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紹介頂いた作品(現代)

うひゃあ(雪と桜)



 わたしの恋人の名前は櫻井桜子という。


 櫻井さんとか桜子ちゃん、学生時代にはサクサクとも呼ばれていた。髪の毛先が外国人の子供のようにカールした、森に住む小人みたいな女の子。


『櫻井さんって、』

『え? なに?』


『体に綿でも詰まってそうよね』


 そんな彼女は驚く度に「うひゃあ」と言う。本人は頑なに否定するのだが、間違いなくそう言っている。「ひゃっ」でも、「うわぁ」でもなく、「うひゃあ」だ。


 思えば高校で出会い、初めて言葉を交わした際にも言っていた。


 あの日のことは、今でもよく思い出す。入学式の日、教室に何か可愛らしいものが紛れ込んでいると思ったら、とてとてとやって来て前の席に腰かける。


 ごそごそきょろきょろした後、何かに気付いた様子になって振り返った。


『あのっ、よろしくね』


 一瞬の運命論が香る。それが、桜子だった。

 簡単な自己紹介をした後、感想を述べて、一うひゃあ。


 天然パーマ由来のふわふわショートカットが特徴的で、笑うとだらしない顔になる、目がくりくりの女の子。身長は145センチで、今も昔と殆ど変わってない。


 その姿形が、とても愛らしくて――。


『おはよう、櫻井さん。はい、これ、金平糖あげる』

『え? ありがとう……でも、どうして?』


『金平糖で体が出来てそうだから』


 顔を合わせる度、つい、からかいたくなってしまった。

 出会って数日後、金平糖を渡して、二うひゃあ。


 櫻井桜子と佐藤雪乃。春と冬にそれぞれ降るものが、名前に入った二人。

 席も並び順も前後していて、入学以来、何かと話す機会は多かった。


 明るくて朗らかで、からかうと面白い、童話に登場する小人さんのような外見の女の子。よく笑う彼女。それだけで人を救えそうな笑顔を、よく、見せる。


 そんな桜子とは対照的なのが、わたしだ。中学の頃には雪女というあだ名を密かにつけられていて、成程、それはわたしの特徴をよく現しているように思った。


 長いストレートの黒髪に、きつい顔立ち。高めの身長。小学校のある時期からは友達付き合いも悪くなり、一人でいることが多くなった。澄ました顔の変な女。


 その変な女は、桜子からはよく分からない性格の持ち主として映った筈だ。


『あぁ、佐藤さん? 中学の頃からあんな感じなのよ。話し掛ければ応えてくれるし、別に人見知りって訳でもなさそうなんだけどね。一歩引いてるっていうか』


 自分から女の子に話し掛けるのは、一日三回だけと決めていた。

 高校から始まったお弁当も、教室から抜け出して、一人で食べて……。


『あ、あの、佐藤さん』

『あら、櫻井さん。こんな中庭までどうしたの?』


『え、えっと。お昼、いつも一人だよね』

『そうね。わたし、一人が好きだから』


『え、あ……そうなんだ。あの! いつも金平糖、ありがとう。とってもおいしいよ。帰りのバスとかで、ポリポリ食べてて。それで、もしよかったら、私と』


 雨の日。桜子は名前の通り、桜色の傘をさす。

 桜子と出会うまで、わたしはヒアシンスブルーの傘をさしていた。


 美しく澄んだ明るい水色とは異なる、曇り空のように濁った青。鈍い青。

 今にも雪が降りてきそうな、不安定な青。


 色彩というのは面白い。中学までは美術部に所属していたからよく分かる。赤と白を混ぜて桜子のような桜色が出来ることもあれば、配合によっては嘗てのわたしのような、ヒアシンスブルーが出来ることもある。少しのことで変わる色。


 今のわたしは緑。若葉色の傘。

 青緑よりも柔らかく、黄緑よりも晴れ晴れとした、若い桜の葉の色の傘。


 彼女の色と溶け合うように、わたしはわたしの色を変えた。


 それがきっと、生きていくことなんだと思う。お互いに影響を及ぼし合うということ。例えばわたしが好きなものを桜子も好きになり、桜子の好きなものをわたしも好きになる。矛盾したり螺旋したり、作用したり反作用したりしていく。


 だけどそれだと、桜子の色もわたしの色の侵食を免れない。

 そのことについて桜子がどう思っているのか、聞いたことはない。


 正確に言えば怖いのだ。尋ねるのが。よかったの、と改めて問うことが。桜子は優しい。性格も可愛らしい。世界の何処かに秘密の生産工場があって、そこで妖精さんたちが綿や金平糖なんかを使って、桜子みたいな人間を作ってるんだと思う。


 顔や雰囲気に似合わず、わたしはファンシーな空想をしたりする。

 甘いものや可愛いものを、好んだりする。


 そういえば昔、その秘密の生産工場の話をしたら、桜子はまた言ってたっけ。


『うひゃあ』



 * * *



「おはよう、雪乃ちゃん」

「おはよう。今日も髪の毛、可愛いくセットしてるわね」


「……寝ぐせだもん」


 朝、キッチンでコーヒーを淹れていると桜子がのそのそと起き出してくる。桜と緑。色違いのお揃いのパジャマに身を包む、似てない二人。今年で二十七歳になる私たちは、随分前から同棲していた。同棲。一般的にいうなら同居なんだろう。


