夢みる電子回路
八月二十三日
前に私が「日記の書き方が分からない」と言ったとき、貴方は「手紙のように書けばいい」と教えてくださいましたね。今日から書き始める私の日記は、貴方へ向けて書いてみようと思います。「日記とは記録である」とも貴方は言っていました。そう、記録。新年でも月初めでもないこんな中途半端な日から日記を書き始めるのは、記録のためなの。
「今日から例の新入りが来る」と「おとうさま」に呼び出されたのは、まだ日も暮れていない夕方の頃でした。このお店で一番古株である私に、どうしても見てほしいとのこと。「おとうさま」に連れられ、店の一番奥の奥にある部屋へ向かいました。まだ番号のふられていない真新しいその部屋は、他の部屋と比べて一回りほど広く小綺麗で「仕事部屋」というには充実しすぎているように思えました。その部屋の、中心。大きなベッドに横たわる一人の少女。一糸まとわず、ピクリとも動かない彼女が新入り……いや、〝商品〟であることはすぐに気がつきました。
「彼女が例の……ですか?」
私がそう問うと、「おとうさま」はゆっくりと頷きました。
少女の白い肌は陶器と見紛う程に滑らかで、頬はうっすらと薔薇色に染まっていました。シーツの上に広がっている長い黒髪は絹糸のように艶やかで、黒曜石の瞳は熱く潤んでいます。左胸に触れると、生々しい心臓の動きが感じられました。
〝これ〟は本当にロボットなのか。
私の疑問に答えるかのように「おとうさま」が口を開きます。
「綺麗だろう? 特注品だ。ほら」
「おとうさま」が〝彼女〟の身体をひっくり返すと、腰にお店の名前と八桁の数字が刻まれていました。焼印ではない滑らかな印刷。確かに、人工的です。
「これからはお前に、彼女の世話役をしてもらう」
その言葉に私は驚きました。だって、機械に世話役だなんて。そういうのを無くすためのロボットでしょう? そんな気持ちが顔に出ていたのでしょうか。「おとうさま」は小さく息を吐きました (これは私を説得する前にやる「おとうさま」の癖)。
「彼女は立つことはできても歩くことができないからな。最初から下男にやらせると壊しそうだろう? お前が一番信用できるんだよ。慣れるまで、いろいろ手伝ってやってほしい」
歩けない。逃げ出さないためだな、と直感的に思いました。前に「おとうさま」が反抗的な娘の脚の腱を切っていたのを私は知っている。そういうところがロボットなんでしょうね。
「あとは、いろいろ話してやってくれ。そのほうが、こいつの〝こころ〟にも良いらしい」
〝こころ〟と言われても、よく分からなかったのですが、他の新人と同じようにすればいいのだな、と了承しました。「おとうさま」が部屋から出ていった後、虚ろに輝く彼女の瞳に耐えられなくなり、私の手で瞼を閉ざしたことをよく覚えています。そのあと眠ったかのように呼吸が深くなったことも。静かな部屋に、作られた息の音が小さく小さく響いていました。灯りを消すと、天窓から月の光が射し込み、彼女の裸体をぼんやりと照らします。彼女の部屋は、私の部屋から遠い。そう思いました。
八月二十四日
今のところ、日記は続いております。でもまだ慣れないので、今日も貴方に向けて書きます。例のお人形さんのこと。
「こんにちは、はじめまして。私の名前はNP-001です。あなたのことは何とお呼びすればよろしいでしょうか」
これが、彼女の第一声でした。玉を転がすような声は機械のものだとは思えないほど流暢で透き通っています。私は彼女に、この店の規則について説明すると伝えました。
「規則。了解しました」
真っ白なワンピースに身を包んだ彼女は、表情ひとつ変えずに頷いてみせました。私を見つめる大きな瞳は、時折思い出したかのように、ぎこちなく瞬きをしています。
・このお店に買われたからには商品であると自覚する
・お客様の要望には可能な限り従う
・身体を傷つけられそうになったら下男を呼ぶ
・今の名前を捨て、お客様が望んだ名前で呼ばれる
・この店の「きょうだい」たちは各々の部屋番号で呼ぶ
遊女五カ条ですよ。ええ、本当は名前を捨てるんです。とにかく、この決まりを彼女に教えました。
「了解しました。あなたの部屋番号は?」
「私は一号室です。貴女の部屋は――」
そこまで言って、私は彼女が使っている部屋にまだ番号がふられていなかったことを思い出しました。こればかりは「おとうさま」に聞かないと分かりません。
「貴女は保留です。『おとうさま』に確認します」
「おとうさま、とは」
「この店のオーナーです。『おとうさま』と呼ぶように。規則です」
「規則。登録しました」
何の疑問もない。なんて機械的。会話をしていけばもっと自然になるのかしら。でもきっと、このくらいの方が上手く仕事ができるんでしょうね。今やこのお堀の中でロボットが相手をするお店は特別珍しいわけではありませんが、他の店のものと比べるとやはり人間に近いように思えました。これからどんな活躍を見せるのか少し楽しみではあります。こういうのってどこで造られるのかしら。貴方がいる学校では造ってはいないんでしょうね。貴方は機械と寝たことある? ……こんなこと聞いたら怒っちゃうかしら。でも気になるわ。貴方ロボット大好きですものね。(そういう意味で好きじゃない! と顔を真っ赤にする可愛い貴方が目に浮かびました)
八月二十六日
二日坊主になるところでした。でもお堀の中にいて、そんな毎日書くようなことなんて無いわ。毎日書かなきゃっていう気持ちが書かなくさせるのかしら。日記を書く、ということには慣れてきました。今日は眠ったあと、切手とインクを買いに行きます。
お人形さんのこと。彼女がこのお店に来て数日経ちましたが、なかなか好評なようです。最新の美しいロボットが入った、としか公表していなかったから、噂が噂を呼んだみたいで。期待を裏切らない出来ですし、実際に寝たお客様からの口コミもあったようです。並みの女より高いのに、予約がたくさん入っている人気ぶり。でも「おとうさま」は冷静で、「最初は物珍しくてやって来る客が大半だ。ここからどう常連客をつけるかだ」なんて言っていました。
あれから少しずつお話をしているのですけど、彼女、笑ったりするようになりました。まだ少し硬いですが、楽しいお喋りも。成長していく喜びっていうのも魅力の一つかもしれません。男ってそういうの好きでしょう? 違う?
