 - 東京都台東区元浅草2丁目10−10
- 畑元太鼓店 - 東京都大田区新蒲田2丁目6−3
- 一香堂神輿太鼓店 - 東京都小平市花小金井5丁目6−10
- 松島太鼓・神輿店 - 東京都杉並区井草5丁目10−29
出典
- ↑ 留岡幸助「特種部落と其人口」(『人道』69号所収、1911年刊。1907年調査)
- ↑ 内務省社会局「全国部落統計表」(内務省社会局『部落改善の概況』所収、1922年刊。1921年調査)
- ↑ 帝国地方行政学会『地方行政年鑑』1922年(『近代部落史資料集成』第10巻6-7頁)
- ↑ この帝国地方行政学会『地方行政年鑑』1922年の統計は1919年1月調の内務省社会局「細民部落概況」と同じデータであるが、「細民部落概況」の備考には「東京府ハ豊多摩、西多摩、南多摩、南葛飾、北豊島五郡内及東京市深川区内ニ於ケルモノヲ計上セリ、其ノ也(ママ)ハ本表調製ノ際報告未達ニ付之ヲ省ク」(『近代部落史資料集成』第7巻57頁)とあり、東京府(東京都)の全ての部落を網羅しているわけではないことに注意の必要がある。
- ↑ 中央融和事業協会『全国部落調査』(1936年刊。1935年調査)
- ↑ 『部落問題・水平運動資料集成』補巻2、2170-2173頁「東京都同和地区調」。ただし浅草区と荒川区の同和地区を除外した数値。
- ↑ 同和奉公会『産業調査報告」(1943年刊。1942年調査)
- ↑ 厚生省よりGHQ民間情報教育局に提出された報告(『資料・占領期の部落問題』所収、1991年刊)
- ↑ 本田豊『神奈川県の被差別部落』193頁
- ↑ 本田豊『白山神社と被差別部落』120頁
- ↑ 本田豊『部落史からみた東京』27頁
- ↑ 本田豊『部落史からみた東京』76頁
- ↑ 本田豊『部落史からみた東京』30頁
- ↑ 本田豊『部落史からみた東京』27頁
- ↑ 東京新聞は以下のように報じている。
尚絅学院大の内田龍史准教授(社会学)は「江戸にはニ百四十八カ所の被差別部落があったようだ。しかし都は、関東大震災や空襲で街が破壊されたとし、全国の自治体で唯一、同和地区を指定しなかった」と解説する。東京以外の自治体は、一九六九年の同和対策事業特別措置法制定と前後し、被差別部落を同和地区に指定して、住環境の改善などに取り組んだ。その結果、多くの被差別部落が可視化された。差別の固定化につながりそうだが、内田准教授は「研究の結果、部落の出身者と知って普段から接触がある人の方が、接触のない人よりも『部落は恐い』といった偏見は信じにくいことが分かった」と言う。「逆に可視化されない場合、差別を受けた本人が、部落出身だと周囲に知られるのを恐れ、被害を訴えられない。この問題は『寝た子を起こすな』式に黙殺していても解決しない」
勿論同和地区指定をしなかった都道府県は他にもあり、これは明白な誤りであるが、東京新聞の誤報によるものか、内田龍史の誇張によるものかは定かでない。何れにせよ内田龍史が被差別部落を可視化したがっていることは確かである。このように内田龍史の意志は同和地区Wikiと同じであり、被差別部落を可視化は同和地区Wikiにより実現されつつあるが、その内田が同和地区Wikiを提訴した上川多実と活動を共にできる理由は不明である。
- ↑ 『国民融合通信 No.52』(国民融合をめざす部落問題全国会議、1978年)13-14頁
- ↑ 『部落解放第695号』(解放出版社)41〜42頁
- ↑ 墨田区東墨田については寛政12年(1800年)の弾左衛門の文書に「木下川の非人頭久兵衛、手下七人」とあるため、長谷川の発言は事実に反する。
- ↑ [http://www.asahi-net.or.jp/~mg5s-hsgw/sabetu/konzyaku201209.html 『古地図と現代地図を重ね合わせて被差別部落を特定する書籍が出版「大江戸今昔マップ」』(部落解放同盟東京都連合会)]
