読書人紙面掲載 特集
たとえば『虹色のトロツキー』(全八巻/中公文庫)は満州国とノモンハン、『王道の狗』(全四巻/中公文庫)は日清戦争、『天の血脈』(全八巻/講談社)は日露戦争の前後が描かれていきます。それぞれの作品が書かれた時期ごと、また対象にしている時代ごとで作品のテイストが違っていて――たとえば『虹色』の祝祭と混沌、『王道』の暗鬱さと倫理的葛藤、『天の血脈』ののんびりとしたユーモアなどの違いがあります――、それらを多面的に書き継いできた。あらためて安彦さんのお仕事の大きさを感じました。それと同時に、安彦さんの独自のねじれ方が面白いのではないか。つまり、物語内容のレベルでは、日本の近代化に付き纏う呪いとしてのアジア主義を題材にしながら、表現形式のレベルでは、あくまでも「戦後」の宿命を背負ったサブカルチャーとしてのマンガやアニメを選んできた。そのねじれ方が重要なのではないか。学生運動から挫折してサブカルチャーへという道は、おそらく安彦さんと同時代の多くの人々も経験してきたことだと思います。あるいは宮崎駿さん、押井守さん、庵野秀明さんなども、虚構やサブカルチャーを通して、どうやって政治や歴史の問題を問うかという「戦後的」な命題をそれぞれの作品の中で主題化してきました。むしろ、表現と現実が直接的には結びつかない、というジレンマこそが日本の戦後サブカルチャーを押し上げてきたのだとも言える。安彦さんの中にもそうした「戦後的」なねじれがありますが、それだけではなく、日本の近代化以降のアジア主義的なものの可能性をどうやって継承し、更新していくのか。僕らが安彦さんの作品を読むときには、「それをどうやって継承していくのか?」という問いが切り離せない。そのことを今回、あらためて感じました。
政治世代というのがあると本にも書きましたが、戦後というのは基本的に政治の時代なんです、七〇年までは。その中でも六全協とか六〇年安保、七〇年安保とか、大体十年ごとに政治のピークが来て、政治世代になる。その間は脱政治になるという、その周期が三つくらい来ているんです。そのもっと前は敗戦ということになるのですが、宮崎さんとか富野由悠季さんは中間で政治世代ではない。富野さんにこの本を送ったら。自分は政治は関心ないから君の本は読んでいないけどありがとうみたいな葉書をくれた(笑)。
自分たちは政治の季節に青春のピークを迎えるんだぞと最初から身構えていた、多分六〇年安保の人たちもそうだったと思う。僕が高校生のとき、六〇年代半ばから早稲田や慶應の学費値上げ反対闘争が始まって、そのときに全共闘というのが出来て、始まったなと思った。ですから、高校時代から大学へ行ったら学生運動をやるぞと、ベトナム反戦なんだと。ただ、ポスト六〇年ですから我々のセクトも党派の人たちも六〇年安保の人たちが敗北したその敗北のところから始めるんだということを異口同音に言っていて、スタートはそこだった。要するに、戦後民主主義を守れという運動をやった人たちが、安保の改定で負けたんだと、そこからスタートすると。戦後民主主義を守れじゃなくてどういうテーマがあるかというと革命しかないとなってるんです。ラディカルな人間もノンポリも。笑っちゃうかもしれないけど、そういう風に思ってた。ちょうどそのときに文革やプラハの春、フランスの五月革命、アメリカの公民権運動などが世界中で盛り上がる。これはやっぱり革命の時代なんだと思うわけです。でも自分たちの日常と、僕は超田舎の大学だったですから、結びつかない。革命にどうやって結びつけるかということで本に書いたような非常に滑稽なこともやったわけです。ただ、いたって真面目だった、真剣だったんですよね。
我々全共闘派というのは右翼と仲が良い、野合だというのが共産党系からの批判の常套句だった。本にも書きましたが、僕がマッチ箱に絵を描く仕事を貰ったのは右翼の学生で、世話になった社長さんは自衛隊上がりだった。実際、右翼の方が気が合うから、野合だと言われてもしゃあないなと深くは考えなかった(笑)。それがアジア主義という流れの中で考えるに値する問題だと思ったのは、七〇年代もだいぶ入ってからですね。
『虹色のトロツキー』は潮出版社で出したんですが、最初の題名は『将軍とトロツキー』だったんですね、そのトロツキーをなんとかしてくれと言われて、いやこれは外せないと将軍は外して彩って虹色にしたんです。それを描くことが表現者としてアジア主義に取り組むぞというひとつの意志表明をしたみたいな感じだったんですね。
たとえば『王道の狗』の加納は、日本と大陸の間を放浪して、アジアの民衆の独立運動をゲリラ的に支援するけれど、最後まで彼自身にとっての王道をうまく見出せてはいない感じがします。押井守の言う「ストレイドッグ」(迷える狗)というか。しかし正しい王道を真っ直ぐに目指すことは不可能であり、ただの王道の狗かもしれないけど、あちこち迷いながら少しずつ進んでいく。その試行錯誤の過程自体が安彦さんの人生とオーヴァーラップしていくかのようでした。『原点』を通読して何より畏怖を感じたのは、安彦さんのその一貫した粘り強さでした。むしろ、未来のどこかに理想の社会があるというよりも、今・ここで迷い続ける過程の中にこそアジア主義の光が差し込んでいるのではないか、という気すらしたのですが……。
