人はめぐりあい、過ちを繰り返す 『ガンダム』で描いた正義なき世界 安彦良和のTHE ORIGIN(前編)
アニメーターにして漫画家のカリスマとして真っ先に思い浮かぶのは、手塚治虫と宮崎駿、そしてこの人だろう。
安彦良和。昨年放映40年を迎えた『機動戦士ガンダム』の生みの親の一人としてあまりに有名だが、『虹色のトロツキー』『ナムジ 大國主』など歴史に材をとった漫画作品でも数々の受賞歴を誇り、批評家から高い評価を受けてきた。毒舌の西原理恵子すら「日本遺産」とあがめるアニメ、コミック界の生ける伝説だ。
まごう事なき巨匠だが、その物腰はどこまでも柔らかく、口調は夕凪のように穏やか。丸めた背中と福顔で玄関から私たち取材陣を招き入れるその姿は、どう見ても好好爺といった風情だ(失礼!)。しかし若かりし頃は全共闘のリーダーにして逮捕歴ありと、ただ者ではない経歴を持つ。主役級ではなく脇役を好み、高所ではなく地べたから事象を切りとるその視点は、自認する「生涯アウトサイダー」としての生き様が映し出されている。
「裏道人生で細々とやってきただけですよ」と静かに語るその眼光は、ガンダムに始まり戦争、政治、社会、歴史と話題が進むにつれてどんどん鋭くなり……。
富野由悠季監督インタビューに続く『機動戦士ガンダム』40周年企画の第2弾は、安彦さんのTHE ORIGIN=原点に迫ります。
(取材・文=石川智也 写真=野呂美帆)
暗い冷戦時代を投影した「連邦vs.ジオン」
埼玉県内にある自宅兼仕事場を訪ねると、書棚の傍らの壁にシャア・アズナブルとガルマ・ザビの肖像画が無造作に掲げられている。言わずと知れた『機動戦士ガンダム』(1979年)の主要キャラクター。30歳を超えたばかりの安彦さんが作画監督とキャラクターデザインを務めた出世作だ。過去の自作にあまりこだわらない恬淡(てんたん)とした性格と聞くが、この作品だけは別格なのだろうか。
安彦 まあ、僕が仕事を始めて半世紀ですが、そのうち30年近く『ガンダム』に関わっているわけですからね。
よく話すんですが、僕にはだいたい10年単位で人生の区切りのようなものが来るんです。1970年に大学をクビになって「虫プロ」に入り、79年に『ガンダム』が始まって80年代はアニメの仕事をずっとやってきた。89年にアニメに見切りをつけて、というかアニメから見切りをつけられて漫画家専業になり、90年代以降はずっと漫画一本でやってきたところ、「ガンダムを漫画で描き直してほしい」と頼まれて、2000年代はその『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』にずっとかかりっきり。そして10年代は、縁を切ったはずのアニメ界に戻って『THE ORIGIN』を映像化する責任者をやってきた――という具合です。
安彦 良くも悪くも僕の人生のかなりの部分が『ガンダム』で色づけされてしまっている。それだけ縁深い作品ですから、僕もこの作品のテーマは何なのか、自分にとってガンダムとは何なのか、と考えざるを得ませんでした。
――宇宙移民による独立戦争を舞台に量産兵器「モビルスーツ」同士の戦いが繰り広げられるという設定は、従来の荒唐無稽なSFやヒーローロボットアニメとは一線を画す革新的な作品でした。
安彦 作品の背景として、当時の世の中全体を覆っていた閉塞感、悲観的な未来観があったと思います。あの頃は、核戦争から何十年後とか、人類がほぼ死に絶えた世界とか、そういう終末観が漂った作品が多かった。互いに譲れないイデオロギー対立の冷戦構造のなかで、第3次世界大戦はいずれ来るだろうという恐ろしい前提が、いわば常識としてあったんです。
だから、『機動戦士ガンダム』冒頭のナレーションにある「開戦後の1カ月で総人口の半分が死に、人類がみずからの行為に恐怖した」という設定に、僕は何の違和感もなくすんなり入っていけました。
安彦 『ガンダム』の世界観は原作者で総監督の富野由悠季が考え出したわけですが、彼が78年に書き上げてきた企画書を一読して、支持したいと思いました。
