TBSラジオ『荻上チキ・Session-22』(平日22時~生放送)
新世代の評論家・荻上チキがお送りする発信型ニュース番組。
▼Main Session
時事問題など、およそ1時間にわたり特集。
「感染症の専門家・岩田健太郎・神戸大教授に聞く! 新型コロナウイルス対策と最新研究」
【ゲスト】
感染症がご専門、神戸大学病院感染症内科・教授の岩田健太郎さん
特集「マスクの意味、アルコールの代用品、BCGの効果…神戸大教授・岩田健太郎さんに聞く新型コロナウイルス感染症対策」2020年4月14日(火)放送分(文字起こし:山本ぽてと)
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南部:それでは、今夜のゲストの紹介です。医師で神戸大学病院・感染症内科・教授の岩田健太郎さんです。
岩田:よろしくお願いします。
南部:岩田さんは、ニューヨークでの炭疽菌テロや、北京でのSARS、またアフリカでのエボラ出血熱の臨床を経験し、帰国後は千葉県の亀田総合病院に勤務。感染症内科部長などを歴任しています。著書に『「感染症パニック」を防げ! ?リスク・コミュニケーション入門』
『感染症は実在しない』、『インフルエンザ なぜ毎年流行するのか』などがあり、最新刊は『新型コロナウイルスの真実』です。
▼緊急事態宣言の評価は?
荻上:岩田さんは、skypeを通じてのリモート出演になります。最初に伺いたいのですが、4月7日に入り、政府が緊急事態宣言を発令しました。この効果やタイミング、内容などについてどう評価されていますか?
岩田:効果についてはまだ出ないと思いますね。今日も検査で何例か陽性が出たという報道がありましたが、感染の潜伏期間がだいたい平均5日間、それから数日たっての受診、検査、その結果ですので、10日から14日ほどたった過去の姿を見てるわけですね。ちょうど我々が空の星を見る時に、何光年前の昔の星の姿を見てるのと同じで、今見てる姿は、少し前の話なんです。緊急事態宣言からの効果はまだ見えないので、効果を評価することはできません。しかし、タイミングを考えると、私の個人的な意見では、若干遅すぎた。特に東京は遅すぎたと考えています。
荻上:もっと早くやった方が良かったということですね。
岩田:緊急事態宣言は、抜本的な意味ではロックダウンとほぼ同じ意図だと思っています。ロックダウンは世界各地で行われていますが、感染の拡大を防ぐための最大級の手段になるわけです。その効果はかなり大きい。特に感染拡大が大きく始まる少し前、あるいは感染が始まったばかりのころ。そのタイミングで行うと、感染拡大はかなり防げることが、アメリカの西海岸などのデータでわかりました。しかしタイミングを逸してしまうと、一度広がった感染は、ロックダウンをやっただけではなかなか止まらない。ニューヨーク市の、あるいはイタリアの多くの都市のように感染が広がってしまいます。ですからタイミングが非常に重要なのですが、7つの自治体のうち、東京は若干遅きに失したなと。他の自治体に関しては、どうなるかはまだわからない。
荻上:「今はギリギリ持ちこたえてる状態だ」と説明することで、緊急事態宣言をまだ出す段階ではないと政府はしばしば表現していました。しかし、「ギリギリ持ちこたえられている状況」だからこそ、出すべきだったということでしょうか?
岩田:その通りです。つまり「ギリギリ持ちこたえられなくなった」から緊急事態宣言を出すのでは遅すぎるわけですね。東京の場合は、持ちこたえられなくなった兆候がかなり見られたタイミングでした。先ほど申し上げたように、持ちこたえられなくなった兆候が出てるのは、10日ほど前に起こったことの反映ですから、これはかなりの遅れであるわけです。
荻上:特に東京においては遅れてる面があったというわけですね。緊急事態宣言の中身ですけれども、岩田さんは、ロックダウンと緊急事態宣言は、狙っている効果として同じ方向を見ているのだとおっしゃっていました。一方で、完全な都市封鎖、外出規制などがかけられるようなロックダウンと、自粛に頼るものだとレベルも違ってくると思うのですが。
岩田:日本の緊急事態宣言は、法律に基づいた条文で「○○をやる。○○はできない」とはっきりしていて、定義が明確です。しかしながらロックダウンはもう少し緩やかな概念で、ロックダウンとはこういうものだという明確な定義はありません。各国、各都市でやってるロックダウンの内容もそれぞれ違っていて、ざっくり言うと「都市封鎖」なのですが、完全に封鎖して外出禁止をしている地域は非常に限定的です。多くの都市では食料品を買いに行くとか、お薬を買いに行く、病院に受診に行く、もしくは警察官や医療従事者のような方が勤務のために通勤する事は許容してるわけですね。まぁ、簡単に言うと程度問題だということになるわけです。ロックダウンと緊急事態宣言は別概念ではなく、連続的な概念の、程度問題がどの辺かという話になります。ご指摘のように、日本の場合は強制性というものが伴わない。法律上そうしたものしか出せないという限定条件がありますので、当然「自粛要請」という形になるわけです。