その一番のキーワードが脱亜入欧だと思うんですね。体制派の人には今でも福澤諭吉の自称お弟子さんという政治家が多くて、福澤先生の教えの通りだったら日本は間違わなかった、アメリカと戦争しなかったみたいなことを言うわけですが、それは違う、そういう問題じゃない。だから、アンチテーゼとして、我々が勉強しなきゃいけないのは中江兆民じゃないかなという気がする。福澤と中江という対比のさせ方はいろんな方が書いておられるけど非常に面白い。中江の親友が頭山満なわけです。中江兆民は民主的な思想家としてフランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーの翻訳をしたということで社会科的にもいい扱いを受けるんだけれども、頭山満はおぞましいのでほとんど消されてますよね。
『イエス』はオウム真理教の事件の二年ほど後に上梓されています。「後書き」では、遠藤周作氏と田川建三氏を串刺し的に批判している。つまり、心の弱い弟子たちの殉教を特別視する遠藤周作を一方では批判しつつ、青年イエスの中に造反有理的な武闘主義を見る田川建三のイエス像をも退けていく。田川さんは、イエスはキリスト教の先駆者ではなくて歴史の先駆者だ、と言っていますね。田川さんの『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』(三一書房)は、ある種マルコ伝ならぬ二〇〇〇年後に書かれた“田川伝”だと思います。それに対し、『イエス』という漫画作品自体が、安彦さんにとっての福音書とまでは言いませんけれども――イエスを特別な聖人やカリスマではなく、無数の弱さや矛盾も抱えた「よく見える眼を持った良心の人」として、すごく人間臭く描いていく。
しかしそれはやはり、イエスの神話を殺して俗人化するという話とは少し違う気がしたんです。大切なのは、「名もなき弟子」のヨシュアのがむしゃらな愛と情熱によって、ある種の唯物論的な奇跡が起こってしまったことではないか。歴史のあるポイントでは不思議に滑稽な誤作動がしばしば起こってしまう。しかしそれが暴力の反復としての人類史をかすかに平和へと押し上げていく。それは『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』(全二四巻/KADOKAWA)のエピローグ的な二四巻で、故郷からも家族からも恋人からも遠く離れたアムロが、ほとんどヨシュア的な「名もなき青年」として、「人と人とがほんとうにわかりあえる社会を」と静かに決意する光景へとつながっているような気がしました。
だからある意味イエスの真逆で、イエスは人間ってどういうものなのかをとことん考えて実践して、それを体現して生きた人ですよね。それで、良くものが見えてものがわかる預言者だったということで留まれば、キリスト教って生まれなかったかもしれない。だから教祖ではないわけですよね。非常に衝撃的だったのはマルコ伝の最後に、まさに『イエス』で描いたような情景が出てくる。マグダラのマリアたちがイエスの墓が塞がれないうちに遺体を拝もうと訪れると白い衣を着た誰か若者がいた。「イエスはどうしたんですか?」と聞いたら「昇天されました」と。それで怖くて逃げたとあるんですね。それは最初に書かれた福音書であると言われているマルコ伝の最後に書いてある。そこにキリスト教の原初的な形が一番良く出ていると思うんです。吉本隆明はマタイ伝に注目していて、『マチウ書試論』を書いていますが、吉本隆明にしてみたらイエスの存在自体が虚構なわけです。彼はそうやってキリスト教批判を書いたんだけれど、それでは駄目なんだという気がする。日本神話が虚構だとして天皇制批判するのがまったく有効じゃないのと同じで。むしろマルコ伝の方が示唆に富んでいるわけで、直弟子ではないパウロが教祖となってキリスト教を作るわけです。彼は啓示を受けたという原体験をいうわけです。直弟子じゃない人間の弱みですよね。
もちろん直接的な間違いもあった。満州では建国神廟というのを作って天照大神を拝ませた。あれが良くなかったんじゃないかということを建国大学OBの方が仰っていたんです。朝鮮もそうで朝鮮神宮を作って拝めという、そういうことをやっては朝鮮の人が心服するはずがない。そういうメンタリティの支配が致命的だったとは思います。五族協和なんてなんの実体もない空手形で掛け声だけだったと思われても仕方ない。
※このインタビューの第二部<安彦良和の現在>を、近日「週刊読書人ウェブ」に掲載いたします。
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更新日:2017年4月20日
/ 新聞掲載日:2017年4月14日(第3185号)
安彦良和氏ロングインタビュー(聞き手=杉田俊介氏)
サブカルチャー 裏街道からのまなざし
『原点 THE ORIGIN 戦争を描く、人間を描く』(岩波書店)刊行を機に