 わたしは小さい頃から、女の子が好きだった。


 それが普通じゃないということには、直ぐには気付けなかった。幼稚園の頃、大好きだったヒメカちゃんは、ケンジくんのことが好きだと言っていた。ケンジくんはわたしのことを好きだと言った。わたしはヒメカちゃんが好きだと言った。


『え~~~、おかしいの~~~』


 おかしくないよ、本当だもん。幼稚園の頃なら、そういうことも女の子にはあることだと思う。自身に対し、違和感なんて覚えなかった。ヒメカちゃんが好き。嘘偽りのない本音。彼女を見ると幸せになれる、優しい気分になれる。好きが好き。


 それが小学校も高学年になると、徐々に普通じゃないんだと気付き始めた。決して男の子になりたい訳ではない。それなのに、好きになるのは女の子ばかり。


 思春期に異性に惹かれるようになることを、先生は「正常な発達」と話した。


 女の子だけの秘密の授業。そこで何気なく先生が口にした言葉に、わたしは愕然となる。なら女の子に惹かれているわたしは、異常なのか。おかしいのか。


 授業後、わたしは一人、皆とは違う意味で暗い面持ちとなっていた。


 先生に尋ねたかった。友達に聞いてみたかった。でもこんなことを相談したら、噂が広がるかもしれない。異常者の烙印を押され、後ろ指を指されるかもしれない。ならお母さんに。いや、それも駄目だ。お母さんを悲しませるかもしれない。


 いやだ、怖い。わたしは異常なんかじゃない。異常なんかじゃ……。

 ある予感が溶けかけたキャラメルのように、心にべったりと貼り付く。


 ――でも少なくとも、きっと、正常ではない。


 変なわたし。普通でないわたし。そんな自分を否定しようと、男の子を必死に好きになろうとした。皆が話す男性アイドルのことを勉強した。だけどダメだった。わたしの中の素敵だな、イイな、と思う感情は、女の子にしか働かなかった。


 こんなのきっと、わたしだけだ。変な女。気持ち悪い女。


 零した水のように、疎外感が裾を広げる。気味悪がられるのが怖くて、ある日から暮れやすい道を一人で歩くようになった。出来るだけ皆と、女の子と距離を置いた。


 中学の頃もそうだった。好きになると触れたくなる。もっと笑顔を見たくなる。想いを、聞いてもらいたくなる。やめろ、わたし。駄目だ、そういうのは。


 わたしは普通じゃないんだ。だから、身を屈めて、ひっそり生きなくては。


『大切にしても、いいんだよ』


 それが桜子と出会って変わった。あまりに可愛くてつい話しかけてしまったけど、出来るだけ高校でも一人でいるつもりだった。それなのに桜子はわたしに懐いてくれた。いつしか友達になって、距離が近づき、彼女のことが次第に……。


 高校二年生の秋は、わたしにとって特別な秋だ。

 わたしは人生で初めて、自分の特殊な悩みを友人に打ち明けた。


 ある日の学校帰り、中学時代の美術の先生と町中で偶然再会した。驚いていた。一呼吸の間を置き、それでも必死に笑いかけてくれた。先生はお腹が大きかった。


 わたしは口を閉じたまま目を見開く。

 気付けば一緒にいた桜子を置いて、走り出していた。


 大好きな、先生だった。


『じょ、冗談よね? 佐藤さん』

『わたしは……本気です』


 中学生の頃の失敗。眼鏡の似合う知的なあの人。先生なら受け止めてくれるかもしれないと、そう甘えて、困惑させて、抑えきれなくて、それで……。


 まって、まって、雪乃ちゃん。


 明らかな異変を察知した桜子が追いかけて来る。そこで話した、公園のベンチに腰掛けながら。美術の先生を本気で好きになり、中学三年の頃に失恋したことを。


『こんなわたし、変よね』

『そ、そんなことないよ。ちょっと驚いたけど。でも、雪乃ちゃん、本当に好きだったんでしょ? だったら』


『え……?』


 そこで桜子は、わたしの手を握り締めながら言った。


『大切にしても、いいんだよ』


 鮮明に思い出せる、彼女の真剣な眼差し。瑞々しいその頬。潤んだ瞳の輝き。

 あぁ、そうだ。多分、そのときからだ。


 どうしようもなく、桜子のことを好きになってしまったのは。


 さぁっと音を立て、胸に悲しい喜びがさし寄せる。

 泣きそうになった。顔を合わせていられずに、前髪に表情を隠す。


『……それなら』

『ん、なに?』


 それならわたしと、お付き合いしてくれる?


 そう言いたくなる自分を必死で抑えた。わたしが桜子に対して特別な好きを抱いていることに、彼女は気付いていなかった。年上の同性を好きになり、拒絶された過去。再会し、動揺した現在。純粋にわたしのことを気遣ってくれていた。


