【雑記】音MAD界隈の「破壊」と「抵抗」

※このブログは言語化による自分の思考整理とその過程のクローズドな共有を目的としており、公な議論を前提としたものではありません。つまり皆さんの意見が聞きたくて書いたものではなく、各々で「ふーん」程度に読んでもらうくらいが丁度いいものです。この記事を共有・引用する際は慎重にお願いします。

 

最近どうも界隈に対するモヤモヤが拭えないので、ここで言語化してみようと思う。

音MADについての議論が繰り広げられるたびに目にするが、「何でも各々が好きなように作れば良いじゃん」という「音MADは自由」論がある。

果たして、そんな単純な言葉で済ませていいものなのだろうか。

 

先に結論から書くと、「こちらを侵略することを主目的とする動きに対しては、明確にNOと言ってもいいのではないか」と思っている。

いきなり言っても雑駁としているので、順に説明していこうと思う。まずは下の記事を参照する。

immortalt.hatenablog.com

以前、前衛的な音MADの動きについて説明した。そのMADそのものの技術やメッセージ等の「質」ではなく、既存のスタイルをあえて「崩す」こと、その斬新さを魅力として追求する動きが最近は特に盛んなように感じる。そしてそれが手法として氾濫するという、矛盾した状況が生じている。

あえて言おう。(前衛に限らないが、)そうした「崩し」は「破壊行動」である。

 

具体化するために例を出そうと思う。「ヒバナMAD」の件である。

www.nicovideo.jp

 

渋谷凛の人力VOCALOID動画がその自然さから話題を呼び、半年後、その系譜で人力ヒバナMADが続々と投稿された。

ここでどうも気になるのが、「崩し」が「流れ」を阻害しているような気がしてならないということである。

というのも、主にアイマスを中心に「自然な人力VOCALOID動画」の流れが生まれ始めたところで、それを「明らかにパロディとして」打ち出したいわゆる暴歌ロイド動画、更にネタ色を強めた動画が複数打ち出されたのである。

例えばサムネイルであったり、タイトルの表記だったり、あるいは同時投稿というスタイルすらパロディであったり、「@(アイマスMADに用いられる記号)」を含むタグをアイマス以外の素材でタグロックしたりといった点から、これらの動画が人力の技術や自然さ等を魅力の目標とするものではなく、「崩し」の目的を持って作られたものであるということは間違いないだろう。

ここで着目すべきはその方向性が「対立する」ということである。

ブーム源はともかく、後出の人力動画群は「正統派人力MAD」の流れを作りたいという何となくの意識があったのではないかと思っている(主観的ではあるが)。

一方「崩し」の側はそうした正統派動画群を「前フリ」として扱っている。この時点で違っているうえ、前述の流れ自体にも逆らっている。この通り、「崩し」というのはその性質上「元のスタイル」が持つベクトルと相反するものになってしまうのである。交わらないのではない、直接ぶつかり合うのだ。

後述するが、どちらが間違っている、などということが言いたいわけではない。ただ、こうした二つの動きは決して独立あるいは両立し得るものではなく、互いにぶつかり合うものであるということに着目したい。

※これはあくまで私個人の意見である、ということは重々承知していただきたい。

 

そしてヒバナMADのような「流れvs崩し」の対立は、最近の音MAD界隈全域にも顕著であるように感じる。

【雑記】前衛的音MAD、に対して思うこと - immortaltのブログ

再度の引用になるが、近年の音MADは「崩し」を目的に"雑に"作る、という動きが盛んである。こうした「崩し」がスタイルとして確立していくことは矛盾している、ということは先述の記事で述べているが、ヒバナMADの例に見る通り、雑に作るという「崩し」は「既存のスタイル」に対抗してかかる、破壊的な側面も持つのである。

例えばファンアート、例えば技術向上、例えば音楽性、例えば視覚芸術、例えば笑い…といった風に、音MADはそれぞれ様々に目的を持って存在する。これらの潮流はすべて「両立し得る」。何故なら互いに大きく干渉することがないからだ。

しかし、「崩し」はこれら全てを「前フリ」とし、流れの目の前に立ちふさがる。「崩し」は対立的、破壊的な動きなのだ。

前衛的作風は既存のスタイルを「破壊」することを前提とする。その氾濫は既存のスタイルを脅かすものである。この認識を持った時、自分の中のモヤモヤが一つ形になったような感覚を得た。

