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五十嵐冷蔵の歩み

※写真1~5はクリックすることで大きい写真が見れます。

巨大な鱈と輸出用木箱 北千島で操業中の日米丸 粕漬けの鱈の看板を掲げた呉服橋販売所 久松侍従ご一行、鱈の裁割場を視察中央で鱈を奉げるのは五十嵐与助社長 与助港の全景

当社の創設者である五十嵐与助は、明治11年新潟県柏崎で生まれ、父の米相場の失敗から尋常小学校を9歳で退学し、幾多の奉公を勤めながら、艱難辛苦のうえ、八百屋として独立。創意工夫とたゆまぬ勤勉さで果実店として成功を収め、呉服橋に近代的なフルーツパーラーを備える店を営むまでになりました。また与助は、当時大手水産会社であった日本漁業(株)の再建に力を貸すことになり、33歳の若さで取締役に選任され、アメリカにわが国最初のタラを輸出するなど同社の経営の立て直しと業績の向上に多大な業績を残しましたが、経営陣との意見の相違から大正8年辞任、「日本の漁業を育成し、わが国独自の水産物製品を輸出して、国際社会のなかでの日本の国力の増強を図りたい」という情熱と信念から、当社の前身である「日米水産」を創立いたしました。そして、五十嵐与助の目指した良質な食品の安定供給に対する使命感と経営理念は、二代・三代と今もなお当社の伝統として脈々と受け継がれております。

大正11年4月14日
五十嵐与助 東京市芝区芝浦(現在地)に「日米水産株式会社」を設立、北千島パラムシル島加熊別を根拠地として北洋鱈漁業を開始する
大正14年
北洋鱈漁業に本格的に操業(写真1)
昭和2年
呉服橋販売所を拡大し鱈製品専門とする。「粕漬けの鱈」の販売全国に展開(写真2)
昭和4年
鱈の海外輸出を再開。芝浦にトラスコン冷蔵庫完成(写真3)
昭和11年
天皇御名代久松侍従、加熊別漁場視察(写真4)
昭和15年
北洋における唯一の不凍港が完成し、政府に献納、与助港と命名される。(港内面積1万5千平米、埋立面積3万2千平米、期間6年2ヶ月)(写真5)
昭和16年
太平洋戦争の開戦により「五十嵐水産(株)」に社名変更
昭和18年
漁業基地北千島から撤退、呉服橋販売所の販売を中止する
昭和23年
「五十嵐冷蔵株式会社」と社名変更
昭和30年
食品加工販売を再開、食品部として鱈及び冷凍食品の加工・売買を行う。(写真6)
昭和33年
陸運局より貨物自動車運送事業の認可を受け、運輸部を新設。(写真7)
昭和38年
芝浦にB号冷蔵庫完成(写真8)
昭和43年
C号冷蔵倉庫完成
昭和46年
大田区平和島の団地冷蔵に京浜第一工場を開設
昭和52年
本社に新社屋とD号冷蔵庫が完成
昭和53年
東京水産ターミナルに進出「大井工場」として稼動開始。(平成2年「大井物流センター」に名称変更)
昭和61年
コンピュータをIBMに切替え、オンラインシステム“INCOME”を開発(写真9)
昭和63年
五十嵐ビルディング完成(写真10)
平成2年
タイ国に冷蔵倉庫の合弁会社“タイマックス・コールド・ストレージ”を発足させる。
平成3年
東扇島に多機能型冷蔵倉庫が完成。「東扇島第一物流センター」として稼動を開始する。
平成6年
東京大井コールドプラザの共同冷蔵倉庫が完成「城南島物流センター」として稼動を開始。日本食肉流通センターのF棟が完成。「東扇島第二物流センター」の収容能力は21,500トンになる
平成7年
「京浜第二物流センター」の二期工事完了。収容能力26160トンとなる。
平成8年
モスバーガー社の三温度帯同時配送を開始。
平成9年
多機能型物流センターとして、埼玉県上尾市に「上尾ロジスティクス・サービス・ステーション」、川崎市東扇島に「東扇島ロジスティクス・サービス・ステーション」が完成。最新設備によるサード・パーティ・ロジスティクスの物流サービスを開始する。
平成10年
タイマックス・コールド・ストレージ社の第二冷蔵倉庫が完成。営業を開始。(収容能力11,000トン)(写真11)
平成12年
団地冷蔵より、C棟を借り増し、「京浜第一物流センター」の収容能力は17,500トンとなる。
平成20年
埼玉県日高市に多機能物流センターとして「日高ロジスティクス・サービス・ステーション」開設。

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