 どうしようもない矛盾を、生きざるを得ないこと。好きな人への好きを大切にすることは、好きな人を悩ませ、困らせることになってしまう。見慣れた矛盾。


『ううん、なんでもない』


 でも嬉しかった。自分の感情を、生まれた好きを大切にしてもいいだなんて、言われるとは思わなかった。それで十分だ。だからこそ、打ち明けることを控えた。


『ありがとう』


 そう言って、出来るだけ、柔らかく笑った。


 後日、美術の先生と連絡を取った。会う場所を決めて花束を渡した。ご結婚おめでとうございますと、言った、言えた。先生は息を零しながら微笑んでくれた。


『雪乃ちゃん』

『桜子。ありがとう、ついてきてくれて。もうわたし、大丈夫だから』


『そっか。なら、えっと、あ、甘いもの、食べに行こう。今日はたっぷり』

『そうね。それもいいかもしれないわね』


 二人、並んで歩き出す。身を切るような孤独も、昼の間は、その明るさに紛れているから大丈夫。桜子の笑顔に切なさを感じることもあるけど、わたしは大丈夫。


 誰かに好かれるということ。その意味を改めて考える。友達思いの優しい彼女。男とか女とかじゃなく、性差を超えて惹かれるものを、桜子は持っていた。


 それでも、だからこそ、わたしは自らの想いに口を噤んで高校時代を過ごした。

 それから……。


「雪乃ちゃん、またコーヒー淹れながら考え事? 危ないよ」


 その言葉に我に返る。視線を手元から転じれば、幼稚園で人気の小人先生が、眠そうな目を指でこすりながら、隣まで来ていた。桜子は朝に弱い。


「あぁ、うん。少し、昔のことをね」


 最近、どうも考え込むことが多い。自分を切り替えようとしていると、桜子がすんすんと鼻を鳴らす。いい匂い、そう言った。自然、優しい顔になるのが分かる。


「ん」

「もうすぐだから、待っててね」


 桜子の頭に手を置き、人が愛犬を撫でるように、もふもふの髪を愛でた。気持ちよさそうに目を閉じる彼女。ちょっと間抜けだけど、幸せそうで安らげる顔。


 手を頭から離し、コーヒーメーカーに向き直る。

 桜子が作業を見守りながら、わたしのパジャマの裾を掴んで言う。


「牛乳はたっぷりね」

「はいはい」


「あんまり苦くしないでね」

「はいはい。わかって…………あ、しまった。牛乳切らしてたんだった」


「うひゃあ」

「ふふ、冗談よ。ちゃんと準備してあるから」


 二十七歳。


 桜子の隣にいることは、ショートケーキの上にイチゴが乗っているくらいに当たり前のことで、開き慣れた好きな絵本を開くことくらい、安心できることだった。


 初めて出会った日から十年以上の歳月が過ぎている。それが嘘みたいに思えた。社会人になって生活パターンも心の在り方も変化した。仕事によって収入を得て、着る物や持ち物、食べる物も、学生時代に比べ少しは贅沢が出来るようになった。


 それでも大事なことは何も変わってない。何気ないことに微笑み、可愛い物に目を輝かせ、甘い物を大切にする。二人で一緒にいること。陽だまりのような時間。


 それと同じように、変わらずにあるもの。陽だまりの底にうずくまるもの。


 ――だけど、私たちは、このままでは……。


 その思考を中断させるように、桜子がわたしに触れた。


「佐藤さんだから、お砂糖もたっぷりね」


 何気なさを何気ないままに。心満たされ、わたしは笑顔で応える。


「もう、桜子。その冗談が好きね」


 たっぷりの砂糖と共に、温かくしておいた容器に溜めたミルクを、コーヒーに加える。白と黒が音もなく、今日も混ざり合っていった。



 * * *



「申し訳ないんだけど、少し残業を頼めるかな?」

「あ、はい。大丈夫です」


 大学卒業後、地元から電車で一時間半の距離にある中核都市の調剤薬局で、薬剤師としてわたしは働き始めた。桜子も同じ市内の幼稚園に務めている。


 一時間ほど帰りが遅くなる旨を、携帯電話を通じて桜子に連絡する。直ぐに、「お疲れサマンサタパサ」という返事がくる。「お料理作って待ってるね」とも。


「お疲れサンタマリア」


 目を細めて静かに言った。


「え、なに? 何か言った?」

「あ、いえ。申し訳ありません。つい独り言を」


 はにかんで応えると、職場の上司に当たるよっしゃーさんが笑った。頻繁に「よっしゃー」と言うことから、わたしの話を又聞きした桜子が命名したのだ。


 年齢は確か三十八歳、小さな娘さんもいる。よっしゃーちゃんだ。携帯電話の待ち受けに設定している写真を、以前、見せてもらったことがある。家族の肖像。


 自分にだけ特別な笑顔を見せてくれる誰かと結婚し、子供を作るということ。


 人間として当たり前の営みに参加することが出来ないだろうと思っていたわたしは、職業選択には慎重だった。わたしはきっと、祖父や祖母、父や母が浸ってきた遺伝子の川には、浸れない。座るときはずれた自分自身の膝を抱えて座り、歩くときは、ずれた自分自身の両肘を抱えて歩く。群体の一部には永遠になれない自分。


 高校生の頃、公務員か薬剤師を目指すかで悩み、後者の道を選択した。手に職という程ではないが、その資格があればどこでも生きていける。一人でも大丈夫だ。


 わたしはもうずっと昔から、大人になったら一人で生きていくんだと、そう思っていた。唯一の誤算は、桜子がわたしの想いを受け入れてくれたことだった。


 そんなことがわたしの人生に起こるなんて、思いもよらなかった。お店で買ったシュークリームに、マスタードが間違えて入っていることくらい、あり得ないと。


『えい』

『うひゃあ』


 大学は異なっていたけど、大学生になっても私たちはよく一緒にいた。あの日、お酒を飲んでみようと初めて居酒屋に赴いた。桜子はお酒に強くて、わたしは弱かった。それぞれのアパートに戻る帰り道、わたしが後ろから桜子に抱きつく。