九月三日
今日は少し早い時間に暇ができたから、彼女の部屋へ行ってみました。調整だかなんだかの理由で、彼女のお仕事の時間は主に遅い時間だから。
部屋に入ると、彼女は見慣れない服を着ていました。光沢のある、艶やかな布は決して安いものではないことは私でも分かります。紅地に華の模様が複雑に描かれていて、とても美しいものでした。
「これは二日前にお客様から頂いたものなんですよ! 東の地区に昔から伝わる民族衣装だそうです」
彼女はこの遊郭では珍しい黒髪黒瞳でありましたし、顔立ちもどこか異国風でその地区のお客様に人気がありました。富裕層も多いですし、それを狙って「おとうさま」が注文したのでしょう。
「もっともっと昔に着られていたものも頂いたのですが、枚数が多くて……。一番上の鮮やかなものだけ頂きました。今度お見せしますね」
「よく似合っている」と伝えると、彼女は照れたように笑いながらお礼を言いました。
九月四日
今日は彼女と食べ物の話をしました。貴方があの二日目の夜に買ってきてくれた緑色のキャンディーの話です。彼女は口も歯も舌もあるけれど、ご飯を食べることは無いんですって。あのぱちぱちはじける不思議なキャンディーの話に彼女は興味津々でした。電気に味はあるけれど触感が無いから、と言っていました。味は舌ではなく脳みそで感じるそう。これって大発見じゃない? 貴方の学校ではこういうことも研究対象なのかしら。明後日貴方に手紙を書くから、聞いてみます。……これは日記というよりメモね。
彼女の感情がどんどん豊かになっているな、と実感しています。いろいろなお客様とお話するからなんでしょう。同世代のお友達ができたみたいでなんだか不思議です。
九月八日
このところ忙しくてとても疲れているけれど、貴方からの手紙も来ないし、楽しみが他にないから日記を書きます。本番がないとはいえ、一日に二人も三人も相手なんかしてられないわ。
この頃はあのお人形さんに会えていません。次に会えるのはいつなのかしら、と暦を指でなぞる毎日です。貴方くらいの年のお客様が来ればいいのだけれど、若いお客様はみんな下の階に行ってしまうから、つまらない。お仕事の時間がずれれば、あの子に会えるのに。ちょっと「おとうさま」にお願いしてみようかしら。
九月十日
今日やっとお願いが通って、あのお人形さんに会うことができました。あの子とのお話はとても興味深いので、覚えているうちに書いておきます。貴方とのお話も「記録」しておけばよかったって後悔してるの。今は手紙だから、何回も読み返せて良いわ。
今日は名前のお話をしました。
彼女は複数のお客様から、特定の名前で呼ばれるそうです。呼び名なんてどうでもよかったり、名づけのセンスに難があったりするお客様は、馴染みのある物語の登場人物などからお名前を借用することがあるからでしょうか。
彼女は羽織っている紅い着物を撫でながら伏し目がちに話していました。さらり、と絹の髪が流れ、薔薇色の柔らかな頬に睫毛の影が落ちます。記憶の奥の奥を探っているときの表情です。
彼女にはたくさんのロボットの記憶データが内蔵されているようでした。必要のない記憶のデータは、普段閉ざされているのでしょう。お堀の外を知らない私のために、彼女は度々新しいデータの扉を開こうとしてくれているのです。
「お客様には、何と呼ばれているの?」
何かきっかけになれば、と思い私はそう尋ねました。彼女は、ぼんやりと天窓を見上げ答えます。
「東の地区のお客様は皆、一様に私を『かぐや』と呼ぶのです。何か……」
そこまで言うと、彼女は黙ってしまいました。そうしている間にも、蝋燭はジリジリと小さくなっていきます。お話できないのでは元も子もありません。時間も迫っていましたし、考え込む彼女に声をかけて部屋を出ようとしました。
いまはとて あまのはごろも きるおりぞ
きみをあはれと おもひいでける
私が立ち上がった瞬間、ぽつりと彼女がつぶやきました。とても美しい、詩のような異国の言葉でした。
「それは……何なのかしら。音が綺麗だわ」
「何なのでしょう。突然、頭に浮かんで。……もう、行ってしまうの?」
「ええ、もう時間だから」
それを聞いた彼女は、ベッドの横のデスクから小さな紙切れを取り出し、慌ててペンで何かを書きました。
「今日はあまり話さなくてごめんなさい。『かぐや』のこと、お客様に聞いてみますね。これ、さっきの言葉なのだけど、よかったら」
詩が書かれた小さな紙は、彼女がくれた初めての手紙でした。失くしてしまいそうだから、この日記に貼っておきます。それにしても、私ったら、そんなにお堀の外に執着しているように見えたのかしら。私の一番は貴女とお話することなのよ、と伝えなくてはね。
九月十一日
昨夜いつもより多めに心付けを頂いたので、今日は買い物をしました。新しいインクと便箋、切手。カラフルな硬いグミがたくさん入った瓶。細かいレリーフが施されている青い蝋燭。スイートアプリコットの石鹸。あと、店の前で遊んでいた子どもに、ヒビの入ったビー玉をもらいました。灯りにかざすと不思議に光るんですって。