「機動戦士ガンダム」の生みの親の一人であり、『虹色のトロツキー』など歴史に材をとった重厚な作品群を世に問うてきた漫画家・安彦良和氏。その安彦氏の「原点」を追う新刊がこの春上梓された。安彦良和・斉藤光政著『原点THE ORIGIN』(岩波書店)は、対立し殺し合う人間と戦争の絶えないこの世界を安彦氏はどのように描いてきたか、東奥日報記者・斉藤光政氏がその人生に迫り、今まで表に出ることを可しとしなかった安彦氏本人が今回は「目立ってもいい」と自らの来し方を振り返る。本書の刊行を機に、批評家の杉田俊介氏をお相手に、安彦良和氏にお話しいただいた。 (編集部)
政治世代として 革命の時代を迎える
杉田
『原点』を読ませて頂いて、今までの僕は安彦さんを「学生運動からの挫折」という神話の中で見てしまっていたのかもしれない、と思いました。けれども、安彦さんの資質としては、やはり左翼運動よりもアジア主義の方が強いのではないか。安彦さんは歴史漫画の中で、日本の古代史と近代史における広い意味での「アジア主義的なもの」のモチーフを扱いながら、サブカルチャーを通してそれを戦後から現代へと継承し、繋げていく、というお仕事を粘り強く試みてきた。そこには狭義の「戦後」的なモチーフを超えるスケールの大きさがあります。たとえば『虹色のトロツキー』(全八巻/中公文庫)は満州国とノモンハン、『王道の狗』(全四巻/中公文庫)は日清戦争、『天の血脈』(全八巻/講談社)は日露戦争の前後が描かれていきます。それぞれの作品が書かれた時期ごと、また対象にしている時代ごとで作品のテイストが違っていて――たとえば『虹色』の祝祭と混沌、『王道』の暗鬱さと倫理的葛藤、『天の血脈』ののんびりとしたユーモアなどの違いがあります――、それらを多面的に書き継いできた。あらためて安彦さんのお仕事の大きさを感じました。それと同時に、安彦さんの独自のねじれ方が面白いのではないか。つまり、物語内容のレベルでは、日本の近代化に付き纏う呪いとしてのアジア主義を題材にしながら、表現形式のレベルでは、あくまでも「戦後」の宿命を背負ったサブカルチャーとしてのマンガやアニメを選んできた。そのねじれ方が重要なのではないか。学生運動から挫折してサブカルチャーへという道は、おそらく安彦さんと同時代の多くの人々も経験してきたことだと思います。あるいは宮崎駿さん、押井守さん、庵野秀明さんなども、虚構やサブカルチャーを通して、どうやって政治や歴史の問題を問うかという「戦後的」な命題をそれぞれの作品の中で主題化してきました。むしろ、表現と現実が直接的には結びつかない、というジレンマこそが日本の戦後サブカルチャーを押し上げてきたのだとも言える。安彦さんの中にもそうした「戦後的」なねじれがありますが、それだけではなく、日本の近代化以降のアジア主義的なものの可能性をどうやって継承し、更新していくのか。僕らが安彦さんの作品を読むときには、「それをどうやって継承していくのか?」という問いが切り離せない。そのことを今回、あらためて感じました。
安彦
過大なくらい深い読みをしていただいて、光栄というか有り難いですね。杉田さんは僕の長男とほぼ同じお年で、親子の隔たりがあるんですけれども、そういう若い人たちとしみじみ話し合う機会がなかなかないものですから。政治世代というのがあると本にも書きましたが、戦後というのは基本的に政治の時代なんです、七〇年までは。その中でも六全協とか六〇年安保、七〇年安保とか、大体十年ごとに政治のピークが来て、政治世代になる。その間は脱政治になるという、その周期が三つくらい来ているんです。そのもっと前は敗戦ということになるのですが、宮崎さんとか富野由悠季さんは中間で政治世代ではない。富野さんにこの本を送ったら。自分は政治は関心ないから君の本は読んでいないけどありがとうみたいな葉書をくれた(笑)。
自分たちは政治の季節に青春のピークを迎えるんだぞと最初から身構えていた、多分六〇年安保の人たちもそうだったと思う。僕が高校生のとき、六〇年代半ばから早稲田や慶應の学費値上げ反対闘争が始まって、そのときに全共闘というのが出来て、始まったなと思った。ですから、高校時代から大学へ行ったら学生運動をやるぞと、ベトナム反戦なんだと。ただ、ポスト六〇年ですから我々のセクトも党派の人たちも六〇年安保の人たちが敗北したその敗北のところから始めるんだということを異口同音に言っていて、スタートはそこだった。要するに、戦後民主主義を守れという運動をやった人たちが、安保の改定で負けたんだと、そこからスタートすると。戦後民主主義を守れじゃなくてどういうテーマがあるかというと革命しかないとなってるんです。ラディカルな人間もノンポリも。笑っちゃうかもしれないけど、そういう風に思ってた。ちょうどそのときに文革やプラハの春、フランスの五月革命、アメリカの公民権運動などが世界中で盛り上がる。これはやっぱり革命の時代なんだと思うわけです。でも自分たちの日常と、僕は超田舎の大学だったですから、結びつかない。革命にどうやって結びつけるかということで本に書いたような非常に滑稽なこともやったわけです。ただ、いたって真面目だった、真剣だったんですよね。
アジア主義との 出会いと意志表明
杉田