ここで冒頭で示した結論に至るのだが、こちらを侵略することを生業とする「崩し」の一派に対して抵抗感をはっきり示すことは自然である、と思うことができるのだ。

 

これはただ「新しいムーブメントが立ち上がって、それに抵抗感を持つ層(いわゆる老害?)がいる」というだけの単純な状況ではない。一般的ムーブメントとは異なり、既にコミュニティにいる人間の活動の地盤、それを「破壊」することを目的とした層が出現してきているのである。

「新しい動きについていけない人間は衰えているだけだ」というのはある状況では真っ当に思えるのだろうが、思考停止で使ってよい文言ではない。「新しい動き」がこちらに損害をもたらすことで成立するようなものである、そんな状況は普通とワケが違う。

冒頭の「音MADは自由」論然り、「思考停止のフレーズ」が蔓延している所為でこうした破壊活動に口を噤まざるを得ないというのは何とも言い難い。

そもそも「口を出す」ということ自体を「正しい/間違っている」で判断するのはいかにも二元論的で幼稚である。「自分の居場所を外敵から守る」ということは各々の主義や文脈に依存することであり、正/誤で判断していいものではない。もっと自分の居場所のために抵抗しても構わないと思う。

更に言うと、逆に、「破壊行動」のムーブメント自体も「間違っていない」。これは強調しておく必要がある。彼らには彼らなりのポリシーがあるのだろうし、彼らなりの居場所があるのだろう。

しかし、彼らが「破壊」をテーマにしており、それを拡大してきている以上、対立が生じるのは当然なのである。正しいとか間違いとかではない。それが自然なのだ。

Twitterの議論ではしょっちゅうだが、議論を「絶対的正しさ/誤り」で判断し終わらせようとする動きがある。しかしそんなものは存在しない。あるのは各々の立場のみである。

※二元論-相対論の話は下の記事を参照すると良い。

immortalt.hatenablog.com

 

もはややたらめったら「崩し」をしたがる人に自覚を求めるようなことはしないが、過剰な「崩し」を「破壊」であると認識し、それに抵抗する自然さを自分の中に見つけることは、「崩される」側になった際に立ち回りやすい、自分の中のモヤモヤに落としどころを付けやすいのではないかと思う。自分たちの領域に侵攻してくる者に対し、明確にNOと言うことは自然である。少なくとも自分は抵抗の声を上げていこうと思う。

 

【雑記】乙女解剖MADとモンタージュ

最近刺々しいことばっか言ってたのでこういう記事も書きます。

乙女解剖MAD、良いですよね。

僕はそもそも原曲の乙女解剖に並々ならぬ思いがあるのですが、その世界観に見事に嵌め合わせてくる動画が多くて舌を巻きます。

ということで、一乙女解剖ファンとして好きな乙女解剖MADを見ていこうと思います。(ここにないからといって嫌いなわけじゃないです。文章量の都合で厳選しています)

 

…とその前に。こうしたMADを見るうえで知っておくと面白いよねって知識を共有しておきます。

富野由悠季『映像の原則 改訂版 ビギナーからプロまでのコンテ主義』(株式会社キネマ旬報社、2011)では、映像を作る上での視点として「モンタージュ」と「フォトジェニック論」というものが紹介されています。

モンタージュ論とは、「カットの繋ぎ合わせ」を重要視し、その組み合わせから新しい意味を発生させることである種の雰囲気や印象を提供する、という見方です。

一方フォトジェニック論とは映像美を重視し、優れたカットが精神的価値を喚起するという見方で、これに「リズム論」——リズムが映像表現を支配するという見方――を融合させて紹介していました。

これら二つは完全に対立するわけではありませんが、承知しておくと方向性が据えられそうですね。

immortalt.hatenablog.com

それともう一つ、「二元論-多元論-相対論」という分類も面白いなと思います。詳細は上のリンクを参照のこと。

 