九月十三日
今日はお人形の彼女に、この前買った蝋燭をあげました。せっかく装飾があるのに勿体無い、と私は思ったのですが、彼女は使わないほうがよっぽど勿体無いわと言って火を灯しました。柔らかな光が部屋へ広がります。仕事の時とはまた違う、落ち着いた気持ちになりました。
彼女によると、この前言っていた「かぐや」とは東の地区の寓話に出てくる、月の姫らしいです。着物を纏った彼女の容姿がその姫のイメージとぴったりな上に、この店の名前が月に関係しているものだから、そう呼ばれているそう。
「姫は月に住んでいたのだけれど、罪を犯して地上に堕とされてしまうんですって」
彼女は、無垢に笑いながらそう言いました。私はそんな笑顔を見ていられなくて、思わず目をそらしてしまいました。
「貴女は、罪を犯す気はないの?」
つい、そんなことを、言ってしまったのです。彼女の潤んだ黒曜石の瞳は、じっと私を見つめているようでした。私の声と息で、蝋燭の火がユラユラと揺れていました。
「罪を犯すことと、ここにずっといることって、どっちが辛いのかしら」
ちらりと彼女の顔を窺うと、あの笑顔のまま、ゆっくりと瞬きを三回。理解できない言葉を聞いた時の動きでした。分からないんだ。胸の奥がサッと冷たくなったように感じました。どうして分からないの、と責め立てたいような、泣き出したいような、ぐちゃぐちゃな気持ちだったように思います。
「私は、ずっとここにいますよ」
しばらくの沈黙の後、彼女はそう言いました。私の表情の変化に反応したのでしょうか。優しく、なだめるような言い方で、何度も何度も繰り返していました。彼女の言葉を受けた蝋燭の火は、少しも動いていません。溶けた蝋は、もう半分だけになっていました。
「……やっぱり勿体無いから、もう消しましょうか」
そう言って私は息を吹きかけて蝋燭の火を消しました。煙の匂いと彼女の髪の匂いが混ざって、なんだか気持ちが昂ったことを覚えています。天窓から射し込む月の光が、彼女の人工の肌を美しく、艶めかしく照らしていました。
「私はずっとここにいます」
私がベッドから出た直後、確かめるように彼女はもう一度、そう呟いていました。
九月十七日
部屋から全く出ない(というより、出られない)彼女は、よく私に部屋の外の話をせがみます。とは言っても、私だってお堀の外に出たことはありませんから、狭い範囲の話になってしまうのだけれど。
「今日は扉の外が騒がしいですね。何かあったのですか?」
扉の方向をぼんやりと眺めながら、彼女はそう尋ねました。
もうすぐ三号室の女がこの店から出る日が近づいていました。三号室さんは荷物持ちで、引っ越しにとても時間がかかったのです。
「三号室にいる女がお客様に買い取られて、この店から出るんです。その準備でしょうね」
「買い取られる?」
「この店では決められた金額を払えば、お客様が女を買い取って家に持って帰ることができるんです。部屋によって値段は違うのだけど。貴女は今のところ非売品ね」
そう教えると、彼女は目を丸くして驚いてみせました。新しいことを知って喜んでいるようでした。
「あなたは? 一号室さんは、おいくらですか」
「私は、」
言いかけて、止めました。教えたくなかったのではなく、知らなかったのです。考えたこともありませんでした。ここで生まれ、「富裕層向けに」と教養を与えられながら働き、最年少ながら一番の古株となった私は、一体いくらで買われるのでしょうか。買われる日は来るのでしょうか。売ってもらえるのでしょうか。ここしか知らないから、ここの生活が嫌というわけではないけど、考えてみるとなんだか胸がざわざわしました。
「値段は知らされないものなのですね」
答えない私を見て、彼女は勝手に答えを見つけて納得したようでしたので、そういうことにしておきました。
九月十八日
今日は、私の部屋の扉を叩く音で起こされました。眠い目をこすりながら扉を開けると、店で一番年を取った女中がそこに立っていました。
「三号室がいないのだけど、何か知らない?」
荷物を送って、あとは夜が明けて本人が身請け先に向かうだけというところだったのに、朝迎えに行くと三号室には誰もいなかったのだそう。
ああ、逃げたのか。私は寝起きのぼんやりした頭で、そう思いました。昨日餞別を渡しに行ったとき、三号室さんの目は赤く腫れていたのです。やっと外に出られるというのに何を泣いているんだこの人は、と呆れたことをよく覚えています。
「川を、探してみたらどうかしら」
そう提案すると、女中は「やっぱり」と苦々しい顔をして外に向かいました。
何時間か経ったあと、お堀を越えたすぐそばの川の下流で三号室さんが見つかったと教えてもらいました。見つかったときにはすでに息はなく、一緒に川に入った男は生きていたといいます。駆け落ちの末の入水自殺。なんとまあ、古典的な。相手はこの街の近くに住む、商店を営んでいた男だったそうです。