しかしながらそういった条件下であっても、実質的に大事なのは外に出ないこと、あるいは規定されている地域の外に出ない、外からその地域に入ってこないようにすることです。「万が一、外出する時は、人と人との距離を取りましょう」というメッセージを強く出すことはできたはずなんです。首相の演説を聞いていると、プラスだなと思うところもある一方で、首相が「緊急事態宣言はロックダウンではありません」と言ってみたり、別の大臣が「自粛要請はしない」と言ってみたり、他の政治家が「あんなのは無理だ」と言ってみたり。メッセージの出し手がバラバラで、一貫性がない。強制性がないからこそ、「これは実質上、ロックダウンですよ」というメッセージを強烈にしっかり出すべきだった。「あなたは罰を受けないかもしれないけど、外に出てはダメなんですよ」と。ですが、「夜の街に行ってはいけない」とか「三密を作ってはいけない」とか、かなり矮小化された議論になってしまったのは、たぶん様々な政治的な思惑で、なし崩しに、骨抜きになってしまったなぁという印象です。
▼「三密」より重要な事
荻上:急遽、多くの人たちが口にするようになった、この「三密」は、「密」閉された空間で、「密」接な距離で、非常に親「密」に話し合う状況のことです。しかしこれは、「三つ揃わなければ問題ないんでしょ」と理解されてしまう危険性がありますし、三密だけが重要な概念であるとも言えない。この点についてどう感じますか。
岩田:これは非常に大きな問題です。要するに日本の専門家会議がやってきたことは、後から追いかける方法なんですね。「クラスター対策」と呼ばれる方法も、後から追っかけています。患者さんを見つけて、患者さんの濃厚接触者を探して、追跡して、隔離して、さらに検査をして見つける。起こったことを後から追っかけていく、「後ろから対策」ですね。そして、北海道では若者の間で流行が広がっていることがわかると、「若い人は気をつけましょう」とメッセージを出す。ナイトクラブでの感染や、俗にいう「三密」のような条件下での流行が広がると、「夜の街は危ない」「三密は危ない」と言う。でもそれは起こったその過去の事例からの追随でしかない。本来大事なのは未来に起きるかもしれないことを予見し、その未来に対して釘をさすことなんです。つまり夜の街で感染が起きたという過去の事例は、朝に起きるかもしれない感染の可能性を否定するわけではない。大事なのは感染経路で、感染経路は人と人との距離なんです。ですから本当は「人と人との距離を離す」といった、より一般的な概念でメッセージを伝えなければいけなかった。なのに、「過去に飲み屋街で感染が起きましたので、飲み屋街は気をつけましょう」といった言い方をすると、じゃあ飲み屋街じゃなければいいのか? 朝の満員電車は大丈夫なのか? 通勤そのものは問題ないのか? といった印象を与えてしまう。そういう、ほのめかし自体がリスクコミュニケーションにとって大きな弊害です。ただ間違っていないこと言えばいいわけじゃない。効果的なメッセージを出す意味では失敗しているなと感じます。
荻上:今の話ですと、過去にあったクラスターを追いかけていくと、どうも三密という条件がありそうなことがわかってきた。でも逆を言えば、三密という条件が整ったところはクラスターとして追いやすいが、それ以外はわからない面もあるのではないかと思うのですが。
岩田:その通りですね。濃厚接触者の追跡がしやすい条件下、例えば老健施設とかデイケア、精神科病院といった比較的わかりやすい条件下のクラスターは見つけやすいし、管理もしやすい。抑え込むことも比較的できる。逆に言えば、抑え込みやすい条件下でしっかり見つけていたわけだけど、抑え込みにくいところ、見つかりにくいところは、見逃していた可能性もある。むしろ、感染拡大が起きているのですから、おそらく見逃してると考えるべきです。特にいま流行が広がっている地域、東京や大阪、私のいる兵庫県はもうクラスターを追いかけるフェーズは完全に過ぎている。今、クラスターを追いかけることに労力を割くのは効果的ではない。
荻上:では、「距離をとる」「接触を避ける」といったメッセージを、「三密」という言葉以上に強力に発信することが重要なフェーズだということですか。
岩田:日本の場合は地域差があるので、一概にすべての地域でということではありません。例えば、私は島根県の出身ですが、島根県はまだ一桁台の感染者しか見つかっておらず、クラスターが非常に明確に見つかっています。そういう地域であれば、日本が従来やっていた後から追いかけるクラスター対策が非常に効果的です。しかしながら、神戸市や大阪、東京では、そうしたやり方は人的労力の無駄遣いという感じはします。むしろ、ロックダウンのように全員が感染者であるという前提で、外には出ないようにする。後ろから追いかけるのではなく、先回りして後から起きるだろう感染症をブロックするという形に方向転換する。もっと極端な言い方すると、パラダイムシフト、考え方を根底から変えことが必要になってくると思います。
荻上:フェーズが変わったから、新しい考えを出しますというような政治コミュニケーションもどこかで、近々必要だということですか?