で何が言いたいかというと、乙女解剖MADの肝要な部分の一に、この「モンタージュ」があると僕は勝手に思ってるのです。

乙女解剖は元PVからして「モンタージュ」かつ「相対論的」なものだと思っています。

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ストーリーを直接的にではなく、「雰囲気で」伝える。終始ダークな圧倒感/狂気感を基に世界観が演出されており、説得力が強いです。その結果、考察しがいのある動画にもなっている。

こうしたカット組みと雰囲気作りにより奥に潜むストーリーの存在を匂わせる、という点は、相対論的な動画の強みでしょう。

『自転車解剖』はこうした視点を明確に意識し、ストーリー付けを行ってからそれを「匂わせる」動画にしています。(一つ前でも書きましたが必ずしも伝わってほしいということではなく、動画に深みを持たせる隠し味としてこうしたものは意味を成すと思っています)

そして、奥ゆかしい雰囲気の描写が為されている音MADがドンドン出ています。凄い。乙女解剖MADは他であまり見ないようなモンタージュ性の演出、意味付けが為されたものが多く、そうした側面でも面白いですね。

本記事ではそうしたモンタージュ性を中心にMADを見ていこうと思います。それでは本題に。

※勝手な解釈を添えているので注意。色々解釈しながらMADを見るの、楽しいのでオススメです。

 

 鳩さん解剖

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初見でなるほど~ってなりました。「鳩を食べる」というブッ飛んだキャラクターが原曲の女の子の狂気感に重なっており、説得力を増しています。

ラストでは「食べたくない」と友人である灯織に拒絶されてしまい、緩やかに崩壊していく…というストーリーも、原曲と見事にマッチしていますね。

それと世界観を演出するための歌詞改変や台詞の置き方が秀逸で凄い。「涎をブラウスの袖に塗って」とかいう歌詞、感心するしかないでしょ。「プロデューサーさん大好評だったあの鳩」ってことは、真乃は鳩だと伝えずにプロデューサーに鳩肉を提供しているのでしょうか。あるいはプロデューサーも…?もしくは無理をして…?といった風に、更なる想像の余地も与えてくれます。

いかに世界観を維持するか、というのはモンタージュ動画の課題でありますが、この動画は上手いこと洗練されていて良い。

 

 

利息解剖

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鳩さん解剖もそうですが、狂った女の子が主役になっててサイコーですね。悪女のセクシーさも演出されておりエクセレント。

そしてやはり、ラストの「卯月を手放すとはなぁ…」の回収でしょう。鳥肌立ちましたもん。「手放された後の卯月」がその身と引き換えに金に変わっていく…という落とし込み方、見事すぎる。卯月の泣きそうな人力も説得力マシマシで、斬新。貸す人間、借りる人間、貸し出される人間、それぞれの心情が蠢く狂った貸し借りの世界が、一つのMADの中で表現されています。

 

東雲改造

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原曲の仄暗い雰囲気と可愛いユルさが両立しており、こうしたアプローチもあるのか~となりました。無邪気に改造するはかせと普通になりたいなの、傍観する阪本。倒錯した関係を原曲に乗せて演出しながらも、どことなくほんわかとした雰囲気も残っており、バランスが良い。

はかせの人力が特徴捉えてて良いよね…。最後の改造されてる絵も良い。

 

 

土竜解剖

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削除されてしまった『岡戸解読』もそうなのですが、乙女解剖は「世に狂わされる人」を皮肉る文脈で使われても強いな~という気付き。雰囲気作りが徹底されていることもあり、普段のsyamuMADとは少し毛色も違って見えますね。

「本当の名前」と歌わせて本名出したり、骨のシーンだったりと、元ネタの原曲への落とし込みが秀逸です。あと音作りと人力めっちゃ上手いっすよね…。

タイトルをコロコロ変える手法もフル尺ならではで面白い。様々な所で工夫が見て取れてメッチャ良いですね。

 

 

たるき解剖

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小川さんをこの曲にどう落とし込むんだ…!?というワクワクからの、なるほど。小川さんの小鳥に対する歪んだ愛、という世界観、メッチャイイ。SS書いてほしい。

実際どういう関係なんでしょうかこの二人。プロデューサーをやっかむほどの小川さんの嫉妬深い愛に対し小鳥はどう思っているのだろう。「涎をスカートの裏に塗る」関係の一方で、小鳥の方はどうも心が離れているようにも見える。ドロドロで良い…。

涎をスカートの裏に!?!?!?!?!?!?!??

エッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッ by 影莉央 アイドルマスター/動画 - ニコニコ動画

 

 

以上のものが特にモンタージュの視点で魅力的だと感じた作品でした。ここからはそれ以外の視点で面白いな~と特に思ったもの。

バタコ介抱

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全てが面白い。語るのも野暮だし見たほうが早い。

こういうアプローチもあるぜ!!ってのを界隈に示しているようで頼もしい。

 

りんご解剖のうた

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一発ネタなのに手描きとかめっちゃ凝ってて好きです。「時々甘いじゃん稀に酸っぺ」、歌っちゃう。

 

乙女廻王

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特にラスサビの音の重なり方が透明で好きです。

 

おかめ納豆

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タイトルだけで面白い。何だよこの素材

 

乙女解剖解剖

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カッコよすぎ。アップテンポと合いすぎてる。

 

洋子斉藤

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音作り、歌詞改変、手描き、どれも好きです。

 

 

ということで乙女解剖MADを見ていきました。紹介できなかったものも多いのでまた語りたいですね。

【注意】このブログの引用について

芋タルトです。

本来クローズドにやるつもりだったこのブログも思ったより見られているようで、何とも言い難い気持ちです。

こうして共有されることは決して悪いことではないのですが、多くの人の目に触れるとやんや言われてしまうことが増えてしまうな~というのが僕の危惧でした。そのためTwitterではブログを書いても宣伝していません。

で、実際このブログ関連でイヤだな~と思うことが複数起きてしまったので、ちょっと釘を刺す意味も込めて書いておきます。ごめんなさい、めんどくさい人と思われたくないので本当はこんなこと言いたくないのですが。

 

一つ。何かしら記事に対して反応するならちゃんと読んでからにしてほしいです。

 

いや、適当に読んでもらうことは別に良いんですが、反論なりをTwitterその他でするなら、きちんと内容を把握する努力をしてほしい。でないと、パッと見僕が意図と違うことを言っているように見える。不本意でなりません。

申し訳ないですが具体例を出します。(晒し上げるつもりはありませんが、発言には常に責任が伴うことは重々承知していただくと幸いです。)

immortalt.hatenablog.com

この記事に対するTwitter上での反応が見受けられたのですが、「前衛MAD作ってる人はここまで考えてないでしょ」的なことを言われてまして、ちょっと愕然としました。こんな雑に読まれることあるんだ。

もしかしたら僕の表現力が悪かったのかもしれませんが、この記事はかいつまんで言えば「脳死で手を出せるほど前衛は単純なものではないのかも」という部分が軸です。だから「ここまで考えてない」のはどうなの?ということなのですが…。

更に「芸術観念で見たらこう見えるのね」みたいな発言も添えられていましたが、あくまで芸術と類推しているだけで、前衛MADを芸術と捉えて喋っているわけではないです。あくまで似た例ね。

これを見るに、多分一部の単語だけ流し読みして、何となくこういう内容なんだろうな~と構成を夢想したとかそんな感じだと思うのですが。

全然個人単位で読み違えていただくのは構わないんですけど、公に反応するならせめてちゃんと読んでからにしてください。

 

それともう一つ。

immortalt.hatenablog.com

先日某公開鯖でこの記事を引用しながら、「受け手が読み取れてないので負け」的な発言が為されてるのを見ました。勝ち負けって何ですかね…。

"負け惜しみ"します。ある程度そうした動画を作る人ならわかると思うのですが、「受け手に伝えることを目的としていない隠し要素」を込めることがあります(実際、この動画のメインはオブジェクト選択の意味などではない)。そうした「オマケ」を、「オマケとして」ブログで解説することもあります。が、それがこうして「負け」と断じられると、やりづらくて仕方ない。

これも個人単位で心の中で断じていただいても構いませんが、こうしたことを書かれるとどうもブログを書く気がなくなっちゃいますね。せめて見えないところでやってほしい。

 

で、これらの何が一番面倒かって、これに反論すると「芋タルトさんめんどくさ~い」みたいな反応されることですね。ブログが一方向なぶん仕方のないことかもしれませんが。でも好き勝手言われてこっちが何も言えないのズルいでしょ。