本書を読んでいくと、左翼的な学生運動の面と、アジア主義的な平和運動の面があって、それらのせめぎ合いが面白いと思いました。安彦さんは、党派的な学生運動のスタイルには早い段階で失望した、とおっしゃっています。むしろベトナム反戦運動(ベ平連)などにシンパシーを感じて、独自路線を探ったと言われていますね。しかし、全共闘運動の後に連合赤軍事件のある部分にコミットしていった当時の仲間たちのところへ現在も取材に行き、聞き取り調査を行っているなど、それらを簡単には切り分けられない面もあるように思いました。たとえば石原莞爾や北一輝にしろ、あるいは田中智學にしろ、広い意味でのアジア主義的な血脈の人々には、もともと革新か保守か、民族主義か世界市民か、侵略かと解放かなどの傾向が矛盾したまま綯い交ぜになっていくような、スケールの大きさがありましたが……。安彦
アジア主義ということを再三言っていただいているんだけど、僕の中ではアジア主義というのは東京に来てから初めて射程に入ってきたことで、学生時代にはアジア主義的な方向性はなかったと思います。それはやはり戦前のファッショの時代の遺物みたいに考えられていて。アジア主義っていうのは右翼の匂いがぷんぷんしますから、敗戦によって克服されたもの、過去の遺物だと。左翼っていうのは西洋的なんですよね、ロシア含めてヨーロッパ的でそちらには行かなかったから、竹内好さんとか江藤淳さん、柄谷行人さんを読んだのは東京に来てからなんですね。初めてアジア的な日本的なものも含めて目を開かされたというか、右翼左翼というのも非常に図式的に考えていた。我々全共闘派というのは右翼と仲が良い、野合だというのが共産党系からの批判の常套句だった。本にも書きましたが、僕がマッチ箱に絵を描く仕事を貰ったのは右翼の学生で、世話になった社長さんは自衛隊上がりだった。実際、右翼の方が気が合うから、野合だと言われてもしゃあないなと深くは考えなかった(笑)。それがアジア主義という流れの中で考えるに値する問題だと思ったのは、七〇年代もだいぶ入ってからですね。
杉田
なるほど。例えば『虹色のトロツキー』だと石原莞爾、『王道の狗』では睦奥宗光(と勝海舟)、『天の血脈』だと黒龍会の内田良平が主人公の青年の前に立ちふさがりますね。漫画の中では、彼らの中の矛盾に満ちた立体的な存在感に光が当てられていく。つまり、単純に「覇道は間違いであり、王道が正しい」という描き方もしていません。安彦さんの漫画作品では、そういう歴史の動的な矛盾が常に描かれていきます。安彦
ベルナルド・ベルトルッチの「ラストエンペラー」(一九八七年)という映画の中で新京の風景が出てくる。甘粕正彦役を坂本龍一さんが演じて、勤民楼という溥儀が執務していた建物があって、九一年に僕もそこに行きましたが、非常に小さい建物なんです。そこを背景に非常に貧しい満州国が傀儡国家として描かれるのですが、実際はちっとも貧しくはないんです。新京の都市計画は非常に素晴らしいもので、ただ、溥儀の宮殿は新京の官庁街の中で最後に計画されていた。だから非常に貧しい傀儡国家だったから実態がなかったという満州国批判は当たらない。傀儡国家はその通りだが、大きな夢を抱いて多くの人が心血を注いで創り上げたんだけど、あの大きな覇道のうねりの中では所詮持ちこたえられないものだった。だから日本の敗戦と中国革命の動乱の中で消えた。あれは虚妄だったと清算したものの中に実はなかなか克服しきれない大きな流れなり歴史の血脈みたいなものが通っているんだということですね。僕は毎日グラフの『1億人の昭和史』を寝酒の友で眺めていて、これらの写真が訴えかけてくるものは何だろうと気になった。その頃アニメに挫折してましたから。『虹色のトロツキー』は潮出版社で出したんですが、最初の題名は『将軍とトロツキー』だったんですね、そのトロツキーをなんとかしてくれと言われて、いやこれは外せないと将軍は外して彩って虹色にしたんです。それを描くことが表現者としてアジア主義に取り組むぞというひとつの意志表明をしたみたいな感じだったんですね。
アジア主義的なものの可能性
杉田
いろいろなアジア主義者たちの中でも、作品を読む限り、安彦さんにとっては石原莞爾という存在が特に大きいのでしょうか。例えば大川周明みたいなアカデミックなタイプでもないし、頭山満のようなフィクサータイプでもない。石原は、当時の軍事や世界情勢に詳しいインテリでした。しかし生々しい政治や軍事にコミットしながらも、もともと煩悶青年的なところがあり、超国家主義的で世界平和的な理念も手放しませんでした。しかもつねに一兵卒の傍に寄りそおうとしたとも言われていて、非常に多義的な人物です。宮澤賢治等にも影響を与えた田中智學の影響で国柱会に入って、法華経を信奉し、ある時期から「世界最終戦争論」を言い出すわけですよね。どうしようもない戦争の繰り返しが人類の歴史なんだけれども、それを繰り返すことでやがて戦争が消滅し、世界に永遠平和が訪れる、というビジョンを唱えた。それは例えばガンダムの根幹にあるモチーフにも繋がるものではないでしょうか。安彦
宗教に行っちゃう人はどうしてもわからないですね。僕自身が宗教的なパッションを持っていないということがあるんだけど。念仏なんかを唱えたり啓示が閃いたり、北一輝がそうですけど、そういう話が出てくると、もう駄目だという感じである種理解を放棄しちゃうんだけど、石原莞爾もそこへ行く前はすごく魅力的ですよね。宮澤賢治もそうですけど、宗教に行っちゃうと気持ちが離れていく感じがする。杉田
