※このブログは言語化による自分の思考整理とその過程のクローズドな共有を目的としており、公な議論を前提としたものではありません。つまり皆さんの意見が聞きたくて書いたものではなく、各々で「ふーん」程度に読んでもらうくらいが丁度いいものです。この記事を共有・引用する際は慎重にお願いします。
最近どうも界隈に対するモヤモヤが拭えないので、ここで言語化してみようと思う。
音MADについての議論が繰り広げられるたびに目にするが、「何でも各々が好きなように作れば良いじゃん」という「音MADは自由」論がある。
果たして、そんな単純な言葉で済ませていいものなのだろうか。
先に結論から書くと、「こちらを侵略することを主目的とする動きに対しては、明確にNOと言ってもいいのではないか」と思っている。
いきなり言っても雑駁としているので、順に説明していこうと思う。まずは下の記事を参照する。
以前、前衛的な音MADの動きについて説明した。そのMADそのものの技術やメッセージ等の「質」ではなく、既存のスタイルをあえて「崩す」こと、その斬新さを魅力として追求する動きが最近は特に盛んなように感じる。そしてそれが手法として氾濫するという、矛盾した状況が生じている。
あえて言おう。(前衛に限らないが、)そうした「崩し」は「破壊行動」である。
具体化するために例を出そうと思う。「ヒバナMAD」の件である。
渋谷凛の人力VOCALOID動画がその自然さから話題を呼び、半年後、その系譜で人力ヒバナMADが続々と投稿された。
ここでどうも気になるのが、「崩し」が「流れ」を阻害しているような気がしてならないということである。
というのも、主にアイマスを中心に「自然な人力VOCALOID動画」の流れが生まれ始めたところで、それを「明らかにパロディとして」打ち出したいわゆる暴歌ロイド動画、更にネタ色を強めた動画が複数打ち出されたのである。
例えばサムネイルであったり、タイトルの表記だったり、あるいは同時投稿というスタイルすらパロディであったり、「@(アイマスMADに用いられる記号)」を含むタグをアイマス以外の素材でタグロックしたりといった点から、これらの動画が人力の技術や自然さ等を魅力の目標とするものではなく、「崩し」の目的を持って作られたものであるということは間違いないだろう。
ここで着目すべきはその方向性が「対立する」ということである。
ブーム源はともかく、後出の人力動画群は「正統派人力MAD」の流れを作りたいという何となくの意識があったのではないかと思っている(主観的ではあるが)。
一方「崩し」の側はそうした正統派動画群を「前フリ」として扱っている。この時点で違っているうえ、前述の流れ自体にも逆らっている。この通り、「崩し」というのはその性質上「元のスタイル」が持つベクトルと相反するものになってしまうのである。交わらないのではない、直接ぶつかり合うのだ。
後述するが、どちらが間違っている、などということが言いたいわけではない。ただ、こうした二つの動きは決して独立あるいは両立し得るものではなく、互いにぶつかり合うものであるということに着目したい。
※これはあくまで私個人の意見である、ということは重々承知していただきたい。
そしてヒバナMADのような「流れvs崩し」の対立は、最近の音MAD界隈全域にも顕著であるように感じる。
【雑記】前衛的音MAD、に対して思うこと - immortaltのブログ
再度の引用になるが、近年の音MADは「崩し」を目的に"雑に"作る、という動きが盛んである。こうした「崩し」がスタイルとして確立していくことは矛盾している、ということは先述の記事で述べているが、ヒバナMADの例に見る通り、雑に作るという「崩し」は「既存のスタイル」に対抗してかかる、破壊的な側面も持つのである。
例えばファンアート、例えば技術向上、例えば音楽性、例えば視覚芸術、例えば笑い…といった風に、音MADはそれぞれ様々に目的を持って存在する。これらの潮流はすべて「両立し得る」。何故なら互いに大きく干渉することがないからだ。
しかし、「崩し」はこれら全てを「前フリ」とし、流れの目の前に立ちふさがる。「崩し」は対立的、破壊的な動きなのだ。
前衛的作風は既存のスタイルを「破壊」することを前提とする。その氾濫は既存のスタイルを脅かすものである。この認識を持った時、自分の中のモヤモヤが一つ形になったような感覚を得た。
ここで冒頭で示した結論に至るのだが、こちらを侵略することを生業とする「崩し」の一派に対して抵抗感をはっきり示すことは自然である、と思うことができるのだ。
これはただ「新しいムーブメントが立ち上がって、それに抵抗感を持つ層(いわゆる老害?)がいる」というだけの単純な状況ではない。一般的ムーブメントとは異なり、既にコミュニティにいる人間の活動の地盤、それを「破壊」することを目的とした層が出現してきているのである。
「新しい動きについていけない人間は衰えているだけだ」というのはある状況では真っ当に思えるのだろうが、思考停止で使ってよい文言ではない。「新しい動き」がこちらに損害をもたらすことで成立するようなものである、そんな状況は普通とワケが違う。
冒頭の「音MADは自由」論然り、「思考停止のフレーズ」が蔓延している所為でこうした破壊活動に口を噤まざるを得ないというのは何とも言い難い。
そもそも「口を出す」ということ自体を「正しい/間違っている」で判断するのはいかにも二元論的で幼稚である。「自分の居場所を外敵から守る」ということは各々の主義や文脈に依存することであり、正/誤で判断していいものではない。もっと自分の居場所のために抵抗しても構わないと思う。
更に言うと、逆に、「破壊行動」のムーブメント自体も「間違っていない」。これは強調しておく必要がある。彼らには彼らなりのポリシーがあるのだろうし、彼らなりの居場所があるのだろう。
しかし、彼らが「破壊」をテーマにしており、それを拡大してきている以上、対立が生じるのは当然なのである。正しいとか間違いとかではない。それが自然なのだ。
Twitterの議論ではしょっちゅうだが、議論を「絶対的正しさ/誤り」で判断し終わらせようとする動きがある。しかしそんなものは存在しない。あるのは各々の立場のみである。
※二元論-相対論の話は下の記事を参照すると良い。
もはややたらめったら「崩し」をしたがる人に自覚を求めるようなことはしないが、過剰な「崩し」を「破壊」であると認識し、それに抵抗する自然さを自分の中に見つけることは、「崩される」側になった際に立ち回りやすい、自分の中のモヤモヤに落としどころを付けやすいのではないかと思う。自分たちの領域に侵攻してくる者に対し、明確にNOと言うことは自然である。少なくとも自分は抵抗の声を上げていこうと思う。