岩田:今すぐ必要です。本来は、緊急事態宣言を出す時に、そういうメッセージと共に、「フェーズが変わったんだよ、だから緊急事態宣言なんだよ」というメッセージを強く込めるべきだった。ですけど、日本は往々にしてこの方向転換が非常に苦手です。なぜ方向転換が苦手なのかといえば、今までやってきたことが無駄になっちゃうとか、あるいはその批判されるのだという失敗することに対するネガティブなイメージが非常に強いからです。官僚たちも失敗したことを否定しようとするし、メディアの皆さんも失敗があるとそれを徹底的に叩く。叩かれるから逆に隠そうとする。悪循環ですね。しかしリスクマネージメントに失敗することは、そんな大した問題ではない。その失敗を認めて、すぐにデータを確実にし、失敗を認識した上で修正すればいい。だけど、失敗そのものの存在を認めず、「失敗は起きていないのだ」と繰り返すと、失敗そのものが拡大していく。結局、それがどんどん酷くなるばかり。クルーズ船がまさにそうだったわけですけど。自分たちの失敗に気づいて、認める。周囲も失敗したことそのものを叩かない。失敗を認めない姿勢こそむしろ叩くべきです。
▼PCR検査について
荻上:PCR検査についてはかなり初期から論争の的になっています。とにかく広く、というような声もある一方で、疑わしい人にピンポイントでやった方がいいという話もある。ただ逆にピンポイントすぎて、陽性が後からわかったり、何度掛け合っても検査してもらえなかったりした事例も出てきている。このPCR検査については、どうお考えになっていますか。
岩田:検査に対する目的を明確にしなかったが故に起きた「勘違い」と言うべきかなと思います。例えば、韓国ではたくさん検査をしてるけど日本ではやってないと。そうするとあたかも、韓国と日本、どっちが正しいのか? といった論争のネタになるわけです。ですが韓国で起きていた流行の仕方と、日本で当時起きていた流行の仕方は全く状況が違うわけです。状況が違う時に、検査の数だけ比べて、どっちが正しいのかだけを比べて議論するのは全くナンセンスです。必要な時に検査をして、必要のない時はしない。その検査をすることでどういった利得があるかという観点から考えます。検査をして良かったのであればやるべきだし、検査をしても良いことがひとつもない、もしくは逆に悪いことしかないのであればしない方がいい。ありていに言うと損得勘定ですね。韓国の場合はある宗教的な集まりから、一気に何千、あるいはそれ以上の患者さんが出た。それを抑え込むために、ものすごいたくさんの検査が必要でした。つまり患者さんがたくさんいたから多くの検査が必要だった。そのころ、日本にはそのような巨大なクラスターは存在していなかった。クラスターのない中で、むやみやたらに検査をしても、検査の無駄遣いですから、当然検査すべきではなかった。ですから、検査の数が多い少ない、良いとか悪いとかは状況によります。状況や文脈を無視して検査がいいとか悪いとか判断することには意味がない。私が良く例に出すのは、ラーメン屋さんで使ってる胡椒や塩の量を見て、そのラーメンがうまいまずいと論じるようなものであるというもの。やはり食べてみないとわかりません。現在日本では、捕捉できてない流行の状態が非常に増えています。特に、東京ですね。検査の数が足りてないがゆえに、感染の実態が把握できていない。事実が把握できないと、当然対策もとれないわけですから、こういう時にはたくさんの検査が必要なんです。そうすると厚労省が作った診断基準を満たしてるとか満たしてないとか硬直的に判断するのではなく、もっともっと柔軟に検査をする。医療機関をいくつもいくつもはしごして、ずっと検査を断られ続ける事態が起きるのは、もちろん患者さんにとっても非常に不満の溜まることですし、社会防衛上も医療機関の感染曝露を増やすだけですから、これはあまり得策とは言えない。そうしたフェーズであれば、もっと閾値を下げて、比較的ゆるゆるな状態でどんどん検査をする方がより正しいわけです。例えば、兵庫県は非常に感染者が増えてますので、私が知ってる医療機関は、俗に言う「ドライブスルー」のような形で、車に乗ってる状態で、綿棒を使って検査する体制にしています。感染の疑いのある方が、病院の建物の中に入ってきて、感染を広げないためです。当初はドライブスルーが正しい、間違っているという論争があったんですけど、あれはあくまでも結果であって目的ではない。目的と手段がひっくり返って議論されるから、不毛な論争になっているんだと思ってます。
荻上:今の日本の各地域の状態に、よりマッチした方法などに変えていくと。そのためには検査を多くするのか? 絞るのか? ドライブスルーがありか、なしか? という話ではない。兵庫のような感染の広い地域だと、ドライブスルー型のような形で広く検査するのが妥当なんだということですね。
岩田:その通りです。アメリカでコロナの流行が始まった時も、ドライブスルー方式が一部の地域でとられました。しかし、アメリカも広い。患者さんの多い地域ではドライブスルー方式が一番効率がいいけれど、患者さんが出ていないところでやっても全く意味がないわけです。ですから、大事なのは状況判断、状況判断に応じたニーズの設定、ニーズの設定に応じて検査の数を決め、検査の結果に応じてさらに状況を判断することです。「PDCAサイクル」なんて言葉がありますけれども、すべては状況判断からスタートします。状況判断を放棄したり、状況判断をしないでPCRの方針を決めて、しかもその硬直的な態度を改めないことが一番良くない。どんどん、やり方は変えるべきですね。
荻上:ロックダウンや緊急事態宣言など、各国の施策は、「時間稼ぎ」だとよく言われます。医療崩壊などを避けるために、感染者数が爆発的かつ集中的に起きることがないようにするためだと。一方で、この「時間稼ぎ」は、何がどうなるまでの時間稼ぎなのか。この目的が共有されていなければ、何のための時間稼ぎなのか、分からなくなってしまうと思うんです。