- ↑ [http://www.asahi-net.or.jp/~mg5s-hsgw/sabetu/homukyoku201309.html 『東京法務局交渉 戸籍等不正取得事件の再発防止策などを要請 法務局は「人権に関する法律の必要性がある」と回答』(部落解放同盟東京都連合会)]
- ↑ ネット時代の新たな差別問題 江戸古地図ブームで浮上した差別問題の深刻1/2(月刊『創』2013年11月号)『創』編集部
- ↑ 『江戸の亡霊地』(武田清)
- ↑ Google Earthで街並散歩(江戸編)
- ↑ 弾左衛門 - Wikipedia
- ↑ htto://www.jinken-net.com/info/1611-7.html
- ↑ 部落解放同盟が東京都に同和地区を作る計画か | スラド Submission
- ↑ みなさんは、同和問題をご存知ですか?|品川区
- ↑ 東京都に同和地区が存在するかのような意見に対しては以下のように反論されている。https://twitter.com/daiwaryu1121/status/1062581633239330816
だいわピュアラブさんのツイート: "台東区はとっくの昔に同和指定はなくなっています! 同和地区ではないのに同和地区という方がフェイクニュースでありウソです。 あなたが差別していることになるんです。"
- ↑ 以下の位置に戻る: 29.0 29.1 29.2 西井一夫『続・昭和二十年東京地図』p.67-72(筑摩書房、1987年)
- ↑ 川元祥一・藤沢靖介『東京の被差別部落』p.33(三一書房、1984年)
- ↑ 川元祥一・藤沢靖介『東京の被差別部落』p.34(三一書房、1984年)
- ↑ 川元祥一・藤沢靖介『東京の被差別部落』p.33(三一書房、1984年)
- ↑ 本田豊『部落史からみた東京』76頁
- ↑ 中山泰昌『新聞集成明治編年史: 日露戦争期』55頁
- ↑ 川元祥一・藤沢靖介『東京の被差別部落』pp.31(三一書房、1984年)
- ↑ 本田豊『部落史からみた東京』77頁
- ↑ 以下の位置に戻る: 37.0 37.1 37.2 37.3 37.4 37.5 37.6 草間八十雄『どん底の人達』17-18頁
- ↑ 以下の位置に戻る: 38.0 38.1 『市内浮浪者調査』91頁
- ↑ 本田豊『部落史からみた東京』85頁
- ↑ 本田豊『白山神社と被差別部落』143頁
- ↑ 本田豊『部落史からみた東京』85頁
- ↑ 川元祥一・藤沢靖介『東京の被差別部落』pp.21-27(三一書房、1984年)
- ↑ 以下の位置に戻る: 43.0 43.1 43.2 43.3 草間八十雄『どん底の人達』18頁
- ↑ 川元祥一・藤沢靖介『東京の被差別部落』pp.31(三一書房、1984年)
- ↑ 本田豊『部落史からみた東京』77頁
- ↑ 筒井功『サンカと犯罪』p.138-152。
- ↑ 以下の位置に戻る: 47.0 47.1 47.2 『浮浪者に関する調査・児童連行の乞食に関する調査』31頁
- ↑ 桜井徳太郎『聖地と他界観』84頁
- ↑ 以下の位置に戻る: 49.0 49.1 『戦後部落問題論集』第4巻、252頁(部落問題研究所)
- ↑ 『千代田区史』中巻、372頁(1960年)
- ↑ 重松一義『江戸の犯罪白書』15頁
- ↑ 川元祥一・藤沢靖介『東京の被差別部落』pp.20-21(三一書房、1984年)
- ↑ 以下の位置に戻る: 53.0 53.1 53.2 草間八十雄『どん底の人達』28頁
- ↑ 西順蔵『東京の被差別部落』p.281,288
- ↑ 川元祥一・藤沢靖介『東京の被差別部落』p.31、三一書房、1984年
- ↑ 川元祥一・藤沢靖介『東京の被差別部落』p.119
- ↑ 『近代部落史資料集成』第3巻512頁
- ↑ 以下の位置に戻る: 58.0 58.1 『どん底の人達』120頁
- ↑ 矢田挿雲、矢田真太郎『江戸から東京へ』第6巻115頁
- ↑ 1981年に岩波書店から刊行された『荷風随筆』第1巻に収録。ただしこの文の「穢多町」の語は、1986年刊行の野口冨士男編集による岩波文庫版『荷風随筆集』では削除されている。