三号室さんは、高望みをしてしまったのでしょうね。贅沢なんて、私たちには毒でしかありません。それでも欲深い彼女は、それを欲してしまったのです。私はあの年上の、派手で自分に正直な彼女のこと、嫌いではありませんでした。
でもきっと、すぐに忘れる。また「おとうさま」が新しい女を連れてくるでしょう。なんてことない、いつものこと。
十月三日
空いた三号室に新しく入ったという娘が私の元へ挨拶に来ました。身なりは清潔であったけど、流行とは外れた古めかしい服を着ていました。私よりいくつか年上のようで、疲れた目でジロジロと見てきます。
そして新しい三号室は、聞いてもいないのに何故この店に来たのかを話し始めました。それなりに裕福な暮らしをしていたのに、父親の病気のせいで貧乏になり、ここへ売られてきたのだそう。そんな人、ここでは掃いて捨てるほどいるし、「そうね、お気の毒」としか言えないのだけど。
十月十日
いつもこの日記は朝日を見ながらだとか、起きたあとのお昼とかに書いているのだけど、今日は真夜中に書いています。お仕事中よ。とてもイレギュラーなお客様が来て、戸惑っているの。
今日のお客様は、眼鏡をかけた痩せていて背の高い男の人でした。部屋に入るなり、私が蝋燭に火を灯すより速く、ベッドに潜り込んでしまったのです。
「僕は何もしない。ここに宿泊に来ただけなんだ。時間になったら起こしてくれ。その間、好きにしていいから」
とにかく寝かせてくれ、と言ったきり、本当に眠ってしまったのです。こんなこと初めてだし、馬鹿にされているのかしら。何をしたらいいのか分からないから日記を書いています。さっき見たのだけど、お客様の鞄からたくさん本がこぼれ落ちていたから、読んじゃおうかなって。とりあえず、今日はここまで。
十月十一日
こんなことがあるなんて、なんだかまだ信じられません。
あのあと、鞄から落ちていた本を拾って読んでみたりしたのだけど、なんだか難しい専門書ばかりですぐにやめてしまいました。異国の本もあるようでした。こんな時代に(文通なんてしている私が言うのも何だけど)これほどたくさん紙でできた本を持っているというのもなんだか不思議です。ここでは時が止まったかのように原始的な暮らしをしているけど、お堀の外、街の中心部は違うのでしょう? もしかしたらとんでもないお金持ちのお客様なのかしら、なんて呑気に考えながら本のページをぺらぺらとめくっていたのです。好奇心に負けて鞄の奥の方にも手を伸ばしてしまいました。偶然手に取った、つるりとした薄い表紙の本は、機械を題材にした小説でした。今までの専門書とは違い読みやすく、夢中で読み進めていると、
「機械に興味があるのかい?」
いつの間に起きていたのか、紙巻き煙草を銜えたお客様に、そう声をかけられました。勝手にカバンを漁った後ろめたさもあったので心底驚いた私は、(私の首飾りを盗んだあの背の低い女中のように)しどろもどろになるばかりで、返事ができません。お客様は、床に散らばった本を見つけると怒るでもなく、また静かに
「こっちも読んだのか?」
と聞いてきました。さっきよりもだいぶ落ち着いた私は正直に「読んだけど、よくわからなかった」と答えました。
「そうか」
蝋燭の横にあった燐寸でお客様は紙巻き煙草に火をつけました。
「また来るから、教えてあげよう」
言葉と共に、ゆらり、と煙が流れ、くすんだ匂いが部屋に漂います。
「あなたは、先生なの?」
「いいや、今は違う」
「今は?」
「先生じゃなくても、教えられるよ」
「今は、何をやっているの?」
「作って、売ってる。人身売買だ。この店にも売った。金がいるんだ」
「じゃあなんで女を買っているの?」
「いつもは泊まらないけど、今日は遅かったから。点検料の代わりに泊めてもらってるんだよ」
「点検って、何の?」
「君は質問ばかりだな」
「良い生徒でしょう」
にっこりと笑ってみせたら、向こうもつられたようで、喉の奥で押し殺すように笑いました。それがこの人の普段の笑い方のようでした。
「ここに売ったロボット。女のロボットだよ。君、あの子と仲良くしているようだね」
この変なお客様は技術者で、あのお人形さんを作った人だったのです。私には見込みがあるから、と次からいろいろ教えてくれるそう。正直、どこまで信じていいのか分からなかったけど、また本が読みたかったし読めなかった本が読めるようになりたかったので、しばらくは聞いてみようと思っています。貴方のように学べるのかしら。なんだかわくわくしています。
十月十三日
今日は、貴方とそっくりなお客様が来ましたよ。若くて、身なりが綺麗な、真面目で純朴そうな学生です。部屋に入るなりベッドの端に座り、ギュッと握った拳を膝の上に置いて下を向いていました。
でも、境遇とか年齢が同じなだけで、貴方とは正反対だわ。貴方のように意気地なしではなかったし、自分に自信がないようではなかったし、貴方のように優しくもなかったから。さっさと機械的に目的を果たしてしまいました。
震える拳を握ってあげた時の、期待と興奮と、軽蔑の目!