何度か書いていますが、このブログの目的は言語化による自分の思考の整理とその過程のクローズドな共有です。長文版Twitterみたいな。逐一自分の意見を隅まで詰め込んだ言論ではなく、つまり公な議論を前提としたものではない。

にもかかわらずこうして芳しくない引用をされるとなると、ちょっと考えざるを得ません。こうして反論する必要性も出てくるし、かなり面倒です。もう少し慎重に引用していただけると幸いです。

最初の記事にも書いていますが、このブログは真に受けずに見て下さい。僕も気楽かつ適当に書きたいので。

【雑記】絵が描きたい

※日記です。

最近絵チャでしか絵が描けなくなっている。

絵チャ、といっても、自分ひとりで絵チャサイト・MagicalDraw上で描くことが多い。

レイヤーも2のみで、筆圧オフ、ブラシの種類も使い分けない。それでもこのツールを使うのは、ただただ楽な気持ちで描けるからだろう。

そう、最近は落書きしか描けていない。

それもこれも、自分の中で何か目標を見失っているからではないか。そう感じる。

まず、二次創作がなかなかうまくいかない。うまくいかないというか、やりづらい。

キャラクターには守るべき規則が当然あって、その範疇で描こうとすると、どうも凡庸なものになってしまう。上手いことやれてる絵師は凄いなあと思う。

かといって二次創作から脱そうとすると、音MADという文化に浸かってきた影響か、脳が切り替わらない。音MADを作る前は、確かに色々考えていたのに。

あともう一つ、エッチな絵を描くのが楽しい。これがだいぶ良くない。

というのも、僕は下品なセックス描写が好きなので、なかなか他人に見せるのに度量がいる。性癖は自由だろうとは思いながらも、やはり清楚なエッチが好きな人にドン引きされるのは、どうも後ろめたい。

昨日自分の欲望のままに描いた絵があり、それを描くのはとても楽しかったが、公にはしたくない。

つまり、楽しんで描いたものが、他人に見せられない。なんてこった。

ほんとは、自分の中に存在する(存在しないかもしれない)世界を表に出したい。そのツールとして絵を用いたいが、どうも具体的な完成図が目に見えてないし、どうしたいかすら分からない。だから筆を迷わせる。

下手でもいいから一次創作をやって、純然と絵を描くことを楽しんでいた小学生の頃の感覚を取り戻したいところだ。あの頃、漫画家になりたかった俺は、どんな気持ちだったんだろう。

チキショー、絵が描きたい!

【雑記】前衛的音MAD、に対して思うこと

※こういう記事を出すたびに書きますが、この記事はクローズドなシェア・あるいは自分を省みる/整理することを目的としており、誰かを変えてやろうという狙いを持ったものではありません。論としても粗が目立つため、あくまで参考程度に留め、あまり真に受けずに見ていただけると幸いです。

 

「前衛的作風」と言われて、皆さんはどんな動画を思い浮かべるでしょうか。

僕は伊尻さんやmega(目が)さんの動画を思い浮かべます。

彼らの動画は、既にある「音MADのスタイル」に挑戦するようなものになっています。

そして今、そういった先駆的な「前衛動画」に憧れ、同じような作りの動画がみるみる増えていきました。

いやしかし果たして、「前衛」とはそれほど単純なものなのでしょうか。

先駆的前衛動画の何が魅力か?その大部分は、「既存のスタイルに対しあえて挑戦的に踏み込む、その目新しさ」にあるのではないかと思っています。

前衛芸術全般に話を広げようと思います。(専門外なので知識が付け焼刃です。)

アバンギャルド」とも呼ばれる前衛芸術の類はやはり攻撃的・破壊的な印象的があります。古典的な自然美・人体美に背くように、あるいは政治的思想すらも混ぜ込みながら、古来の文化観に挑戦していくような作品群が今なお盛んに描かれています。「俗物であり、冒涜的だ」という意見も出る一方、支持者を集めているジャンルです。

もう100年ほど前に先駆的に取り組んでいたピカソマティスは決して古典的ギリシア美術を蔑ろにしていた訳ではなくむしろ深い理解を示していたそうですが、ともあれ現在は「古典美に対抗するジャンル」としての見方が強いようです。