岩田:その通りです。何のための時間稼ぎなのかを明確にする必要があります。現在のところ、ロックダウンをしている国や地域の概ねの目標は、新規感染の発生をゼロにすることです。おっしゃる通り、政府などが出す概念図では、「ピークの高さを低くしましょう」と訴えているように思える。流行のピークを下げるとか先延ばしにすることは必要ですが、何を持って「抑えた」と考えるべきなのか。概念図のY軸にもX軸にもなんの目盛りも載っていない。ですから、何をどうしたらいいのか、具体的な目標が明確になっていない。観念的な産物なんですね。一方で、巨大な患者が出た武漢や韓国は、「新規の患者を出さないようにすると、ロックダウンを解除ができますよ」という条件をしっかり作った。そのあとに、第二波と言われる、外からやってきた別の感染者による別の流行が起きる可能性もありますが、その場合はまたロックダウンの手綱を締める。今朝のBBCの報道を見ると、スペインやイタリアでは流行の波が若干収まってきたので、ロックダウンの機能を少し緩めるようです。逆にフランスはもっと厳しくしています。ですから、ロックダウンをやるやらないというデジタルな発想ではなく、どれぐらいやるのか? という程度問題であり、あるいは、手綱をどこまで厳しくしめるか? 緩めるのか? という連続的な概念なんですね。流行が収ってきたら、当然ロックダウンを少し緩めて、人々の日常生活を戻しましょう。しかしまた流行が戻ってきたら、もっと厳しくしましょう。そして最終的に目指すところは、やっぱり流行がなくなることですね。よく言われている、みんなが免疫つけるようになるまでとか、集団免疫をつけるというもの。あれはひとつの仮説、しかも楽観的な仮説です。そもそもコロナウイルス感染に対して、我々に終生免疫がつくかどうかすらわかってない。終生免疫なんてつかずに、インフルエンザのように毎年かかるものかもしれない。ノロウイルスのように全く免疫のつかないものかもしれない。このような悲観的なシナリオも準備した上で、やはり最後的な目標は感染を抑え込むことです。イタリアとかスペインやニューヨークも、ピークを下げて抑え込むことを目指しています。
▼マスクの効用について
荻上:そうした様々な長期間の対策をとっている中で、人々の生活の中から様々な質問が来ています。
南部:「マスクがありません。在庫がつきました。最近はどこに行くにもマスクの着用をお願いしておりますと、貼り紙されています。マスクをせず歩いていると罪人のような目で見られている気持ちになります。いま一度飛沫感染はあるのか、マスクで感染を防止できるのか、手作りのマスクは清潔なのかを教えていただきたいです。人から変な目で見られたくないからという理由でマスクを使い回していることの方が不衛生に思うのですが。マスクの意味があるのか、新品のマスクの次に有効なマスクの使い方があったら教えて下さい」といただいています。
荻上:「咳エチケット」という言葉も、あったりするぐらいですから。岩田さんいかがでしょうか?
岩田:複数の質問をいただいてるんですけども、マスクの予防効果は非常に限定的、もしくはほぼないに等しいと思います。専門家の意見も一致しています。ですので、自分が感染しないためにマスクをつけることには、ほとんど意味がない。しかし、今、多くの国やWHOでは、街を歩く時にマスクをしてもいいと方向転換しています。なぜかというと、流行が広がりすぎて、もうみんなが感染してる可能性が高い。確定的ではないんですけど、無症状の人でも唾などが飛んで他の人に感染させるかもしれない。ですので、自分が感染している前提でマスクをつけることで、くしゃみや唾の飛沫を防ごうとする発想のもとで、そうした推奨がなされるようになっています。ただし科学的なエビデンスは十分ではないので、あくまでも仮説です。感染が広がって広がってしょうがないので、仕方なく作った推奨と言ってもいい。あとは一部の政治家の人たちが強くそういうものを求めるので、科学者たちが折れたという見方もできます。ここで非常に大事なのは、マスクの予防効果にしても周りに感染させない効果にしても、ほとんどないか非常に弱いということ。もっと、も大事なのは距離ですね。距離を徹底的に伸ばすのが、いわゆる「ステイホーム」、家にいることです。家にいることが一番距離をとることになるわけで、どうしても外に出なきゃいけない人は2Mは距離をあける。マスクはその距離の代替にはなりません。距離はほぼ確実な感染の防御方法ですけど、マスクはそれに比べるとはるかにはるかに脆弱です。私も神戸の街を通勤で歩いていますが、マスクはみんなしているけれど、人と人との距離を離すことについては非常に無頓着な方が多い。逆だと思っています。マスクをしないのはわかるけれど、距離を取ることはしっかりやってほしい。周りの目がすごく厳しいという、昨今の事情も察しています。神戸大学病院は今、3日に1枚しかマスクが支給されないので、私も外に出る時はできればマスクをしたくないのですが、周りの目が厳しいので社会的にマスクをすることもあります。そのマスクはどんなマスクでも構いません。ハンカチに糸をくっつけたものでも構わないし、うちの娘なんかはガーゼに刺繍をして自分で手作りをしていました。これはもう感染症学とか、微生物学とかは何の関係もないマスクですので、自分が気に入ったマスクを作ってくださればいいと思います。自作であれば洗濯して使いまわせばいいわけで、衛生的にも問題ないわけですね。これはもういわゆる「ポーズ」ですね。
荻上:ファッションみたいな、制服みたいな。
岩田:ファッションでもいいし、社会的なマスクというのか、アタイア(正装)としてのマスクですね。
荻上:儀礼というか。
岩田:そうですね同調圧力とも……。まぁ、良いように取るか悪いように取るかはありますけれども、いずれにしてもソーシャルなマスクと思っていいです。だからどういうマスクでもいい。とにかくマスクの過大評価は非常に問題で、「マスクはほとんど効果がないんだけどもソーシャルな意味として使っていいですよ」というようなメッセージを政府はちゃんと出すべきです。アメリカのCDC(疾病対策センター)も街でマスクをしてもいいですよと言ってますけど、それはソーシャルディスタンスの代わりにはならないので、家にいなさいとはっきり言っています。薬局の店員や、食料品店の店員さんのように、人と人との距離を2メートル以上離しながら仕事するのが難しい人だけ限定的にマスクをつけましょうと。そこまで限定していることを無視して、「CDCがマスクをつけたらといいと言ってるらしいよ」と矮小化させることはおかしい。
荻上:マスクをしているから油断しているのか、普段だったら咳をする時は服とかで抑えるけれども、マスクをしてるからそのままするという方もいると思います。これらはむしろ、マスクをしてることが、より悪い方向に働くということになるわけですか?