ことが終わった後、ちょっと仕返しに「今度はパパじゃなくて自分のお金で来てね」と言ったら、恥なのか怒りなのか、カッと顔を赤くして一瞬だけ怖い顔をしました。
「もう来ないよ、一生」
吐き捨てた言葉は、高く掠れていて少し震えていました。
十月十六日
あのお人形さんの部屋に入ると、彼女は蝋燭の受け皿をじっと見つめていました。だいぶ前にあげた青い蝋燭はもう溶けてしまっていて、受け皿に残った白い蝋と混ざって不思議な模様を作り出していました。まるで海の波のようだ。見たこともないのに、そう思いました。
「あの蝋燭が気に入ったのね」
そう言うと、彼女はこくりと頷きました。
「海、好きなの?」
「海? なぜですか?」
「海の色、みたいだったでしょう?」
「あの蝋燭が、ですか?」
上手く話しが噛み合っていないようでした。本当の海の色は違うのかしら。困り顔の私を見て、彼女は目を閉じます。記憶の底を探ってくれるようです。
「……海は、あんなに真っ青ではなく、翠玉のような、もっと深くて優しい色をしています。海の底は穏やかで、静かで、柔らかい……」
彼女は昔を懐かしむかのように、そっと言葉を重ねていました。ぱちり、と瞼を開き、潤んだ黒曜石が私を捉えます。
「あなたの瞳の色のような」
「私の?」
「ええ、あなたの瞳は海の底の色」
そう言いながら、彼女は私の顔を撫でます。滑らかな人工の皮膚は、少しひんやりとしていました。
「髪は、光の束を集めたような……」
そして、そのまま私の髪を手で梳いてきました。自分の香水の匂いがふわりと漂います。
「美しいです」
私としては、彼女の艶やかな絹の髪の方が何倍も美しいと思ったのですが、何も言えませんでした。嬉しかったのです。
「まるで秋の風に揺れる、金の稲穂のようですね」
彼女は柔らかく微笑みながら、そう続けました。私の好きな顔でした。
稲穂。金の稲穂。稲穂って、よくわからない。字引で調べましたが、稲の穂としか書いていませんでした。写真、貴方に頼んでみようかしら。そろそろ、手紙の返事が来る頃だわ。
十月二十三日
久しぶりに貴方から手紙が届きました。質問の返事、私を気遣う言葉、学校のこと、都会の暮らしのこと……。書かれていることの全てが新鮮で、不思議で、楽しそうでした。
本当は、私のことなんて忘れてしまった方が貴方のために良いのだろうけど、それはまだ手紙には書けません。手紙をやめたくないから。でも、きっといつか書かなければいけない日が来るのでしょう。
「親に行けと言われて来た」と恥ずかしそうに笑う貴方。二人でシーツに包まって、時間いっぱい取り留めもない話をした最初の夜。はじけるキャンディーを舐めて友達のように笑いあった二日目。お互いの身の上話をして、手をつないで眠った三日目。決意と覚悟を持って挑んだ最中のどさくさに、私の本当の名前を教えた最後の夜。
すべて昨日のことのように思い出せるけれど、いつかは忘れなくてはいけないのだと思う。お互いのためにも。
手紙を読んで、そんなことを考えました。でも、手紙の返事はいつも通りに。そして稲穂と海の写真をお願いしました。
十一月二日
あのお人形さんを作った技術者のお客様(先生、と呼んでいます)は、あれから度々やってきては、私にいろいろな話をしてくださいます。そのお話は講義のようではないのに、話を聞いた後はあの難しい本がなんとなく理解できるようになっているから不思議です。でもなぜ、私に勉強を教えて下さるのでしょうか。昨夜、勇気をもって聞いてみました。
「なぜって、見込みがあるって言ったろう? 君は記憶力がいいし、固定観念にとらわれていない。勉強に意欲があるし、なにより、あの子に好かれている」
先生は煙を吐きながら、そう答えてくださいました。
「最後のが、一番重要かな」
くつくつと笑っていたので、冗談だったのかもしれないけれど。
十一月十日
今日は仕事の時間がずれたようで、外に出る時に仕事前の下の階の女たちと鉢合わせてしまいました。初めてのお客様が来る食事処で、集まって談笑しているようです。中心には、あの三号室がいました。やっぱり、境遇的にも下の階の方が馴染むのでしょう。外から来た者と中から来た者には、どうしても埋められない何かがあるように思えます。「おとうさま」は気づいていないのでしょうか。
私に気づいた女たちはお喋りをやめ、道を開けます。その目は、何を思って私を見ているのでしょう。私には、わかりませんでした。
十一月二十日
機械と人間の違いって、何なのでしょう。いろいろな本を読めば読むほど、わからなくなってきました。私にとって一番身近なロボットは、あのお人形さんなのですが、本に書いてあるロボットと彼女が、同じ物だと思えません。そして、歴史や法律を知っていくにつれて、あのお人形さんが法律に則って作られたものではないように思えて仕方がないのです(ここで買われている時点で、合法な訳がありませんが)。だから、あの先生のことを貴方に聞いてみたいのに、なんとなく聞けずにいます。どうであれ、私にはあまり関係ないけれど、なんとなく。
