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『伊上勝評伝』読了

『隠密剣士』『仮面の忍者赤影』『仮面ライダー』……などなど数々のヒーローを生み出して一時代を駆け抜けた脚本家・伊上勝の実像に関係者インタビューなどで迫った評伝集。
巻頭の、井上敏樹による「回想 伊上勝」が実に名文。
そして補足における、父・伊上勝の手法の限界から見た当時のヒーロー物の限界、2011年当時の井上敏樹のヒーロー論が、実に面白い。

 私たちがチンピラに絡まれたとしよう。そこに颯爽と強いお兄さんが現れて私たちを助けてくれる。さて、私たちにとってこのお兄さんが次に取る一番ありがたい行動はなにか。
 黙って立ち去ってくれる事だ。
 「助けてやったっんだからお礼をくれ」とか「これから君の友達になってあげよう」とかは言わない。なにしろお兄さんは強いので、友達になっても同等の立場ではいられないのだ。

 助けた者とかかわりを持たない――これが理想のヒーローだとするならキャラクターづけをしない方がいい。もし個性を持たせたならドラマ的には助けてもらった方はそれを理解しなければならなくなる。そして理解するためには交流を持つことになってしまう。理想のヒーローではなくなるのである。昔のヒーローが大体同じようなキャラ(性格)なのはこう言う理由による。
 父はこの原型の信奉者だった。だから人間を書く必要がなかったのだ。
というのは、ヒーローのアーキタイプを見事に言語化していて、痛烈にして納得。
またウルトラマンの巨大さ、カラータイマー(活動限界)という設定は、ウルトラマンと我々を関わりにくくし、究極のヒーロー性を与えている、という論も頷けます。

ウルトラマンは三分の間に怪獣を倒し、なにも語らずに宇宙に消える。ヒーローの原型を壊そうとすれば彼は自動的に死ぬ事になる。なんというありがたいヒーローだろう。ウルトラマンという存在は、実はヒーロー物の原型を壊さないための強力なロックになっているのだ。
 我々とはかかわりを持たない理想のヒーロー、その時代を父は生きたのである。
で、思い出すのが『仮面ライダーアギト』におけるアギト(翔一くん)ですが、電波に呼ばれて変身し、無言で怪人を倒して去って行き、変身前の人格が一切反映もされない初期アギトというのはまさに、この原型を突き詰めた存在であり、井上敏樹が、父が最も輝いていた時代のヒーロー像が「個性」を手に入れより現代的なヒーロー像に変質していく姿を1年間の物語の中に圧縮して盛り込んでいたのかと思うと、改めて興味深い。
この他、平山亨や鈴木武幸など多くの関係者証言が収録され、なかなか面白かったです。現在も根に残る東映ヒーローにおける時代劇テイストとはすなわち伊上脚本のテイストであり、戦後の「連続TV映画」におけるプロット発明家としての伊上勝への関係者の高い評価が窺え、本書の内容を踏まえた上で改めて伊上勝の脚本作品と向き合ってみたくなる、そんな一冊でした。
……というタイミングで丁度、東映Youtube昭和ライダーが一周して『仮面ライダー』に戻っていた! 折角なので、何話か見てみよう。

 その後、ヒーローたちはおずおずと理想の座から降り始める。気持ちはわかる。きっと尽くすだけの立場が馬鹿馬鹿しくなったのだ。ヒーローたちは我々に交流という報酬を求めるようになる。だが、これはまた別の話だ。
井上敏樹


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  • 八手四郎次郎

    「仮面ライダー」シリーズをはじめとする70年代以降の特撮ヒーロー作品って"主人公の成長物語を描く青春ドラマ"という側面を持たせてあって、「月光仮面」とか「ウルトラマン(初代)」などの"人格的に成熟した主人公が粛々と任務を遂行するヒーロー活劇"とは趣を異にする部分があるんですよね。
    本来、オムニバスヒーロー活劇の主人公って「実力行使を"理不尽な暴力"ではなく"任務の遂行"として行うことが出来る"人格的に一応の完成をみた"者である事」が必要条件の筈なんですが(そうでなければ"英雄"とは呼べなくなってしまう)、伊上勝氏や同世代の作家陣は、青春物やスポ根物が持て囃された当時の状況もあってということなのか、"成長途上の若者"をヒーロー活劇の主人公に据えてきた。
    しかし、そうなると当然「精神的な未熟さの故にヒーローにあるまじき振る舞いをしてしまう」という展開を、単発エピソードではなくシリーズ展開としてやらなければ不自然な訳ですが、......結局「そこまでヒーロー活劇の約束事をぶち壊すことが許されるのか?」「ヒーローはあくまでも"皆の為にヒーローを演じ続け"ねばならんのでは?」という疑問に直面してしまい、ヒーローの人間性をより踏み込んで描写することは回避せざるを得なかった。
    「ヒーロー活劇に青春ドラマ要素を持ち込んだことで"ヒーローの無謬性幻想(=ヒーローへの信頼)"に傷をつけかねない状況に追い込んでしまった」ことへの落とし前をどう着けるのか。......この、伊上氏をはじめとする父親世代の作家がぶち当たったジレンマを、「ヒーローだって道を踏み外す。それで何が悪いんだ?」「ヒーローが人格者でなければならんなんて誰が決めた?」「ヒーローに完全無欠さを求めるのは庶民の身勝手じゃないのか?」という"開き直り"で乗り切っちゃったのが井上敏樹氏ら息子世代の作家だったのではないか、と思えるんですよね。つまり「ヒーロー性のバージョンアップ」ではなく「ヒーロー性の剥奪」に活路を見いだした、と。
    ここら辺、伊上・井上親子が辿った軌跡を、理想的ヒーロー像すなわち"庶民がヒーローに求めたもの"の変遷(偶像であるべきか等身大でいいのか、など)と絡めて読み解いていくと、より本質に迫ることが出来るのかなあとも思うんですが。はてさて。