【雑記】前衛的音MAD、に対して思うこと

※こういう記事を出すたびに書きますが、この記事はクローズドなシェア・あるいは自分を省みる/整理することを目的としており、誰かを変えてやろうという狙いを持ったものではありません。論としても粗が目立つため、あくまで参考程度に留め、あまり真に受けずに見ていただけると幸いです。

 

「前衛的作風」と言われて、皆さんはどんな動画を思い浮かべるでしょうか。

僕は伊尻さんやmega(目が)さんの動画を思い浮かべます。

彼らの動画は、既にある「音MADのスタイル」に挑戦するようなものになっています。

そして今、そういった先駆的な「前衛動画」に憧れ、同じような作りの動画がみるみる増えていきました。

いやしかし果たして、「前衛」とはそれほど単純なものなのでしょうか。

先駆的前衛動画の何が魅力か?その大部分は、「既存のスタイルに対しあえて挑戦的に踏み込む、その目新しさ」にあるのではないかと思っています。

前衛芸術全般に話を広げようと思います。(専門外なので知識が付け焼刃です。)

アバンギャルド」とも呼ばれる前衛芸術の類はやはり攻撃的・破壊的な印象的があります。古典的な自然美・人体美に背くように、あるいは政治的思想すらも混ぜ込みながら、古来の文化観に挑戦していくような作品群が今なお盛んに描かれています。「俗物であり、冒涜的だ」という意見も出る一方、支持者を集めているジャンルです。

もう100年ほど前に先駆的に取り組んでいたピカソマティスは決して古典的ギリシア美術を蔑ろにしていた訳ではなくむしろ深い理解を示していたそうですが、ともあれ現在は「古典美に対抗するジャンル」としての見方が強いようです。

(この経緯に関しては下の記事参照です。一応参考までに。)

https://www.theguardian.com/artanddesign/2010/jun/20/modern-art-all-in-mind

「前衛的音MAD」も同様の雰囲気を纏っていると感じています。モーレスター、シュガークンナとビターダッシュシリーズに代表される作品群が支持を集めたのは、やはり「今までにない(過激なほどの)挑戦性」があると思います。個人単位で言えばそれだけではないかもしれませんが、これほど広くウケたのはやはりこの特色が大きいのではないでしょうか。

前衛芸術と前衛音MADがある程度類似したものであるとするならば。ここで、以前聞いた2つの意見を思い出しました。(どこで見たか曖昧なので参考文献に書けません。頭にも書きましたがこの記事は論文とかではないので、信用しすぎないで下さい。)

一つは、「前衛芸術は古典芸術の存在がなければ意味を持たない」という意見。

確かマルセル・デュシャンの『泉』に言及した文章だったと思うのですが、やはり『泉』は顕著な例です。何でもない男性用便器を美術展に出展しようとした出来事を機に、皆がアートとは何かを考えさせられた、ということがあったそうです。

これがどうして「芸術に関わる働き」として見られたか。それは他の芸術品の存在があった、「芸術展」という場であったからにほかなりません。

前衛芸術全般に話を戻しましたが、「既存のフォームに対抗する」ことは、当然その「既存のフォーム」がないと為し得ません。古を打ち壊そうとしながらその古がないと存在できない皮肉な文化である、といったニュアンスのことも書いてあったように記憶しています。

古典美に呼応した先駆者たち(芸術全般の話です)はともかく、現在多い「対抗しよう」という姿勢は、そう考えると何とも言い難い矛盾を孕んでいるようにも感じます。

そしてもう一つ、「前衛芸術を手法として模倣することは何の意味も持たない」という意見。

こちらも中々刺激的な意見ですが、考えてみると納得のできる部分があります。

「先人の築いた文化の逆を行く」ことを目的にした芸術作品が出たとして、その魅力の大部分はやはり「逆である」ことにほかなりません。そうなったとき、それを模倣して作られた作品は、いったいどんな魅力を持つのでしょうか。「既定のレールから外れる」つもりが自ら「既定のレールに進んで乗ろうとしている」、ちぐはぐなものになってしまうのではないでしょうか。

もちろん、ピカソキュビズムが持つ美や表現性に感応することは矛盾していないでしょう。しかし、デュシャンの真似をして美術展に自分の便器を持ち込んだとして、それは何の意味も持たないと僕は感じます。あるいはピカソの絵が「革新的だから好き」だとしたら、古典美を経ず表面的にそれを真似るのはどうにも違うような気もします。

芸術の話が長くなりました。これは音MADにも言えることなのかな、と感じています。

これまで革新的な作品は人々の心を動かしてきました。しかし、それを表面的に真似てしまうことは、目的に反していやしないでしょうか?

「あえて」音を割る、「あえて」雑にテキストを置く、「あえて」途中で飽きる、「あえて」量産する。蔓延した今、それらは「あえて」の意味を持っているでしょうか。

それらに独立した「美」を感じているならともかく、安易に革命家になりきろうとしていないでしょうか。

これらのミミクリ(模倣)は思考なしに簡単に得られてしまうという恐ろしい誘惑力があります。しかし「前衛」の模倣は一般的な模倣とは異なり、本来もっと慎重になるべきものなのかもしれません。今一度踏みとどまって考えたいところです。