十一月二十六日
四号室のお産の日が近づいていましたので、今日はお見舞いに行ってきました。妊娠したらお仕事ができませんから、四号室はどうにか貯金を切り崩し生活しているようです。お金をくれないのは非道だと思いますか? 住む部屋と世話係を与えてくれているだけ親切な方だと思います。四号室は、ほとんど物置のような小さな部屋で、椅子に座り大きなお腹を撫でていました。
「来てくれたの? ありがとう」
四号室は私が持ってきた食べ物を受け取り、疲れたように笑っていました。あんなに綺麗で自慢だったこげ茶の髪は荒れ、顔は不健康に痩せています。
掛ける言葉が見つからず、居た堪れない沈黙が続きました。こんなにも気の利いたことが言えないのは初めてのことでした。聞きたいことはたくさんありました。お金はまだ残っているのか、父親が誰かわかるのか、産んだ子が男の子だったらどうするのか、引き取ってもらえるのか、産んだあと仕事に復帰できるのか……。でも、なぜか、なにも言葉が出てこないのです。
沈黙が長引けば長引くほど、どんどん四号室の表情は暗くなっていきます。目には涙まで溜まっていました。
「どうしたんですか」
思わずそう尋ねると、四号室は重々しく口を開きます。
「あなたを見ていたら、この産まれてくる子が不憫に思えて仕方がないの」
そう言ってさめざめと泣くのです。
じゃあ堕ろせばよかったじゃないの、とか、そもそも子供ができないようにしておくべきでしょう? とか、たくさんの言葉が喉まで出かかりましたが、飲み込みました。飲み込むしかありませんでした。
ごめんなさい、ごめんなさいね、と言って泣く四号室を残して、その埃っぽい部屋を出ました。
その足で、あのお人形さんの部屋へ向かいました。仕事前の彼女は、服を着せられ、横たわり、腰からは充電のコードが伸びています。お香が焚かれていて、部屋中に広がる彼女の匂いにくらくらしました。
なぜ私はそこに行ったのか、わかりません。彼女に話を聞いてもらいたかったのでしょうか。彼女に慰めてもらいたかったのでしょうか。ただただ彼女の前で泣きたかったのでしょうか。わかりません。私は、わからないことばかりです。会いたい。貴方に会いたい。
十二月三日
今日は、先生の作るロボットは合法なのかどうか、思い切って聞いてみました。
「合法ではないね」
煙草の煙を吸って、乾いた咳を三つした後、彼はあっさりと言いました。
「そもそもロボットは、それを表に出せないだけで、ほとんど人間と同じように物事を考えているんだ」
「どうしてそれがわかるの?」
「そりゃあ、データを見ればわかるさ」
「記憶のチップか何かに、その思考も入っているのね」
「いいや、入ってない。ああ、入っているんだろうけど、はっきりと言葉として読み取れはしない」
「じゃあなぜわかるのよ」
「回路やカメラの動きを見れば、わかるよ。僕は彼らの親だから。でも、みんなそれに気づかない。だから彼らの思考を出力する技術は発展しなかった。気づきたくないんだ。余計な事を言われちゃ困るだろう? だから国もロボットに考えさせるのを禁止したんだ。でも、僕は自分の技術の全てを掛けて、できる限り自分で考えて動けるようにしてる。売る場合は客の要望に応えるけどね。だって可哀想じゃないか。彼らは人間がロボットを愛するように、人間を愛してくれているのに、それを伝える手段さえないなんて。彼らは苦しんでいるよ」
「愛するようにプログラムされているだけじゃない」
「そうだね。でもそれの何が悪いのさ。人間だって一緒だ。人間だって、人を愛するようにプログラムされているだろう? 人間の本能だって、つまり、プログラムだ」
「じゃあ、人間とロボットは変わらないって言うの? 先生は、人間が作りたいのね」
「……どうなんだろう。正直、僕もよくわからないんだ。人間そっくりのロボットが作りたいのかな。でも、僕は苦しんでいるあの子たちが可哀想で、せめて、その苦しみを共有できる同朋、つまり心を出力できるロボットがいればいいと……」
そこまで言って、先生はまた、乾いた咳を三つ。
「時間がないなあ」
その小さな呟きは、煙と一緒に窓の外へ、流れて散りました。
十二月十日
四号室が産んだ子供は、水子でした。これで、可哀想な子供は増えずに済んだという訳です。こんなことを考える自分が心底嫌になりました。
十二月十六日
この頃、あのお人形さんに会えていません。いや、会いに行っていないのです。彼女を見ていると、ロボットと人間の違いがどんどんわからなくなって怖いの。くるくると表情を変えながら心底楽しそうに話をする彼女は、ここにいる誰よりも人間らしいのではないかと思ってしまいます。名前も与えられず、毎日道具のように使われる私は、私たちは、ロボットでないなら一体何なのでしょう。人間なのでしょうか。そのことを先生に話すと、困ったように煙を吐き出したあと、
