繰り返そう。『天気の子』の二重の欺瞞とは、
(1)「狂った社会」を大人たちが自覚的に変革したり改善したりするという可能性を最初から想定していないこと、
(2)しかも、大人たちは堕落した存在であると断定することで、責任を回避し、若者たちの口からこの世界はそれでも「大丈夫」だと言わせてしまうこと、つまり子どもたちの決断や自己啓発の問題として――見かけは大人の立場から若者を応援し、希望を託す、という態度をとりながら――全てを押しつけてしまっていること。
この二つである。それは今の私たち日本人にふさわしい自己欺瞞の形であるようにも見える。
『天気の子』のラストの「大丈夫」という言葉から、私は自ずと、宮崎駿監督の『もののけ姫』のラスト、アシタカの「ともに生きよう」という言葉を思い出した(もちろん『天気の子』は『天空の城ラピュタ』や『崖の上のポニョ』など、様々な宮崎作品へのオマージュを含んでいた)。
『もののけ姫』の世界では、大人も若者も老人も、人間も神々も動物も、互いに争ったり、話し合ったり、和解したりしながら、全員が等しく滅びていきかねない「この社会」それ自体に対峙しようとしていた。自分たちを変え、社会を変え、世界を変えようとしていた。「大丈夫」ではないこの現実に向き合いつつ、それでも「大丈夫」と言える社会を、自分たちの能動的な責任と行動によって、何とか作っていこうとしていたのである。
「この現実は少しも大丈夫ではない」と強く認識するところからしか、行動も変革も生まれないし、自分たちの存在や欲望を変えようとする意志も生まれないのではないか。
こんなもののために産まれたのではない。この世界も、この私も、少しも大丈夫ではない。しかしそれでも共に生きよう。若者たちに勝手に期待したり、勝手に希望を託して責任をひそかに押しつけたりすることなく。そう言いたかった。「大人」のための作品を作るべきだ、ということではない。新海監督なりの「大人」の責任によって、子どもや若者のための作品を作ってほしかった。そう言いたかった。