『もう。雪乃ちゃん、酔っ払ってるの?』


 呆れたように、困ったように、でも楽しそうに桜子が言う。

 永遠にも思える一瞬を経て、言葉は口から零れていた。


 口に出しては、いけない言葉が。


『すき』


 彼女の可愛らしい耳を掠める、わたしの想い。アルコール混じりの熱い吐息。


『え? う、うん。私も雪乃ちゃんのこと好きだよ』

『さくらこ、だいすき』


 それから柔らかい頬にキスをした。化粧水の味がした。驚かれて、酔っ払っても冗談でしちゃダメだよ、と、笑って怒られた。冗談。それこそ冗談だ。


『冗談じゃ……ない』


 桜子から体を離す。不機嫌そうな声で言ったことを、覚えている。

 友達を、友達でなくてはならない女の子を真っすぐに見つめた。


 桜子の口が、え、の形に開かれる。


『冗談じゃ、ないの』


 訳もなく、涙が瞳から溢れていた。


『冗談に、できないの』


 どうして泣いているのか、分からなかった。酔いは覚め、全てが終わっていく音を聞きながら両手で顔を覆う。しゃくり上げるように続けた。止められなかった。


『好きなの、ずっと、ずっと、大好きだったの』


 あれ以来、お酒を呑むのは控えた。理性を痺れさせる薬。危険な飲み物。鳴るような静けさが、身にしみた。困らせたくなかった。困らせるつもりじゃなかった。


 涙を拭い、必死に微笑む。ごめんなさいと言う。桜子は茫然としていた。

 鼻を啜る。さようならと言って、逃げるようにその場から去った。


 ――これで、もう、本当に、終わったのだ。


 気持ち悪い友達でごめんなさい。友達のフリをして、一緒にいてごめんなさい。

 何度も心の中で桜子に謝った。


 好きな思いを大切にしてもいいと言われたけど、それで迷惑をかけてはいけない。自分の好きを押し付けてはいけない。それはただ胸に抱え、我慢するものだ。


 わたしが悪い、わたしだけが悪い。それを口にしたわたしが悪い。胸中で何度も繰り返す。途中、吐きそうになるのを堪えて足を止め、携帯電話の電源を切った。家に辿り着き、化粧も落とさずベッドに蹲る。泣くな、わたし、泣くな、泣くな。


 気づくと眠りに落ちていた。新聞配達のスクーターの音に目を覚ます。目覚めの良さを呪いながら、そのとき、ふと、何かに見られている気がした。顔を上げる。


 孤独によく似た瑠璃色が、窓の外の空に、広がっていた。


 誘われるように、カーテンの引かれていない窓辺に立つ。その色を瞳に映しながら、考えた。これが、わたしの色だ。これからの色だ。もう桜子と連絡は取らないと決めた。ごめんなさいと、ありがとう。こうやって終わって、よかったのだ。


『どう、して?』


 それなのに二週間後、桜子はわたしの前に現れた。アパートにやってきた。

 空がたそがれる頃。玄関口に立つ、友達同士だった二人。


『雪乃ちゃん。あのとき、震えてた。すごく、震えてた』

『え……』


『いつから、だったの? いつから、その、私のことを……』


 そこでわたしは、自分の想いを再度打ち明けた。

 諦観という清々しさと共に。


『高校生の、時からよ』


 桜子のことを、好き、だったことを。特別に、好き、だったことを。

 迷う必要も、我慢する必要もなかった。全ては終わった後のことなのだから。


『嬉しかったの、自分の好きを大切にしていいんだって、言われて。ずっと、変だと思ってたから。否定してたから。でも、ごめんなさい。本当なら隠しておくべきだった。それなのにわたし……き、気持ち、悪いわよね。もう、これで……』


 そこまで言うと、俯きがちだった顔を桜子が上げる。


『気持ち悪いなんて、そんなこと、思わない』


 強い否定の調子に体が硬直した。信じられない思いで、目の前の大好きな女の子を見つめる。ひょっとして友達としてやり直してくれるのだろうか、そう考えた。


 だが思いとは異なり、桜子は謝罪の言葉と共に、不思議なことを言った。


『私の方こそ、ごめんなさい。じゃあ、私、雪乃ちゃんのこと、ずっと苦しくさせてたんだね。私、あの先生みたいにキレイじゃないし、雪乃ちゃんが好きなモデルさんとか女優さんとかとも、全然タイプが違うし……。だから私への好きは、違う好きだと思ってたの。でも、本当に好きで、いてくれたんだよね。だったら――』


『桜子、あなた、何を……』


『私も、まだ、分からないけど、雪乃ちゃんのこと、あれからずっと考えてて。どうすればいいか……分からないけど。でも、大切に、大切にしたいって』


 その日を境にして、わたしは桜子の道を踏み外させてしまった。普通から遠ざけてしまった。日々を積み重ね、友達ではなくなり、私たちは特別な関係になった。


 当然ながら、そこには沢山の戸惑いがあった、躊躇いがあった。

 でもそれ以上に――


 幸せ、だった。


 好きな人が、自分の想いを知って尚、傍にいてくれること。それがこんなに嬉しいことだなんて、知らなかった。わたしを受け入れてくれた桜子。諦めてばかりの人生に、桜色に似た春が来た。空が高く、空気が甘い春が。温かい季節が。