- ↑ 安田常雄、天野正子『思想の科学・芽』49頁
- ↑ 本田豊『白山神社と被差別部落』148頁
- ↑ 文京区の白山神社は正確には旧本郷区ではなく旧小石川区だが原文のママ。
- ↑ 本田豊『白山神社と被差別部落』148頁
- ↑ 吉田久一『日本貧困史: 生活者的視点による貧しさの系譜とその実態』131頁
- ↑ 以下の位置に戻る: 66.0 66.1 66.2 66.3 66.4 『部落問題研究』1970年3月号63頁
- ↑ 『部落問題研究』1970年3月号72頁
- ↑ 『国民的融合をめざしての前進』所収、芝海五郎「同和懇答申に対する「解同」都連声明を批判する」
- ↑ 本田豊『部落史からみた東京』27頁
- ↑ 本田豊『部落史からみた東京』76頁
- ↑ 『近代部落史資料集成』第9巻80-81頁
- ↑ 本田豊『部落史からみた東京』76頁
- ↑ 本田豊『部落史からみた東京』76頁
- ↑ 現在の白山1、2、4、5丁目にあたる指ヶ谷町に部落があったことは『部落問題研究』1970年3月号63頁にも記されている。
- ↑ 本田豊『部落史からみた東京』76頁
- ↑ 本田豊『部落史からみた東京』76頁
- ↑ 本田豊『部落史からみた東京』76頁
- ↑ 本田豊『部落史からみた東京』76頁
- ↑ 本田豊『部落史からみた東京』37-40頁
- ↑ 本田豊『部落史からみた東京』71頁
- ↑ 本田豊『部落史からみた東京』194頁
- ↑ 本田豊『部落史からみた東京』194頁
- ↑ 『荒川の部落史 まち・くらし・しごと』
- ↑ 部落探訪(1)東京都荒川区荒川8丁目 | 示現舎
- ↑ 本田豊『部落史からみた東京』194頁
- ↑ 本田豊『部落史からみた東京』194頁
- ↑ 『部落問題研究』1970年3月号64頁
- ↑ 本田豊『部落史からみた東京』41-42頁
- ↑ 『日本の特殊部落』(菊池山哉、東京史談会、1962)
- ↑ 『長吏と特殊部落』(菊池山哉、東京史談会、1953)
- ↑ 『日本の特殊部落』(菊池山哉、東京史談会、1962)
- ↑ 本田豊『部落史からみた東京』90頁
- ↑ 『いばらと鎖からの解放―東京水平社と皮革産業労働者』71頁
- ↑ 『千葉の部落解放運動』「東京都国立市の部落」
- ↑ 川元祥一・藤沢靖介『東京の被差別部落』pp.40-49(三一書房、1984年)
- ↑ 池田敏雄『人物による日本カトリック教会史: 聖職者および信徒75名伝』140頁
- ↑ 荒井貢次郎「都市賎民行政史の基礎考察」
- ↑ 荒井貢次郎「都市賎民行政史の基礎考察」
- ↑ 『東日本の部落史III』276頁
- ↑ 柴田道子『被差別部落の伝承と生活』83頁
- ↑ 宮武外骨『裸に虱なし』116頁「新平民小林文七氏の美術品」
- ↑ 岡本道寿「弾直樹追賞の事情」(『近代部落史資料集成』第6巻444頁)
- ↑ 『運動史研究』第4巻159頁
- ↑ 『新人会の研究: 日本学生運動の源流』44頁
- ↑ 北原泰作『賎民の後裔-わが屈辱と抵抗の半生-』214頁
- ↑ 『荒川の部落史: まち・くらし・しごと』43頁
- ↑ 松沢光雄『酉の市と熊手』173頁
- ↑ 『全国のあいつぐ差別事件』2003年版106頁
- ↑ 『東日本の部落史 東日本編』304頁
- ↑ 別の史料には、南品川観音屋敷の長吏26軒が品川寺造立のため「1652年に」大井村御林山に替地を与えられ移動したとある。『東日本の部落史 東日本編』304頁参照。
- ↑ 『東日本の部落史 東日本編』305頁
- ↑ 荒井貢次郎「都市賎民行政史の基礎考察」
- ↑ 産経新聞社社会部『東京風土図』113頁
- ↑ 菊池山哉『別所と特殊部落の研究』
- ↑ 根津片町のことなら現・文京区根津二丁目の一部、駒込片町のことなら現・文京区本駒込一丁目の一部ならびに本駒込二丁目の一部。ただし『戦前日本社会事業調査資料集成』第1巻119頁で「本郷区藍染川縁の細民窟」と記されているのは根津片町である。なお根津には1888年まで遊郭があり、宮武外骨編著『明治奇聞』には「穢多の娘を集めた根津の女郎屋」との項目がある。