ジオン公国は、いわば宇宙に棄民され虐げられたと訴える人々の一部が先鋭化して戦争や独裁を正当化しているわけで、正義はない。一方で主人公アムロがいる地球連邦軍の側も、噓で固めた「大人の事情」ばかり言っている。近未来を舞台にしながら、戦争の発端や様相はほとんど前時代的なものでした。
戦争を善悪なしの争いとして描く。しかし、それに翻弄される人々は等しく丁寧に愛情を込めて描く。そういう富野さんのスタンスは新鮮でした。それになによりも、内向的でオタクで不平不満ばかりというヒーロー臭のない主人公アムロと、その周囲を取り巻く人たちのリアルな存在感に惹(ひ)かれましたね。
「赤毛の縮れ毛にして、ニンジンみたいな少年にしよう」とキャラクターのアイデアを描くと、富野さんも「いいねぇ」なんて言って。そうやって群像劇を作っていったんです。
「戦争はしょせん戦争」 世界に幻滅した
――富野さんによれば、『ガンダム』の世界観は、第2次大戦を引き写した部分がかなりあったとのことです。アムロと父との関係は、自身を投影した面もあったと。(参照:『ガンダム』富野由悠季監督が語る戦争)
安彦 『ガンダム』については「戦争を賛美している」あるいは「戦いの悲惨さを描いている」と両極端の評価がありますが、どちらも違うと思います。『ガンダム』にテーマなんてない。「人間はなぜか戦争を繰り返してしまう」ということをただ描いているんです。
富野さんは僕より六つ年上ですから、60年安保も70安保も経験しておらず、そもそも政治的な人ではなかったと思います。だから、「戦争はしょせん戦争だ」という認識は、まさに自身の家族の歴史や幼少期の世代体験に基づいたものだったんでしょう。
一方、僕の方はもっと頭でっかちなものでした。
高校、大学時代とずっとベトナム反戦活動に関わってきました。でも僕を「社会的正義」という重しでずっと捉え続けてきたベトナム戦争は、『ガンダム』の頃にはもう終わっていました。いや、終わっただけではない。
隣のカンボジアでは、ベトコンの戦友だったポル・ポト派による国民の粛清・虐殺の事実が明るみに出ていた。その掃討のためベトナムがカンボジアに侵攻すると、今度は中国がかつての支援者という立場を捨ててベトナムに懲罰的な軍事行動を起こす……。「正義の戦争」という幻想は消滅していました。
『ガンダム』という作品には、そんな時代の空気と僕自身の幻滅や挫折の気持ちを、僕なりにいくぶんかは投影させたつもりです。
反戦活動家から「アニメ工場の工員」へ
北海道遠軽町に生まれた安彦少年は地元の遠軽高校に進み、そこで恩師や友人の影響から政治意識を大きく高める。その頃、沖縄の嘉手納基地からはベトナムへの空爆機が連日飛び立ち、横須賀基地からは艦載機を満載した空母が出撃していた。北海道の「怒れる高校生」としてベトナム反戦の声を挙げた安彦さんは、1966年に弘前大に進学し、やがて全共闘のリーダーの一人として反戦活動を本格化していく。
安彦 まあ、リーダーといっても肩書もなく、周りからそう見られていたというだけですけどね。縛られるのはいやだからセクトには入りたくない。彼らのしゃべっている「米帝打倒」だの「世界革命」だのといった紋切り型の大言壮語にもついていけない。もっと分かりやすい言葉で語ろうと活動していたら、自然と人前に出るようになっただけです。
――そして69年秋に大学本部を占拠しますね。
安彦 その年の1月に東大安田講堂攻防戦があって、その余波は全国に広がっていました。弘前大なんて一番「おくて」でしたが、それでもバリケード封鎖までいかないと収まらないという雰囲気になっていた。いちおう準備はしたものの筋書きどおりにはいかず、格好の悪い「占拠・封鎖」でした。
3週間で収束するんですが、実は僕は東京での「活動」準備のため途中で抜けているんです。で、帰ってきたら即逮捕。容疑は建造物侵入と不退去です。大学も除籍処分になりました。後輩たちが処分撤回闘争を申し出てくれましたが、「もういい。やめてくれ」と。
目標を失い、大きな敗北感に包まれていました。この時に一緒に処分された植垣康博君、青砥幹夫君はその後、連合赤軍に参加し、世を震撼させるあの同志リンチ殺人事件に連座することになります。