 ――それでもたまに、自分が何者なのか考えるときがある。


 自分のことを考えると、立っている場所が真っ暗のように感じることがある。インターネットを通じて、わたしと同じような人たちがいることも知っていた。そういったコミュニティがあることも、分かってはいた。それでも安堵には到らない。


 ――私たちは、どうなるのだろう。


 考えが過ると、景色から明度と彩度が奪われる。空が低くなる。だから意図的に思考を停止させてきた。考えない。考えない。考えては、いけない。


 そうやって過ごしてきたら、二十七歳になっていた。

 もう少しで桜子は二十八になる。二十八歳に、なって、しまう。


 哀しみに似た粒子がちらちらと、日々の中、粉雪みたいに舞う。わたしは息をする。息をするだけで粒子は体に入り込む。心の奥深くに、ひっそりと沈殿する。


 時間をかけて降り積もり、地層のように固まったソレ。


 無駄だと分かっているのに、時々、わたしは呼吸を止める。魔法が起こればいいと切に願い、しんと瞼を閉じる。三つ数えたら世界にポンと、魔法が起きるのだ。


 さぁ唱えよう。ワン、ツー、スリー。


 ゆっくりと、目を開く。行くばかりで戻らぬ世界が、そこには広がっていた。

 世界はいつものように流れる。日々は、近い。



 * * *



「それじゃ、いってくるね」

「えぇ、いってらっしゃい」


 二十代も後半になると、友人の結婚式に赴くことが多くなる。今日もまた、桜子は職場の同僚の結婚式に向かった。可愛らしい、着飾った子供みたいな姿だ。半年前には高校の同級生の結婚式に呼ばれていた。その前にも、大学の友人の……。


「帰ったら、二人でカタログギフト選ぼうね」


 無邪気に、なんでもないように言って扉が閉まる。軽く振っていた手を下し、わたしは玄関からリビングへ戻る。スリッパが床を打つ音が思考にリズムを作る。


 桜子は未来についてどう思っているのだろう。


 仕事で他人の子供を預かりながら、日々どう思っているのだろう。わたしは感情表現の幅が狭く、口数も多い方ではない。大切なことを、あまり、聞けない。


 大切なことを、あまり、話せない。


 私たちがいくら未来に関心がないように装っても、未来は面白がるように私たちを覗き込んでくる。どうやら、とても感心があるらしい。人間というやつに。


 わたしが恐れていること。それは、桜子に後悔させてしまうことだ。


 絵本のお姫様のように、魔女の呪いが解けること。はっと驚いて、どうして女性なんかと付き合っていたんだろうと訝しみ、どうして男性と付き合ってこなかったんだろうと後悔し、だけど時が無情に過ぎていて、取り戻そうと必死になること。


 二十六歳のときには、あと一年と、そう思った。

 二十七歳のときには、これで最後と、そう思った。


 わたしと桜子の間には、気付けば長い年月が流れていた。


 大丈夫、今年こそ言える筈だ。どんなに辛い別れでも、いつかはきっと乗り越えられる。決して忘れないと約束しても、いつか人は忘れる。抑制の利いた、加工された虚しさや悲しさにすり替えることが出来る。それが大人になるということ。


 わたしはもう、十分に貰った。彼女に人生と未来を返す時だ。だから……。


「だって桜子は、わたしさえいなければ、普通の女の子だったはずだから」


 だからわたしは一ヶ月後のその日、桜子の二十八歳の誕生日に、そう言った。


「今ならまだ戻れる。戻れるの。わたしがいなければ、きっと今頃、桜子にも結婚の話が出ていたと思うの。ううん、あなたの大好きな子供だって」


 震える声で、ようやく、言えた。


「だから、もう、別れましょう」と。


 予約したフレンチの個室での出来事。コースが終わり、デザートにスプーンを入れていた桜子は「うひゃあ」と言わなかった。へ、と、らしくないことを言った。


 どこかで、桜子もそういうことを考えていてくれたらいいなと、無責任に思っていた。うん、そうだね、と。少し悲しく微笑んで。今まで楽しかったね、と。


「ど、どうして」


 でも現実は、そうはならなかった。

 心細げな目に、わたしの心細げな顔を映し出す。


 桜子が動揺していることに気を挫かれそうになりながら、言葉を続けた。


「ごめんなさい、ずっと言い出せなくて。あなたが、わたし、本当に大好きだったから。離したく……なかったから。だけどこれ以上、迷惑はかけられない。桜子に未来を、返さなくちゃ。言ってる意味、分かるでしょ?」


