ポスト淫夢同好会時代の私のインターネット人格について

夏草や 兵共の 夢の跡

 

はじめに

 本稿は淫夢同好会崩壊が現実のものとなった今日に私が遭遇している自我崩壊を明らかにすることをもって、Twitterにおける仮想人格(ネット人格)の実態についての考えを巡らせるための覚書......のつもりだったが自分語りに終始してしまったので一読の価値なし。ブラウザバックを推奨する。

 

序 ポスト淫夢同好会時代の到来とネット人格

 まず初めに、ネット上の人格と現実世界の人格の性質の差異に注目したい。現実世界における人格は、各人の持つ多様な要素の集合体として決定される。声の質や無意識の行動、もしくは外見上の特徴などの偶発的で本人にとって操作不可能な諸要素により外的に決定される人格と、本人の意思による行動や発言、もしくは過去の体験がもとになって決定される内的な人格が相互に影響しあうことで初めて人は人としてのアイデンティティを得、各人は個人を識別できるようになる。

 一方でインターネット上の人格はその限りではない。現実における人格がやり直しのきかない積み重ねによって醸成されていくのに対し、インターネット上*1の人格は主に各人の自己発信により形成されるため最初からすでに一部完成されている。つまり、ネット人格には最初から目的があって設定された枠がある。

 ここで例として淫夢同好会を挙げよう。詳しくは過去の拙稿をご覧いただきたいが淫夢同好会には、人格の型が最初から用意されている。淫会とはインム語録とインムのイメージを通じたロールプレイングゲームに参加するための”コマ“だった。現実において何者にもなれない思春期の青年は、淫夢同好会になることで他の何者でもない淫夢同好会になれるのである。これこそ淫夢同好会という”界隈”が思春期にあたる中高生と大学生によって形成されてきた最も中核の理由だったのだ。現実の面倒で失敗できない人格陶冶からの逃避、避難として淫夢同好会を演じること、これが思春期の諸青年の心の揺らぎを生んでいたと推測することは暴論ではあるまい。

 しかし現在、もはや淫夢同好会は死に絶えた。つまりポスト淫夢同好会時代がいよいよ現実のものになったのである。これが意味するところは何であるか考察し各人のインターネット上の人格の実態の一側面に迫らんとする。

 

1 私のネット人格崩壊

 私はかつて淫夢同好会だった。数年前淫夢同好会衰退の兆しが見えたころ、泥舟から離れるがごとく淫会の名前を捨て別の名前を名乗った。ちょうどこのころに「淫夢同好会はネット人格形成のモラトリアム期である」という趣旨の発言をしたことを記憶している。当初はそれなりに楽しくやっていた(と思う)が、ここ2年ほど私のTwitter上の分身であるはずの@kmbinmの存在が煩わしくて仕方なくなってきた。これをネット人格崩壊と名付けその実態を軽く説明したい。

 まず違和感を感じていることの第一に、@kmbinmには存在意義が全くない。にもかかわらず、どこに向けているのかわからないメッセージを当てもなく乱射している。また第二に、私個人が面白いと全く思っていない差別扇動の類の発言を@kmbinmは積極的に支持している。そして第三に、@kmbinmには交友関係が機能していない。これは奇妙だ。この奇妙さ、不可解さがどこから来るのか考えてきたところ、先の人格問題に直面したのである。

 そもそも@kmbinmは”淫夢同好会ごっこ”をするためにあてがわれたそれ専用の駒にすぎない。それをいまだに使い続けることから来る弊害と考えた方が自然だろう。

 上述の第一の問題は、淫夢同好会だった時には問題にすらならなかった。なぜなら@kmbinmは淫夢同好会としてつくられ、また淫夢同好会には存在意義なんかいらないという認識が共有されていたからである。インムとは、ゲイポルノビデオ男性のイメージを使った遊び、おふざけである。よって、それ自体に真面目な考察を加えること自体ナンセンスなのだ。もし淫夢同好会が淫夢同好会とは何か考えようとしても、界隈にインムの文脈が生きている限り「淫夢同好会ってなんだよ(哲学)」というテキストに変換されそれ自体がネタ化するのである。だが淫夢同好会をやめればこの問題は表面化する。私はキルミーベイベーが好きなのでそこによりどころを求めた節があるが、もとより人を馬鹿にしてユーザーを炎上させて楽しむ界隈にいた身分なのでキルミストとしてのふるまいを続けてその仲間に入れてもらうことには躊躇した。その結果@kmbinmの舵取りに失敗し、半ば地に足がついていない状態で誰に読んでほしいのか投稿者ですらわからない独り言を繰り返すことになったのである。

 第二の問題と第三の問題は同じ原因から生じている。それは淫夢同好会崩壊後のコミュニティ(元淫会界隈?)にそのまま残留してしまったことである。まず私が未だTwitterを続けている理由は自己顕示欲だから、自己顕示欲を満たすためにふぁぼ、いいねを求めなくてはならない。淫夢同好会崩壊以後はそれが特に顕著になった。そして元淫会界隈では不謹慎さが尊ばれている節が強い*2。できるだけ世の中で言ってはいけないとされていることを言えば面白いとされ、世の中でよいとされているものに苦言を呈せば評価される世界である。そのためいいねが欲しくてTwitterをやるならばtweet(商品)はfollower(消費者)のニーズにあわせたものを生産する必要がある。*3しかし実際これ(商品)を面白いとは思っていないのだ。いいねが欲しくてやってるだけなのだから。業(カルマ)を重ねるごとにこのことに対する違和感が肥大化していったので、今はこうした発言を控えようとは思っているが実際のところ控えられていない。私の現実の人格の中の曲折した承認欲求の具現化があのアカウントなのだから、面白くなくても承認欲求が一瞬でも満たされればよいらしい。こんな調子では他のユーザーと交流する気など起きない。なぜなら@kmbinmが欲しているのはヴァーチャル世界の友情などではなく承認欲求であり、そしてそれはユーザーの押したハートマークの数でしかないからだ。

 

2 ネット人格とは

 これを基に基本的なネット人格の性質について考えたい。まずTwitterは自己呈示と反応のサイクルがコミュニケーションの基本である。発信者は評価者でもあり、発信者は常に評価者のチェックに晒される。チェックが必要ないものは本来投稿する必要はない。そのため発信者は評価者の目を逃れることはできない。

 そして、発信者が何を発信するかは自由であるが、極度に現実の人格と乖離したものを発信し続けることは困難である。したがってネット人格はどんなに演技をかけようとも現実の人格に影響される。たとえ文章が主体のネット社会では言いたくないことは書かなければ伝わらないといえども、現実の性格を無視することはできないのである。

 最後に、ネット人格はロールプレイをしなければ意義を失う。ネット人格は淫夢同好会でなくても趣味やその他目的があって作られるが、その目的に沿わない場合現実の人格の一側面の不出来なコピーになり下がる。ロールプレイとその維持のための自己演出が必要なのである。

 

最後に

いかがだったでしょうか(クソブログ)

なんかフワフワしてて何が言いたいのかよくわからなかったですね。

 

*1:ここではTwitterを指します

*2:なお別に元淫夢同好会の人に限った話ではない

*3:要はキッズとオタクをたたいて政治的発言をたまにして右翼も左翼もバカにする、ということ。