岩田:マスクをすることで、咳の飛沫がブロックできるという科学的なデータがあるのは、不織布マスクと言われてるいわゆる医療用マスクですね。このマスクはいま非常に枯渇していて、なかなか手に入らないと思います。普通の布マスクをされてる場合は、やはり咳をする際には咳エチケットと言われる、肘で顔を覆うことはやったほうがいいです。
荻上:布マスクを政府が配布しましたよね。一世帯2枚という方法で。その時に、「これは理にかなったものだ」「マスク不足を解消するために」という話が出ていましたが、これについてはどう考えていますか。
岩田:あれは、なんていうか……何も感じなかったですね。
荻上:ほう。
岩田:科学的な合理性が全然ないし、経済的には予算の無駄遣いですし、みんなの気分を高揚させるほどの効果もなさそうですし……。2枚のマスクが送られてきて、「やったー!」と思う人がどれぐらいいるのかわかりませんが、たぶんそんなにいないでしょう。ですから、意味がない。いろんな面で、意味がなかったと思う。
荻上:感染防止という観点では、いまお店とかで、透明なフィルターをレジの間に置く方法がみられます。このスタジオでも南部さんと僕の間にアクリル板を置いています。あとは、鳥取県の対策のような形で、オフィスに段ボールを置いたりだとか。これらはどうですか?
岩田:意味がありますね。非常に面白いアイディアだと思います。最近、ソーシャルメディアで、様々なアイディアがあふれていて、中には思いつかなかったような良いアイディアもあり、集合知というのは素晴らしいと感じています。お店のコンビニや薬局で見かける、レジの前にビニールやアクリルを置く方法は、非常にいいアイディアで、飛沫をブロックする効果も十分にあります。
▼学校休校の効果は?
荻上:身近な点で言うと学校の休校があります。今後どうするかと悩まれている方もいると思うのですが、そもそも全国一斉休校に効果はあったのでしょうか。
岩田:これについては我々も研究論文を出しています。2月の終わりに小中高を一斉休校にする宣言が出ましたが、染の防止に寄与していたかどうかを数学的に検証しました。しかし、まったくそういう兆候は見られませんでした。ですので、あの2月の終わりから3月にかけてやった休校の措置が、日本の新型コロナウイルス感染症の対策に役に立ってたかというと……おそらく役に立っていなかったと思います。6歳~18歳ぐらいまでの人たちが、新型コロナウイルスに感染しづらく、万一かかっても重症化しづらく、非常に死亡リスクも低いことがわかってます。そこをターゲットにしてそこだけ休んでも、感染対策には、ほとんど寄与しません。日本の場合は感染を広げてる方は、30代から40代、海外のデータでも50代と60代の感染が多い。死亡リスクが高いのは80代、あるいは0歳から6歳の子ども達。ですので、小中高の休校は、感染を拡げるリスクも、重症化するリスクからも完全に外れた人達だけの措置だったんですね。常識的に考えても効果は期待できない。ただし、やり方次第でもあります。複数の施策を同時にやることは大切で、仕事も休みましょう、お年寄りは家に居ましょうといったものと組み合わせてやると効果はあったと思います。
荻上:あの時の休校宣言には、どうも意味がなかったようだと。だからと言って、学校だけは再開していいことにはなりませんよね。
岩田:もちろんそうです。あの時の休校に意味がなかったことと、いま学校を再開してもいいこととは意味が違います。まず当時と今とでは、日本の感染の様相が全然違っています。やはり地域差が大きいですね。全国一律にやるのがそもそもあまり意味がないと思います。患者さんがほとんど見られていない岩手県や、鳥取、島根のような地域での学校の活動と、神戸市とか東京では全く意味が違います。そこは注意して解釈するといいですね。
荻上:またそういったコロナの対策という点を考えると、一時期、行政からもメディアからも「若者は出かけないでくれ」と言う結構ピンポイントのメッセージが出されていたと思います。
岩田:先ほども申しました通り、過去に起こったことから類推して、その過去に対する対策を立てている形になってるわけですね。若者の間で感染を広げた事例がありました。だから若者は自粛しましょうという考え方では駄目なんです。若者の間で感染が広がった事実はあるにせよ、当然、中高年でも広がる科学的な懸念は十分あるわけです。そうしたメッセージの出し方をするのは、「三密」と一緒で、感染防御には効果的なメッセージにならない。悪い意味での世代間論争になったり、必要のないリスクまで呼んでしまう可能性がありますね。
荻上:一方、大阪の方では防護服が足りないからレインコートを買い上げる対策が動いています。これはどういう風にご覧になっていますか?