「あの子は人との交流に重きを置いて、人として模範的になるように作られたんだから、そう思うのも無理はないよ。あの完璧までの人間らしさって、つまり作られたものだから、気にしなさんな」
と言われました。慰めてくれているのでしょうか。少しだけ、心が軽くなった気がしました。
空いた四号室に、二号室の妹が入るようです。二号室は、自分の妹が上の階に入れることを喜んでいました。上の階に入ればお給料も良いし、少なくとも人として扱ってもらえるわ、と。
十二月三十日
「今作っているロボットを売った金で、君を買い取ろうと思っているんだけど、どうだろうか」
先生が、いきなり黙りこくったかと思ったら、そんなことを言い出したので、最初は聞き間違いかと思いました。あまりにも唐突で、今までそんなことを考えている素振りすら、見せていませんでしたから。
「君も知っているように僕は学会にも入っていないし、研究内容も政府の意図に反するものばかりだ。でもこの頃、こういう店で僕のロボットに需要が出てきて、支援者もできたから。金稼ぎだけじゃなく、研究に本腰を入れようと思ったのだけど、今度は病気が出てきて。もう長くないんだ。でもこの研究はやり遂げたくって」
先生は、ぽつりぽつりと言葉を探しながら、ゆっくりとそう話しました。灰皿に置かれた煙草が、煙を上げながらどんどん短くなっていきます。
「だから僕が死んでも、その新しいロボットが完成するように。僕が死んだあと、研究を引き継いでやってほしいんだ、君に」
「でも……私、できるかしら」
「もちろん僕が生きている間、君に教えるよ。君を立派な研究者にしてみせるよ。君にはその素質があるから」
あまりにも都合のいい話すぎて、夢かと思いました。今も思っています。お堀の外に出て、しかも研究ができるだなんて、願ってもみなかった話で、眩暈がしたことをよく覚えています。断る理由は見つかりませんでした。けど、少しだけ、あのお人形の彼女の顔がちらつきました。
一月四日
貴方から手紙が届きました。約束の、稲穂と海の写真も。彼の通う学校のすぐ近くにその畑が広がっているそう。彼は何もない田舎で嫌になる、なんて手紙でぼやいていました。地平線の向こうまで、永遠に続いているかのように思えるほどの大きな畑いっぱいに広がる稲たちは、太陽の光を浴びたら、どれほど美しく輝くのでしょうか。海は、写真が下手なのか、黒く濁っていてすべてを飲み込んでしまいそうな恐ろしさがあります。海の中とは、また違うのかしら。その写真たちを折れないように鞄にしまいました。おそらくこれが貴方からの最後の手紙になるのでしょう。
ここを出る日が、刻一刻と迫っていました。
一月六日
ついに、明日。私がこの部屋を出る日が、あと一日となってしまいました。この日記を書くのは、これで最後になるでしょう。
今日はいろいろな人が挨拶に来ました。二号室は小さな指輪を、五号室は片方だけの桜色の耳飾りをくれました。「こんな大切なもの、貰えない」と言ったら、五号室は「いいの、これくらい。私はあなたを希望に生きるわ」と耳飾りを着けてくれました。私がいなくなったら、五号室が一番の古株となります。いろいろと思うところがあるのでしょう。最近、ぜんぜん喋っていなかったけど、もっと会っておけばよかった。今さらになってそんなことを思いました。
そのあと、「おとうさま」に最後の挨拶に行きました。ついに明日ここを出て行く、ということを改めて伝えると
「そうか」
と言って黙り込んでしまいました。
「今までお世話になりました」
そう言ってお辞儀をして立ち去ろうとしたとき「おとうさま」が口を開きました。
「長いこと……大変な思いをさせて、すまなかった、な。働かせたこととか、お前の母親のこととか、いろいろ。お前は俺を恨んでいるだろう? 恨んでいてくれ。いや、ここのことなんて全部忘れてくれ。すまなかった」
お父様は、申し訳なさそうに、そう言って頭を下げました。今さらそんなことを言われても、という感じだったのですが。きっと父は、父親として正しくなかったのだろうということは何となくわかります。でも、ここしか知らない私は、父が何を間違えていたのか、どうすれば正しかったのか、そんなこともわからないのです。
父親と別れ、お人形さんの部屋へ向かいました。扉を開けると、大きなベッドの真ん中に座っていた彼女がこちらに振りむきます。反動で流れる黒髪が、艶々と輝いていました。
「お久しぶりですね。こんな時間に来るなんて、どうしたんですか?」
何も知らないふりをして、彼女はそう言いました。誰に聞いたのかわかりませんが、私がここを出ることを本当は知っているのでしょう。ぎこちない笑顔がそれを物語っていました。嘘が下手だなんて、ますます人間だかロボットだかわからない。