日本近代のアジア主義的なもののジレンマは、アジア諸国を蹂躙する西欧列強の覇道に対抗し、平和的な王道を目指そうとすること自体が、やがてアジア侵略という覇道へと陥っていく、という自己矛盾を繰り返し経験してきたことにあります。安彦さんの漫画の中にも、繰り返しそうした憂鬱な光景が描かれています。有名な孫文の講演にもありますが、王道と覇道がメビウスの輪のようになり、単純に切り分けられない。石原莞爾にしても北一輝にしても、そういう問いに躓いた。では、それらのジレンマを断ち切っていく未来の「王道」とは何か。安彦さんの主人公たちは、そういう何かの手ごたえをどうしてもつかみたくて、もがき続けていきます。たとえば『王道の狗』の加納は、日本と大陸の間を放浪して、アジアの民衆の独立運動をゲリラ的に支援するけれど、最後まで彼自身にとっての王道をうまく見出せてはいない感じがします。押井守の言う「ストレイドッグ」(迷える狗)というか。しかし正しい王道を真っ直ぐに目指すことは不可能であり、ただの王道の狗かもしれないけど、あちこち迷いながら少しずつ進んでいく。その試行錯誤の過程自体が安彦さんの人生とオーヴァーラップしていくかのようでした。『原点』を通読して何より畏怖を感じたのは、安彦さんのその一貫した粘り強さでした。むしろ、未来のどこかに理想の社会があるというよりも、今・ここで迷い続ける過程の中にこそアジア主義の光が差し込んでいるのではないか、という気すらしたのですが……。
安彦
「人生裏街道」みたいな言い方が好きなんですよ。徹底的にマイナーで、徹底的に裏街道しか歩いてこなかったという気がするんですね、田舎者だということも含めて。そこにある時点から誇りを感じていて、裏街道っていいんじゃねえみたいな。アジア主義っていうのも裏街道的に見ればいろんな要素が拾えてくるんだけど、それが表に出ようとすると一転覇道にならざるを得ない。だから、軍国主義にしても北一輝の流れを皇道派のお偉いさんに託して、覇道の側がおいしいところを持っていく、利用されるという構造が常にあるんじゃないか。その一番のキーワードが脱亜入欧だと思うんですね。体制派の人には今でも福澤諭吉の自称お弟子さんという政治家が多くて、福澤先生の教えの通りだったら日本は間違わなかった、アメリカと戦争しなかったみたいなことを言うわけですが、それは違う、そういう問題じゃない。だから、アンチテーゼとして、我々が勉強しなきゃいけないのは中江兆民じゃないかなという気がする。福澤と中江という対比のさせ方はいろんな方が書いておられるけど非常に面白い。中江の親友が頭山満なわけです。中江兆民は民主的な思想家としてフランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーの翻訳をしたということで社会科的にもいい扱いを受けるんだけれども、頭山満はおぞましいのでほとんど消されてますよね。
杉田
『王道の狗』の中にも、頭山満と中江兆民が並んで金玉均(きん・ぎょくきん=キム・オクキュン)の船出を見送るシーンがありましたね。民主主義のルソー翻訳者の中江兆民と、右翼の大物フィクサーの頭山満と、朝鮮の独立を志向する金玉均という人物と一緒に横並びになっている、という光景は、戦後的な眼差しからいうと、それ自体が吃驚するような矛盾に満ちていて、面白いですね。安彦
中江兆民の墓の文字も頭山満が揮毫している。全共闘と右翼が野合するのと似たような構造があるわけです。宗教はギリギリまで要らない
杉田
勝手な読みかもしれませんが、安彦さんのイエス・キリスト的なものに対する向き合い方が面白いと思っています。安彦さんには『ジャンヌ Jeanne』(全三巻/NHK出版)、『イエス JESUS』(全二巻/NHK出版)、『我が名はネロ』(全二巻/中公文庫)、『アレクサンドロス 世界帝国への夢』(NHK出版)など、ヨーロッパの英雄的な人々を見つめる一連のシリーズがありますが、その中でも『イエス』という作品が重要ではないか。というのは、『イエス』の中に、安彦さんにとっての歴史感覚がはっきりと描かれているからです。それは「神話を実証的な歴史に引きずりおろす」という宗教史家のエルネスト・ルナン的なスタンスとも、微妙に違う気がしました。『イエス』はオウム真理教の事件の二年ほど後に上梓されています。「後書き」では、遠藤周作氏と田川建三氏を串刺し的に批判している。つまり、心の弱い弟子たちの殉教を特別視する遠藤周作を一方では批判しつつ、青年イエスの中に造反有理的な武闘主義を見る田川建三のイエス像をも退けていく。田川さんは、イエスはキリスト教の先駆者ではなくて歴史の先駆者だ、と言っていますね。田川さんの『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』(三一書房)は、ある種マルコ伝ならぬ二〇〇〇年後に書かれた“田川伝”だと思います。それに対し、『イエス』という漫画作品自体が、安彦さんにとっての福音書とまでは言いませんけれども――イエスを特別な聖人やカリスマではなく、無数の弱さや矛盾も抱えた「よく見える眼を持った良心の人」として、すごく人間臭く描いていく。