岩田:いや、これは本当に深刻な問題でして、防護服が足りない。マスクも足りない。ニューヨーク市では感染が非常に広がった時に、看護師さんがゴミ袋を切って防護服の代わりに使い、十分な防護ができないせいで感染し、またお亡くなりになったという事例も聞いています。レインコートに防御効果があるか、検証なんか誰もしたことはありません。マスクを一回で捨てると無くなっちゃうので、綺麗にして何回も使う方法も、病院とか大学で検討されてますが、これもどれぐらい大丈夫なのか検証されないまま、時間がないからしょうがない、他にやりようがないから、仕方なくそういう手段をとらざるを得ないわけです。この検証不十分な施策のために、院内感染が起きてしまうことはあるし、実際に全国各地で院内感染が多発しています。これは防護服が手に入らないとか、医療スタッフが足りない、あるいは医療スタッフが疲弊して、正常な判断が困難になっている。様々な要因がかぶさっているためなんですね。これは社会的な現象でもあるので、ちゃんとした医療用の器具のサプライ(供給)を戻すべきです。雨具が駄目だというわけではないですが、本来であればちゃんとしたサプライを取り戻すべく、全力を尽くすべきです。
荻上:リスナーの方からこういったメールがたくさん来ています。
南部:お二方とも同じような内容です。
「コロナウイルスのエンベロープ(膜)を壊すアルコール類が全くドラッグストアに入らないせいか、「次亜塩素酸水」が代用できるとネットで宣伝されています。次亜塩素酸はコロナウイルスを不活性化できるんでしょうか。ノロ対策にはなってもコロナウイルスに効果があるんでしょうか。」
そしてもうお一方、
「アルコールの消毒液が手に入らない場合、台所用洗剤の水溶液が代用になると聞きましたが、本当ですか。」
岩田:商品別に、個別にすべてを申し上げることができないのですが、結論をざっくり言いますと、次亜塩素酸は効果的です。これは物を拭く時に使うこともできますし、手指消毒に使うこともできます。ただし両者の濃度は若干違います。手指消毒に使うにはちょっと薄めないと、手が荒れてしまいます。例えばアフリカで私がエボラ対策をしてた時は、アルコール製剤がアフリカでは比較的高額だったので入手が難しく、次亜塩素酸をずっと使ってました。多くのウイルス感染に対して非常に効果的であることはすでにわかっています。それから、普通の石鹸と水で洗い流すのも効果的です。もしアルコール製剤が手に入らない場合は、そうした代替の方法があります。次亜塩素酸についてはインターネットで調べると、手を消毒する時の濃度や、テーブルを拭く時の濃度が個別に出ていますので、ちゃんとした学会や医師会とかそういったところのホームページで見て、お作りになる手もあると思います。
※番組注:上記のリスナーの質問にある「次亜塩素酸水」と呼ばれるものは、「次亜塩素酸」=「次亜塩素酸ナトリウム」とは別物です。ご注意ください。
荻上:本来であれば、通常の手洗いで十分で、何かを拭く際には、アルコール消毒などが必要という分け方で大丈夫なんでしょうか。
岩田:いろんなやり方があります。先ほど申し上げたように、アルコール製剤が足りなくなっています。私はいくつかの病院で仕事をしていて、ある病院では、アルコール製剤が比較的潤沢にあり、防護服を脱ぐ時に、手袋を取ってアルコールで消毒、ガウンを取ってアルコール消毒、帽子を取ってアルコールで消毒というふうに、何回も何回もアルコールで消毒してウイルス対策をしてますが、もう一つの医療機関だとアルコールが足りないので脱ぐ時に一回だけアルコール使っていいことになっていて、その時は脱ぎ方のテクニックが変わったりしています。環境を消毒する時も、アルコールでやるのが基本なんですが、もし足りない場合は、替わりの手段を探すわけですね。例えば、熱湯もウイルスを殺しますので、お湯を使う手段もありますし、いよいよ足りない場合は、手を基準にする方法があります。テーブルの上にしても、階段の手すりにしても、それは手で触ってそして鼻や口を触ることで感染するので、手すりが常に消毒されていなくても、手の方はしっかり消毒してればいいわけです。手を基準にして消毒をすると、より効率的により少ない量で消毒ができます。どれくらい潤沢に物があるかにもよるんですけど、優先順位を決めて、作戦を立てるという方法はありますね。
▼外へ出かけていいのか?
荻上:リスナーの方からの質問を続けます。
南部:「子どもの運動のための公園遊び等はどうお考えですか。学校も2ヶ月ない、9歳の男児持ちですが、屋内で60日以上過ごせというのは非現実的です。マスク着用、徒歩で出かけていますが(行き帰りの交通事故にも気をつけます。怪我もしないように。これ以上病院に負担かけてはいけないと思い)世間の目は冷たい印象を受けています。どんなものなのでしょうか。」
荻上:岩田さんいかがでしょうか?