(この経緯に関しては下の記事参照です。一応参考までに。)

https://www.theguardian.com/artanddesign/2010/jun/20/modern-art-all-in-mind

「前衛的音MAD」も同様の雰囲気を纏っていると感じています。モーレスター、シュガークンナとビターダッシュシリーズに代表される作品群が支持を集めたのは、やはり「今までにない(過激なほどの)挑戦性」があると思います。個人単位で言えばそれだけではないかもしれませんが、これほど広くウケたのはやはりこの特色が大きいのではないでしょうか。

前衛芸術と前衛音MADがある程度類似したものであるとするならば。ここで、以前聞いた2つの意見を思い出しました。(どこで見たか曖昧なので参考文献に書けません。頭にも書きましたがこの記事は論文とかではないので、信用しすぎないで下さい。)

一つは、「前衛芸術は古典芸術の存在がなければ意味を持たない」という意見。

確かマルセル・デュシャンの『泉』に言及した文章だったと思うのですが、やはり『泉』は顕著な例です。何でもない男性用便器を美術展に出展しようとした出来事を機に、皆がアートとは何かを考えさせられた、ということがあったそうです。

これがどうして「芸術に関わる働き」として見られたか。それは他の芸術品の存在があった、「芸術展」という場であったからにほかなりません。

前衛芸術全般に話を戻しましたが、「既存のフォームに対抗する」ことは、当然その「既存のフォーム」がないと為し得ません。古を打ち壊そうとしながらその古がないと存在できない皮肉な文化である、といったニュアンスのことも書いてあったように記憶しています。

古典美に呼応した先駆者たち(芸術全般の話です)はともかく、現在多い「対抗しよう」という姿勢は、そう考えると何とも言い難い矛盾を孕んでいるようにも感じます。

そしてもう一つ、「前衛芸術を手法として模倣することは何の意味も持たない」という意見。

こちらも中々刺激的な意見ですが、考えてみると納得のできる部分があります。

「先人の築いた文化の逆を行く」ことを目的にした芸術作品が出たとして、その魅力の大部分はやはり「逆である」ことにほかなりません。そうなったとき、それを模倣して作られた作品は、いったいどんな魅力を持つのでしょうか。「既定のレールから外れる」つもりが自ら「既定のレールに進んで乗ろうとしている」、ちぐはぐなものになってしまうのではないでしょうか。

もちろん、ピカソキュビズムが持つ美や表現性に感応することは矛盾していないでしょう。しかし、デュシャンの真似をして美術展に自分の便器を持ち込んだとして、それは何の意味も持たないと僕は感じます。あるいはピカソの絵が「革新的だから好き」だとしたら、古典美を経ず表面的にそれを真似るのはどうにも違うような気もします。

芸術の話が長くなりました。これは音MADにも言えることなのかな、と感じています。

これまで革新的な作品は人々の心を動かしてきました。しかし、それを表面的に真似てしまうことは、目的に反していやしないでしょうか?

「あえて」音を割る、「あえて」雑にテキストを置く、「あえて」途中で飽きる、「あえて」量産する。蔓延した今、それらは「あえて」の意味を持っているでしょうか。

それらに独立した「美」を感じているならともかく、安易に革命家になりきろうとしていないでしょうか。

これらのミミクリ(模倣)は思考なしに簡単に得られてしまうという恐ろしい誘惑力があります。しかし「前衛」の模倣は一般的な模倣とは異なり、本来もっと慎重になるべきものなのかもしれません。今一度踏みとどまって考えたいところです。

【雑記】音MADの真面目・不真面目

※これは一番最初の記事でも書きましたが、この記事はクローズドなものであり、誰に宛てたい、誰かを変えたいという目的を持ったものではありません。ゆえに支離滅裂ですし、過激になっているかもしれません。反論されたら当然負けます。論としてボロボロなので。違うだろ、とも何言ってんのこいつ、と思っていただいても結構ですが、これはあくまで一人の脳みその中を整理したいものである(全部描き終わって見てみると、どうも違うことを言っている気もする。言葉は難しい)ので、それを踏まえ、読んで参考にする程度に留めていただけると幸いです。

 

 