――70年に上京し、手塚治虫さんがつくったアニメ制作会社「虫プロ」に入社しますが、やはりアニメへの志向があったのですか。
安彦 子どもの頃からずっと漫画は好きで描いていましたが、アニメには特に興味はありませんでした。凶状持ちなので弘前では就職できない。北海道にも帰れない。とりあえず東京に行こうと。新聞を眺めていたら、たまたま沿線にあった虫プロのアニメーター養成所生募集の広告があったので、ふらりと出掛けたという次第です。
アニメーターという仕事が何なのかもよく分かっていませんでした。アニメ工場で流れ作業をする工員になるイメージです。だったら俺にもできるだろう、と。
自虐的と言われますが、あくまで食っていくための仕事と割り切っていました。あの頃は他人から「どんな仕事してるの?」と聞かれるのが嫌で嫌で仕方なかったです。
大ブレイク、そして宮崎駿という壁
安彦 アニメの現場は人手不足だったので、休みなく働きました。でも「いい大人が」と恥じる気持ちはつきまとった。それが「アニメも捨てたもんじゃない」「仕事が面白い」と思い始めたのは、絵コンテを担当した『宇宙戦艦ヤマト』からでしたね。「いい大人」が本気で取り組む価値があるものだと思えたし、吉本隆明がなぜか肯定的に評価してくれて「あれ?」と思ったり。アニメが真面目な批評の対象になった初めての作品じゃないでしょうか。
そういう「目」を明確に意識して挑戦したのが『ガンダム』でした。食うための仕事ではなく、メッセージを発する仕事をゲットしたという確かな手応えがありました。「やっと来た!」という感覚です。
――果たして『ガンダム』は社会現象にもなり、80年代のアニメブームを牽引しました。しかし安彦さんは89年、漫画家専業になります。
安彦 自分で言うのもなんですが、アニメ界の寵児のような存在になりました。でもその結果、アニメ屋としての自分の限界を感じてしまったんです。
自分の漫画を原作にした『アリオン』を作りましたが、少し前に公開された宮崎駿さんの『風の谷のナウシカ』に出来栄えも興行成績も遠く及びませんでした。皮肉なことに、アニメ業界が活性化したことで、本当のアニメ好きかオタクじゃないとアニメは作れない時代になっていました。
「ガンダムにテーマはない」なんて言いながら、ヒットしそうなテーマは何か、必死に探しました。そしてふと、描きたいものがなくなっている自分に気付いたんです。
そんな時に起きたのが、東欧革命でした。
ショックでした。行き詰まったとはいえまだまだ続くと思っていた「東」があっけなく崩壊し、その後に起きたのは、ユーゴの内戦に代表される、歴史が退行したとしか思えない民族・宗教紛争でした。勝手に「閉塞感」を感じていた自分はなんて甘かったんだろうと反省しました。「歴史は動くものなんだ」。そう強く感じました。
>>インタビュー後編では、アニメ界を去って漫画に活路を見いだした後半生、そして『ガンダム』との「再会」についてうかがいます。
プロフィール
〈やすひこ・よしかず〉 1947年、北海道遠軽町生まれ。弘前大学を除籍後の70年に虫プロに入社し『新・ムーミン』などの原画を手掛けた後、73年にフリーに。『宇宙戦艦ヤマト』『勇者ライディーン』などに携わった後、79年放映の『機動戦士ガンダム』でキャラクターデザインと作画監督を務め、社会現象とも言えるブームを巻き起こした。89年に専業漫画家に転進し『ナムジ 大國主』(日本漫画家協会賞優秀賞)『虹色のトロツキー』『安東 ANTON』などの歴史物を発表。2001年から11年まで連載した『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』は累計発行部数1千万部を超えるヒット作となった。総監督を務めたアニメ『機動戦士ガンダム THE ORIGIN I 青い瞳のキャスバル』(15年)で四半世紀ぶりにアニメの現場に復帰した。
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