 迷惑をかけられない。

 そこにも何割かの、心の動きにおける事実としてのドラマは含まれている。


 心の陰影を、わたしはじっと見つめる。暗く湿ったところで、蠢くもの。


 そこにあるのは、怯え、だ。本当は自分が傷つきたくなかったから。後悔している桜子を見たり、或いは想像したりして、傷つきたくなかったから。


 大好きな人が自分とのことで後悔する姿。それは誰もが恐れる未来じゃないだろうか。わたしには、それがよく見える。わたしでは彼女を真に幸福には出来ない。


 ――わたしが男性だったら。


 おかしな仮定だ。とても、おかしな。


 視界の内では、甘いソースがかかった桜色のアイスが、片づけられずにあった。

 下がりがちな視線を、重力に逆らうように懸命に上げる。


 用意していた二つのプレゼント。一つは紐が解けて、桜子の直ぐ傍にある。彼女が好きなブランドのルームアロマ。日本限定の、桜をイメージした香りだ。


 もう一つのプレゼントも、きちんと、紐を解いてもらわなければ。


「今まで、甘えていてごめんなさい。そして、ありがとう。わたしを受け入れてくれて。うれしかった。でも、私たちに未来はないの。だから、もう、別れ――」


「そ、そんなことないもん!」


 説き伏せるように淡々と紡いだ言葉は、桜子の声で遮られた。

 恐れるように彼女を見る。泣きそうに、笑っていた。


「どうして、どうしてそんなこと言うの? 私のこと、嫌いになっちゃった?」


 震える声でなされた問いかけに、目を伏せた。

 そんな訳、ある筈なかった。


「好きでも、どうしようもないことって、あるじゃない」


 過去の光景を手繰り寄せるように、目を細めて言う。雪と桜は重ならないように、作り物の空から光は注がれないように、どうしようもないことは、多い。


 なによりも、もう、私たちは大人だ。大人と呼ばれる年代になった。

 短慮を楽しむのではなく、思慮深さを友人とするような年代に。


「桜子のことが、昔も、今も、大好きよ。大好き。でも、だから――」

「よかったぁ」


 それなのに、桜子は全てを安心しきった顔で、そんなことを言うのだ。


「え?」

「私も、雪乃ちゃんのことが大好きだよ」


 わたしが桜子の文脈を見失っている間に、彼女は続ける。


「あのね、雪乃ちゃん。私は恋愛経験なんて、殆どない。それこそ、雪乃ちゃん以外とつきあったこともないよ。それでもね、確かに感じているの。世界でいちばん好きなのは、雪乃ちゃんだって。これ以上に深い思いは、きっとないって」


 わたしは愛しさからくる苦しさに、眉をひそめた。


「やめて、桜子、もう、やめて」


 視界が一度にぼやけ出す。情けない。


 わたしが好き。それこそ間違いなのだ。人目がないところで、こっそり桜子の方から手を繋がれても、どれだけ一緒に過ごしても、疑念は晴れることがなかった。


 桜子は、呪いにかかっているだけ。呪いをかけられているだけ。

 その呪いは、いつか解ける。正常な営みに、彼女は遅かれ早かれ、戻っていく。


『でもそれは、変なことではありません。思春期に異性に惹かれるようになることは、正常な発達を遂げている証拠です。だから――』


 桜子は異常な人間じゃない。異常な人間にまきこまれた、正常な人間だ。

 一般的な家庭を作る力がある。遺伝子の流れに参加できる、立派な女性だ。


 だというのに、桜子は昔のことを持ち出して言う。


「雪乃ちゃんのこと、大好きだもん。ふふ、ちょっとだけぶっきら棒さんに見えるけど、本当は優しくて。私のこと、昔からいつも一番に考えてくれてたよね。高校生の頃もそう。雨の日にバスに乗るとき、絶対に私を先にいかせてくれた」


 小人さんは、いつまで経っても気づかないのだろうか。


「乗るときにどうしても少し濡れちゃうのに、こっそりと傘を後ろから差し出してくれて、濡れないようにしてくれた。でも雪乃ちゃんは、それを言わないで」


 違う世界に住む人間に(そそのか)されたことを、(さら)われたことを。

 悔しさによく似た心地で、気づくと、感情の儘に声を上げていた。


「あなたに、あなたに、濡れて欲しくなかったから! そんな些細なこと、よく……覚えて。わたしは、出来るなら、どんな些細なことでも、あなたにしてあげたかった。でも、わたしは、あなたを……わたしに引きこんで、未来を、奪って」


 未来。とてつもなく輝かしいもの。

 父親と母親。二人の笑顔に挟まれた、健やかな子供の、光る面のような。


 わたしが全身を軋ませるように訴えると、桜子は首を左右に振る。


「奪ってなんかない。奪ってなんかないんだよ。そっか、ごめんね。私たち、そういうこときちんと話してこなかったもんね。いっぱい不安にさせて、ごめんね。大切なことって、口に出して、なかなか言えなくて。ごめんね、雪乃ちゃん」


「違う! 違うの、謝るのは、私の方で」

「昔は、確かに女性同士なんて不思議だと思ってたよ」


 そこで桜子は鼻から息を抜くようにして、優しい眼差しでわたしを捉えた。


「でもちゃんと勉強して、そういう人も沢山いるって分かったの。面白いよね、胎児の頃には性別なんてなくて、男の子にも女の子にもなる可能性を秘めてる。それから色んな作用で男の子になったり、女の子になったりする。私はこうして、女の子として生まれた。でも男の子として生まれる可能性も当然あって――」


 桜子の声は、甘い。言葉も砂糖菓子のように甘い。

 だがお砂糖の弾丸では、現実は撃ち抜けない。


 勉強して、と彼女は言った。だったら分かる筈だ。どうしようもなく未来は閉ざされていることに。まだ、幸いなことに私たちは若い。色んなことをやり直せる。


「勉強したなら……分かるでしょ? ダメなのよ、どうしても」

「そう決めつけてるだけだよ。雪乃ちゃんが、勝手にそう思い込んでるだけ。私はこれからも、雪乃ちゃんとずっとずっと一緒にいたい。そう思ってる」


 ずっと。それは、夫婦のように、だろうか。だけど、そんな未来は望めない。私たちはどこまでいっても、永遠の他人だ。例え養子縁組を結んだとしても、書類の上で親族にはなれても、夫婦には、なれない。どうやっても、どうやっても。