しかしそれはやはり、イエスの神話を殺して俗人化するという話とは少し違う気がしたんです。大切なのは、「名もなき弟子」のヨシュアのがむしゃらな愛と情熱によって、ある種の唯物論的な奇跡が起こってしまったことではないか。歴史のあるポイントでは不思議に滑稽な誤作動がしばしば起こってしまう。しかしそれが暴力の反復としての人類史をかすかに平和へと押し上げていく。それは『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』(全二四巻/KADOKAWA)のエピローグ的な二四巻で、故郷からも家族からも恋人からも遠く離れたアムロが、ほとんどヨシュア的な「名もなき青年」として、「人と人とがほんとうにわかりあえる社会を」と静かに決意する光景へとつながっているような気がしました。
安彦
ひとつの考えとして、僕は宗教っていうのはギリギリまで要らないと思うんです。人間ってすごく不完全なものなので、過信するとろくなことにならない。人間って卑しくてみすぼらしいもんだよなっていう謙虚な意識を持ち続けなくきゃいけない。そのために神って必要だし、宗教は必要なんだろうと思いますが、それ以上の意味では宗教はとことん要らないんだろうと。そういう意味では石原莞爾もそうで、思想が宗教に滑っていくとろくなことがない。どんな賢明な思想でも、賢明な人格でも、そこにいくと、とっつけないし神秘主義になっちゃうから。所詮わからないんだよなっていうんで暗示にかかっちゃう。教祖が邪心を抱いたらそのままおかしくなる。オウムもそうだと思うんです。それは『ジャンヌ』を描いたときに思って、面白いのは原著者の本願寺法主の大谷暢順さんがジャンヌファンなんです。ご自分でも仰ってましたが、若いときからミーハー的に好きなんだそうです。ただ、それを漫画化するときにどうしても描けなかったのは、ジャンヌを聖少女、宗教的な聖者として描くことでした。基本的にジャンヌも人間だったとして追体験させるんですけど、何らかのインスピレーション、超常的な現象で人間を超える部分が彼女に何かあったんじゃないか、それは人間の有限性を超えるひとつの啓示だったんじゃないかと思うんですよね。それがジャンヌを生きさせている。杉田
安彦さんがイエス・キリストを描くモチーフと、ガンダムのシャアを描くというモチーフが重なっていく面もありませんか。ニュータイプという革命思想に対して、一貫して安彦さんは複雑な批判を述べています。もともとのアニメ版の『ガンダム』を漫画『THE ORIGIN』という形でリライトすることによって、ガンダムにこびりついた神話を内側から歴史化して相対化していくこと、それはとても安彦さんらしい仕事である気がします。そこでは、聖人としてのイエス・キリストではなくて人間としてのイエスを描いたように、人間としてのキャスバル=シャアの苦悩に焦点があてられている気がしたのですが。安彦
シャアはイエスじゃないですね。僕の中では全然違う。杉田
安彦さんはニュータイプ思想を狂信し、ザビ家への復讐に走っていくシャアを強く批判していますが、じつは、どこかシャアに惹かれている面もあるのではないでしょうか。つまり、ニュータイプという革命思想は、外側から批判して済ますことのできるものではなかったのではないか。人間の判りあえなさを超えて、永遠平和が訪れるのを願っていくわけですから。そうでなければ、シャアの葛藤にあそこまで寄りそって、その行方を英雄でも聖人でもなく、卑小で滑稽な「人間」として描ききろうとする、という執拗な動機そのものが生まれなかったのではないか。その上で、シャアの矛盾をさらに超えるものを見つめようと……。シャアの仮面を剥ぎ取る
安彦
それはちょっと違って、僕はシャアの仮面を徹底的に剥ぎたかったんですね。彼のミステリアスな部分が何らかの神秘性を帯びているんじゃないかと考えられること自体が非常に間違いで、彼は非常に狭い視野しか持ち得ない人間で、その狭さの内実は「復讐」なんだと。だから一切のメッセージ性もビジョンもないし、復讐を遂げたら世界が崩壊してもいいというくらいの理解を拒絶した人間なんだと。彼を徹底的にネガティヴにしたかった。そうしないとそこから何らかのメッセージが発せられていると誤解されてしまう。そうじゃなくて一切メッセージなんかないんです。それに対してアムロは非常に弱い存在なんだけれども、人がわかりあえるのではないかということに最終的に到達するキャラクターなんですね。帰るところがあったんだと。しかしシャアは自滅するわけです。だからそこのところをはっきりさせたかった。世の中のシャアファンに対して申し訳ないけど、ああいうネガティヴなキャラクターがメッセンジャーと誤解されるところからいろんな間違いが発生すると僕は思ったんです。だからある意味イエスの真逆で、イエスは人間ってどういうものなのかをとことん考えて実践して、それを体現して生きた人ですよね。それで、良くものが見えてものがわかる預言者だったということで留まれば、キリスト教って生まれなかったかもしれない。だから教祖ではないわけですよね。非常に衝撃的だったのはマルコ伝の最後に、まさに『イエス』で描いたような情景が出てくる。