岩田:外には行かれた方が良いと思いますね。家にいるとそれはそれで不健康ですので。外の公園でどこまで許容できるのかには、いくつかの要素があります。ひとつはお子さんの年齢です。お子さんがある程度、年齢が高ければ、公園でそこそこ自由に遊んでもらってもいいんじゃないかと思います。2歳とか3歳くらいの子ですと、遊具とかをぺたぺた触って口に入れちゃったりとかしますから、衛生観念がまだ身についてない場合はちょっと注意が必要です。その場合は、遊具を使わないとか、野原で走り回ることに限定する、あるいは自分の持参したボールや縄跳びだけで遊ぶ、いろんな工夫ができると思います。特に大事なのは、とにかく集団をつくらないことです。私は毎朝、5時に起きてジョギングをするんですけど、人は全然いないので、まったく安全です。ですから、緊急事態宣言下でも毎日ジョギングしています。ですが、場所によっては集団を作って走ったりしていますね。ジョギングしている間は呼気が激しくなるので、むしろ感染リスクが高まると言われています。日本の場合は、どうしてもみんなと同じようにするという観念が非常に強いので、「ジョギング良いですよ」と言ったら、みんなでジョギングする。「公園は大丈夫です」と言ってしまうと、皆で公園に行っちゃう。そこで集団ができてしまう。これが問題です。「周りの目が気になる」とリスナーの方からお言葉があって、そうだなと思ったんですけど、この新型コロナ対策で一番大事なのは周りの目を気にしないことです。人と違うことに耐える。人と違っていることに、みんな寛容である。人と違う事が、良いことなのだという価値観の転換が必要です。感染予防の観点では、人がやってないことをやることで安全性が担保されます。人が行っていない公園、人が行ってない野原、人が行ってない散歩道、そういったところは安全です。しかし「あそこは良いらしいよ」とみんながいるところに行くと、そこで集団が形成されるのでリスクが上がる。これがなかなか辛い。テレワークの問題も同様で、多くの勤め人は「俺の同僚は会社に行ってるのに、俺だけ自宅で仕事できないよ」と言うわけです。それでテレワークできない。技術的には可能なんだけど、みんなの視線、みんなの空気が怖いからどうしても会社に行ってしまう。ですからそこで、人と違うことを許す、あるいは人と違うことに恐怖心を抱かない。自分が違っていることに耐え、人が違っていることを許す。そういった価値観の転換にならないと。子どもが外で遊ぶ時に、ご高齢の方が叱りつけたりするなんて話も聞いたことがあるので、そういうのもよくない。周りを認める、他人を認めることをもっと積極的にしないと、新型コロナの対策はうまくいかないでしょう。
荻上:感染を恐れて外に出ないことによって、健康が害されることもあると思うんですが、そのあたりのバランスについても考えることが必要ですよね。
岩田:端的に言うと、例えば日光に当たらないと、ビタミンDの生成が遅くなって、骨が弱りますし、当然うつとかメンタルの問題も出てくるかもしれません。運動しないと心臓も弱りますし、運動しないことそのものが不健康だというのは、様々な研究が示している通りです。ですので、外に出る、あるいは運動することは非常に重要ですね。新型コロナにかからなければ、不健康でも構わないというのは、当然受け入れられない逆説ですから、バランスが大事ですね。
▼BCG接種と新型コロナの関係
南部:「BCG(※「はんこ注射」と呼ばれるワクチン)接種を行っている国と、いない国で差があるというデータがありますがいかがなものでしょうか」
岩田:これは興味深い知見です。確かにそのBCGを積極的に打っている国には感染者が少なく、BCGをあまり打っていないところだと感染者が多いという相関がある。ただ問題は、相関関係があることと、因果関係があることは、必ずしも同じではないし、しばしば間違ってることです。昔の有名な例え話に、チョコレートをたくさん食べてる国はノーベル賞学者が多いという相関関係がありました。ですが、チョコレートたくさん食べればノーベル賞が取れるようになるわけではありませんよね。あのデータが出た時点から、今は状況が変わって、(BCG接種を積極的に行っている)日本でも感染がだいぶ増えています。今後の未来を見据えた上でも、BCGと感染者との関係が継続するのかもわからない。もちろん、海外ではBCGの臨床試験をやっていますので、もしかしたらBCGの免疫賦活効果が、何かの作用で新型コロナウイルスを抑制する可能性はあり、無理に否定するわけではありませんけど。今すぐBCGに飛びつくとか、BCGを打ちにいったほうがいいという話ではない。あくまでも仮説のひとつに過ぎません。
南部:「今回の事象の発生時に、感染症の専門家の方から、日本にはアメリカのCDCのような機構がない、それが問題だというような意見が見られました。今回の騒ぎが沈静化したらそのような機関が作られるかもしれません。そこで質問です。一つ目、アメリカではCDCがあるにもかかわらず今のような状況になっているのはなぜでしょうか。政治家の怠慢なのでしょうか。二つ目、CDCのような機関があっても、結局は政治家の動きで本来の働きができないなら、問題だと思います。CDCを作成したとして、それが効率よく感染症に対処するようにするには何が必要なんでしょうか」
荻上:岩田さんいかがでしょうか。岩田さんご自身も日本にCDCが必要だという話をされてましたが、一方で今のアメリカCDCはどうなのでしょうか。