「ねぇ、ずっとって、わたしたちにとって、ずっとって、なに?」

「ずっとはずっとだよ。ずっと一緒にいること」


「そんなこと、無理よ!」


 そこまで述べると、個室には沈黙だけが漂った。

 わたしはまた顔を伏せた。ほろほろと煮えるような涙が、ぽたぽたと落ちる。


「結婚、出来ないのよ。お互いを縛りつけるものもない。桜子が持ってる想いも、いつか、なくなってしまうかもしれない。怖いの、そのとき、桜子が自分の人生を後悔するのが。そんな風にあなたをしてしまって、自分が……嫌なの、わたしが、わたしのせいで、あぁ、わたし、責任もとれずに、本当に、わたしは」


 この零れ落ちる物のように、わたしも消えてしまえばいい。

 次々に湧き上がってくる物を疎ましく思いながら、そんなことを考えていた。


 ――消える? いや、そうか……。


 不意に、光が飛び込んできた心地がした。そうだ、何も告げず、桜子の前からわたしが去ればいいんだ。今頃、気づくなんて。そうだ、そうすれば……。


「ねぇ、雪乃ちゃん。人を好きになるって、どういうことだろうね」


 芽生えた決意に意識を注いでいると、桜子が小さな口から大きな問いを発した。

 ゆっくりと、濡れた面を上げる。口元を和らげて、彼女は続けた。


「私はね、自分の感情に素直になることじゃないかって、思うの。男性とか女性とか関係なくて、恋愛感情かどうかの判断だって実は問題じゃない。ただ好きを好きのままに、大事にすればいい。私はある日、そういうことに気付いたの。だから雪乃ちゃんと一緒にいることにしたんだよ。雪乃ちゃんのことが、好きだったから」


 少しだけ照れたようになった、彼女の顔。柔らかな頬。蝶の吐息のような瞬き。

 その全てが、愛おしかった。その全てが、大好きだった。


『雪乃ちゃん』


 春風を吹かせるような、桜色の彼女。冬の雪が春の桜に恋するように、慕っていた。恋していた。自分のもののように、自分以上のもののように愛し……。


「それでね、思うの」


 そんな彼女が、その桜子が、焼き菓子に歯を入れるようにさっくりと言うのだ。


「男の子に生まれても女の子に生まれても、私は雪乃ちゃんを好きになった。存在の芯で、胎児みたいに性別の関係ないところで、好きになったと思うんだよ」


 その無垢な顔を黙って見る。桜子が何を言っているのか、分からなかった。でも、何を言おうとしているのかは、分かった。分かりたかった。


 存在の芯で、性別に関係ないところで。


 分娩台で泣いていた頃に宿ったもの。白く淡い光を放つものが、わたしの奥底で、ゆらめき出すのを感じた。そっと胸に手を当てる。とても、温かくて。


「ねぇ、雪乃ちゃん。私は信じられるものを作りたいと思ってるの。男性のパートナーでも女性のパートナーでも、それは変わらない。気付けば六年、六年だよ。十年近く一緒にいて、その半分以上を一緒に暮らしてて、それで今さら、想いがなくなるなんて、ないよ。日常の中に私の想いはあるの。そのことに安心してる私がいるの。だから、きっと大丈夫。大丈夫だよ。不安にさせちゃって、ごめんね」


 体は知らず、小刻みに震えていた。


 ――信じられるものを、作りたい。


 言葉の連なりは、わたしの胸へと優しく落ちた。収まった言葉の形をなぞると、温もりが広がるのを感じた。信じられるもの。わたしが作り出したかったものも、多分、そうなんだろう。それは恋愛感情という、どこか曖昧なものでもなくて――


「夫婦という形式でもないと、私は思うんだ」


 もっとささやかで、


「ちいさいもの」


 二人が心から安心できる、


「そんな場所」


 嗚咽を呑みこむ為に、わたしは再度俯き、口元を手で覆った。


「そんな場所を、雪乃ちゃんとなら作っていける。ううん、もうそれはあるんだよ。朝起きると、雪乃ちゃんがコーヒーを淹れてて、私は凄く安心する。ねだると牛乳と砂糖たっぷりのミルクコーヒーを作ってくれる。私、とっても幸せだなって思う。雪乃ちゃんといると、とっても幸せ。私を幸せにしてくれるのは、雪乃ちゃん。私、雪乃ちゃんのいない生活なんて、もう考えられない。だから、」