マグダラのマリアたちがイエスの墓が塞がれないうちに遺体を拝もうと訪れると白い衣を着た誰か若者がいた。「イエスはどうしたんですか?」と聞いたら「昇天されました」と。それで怖くて逃げたとあるんですね。それは最初に書かれた福音書であると言われているマルコ伝の最後に書いてある。そこにキリスト教の原初的な形が一番良く出ていると思うんです。吉本隆明はマタイ伝に注目していて、『マチウ書試論』を書いていますが、吉本隆明にしてみたらイエスの存在自体が虚構なわけです。彼はそうやってキリスト教批判を書いたんだけれど、それでは駄目なんだという気がする。日本神話が虚構だとして天皇制批判するのがまったく有効じゃないのと同じで。むしろマルコ伝の方が示唆に富んでいるわけで、直弟子ではないパウロが教祖となってキリスト教を作るわけです。彼は啓示を受けたという原体験をいうわけです。直弟子じゃない人間の弱みですよね。
杉田
なるほど。イエスとシャアの件は、僕の読み違えですかね。原始キリスト教団の人たちは、イエスを直接知ってるからこそ、人間としてのイエスと復活後の聖人としてのキリストという分裂に直面せざるをえなかった。それに対しパウロは、イエスに直接会ったことがなく、だからこそ急進化して、執拗なまでに異教徒への伝道に走ったと思うんですが、シャアにもそういう面があるのでしょうか。つまり、ニュータイプ思想には具体的な中身がない、それゆえに、急進的な形でニュータイプ思想の革命性を狂信してしまったというか。安彦
シャアではなくて、あえてパウロを探すとしたら、デギン・ザビだと思うんですね。ダイクンの後継者であって同志として一緒に戦った仲で、ダイクンの思想を継承した。継承者が体系を作ると必ず鬼っ子があらわれる。それがギレン・ザビで、それは宗教のひとつのパターンだと思うんです。つまり、ダイクンはイエス・キリストなわけです。僕が描いた『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』の過去篇の中で自分を完全にイエスになぞらえて煩悶する。杉田
ダイクン(キリスト)がいなくなったところから、歴史としてのガンダムの世界が始まるということなんですね。安彦
ダイクンの死がゴルゴタの丘と重なるわけです。それを神秘化、悲劇化しなくちゃいけない。でもあれは単にストレスが高じて死んだんだという僕の解釈ですけど。杉田
まわりの人間がダイクンの死を殉教的な暗殺や毒殺として、勝手に意味付けるわけですね。『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』は、シャアという男の神話化を徹底的に削ぎ落として、人間の歴史として描き直す仕事であると。ただ、ニュータイプ思想への強い違和感をお持ちになりながら、たとえば『ジャンヌ』の物語は、主人公の平凡な少女がジャンヌ・ダルクの霊を視るところからはじまりますね。あるいは『天の血脈』でも、近代人である青年が、ある種のリインカーネーションというか、はるかな古代人たちを幻視する能力を持っていました。アムロも、シャアのようなイデオロギー化されたニュータイプ思想には批判的(というか、たんに冷淡)ですけれども、アムロとララァ・スンの間には明らかにスーパーナチュラルな共感現象があります。安彦さんにとって、カルト宗教のような超常現象の利用はNGだけど、テレパシー的な何かがある、という感じなのでしょうか。安彦
それはひとつの願望でもあるんです。非常に散文的な存在で数量計測的に理解できるのが人間なのかというとそうじゃない、そうあって欲しいという。それが超常現象であったり一種のインスピレーションであったりするのでもいいと思うんです。なんらかの啓示的なものが。むしろそれがないとしたらこんなに救われない話はない。だからわかりあえないんだけれども、わかりあうことがもしかしたらできるかもしれない。わかりあおうよという、甘ったれた結論かもしれないけれども、そういう方向性がなかったら、昔からあるリアリズムですからね。先程、吉本隆明のことを出しましたが、吉本隆明の言葉で僕が一番忘れないで憶えているのは、「人は所詮一人では生きられないんだと悔し紛れに叫ぶためにも、手を取り合うことをやめろ」と言うんですね。仲間だ仲間だと言ってみんな手を取り合う、でも手を取り合うなと言うわけですよ。最後に叫ぶんだと。一人で生きられなかった、口惜しいけどって言うために手を取り合うなと言うわけですね。簡単にわかったような顔でそういうことを言うな、ギリギリまで孤独に耐えろっていうことを彼は言ってる、そこはえらいと思うんですよね。日本列島という箱舟ホワイトベース
杉田