岩田:日本にCDCが必要だというのは、十年以上前からずっと主張していることです。2009年の新型インフルエンザの時も、同じことを申し上げました。また、なぜアメリカで今、あまり機能してないのか。伝え聞くところによると、昔のCDCは独立性が担保されており、CDCそのものが医療や公衆衛生の意思決定をするパワーがありました。例えば、予防接種については、CDCが決めたことには政治介入ができない。政治がやるのはそれに対する予算を組むとか、準備をすること。どの予防接種をどういう人にどれぐらい強く推奨するのかは、全部CDCの下部組織が決めていた。政治から独立していたんですね。ところが今は、トランプ大統領をはじめとして、多くの政治家がCDCに対して強く予算の削減を迫ってみたり、非常に政治的な圧力をかけみたり、CDCが政治から独立した形でものを決めるのが非常に困難になっていると聞いています。ですのでCDC内でロックダウンをもっと早くやるべきだという意見もあったらしいのですが、それも政治的な忖度の中で遅れてしまったと。この報道がどこまで本当かはわかりませんが、そのように伝え聞いています。これは言ってみれば、日本って今起こってることと全く同じですよね。日本でも専門家の主張がある中で、政治的な忖度とか、財務省とか、いろんなプレイヤーが足を引っ張り、骨抜きを行う。例えば今回の緊急事態宣言では、「外出の8割を抑えるべきだ」という数理モデルの根拠に基づいて、それを目指そうと専門家は提案していたのに、それがなぜか「7割から8割」、「やっぱり無理だ」という話になって、どんどん話が矮小化されていくことが起きました。このように、科学の独立性が保たれずに、政治化してしまうと、たいていグダグダになってしまう。この辺はなかなか難しいな思ってます。日本でCDCができるのかに、個人的には懐疑的ですし、仮にCDCを作ったとしても、政治家に忖度してしまう「第二厚労省」のような天下り組織になってしまったら全く意味がない。
荻上:CDCのような機能は重要ですが、それが存在するだけではなく、それが有効に機能するような社会システムになることも大切だということですね。
岩田:アメリカは、CDCをしっかり作って、70~80年代からその機能をどんどん増やしていきました。中国はSARSの教訓からチャイナCDCを拡充させましたし、韓国もMERSが問題になった時にCDCの機能をしっかり拡充してきた。ヨーロッパにもECDC(欧州疾病予防管理センター)がある。要するに、世界中にCDCの機能がありますが、日本にはない。日本は、過去の感染症対策のうまくいってるところとうまくいってないところをしっかり検証しないで、なぁなぁで済ましてしまって、現状維持に流れたという歴史的経緯があります。検証しないから、反省しない。この繰り返しなんです。今回も同じことが起きるんじゃないかと思っています。
南部:「北海道でも第二波が来ていますが、質問があります。この新型コロナウイルスがいつごろ終息(収束?)に向かうのかの見通しと、世界的な流行の中で何をもって終息とするのかの見解をお聞かせください。今のままではあまりに希望が持てずにいます」といただきました。
岩田:そうですね。「安全安心」という言葉があるじゃないですか。あれは昔から良くないと思っています。私が知る限り、外国語には「安全安心」という言葉がないんですよ。安全はありますけど、安心はない。根拠に基づく安全、セキュリティやセーフティの概念に上積みされた根拠のない気分の良さが「安心」だと思います。でも根拠のない気分の良さは危ういので、それは求めてはいけない。根拠に基づかない安心感より、むしろ不安になるべき根拠があるなら、ちゃんと不安であるべきだと思うんです。病気を抱えてる時に痛み止めだけを打って、痛みがなくなったねって満足してしまうのはダメで、やっぱり病気を治さないといけない。そうすると悲観的な話もちゃんと聞くべきなんです。たとえそれが耳に心地よくなくても。耳に心地よいニュースだけだと、プロパガンダ的な話ばっかりになってしまう。それを踏まえた上で、コロナの将来はあまりよろしくないと思っています。ここまで世界中に広がってしまうと、そう簡単には収束しないだろうと。もちろんワクチンが開発されるとか、効果的な医薬品ができるといったブレークスルーが起きれば、このストーリーは変わってくると思いますけど、今のまんまですと、特に世界規模では、流行が完全になくなるというのは……。日本である程度抑えたとしてもまた別の国で流行が続くわけで、これが延々とぐるぐる回ることになると、なかなか収束しないかもしれない。例えば、2009年に「新型インフルエンザ」と言われて大騒ぎしたインフルエンザは、我々が騒がなくなっただけで、今も流行しています。我々はインフルエンザと一緒に生きていく覚悟を決めたわけですね。もしかしたら新型コロナウイルスを抑え込む日も来るのかもしれませんけど、逆に新型コロナウイルスを抑え込めずに共存していく生き方を選ぶ世界がやってくるシナリオも考えておくべきです。どっちなのかはわからない。私は予想屋ではないので、「こういうふうになりますよ」と予測はできないんですけど、両方のシナリオは考えとくべきですね。数ヶ月後に、今の日本の第一波がある程度収束するというシナリオはそれなりに成立すると思ってますが、世界中で収束する可能性は非常に低いので、それでおしまいってこともないと思います。
荻上:なんとなくみんな、2週間のスパンとか、来年オリンピック・パラリンピックが出来るんじゃないかと希望的な見方を持っているわけですけど。長い軸でどうなのかというような尺度も、もうひとつ構えておかなくていけないということになるわけですか?
岩田:例えば中国の武漢で、ある程度感染抑え込んだのですが、ロックダウンをやめてみると、外国から戻られた中国人の方からもう一度流行が再燃している。韓国でも同じようなこと起きてますね。したがって、抑え込んでもそれで終わりではないわけです。それが「パンデミック」の意味なんですね。日本が鎖国しない限りは、日本で抑え込んでも、そこで話は終了ではない。第二波や第三波がやってきます。そう考えると、オリンピックは世界中の感染が収まっていないとできないので、来年に出来るかというと、僕は個人的には悲観的です。
荻上:身近にある希望という言葉ではなく、まずは事実と向き合ったうえで、それぞれ考えていくことが重要なんですね。岩田さん本当にありがとうございました。
岩田:ありがとうございました。
南部:今夜は感染症の専門家、岩田健太郎神戸大教授に聞く、新型コロナウイルス対策と最新研究をテーマにお送りしました。