「お気持ち表明」という皮肉語が流行ってしまったせいで、これから書く真面目な長文が一言で馬鹿にされる可能性が常にあるので、怖いですよね。

さて、最近映像を作る上で、僕の中にもある程度の目標が出来てきました。

従来の音MADにおける模範を超え、MV的・デザイン的・芸術的な表現がしたい。

より対象に対して気持ちの入れられるような、幅広い表現がしたい。

その経緯は前のブログでも少し書きましたが、こうなった時に、果たして音MAD界隈の文化性・風土が適応しているのだろうか、という疑問を持つようになりました。

というのも、真面目な動画すら、この界隈では茶化されてしまう。

顕著に感じています。特定の界隈ネタの対象となっているキャラクターなんか特に。きちんとリスペクトして作られた動画にすら「そういうコメント」が付く。生放送で流れる時とか。コピー&ペースト、飛躍したキャラ付け、動画同士の紐付けの嵐。

ミーム化しよう、という気持ちが逸りすぎている。

無理もないでしょう。元来音MADおよびニコニコ文化は茶化す目的のものが多かった。コメントという文化がミームの加速を生んだ。ここは悪ノリの場所。あるいは、お笑いを楽しむ場所。そしてそれ自体は「良い/悪い」では片づけられない。僕だってそういう動画も作ってますし。権利者しかその是非は断ぜられない。

だったら単に、鑑賞性を是とする、メッセージを持ったり美しかったりする動画は、あまり適してないのかもしれないなぁ、と感じています。

もう少しこうした流れに一石を投じて、鑑賞的なものと両立させてみたいとは思いますが、それでもダメそうだったら、僕は別な方法、あるいは別な場所で表現せざるを得なくなってしまう。

それにしても、ミーム的に、界隈として消費する流れは、元素材へのリスペクトや芸術的鑑賞と別に両立して存在して良いとは思いますが、その垣根を乗り越え、前者が後者を淘汰し蝕みにかかってきている気がします。

断じてミーム化をやめろ!と思ってるわけではありません。ミーム好きですし。ミーム好きじゃないと音MADはそうやらないでしょうし。ただ、盲目になってしまったミームがリスペクトすら蝕んでくることが怖い。真面目な動画はミームと切り離されて存在してるんだから、そっちもそっとしておいてほしい。雰囲気壊さないでほしい。

音MADはすべてミーム化を狙いにしたものである、という考えを持つ人が多い気がする。そうじゃないものもあるのに。

音MAD、というフォームに頼っている僕たちだから、結局他人のことは言えないだろと言われたらそれまでなのですが。書きながら、自分だって全部できてるわけじゃないだろう、と感じますし。真面目も不真面目もない、権利侵害してるんだからと言われてもそれまで。「愛がある/ない」の議論だって、割かし果てのないものだと僕は思いますし。誰だって終止符は打てない。どこにも線引きなどできない。

でも真面目に作った動画に茶化すコメントが付くと悲しい。

投げかけたメッセージに聞く耳すら持たれないのは悲しい。

自分の込めた気持ちが雑に消費されるのは悲しいよ。

そして僕もそれに加担している。誰がその中心に仕立て上げられるかも分からない。

業が深いよ、「不真面目」のミーム

【主張】Lost In つばさに子宮は出てこない

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先日投稿した『Lost In つばさ』のこのシーンですが、背景は子宮ではありません。

何で「えっちだ...w😅🤚」とかいうコメントがこんなシーンで付いてるんだ…?と思っていましたが、そういうことなの…???

いや、そんな似てないでしょ子宮の先っちょこんな膨れ上がってないでしょ。

みんな心穢れすぎだよ。

 

実際はこのシーンは「自分の中にずっと隠れていた恋心が気付きとして出てくる」というね、ちゃんとした意味があるんですよ!

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前のシーンで「恋って何なのかよく分からない」、自分の中に潜む恋心が表出していない様子を「繭」に例えて表現してて、

それを踏まえて、自分の恋に気付く様子を「繭から出始めるカイコガの羽」で表現しています。解説させないで!

まぁこれに関しては別に伝わらなくても良いやとは思っていましたが。

中央に置くとなんかカッコ悪いから両端に置いたんですけど、まさか子宮に見えるだなんて…。

 

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世の中はスケベなオジサンばかりなのでみんなも気を付けよう。