 瞬間、意識の中で、火花に似たものが燃えた。その熱。その光。その美しさ。顔を上げると、わたしに入り込むような眼で、桜子がわたしを見ていた。


「だからお婆ちゃんになっても、一緒にいよ」


 揺れる想いの中に、桜子はそうやって入って来る。そんな目で、見ないで。わたしは決して、未来ではないのだから。過去、なんだから。わたしは……。


「でも、桜子、でも……」


 直後、店員のノックを受け、瞬時に自分を取り繕う必要性に迫られた。拙いながらも出来た。デザートを下げてもらい、お礼を言う。コーヒーが運ばれる。


 覗きこむと、黒い水面に、わたしの不安そうなが映し出された。


 一礼して店員が個室を去る。わたしはカップから顔を上げる。

 桜子がコーヒーを口に運び、ちらりとわたしを見て、花のように微笑んだ。


「苦い」


 一口啜ると、そう言った。


「おうちに帰ったら、牛乳たっぷりの、美味しいのを淹れてね」とも。


 わたしはそれには答えずに、答えられずに、桜子の先程の発言を繋いだ。


『だからお婆ちゃんになっても、一緒にいよ』


「でも」


 喉の奥から押し出すようにして、言う。


「でも、喧嘩したりして、いつか」

「喧嘩しても、仲直りするもん。百回喧嘩しても、千回仲直りするもん」


 即座に、桜子に、そう迎えられてしまう。言葉で、抱きしめられてしまう。

 百回で千回。また、変なことを言っている。そういうことにすら、気付かずに。


「百回喧嘩して、どうやって、千回も仲直りするのよ」

「え、それは……」


 尋ねると、桜子は急に慌てたようになり、


「そ、それくらいの意気込みを、持ってるってことだよ」


 そうやって、少し前のめりになって、応じた。

 気付くと、わたしは笑っていた。笑わされていた。


「もう、本当に、あなたは……」


 ――本当にいいの。桜子。わたしと一緒で、いいの?


 縋るように、目を合わせた。

 そこで桜子は、落ち着きを取り戻し……。


「傷ついてもいいと思う。幸福だって完全な無傷じゃないよ。そんな中で大切なことは、信頼できる誰かと一緒にいることだと思うの。子供は気にしないで。周りの目なんてもっとだよ。今時、ずっと結婚しない人だって沢山いる。私は毎日、可愛い子たちの面倒を見て、そういう職業について、それで十分なの。何よりも、家に帰れば雪乃ちゃんがいる。待ってると帰って来てくれる。私の大好きな人が。ねっ、雪乃ちゃん。だからこれからも、そうやって一緒に、」


 そうして、自由で幸福な人みたいに笑って、言うのだ。



「ずっとを、作っていこ?」と。



 小さな頃から、わたしは女の子が好きだった。いつしかそれを異常だと思い、芽生えた好きを押し殺してきた。我慢して、時に失敗して、それでも、今ここに。


『大切にしても、いいんだよ』


 わたしは口を開けて、何かに必死に耐えていた。でも、駄目だった。桜子の前だと、泣き虫になってしまう。瞼を焼くように、涙が、止まらなかった。


「ば、ばか。そんな、簡単に、あなたは、」


 涙。あぁ、そうだ。雪女は泣くと、溶けて消えてしまうらしい。


 なら、消えてしまえ、わたし。夢のような、この一間で。

 弱さも醜さも、全部、含めて、消えてしまえ、わたし。



 * * *



 冬の残滓が跡形もなく消え去り、春がやってきた。


 日々の暮らしの中で、桜子はわたしだけのものだった。

 穏やかで静かな、凪ぎの幸福。そのあまりの緩やかさを、わたしは時折恐れた。


 これは期限付きの幸福だと。

 いつか彼女は元いた世界に帰るのだと。それなのに、彼女は――。


「私、色々と考えたの」

「え?」


 よく晴れた土曜の午後。珍しく気難しげな顔をして、桜子がリビングのソファに腰掛けていた。二人分のコーヒーを手にして近づき、その隣に腰掛ける。


「どうしたら二人の間で、ずっとを作れるか」


 その言葉に、考え込んだ様子の桜子に、わたしは驚きを覚えた。

 動揺している間に、桜子が顔を向ける。真剣な顔で、言った。


「一緒に、マンションを買おう。二人で住めるマンションを。ちょっと贅沢なマンションにして、ローンは二人が六十歳になる頃まで残して、それで」


 瞬間、わたしは意味を見失いかける。


 童話の世界に登場する、小人さんによく似た女の子が、いや、もう女性と呼べる年代だ。その女性が、現実的なことを言ったのだ。プロポーズにも、似た言葉を。


 ――マン、ション?


 体に、力が入らない。マンションの購入。それを桜子から提案してくるなんて、思いもよらなかった。零さないよう、そっとローテーブルにカップを置いた。「それって」と尋ねると「えへへ」と桜子が笑い、カラフルな書類の束を取り出した。


「じゃ~~ん。実は、パンフレットを」


 ――彼女と過ごしてきた、十余年を思う。


 全てが移り変わるのだとしても、子供が大人になるのだとしても、変わっていくものもあれば、変わらないでいるものもある。


 私たちはそれに一つ一つ、名前を付けていく。


「あ、それに知ってる? 婚姻届は出せなくても、式は挙げられるんだよ。デズニーでも、ウェディングドレスを着たカップルがお城で式を挙げたり、そういう女性同士を対象とした、結婚式を挙げてくれる会社だってあるみたい。他にも、」


 これからも、そんな営みを続けていけたらと、祈りのように思った。


 例え誰から祝福をされなくても、二着のウェディングドレスが神父さんの前に並んだとしても、貴女となら誇りたい。一生懸命生きているんだと、伝えるように。


 それから――


「ともかく、まずは物件を見てみよっか。パンフレット以外にも……あれ?」


 そこで桜子から、小鳥が首を傾げるような、不可思議がった声が発せられる。


 どうして泣いているのと問われ、この胸に入りきらなかったの、そう答えたら、彼女は柔らかく微笑んだ。わたしも同じように微笑んだ。驚きを、有難う。


 新鮮な喜びと未来への衝動に痺れ、気付けばわたしは口にしていた。


「う……」

「雪乃ちゃん?」


 遅い雪解けにも似た音が、二人の間で、間抜けに響いた。うひゃあ。



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