- ↑ 『国民的融合をめざしての前進』(東京都部落解放運動連合会、1982年)所収、川上学「東京の部落問題の現状について」
- ↑ 部落の範囲について『部落問題研究』1970年3月号64頁には「一丁目、二丁目、並びに三丁目の一部」、「西武池袋線N駅の北側に鐘紡の宏大な工場(引用者注、現在の練馬区練馬一丁目17-37近辺)があります。この工場を囲む高い塀と、併行して南北に通ずる三メートルの区道で部落は画然と区切られています。また南側には西武池袋線が東西に走っています。西側は一二メートルの都道と豊島園行の電車路線があり、北側は高台になっていて丁度すりばちの型の窪地で低湿地帯をなしています。この部落の中心を二メートル位い(ママ)の溝川が流れていますが(略)」とある。現存する成田屋履物店(練馬区練馬1丁目33)や靴・カバンのスズヤ(練馬区練馬1丁目27-12)は部落の名残とも考えられる。
- ↑ 『東日本の部落史 東日本編』315頁
- ↑ 『近世関東の被差別部落』所収、荒井貢次郎「榎本武揚と練馬部落民」
- ↑ 『部落問題研究』1970年3月号69頁
- ↑ 練馬地区フィールドワーク
- ↑ 『風の旅人』23号「OWN LIFE-永遠の現在-」第8巻139頁
- ↑ 『部落解放第281号』(解放出版社)60〜61頁「どこにも負けねえぞ-下組のお囃子」(東京都連・国立支部 宮瀧順子)
- ↑
本田豊『部落史からみた東京』33頁 - ↑ 本田豊『江戸の非人 部落史研究の課題』(三一書房、1992年)
- ↑ 『部落問題・水平運動資料集成』第3巻、534頁
- ↑ 『部落問題・水平運動資料集成』第3巻、534頁
- ↑ 『日本の特殊部落』(菊池山哉、東京史談会、1962)
- ↑ 『部落問題・水平運動資料集成』第3巻535頁には「本打田」とあるが誤植か。
- ↑ 本田豊「部落史を歩く 街道と部落─府中市」67頁(『東京部落解放研究』1985年、第46号)
- ↑ 『日本の特殊部落』(菊池山哉、東京史談会、1962)
- ↑ 『部落問題・水平運動資料集成』第3巻、534頁
- ↑ 関東水平社聯盟(群馬県新田郡)機関紙『自由』第1巻第4号(1924年11月発行)23頁
- ↑ 『部落問題・水平運動資料集成』補巻2、2170-2173頁
- ↑ 『部落問題・水平運動資料集成』第3巻、535頁
- ↑ 西井一夫『続・昭和二十年東京地図』154頁によると、この隣保館は代々木非人頭久兵衛の支配した非人部落(和泉)の隣町に融和事業の一環として建てられたため、後々まで差別の視線にさらされたという。
- ↑ 『部落に生きる 部落と出会う』7頁
- ↑ 『部落問題・水平運動資料集成』第3巻、538頁
- ↑ 『石川一雄獄中日記』279ページ
- ↑ 本田豊『白山神社と被差別部落』p.113
- ↑ いわゆる「足立闘争」の民事裁判の記録『部落解放の炎燃やせ<第一部>』76頁で、解同足立支部長(当時)の鈴木幸一郎が「解放センターというふうに位置付けをすることが可能な施設」と認めている。
- ↑ 以下の位置に戻る: 142.0 142.1 142.2 142.3 142.4 142.5 https://archive.fo/bI7M2
- ↑ https://archive.fo/U2xBW
- ↑ しかし上川多実は「例えば『部落解放同盟は利権を漁るために存在しているとんでもない暴力集団だ』というのは、部落解放同盟が今まで何をしてきたのかということをきちんと知っていれば、とんでもない言説だということはわかる」とも発言し、解放同盟の利権あさりや集団暴力行為の歴史を改竄しようとしている。
- ↑ 『部落』1961年、第13巻、第1~6号
- ↑ 『部落』1978年、第30巻、第7~13号、81頁
- ↑ 『東日本の部落史 東日本編』150頁