「今日は、あなたに挨拶しに来たの」
「……そうですか」
彼女は視線を逸らし、シーツを握りしめます。
「明日この店から出ます。あなたを作った人に、買われて行くの」
「私を……?」
「ええ、そう。私、あなたのようなロボットを作るわ。研究者になるの」
「まあ、それは……素晴らしいです。いいことですね」
「それで、私とあなたはもう、会うこともないでしょうから、あなたへ何か最後に贈り物でも――」
「いらないです!」
突然、大きな声を出されて、思わず固まってしまいました。こんなに感情を露わにした彼女の声を聞いたのは初めてのことでした。
「えっと、私が欲しいのは、物ではなくて」
「何ですか?」
「思い出を」
震える声でそう言って、彼女は私の服の袖をそっと掴みました。
「思い出を、ください」
黒曜石の瞳が私を捉えます。その表情、言葉から、何を意味しているのかを理解しました。紅潮した滑らかな頬に手を添えると、彼女の大きな瞳は閉じられ、真珠のように美しい大粒の涙が、零れ落ちました。涙。彼女は涙を流したのです。彼女は、涙を流せたのです。これのどこが機械であろうか。人間より、よっぽど感情的ではないか。手を顎にすべらせ、顔を近づけます。温かい肌に震える唇。人間と違うところなんてどこにもない。この子が人間でないなら、私だって人間ではないでしょう。そんなことを考えながら、私は彼女の唇に、自分のものを重ねました。ほんの数秒のことでした。仕事でしているものとは違う、触れるだけの親愛の証。唇を離すと、彼女は自分で自分を抱きしめるようにして、よろよろと身体を倒しました。どうしていいのかわからなくて、私は羽織っていたショールを彼女に掛けてあげました。彼女は両目からぽろぽろと涙を落とし、ほとんど泣きじゃくっているようでした。
「わたし、あなたに行ってほしくなくて、……ほんとは、あなたはここから出て行きたがっていることをわかっているのに、わたしは、あなたにここにいてほしいんです……!」
幼い子供のように泣きじゃくる彼女をそっと抱きしめると、縋りつくように背中へ手を回されました。泣き声がいっそう大きくなります。
「ありがとうございます、一生の宝にします」
彼女が落ち着いた頃に身体を離しました。そのショールはあげると言ったら、彼女は嬉しそうに微笑みました。
「あの……私ばっかり貰って、申し訳ないから。邪魔になるかもしれないけど、貰ってください」
そう言って彼女は、私に着物を手渡しました。あの滑らかな生地に大きな華の模様が入った、紅く美しい着物でした。
「さよなら、ありがとう」
扉を開けて外に出ました。しんと静まった薄暗い廊下に、彼女のものだった着物の赤が映えて、それがなんだかとても美しくて、少し泣きました。
一月六日
拝啓
寒の入りとなり、冷気がひとしお厳しくなってきましたが、お元気でしょうか。そちらでは、あまり気温なんて関係ないのかしら。
お返事ありがとうございました。お願いした稲穂と海の写真、とても素敵でした。海って、あんなに真っ黒で恐ろしいものなのですね。青いもんだと思っていたから、驚きました。稲穂畑も、貴方は気に入っていないようだけれど、私はとても気に入りましたよ。あれだけで、パン何人分になるのかしら。
そういえば、前に少しだけお話した私の先生のこと、覚えていらっしゃいますか。この間、貴方と同じ学校に勤めていたと話していてとても驚きました。とても有名な方だそうなので、名前を聞けば貴方も知っているかもしれません。
私はこの度、その先生に身請けされることになりました。だからもう、この住所は使えません。新しい住所も教えることができないの。なぜだかわかりますか? 頭の良い貴方のことだから、その先生が誰なのかもうわかっていることでしょう。
私はこれから娼婦でも愛人ではもなく、先生の元で学びながら働いていくのです。正義感の強い貴方のことだから、きっといい顔をしないのでしょうね。もしかしたら、騙されている! なんて、思うのかもしれない。でも、いいの。騙されていたっていい。私は、ここを出て機械について学びたいの。
前に話した、あのお人形さん。彼女に最後のお別れをしたとき、なんと言ったと思いますか? 「行かないでくれ」って。彼女は「連れて行って」とは言いませんでした。彼女はあそこから出るという選択肢すらない。もしかしたら言いたかったのに、言えなかったのかもしれない。そう思ったら、なんだか悲しくて……
手紙と一緒に、私が書いてきた日記を貴方に送ります。
私や先生の考えに賛成しろ、と言いたいわけではないの。でも、少しだけでもわかってくれたなら、と思います。これは私の独りよがりなわがままです。
今までありがとうございました。もう、会うことは無いのでしょうね。でも、来世とかで、また貴方と出会えるような気がしているの。
では、また
敬具
一号室から、愛をこめて