こういうことを思いました。『虹色のトロツキー』や『天の血脈』では、民族や主義主張を超えて、様々な民族や混血の青年たちが寄り集まって、無国籍的なアジアの荒野や雪原を進んでいく、というイメージが何度も描かれています。それが僕はとても好きなんですね。『ガンダム』のホワイトベースもそういうもので、軍人も民間人も難民も混在しているわけです。漫画版ではそれがさらに立体的になっていて、たとえば難民たちもたんなる可哀想な犠牲者ではなくて、エゴによって反乱したり抵抗したりもする存在として描かれていた。こういう言い方が許されるなら、たまたま同じ場所に居合わせただけの旅の仲間たちこそが、ありえたかもしれない「五族協和」「王道楽土」を生きてしまっているのではないか。人と人とがわかりあう世界とは、つまり、遠い未来に設計主義的に作られるユートピアではなくって、平和を求める人々が反撥や協力を重ねて、漸進的に試行錯誤し続ける旅の道連れの中にこそ、あったのではないか。アジア主義の光がそこに差し込んでいるのではないか。とすれば、安彦さんが粘り強く漫画やアニメを通して試みてきたお仕事自体が、ユートピア的な理想には到達できないかもしれないけれど、永遠にそれを目指し続けていく。そのような試行錯誤から、僕らが何を受け取れるか。それが大切だと思いました。安彦
満州の五族協和というスローガンが決して空疎なスローガンだけだったわけではないというのは先ほども言いましたが、なんらかの実態があってそれを目指した情熱があって、箱舟的な共同体があった。でも、それはまさにイデオロギー対立の時代、冷戦がまもなくやってくる時代にはどうあっても生き残ることができない国だった。ロシア革命の時点ですべて決まっていたと思うんですよねもちろん直接的な間違いもあった。満州では建国神廟というのを作って天照大神を拝ませた。あれが良くなかったんじゃないかということを建国大学OBの方が仰っていたんです。朝鮮もそうで朝鮮神宮を作って拝めという、そういうことをやっては朝鮮の人が心服するはずがない。そういうメンタリティの支配が致命的だったとは思います。五族協和なんてなんの実体もない空手形で掛け声だけだったと思われても仕方ない。
杉田
国境や国土や国家に根差した五族協和というイデオロギーと、安彦さんが描いてきたホワイトベース的なもの――つまり箱舟的な、寄りあい船的な、難民船的な五族協和とは、微妙に違うと思うんですね。後者の船は、つねに国境や国土を超えて移動し続けていくような、彷徨い続ける、まつろわぬ船なんですね。安彦
日本列島そのものが箱舟なんですよ、ある種。流れ流れて、極東の島国に辿り着いた人たち、南方系とかアイヌ系とかツングースとか朝鮮系、そういう人たちが作り上げたのが日本国。僕は子供の時こんな小さな島国に生まれてつまんないな、フランス人やドイツ人だったら良かったなと思ったんだけど、ある時期から日本列島によくぞ生まれたと。それが皇国日本に生まれて天皇直系の臣民であるというふうになると純血性を強調する一方になるけれど、そうじゃなくて箱舟なんだと。日本人って混血の極みだよ。杉田
なるほど、それはすごいイメージですね。そういえば『韃靼タイフーン』(全四巻/メディアファクトリー)でも、日本とロシアの境界線が描かれていました。純血ではなく、むしろ混血や雑種としての日本。箱舟としての日本。まさにホワイトベースのような日本というか……安彦さんが描くそうしたイメージは本当に魅力的だし、倫理的なものだと思いますね。安彦
アジア主義あるいは南洋ブームという形があったり、汎ゲルマン主義とか、要するにコンプレックスですよね、すべて。あとは漂流してますからルーツが気になる。赤い夕日を見たら血が騒ぐとかホロンバイル草原を見たらワクワクする。やはり混血性だと思います。安倍晋三さんみたいなのが危険なのは、世界の中心で輝くとか言うわけじゃないですか。極東でいいじゃないか、極東であることになぜ誇りを持たんのかと。片隅で寄せ集まって先祖代々永々と頑張ってきた誇りをなぜ持たないのか。杉田
片隅の国家、まつろわぬ国民であったほうがずっとマシですね。安彦さんは二〇〇〇年代の十年がガンダムを漫画化した十年だとしたら、二〇一〇年代の十年はガンダムを再びアニメーション化するための十年になると仰っています。かつてのご発言では、もうアニメーションにはかかわりたくないというネガティヴなものが多かったような印象があるのですが。安彦
アニメーションではろくな仕事ができなかったというのが本音ですから。ただ、何を後世に残したいかというと、僕の作品ではないけれども、僕がかかわった「1tsガンダム」は後世に残って欲しい。人手に渡すわけにはいかない。本来なら、十年という年月をかけて漫画にしたわけですからそれを残せばいいんですけど、もともとアニメーションだったものは漫画で残っても形が違いますから。それを現場にいる人がじゃあ俺に任せろと言ってくれるのは有り難いんだけど、変わっちゃうんだよということがあるんです。他人が料理すると。杉田
漫画版のルウム篇は本当に凄いです。あそこからガンダムの歴史全体がねじれていくような感じすらある。スペースコロニーでの虐殺、人々が毒ガスで皆殺しされる場面から始まって、戦争の渦中でも宇宙空間に投げ出されて死んでいくちっぽけな人間の視点や内面が繰り返し入ってくる。ガンダムという作品を楽しく消費することがもはや不可能になっていく。いや、その先にある享楽の形が描かれるのかもしれません。それがアニメとして形になるのは凄いことであり、怖いくらいの思いが僕にはあります。 (おわり)※このインタビューの第二部<安彦良和の現在>を、近日「週刊読書人ウェブ」に掲載いたします。
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