ローマ皇帝であるネルウァは、60歳と老齢ながら皇帝として即位した人物です。
ネルウァは、養子がいなかったためトラヤヌスを後継者にして、世襲制に頼らない五賢帝時代の幕を開きました。
元老院と協調しながら、貧民市民の子供の救済などの施策を実施しました。
公共事業については、既に着工していた工事やインフラの設備に資金を捻出しました。
五賢帝時代は、ネルウァからマルクス・アウレリウスが帝位継承するまで続いたよね!
ぽん太
maru
そんな、ネルウァの生い立ちや帝政での振る舞いについて解説していきます。
目次
ネルウァはどんな人?
- 何代目: ローマ皇帝第12代皇帝
- フルネーム: マルクス=コケイウス=ネルウァ
- 生没: 35年〜98年 (享年62歳)
- 在位: 96年〜98年 ( 2年間 )
五賢帝一人目の皇帝。
60歳という高齢ながら、元老院に推されて皇帝として即位しました。
maru
ネルウァ年表
西暦 ( 年齢 )
- 35年(0歳)
- 法律家で元老院議員の父マルクス・コケイウス・ネルウァとセルギア=プラウティッラの子として誕生
- 65年(29歳)
- ネロ帝(27歳)の暗殺を企てた、ピソの陰謀を阻止
- 元老院から叙勲される
- 68年(32歳)
- ネロ帝が自殺に追い込まれる(享年30歳)
- 71年(35歳)
- ウェスパシアヌス帝(62歳)によって執政官に任命される
- 90年(54歳)
- ドミティアヌス帝(39歳)によって執政官に任命される
- 96年(60歳)
- ドミティアヌス帝(45歳)暗殺後、元老院によって皇帝に推戴される
- 97年(61歳)
- 親衛隊の反乱勃発。ネルウァは軟禁される
- 親衛隊はドミティアヌス帝暗殺者2名を殺害した後、 ネルウァを釈放
- 上ゲルマニア属州総督のトラヤヌス(44歳)と養子縁組
- 98年(62歳)
- 突然激昂した後、意識を失ってそのまま崩御
ネルウァの生い立ちから、即位の経緯まで
老齢ながら、皇帝として即位したネルウァの生い立ちはどのような生活を送っていたんだろう?
ぽん太
maru
これから、ネルウァの生い立ちから皇帝即位まで解説していきますね。
ネルウァの生い立ち
ネルウァは、イタリア本土の都市ナルニに生まれました。
ネルウァ家が属するコッケイウス氏族はイタリア本土の裕福な氏族ではあったが、突出した力はありませんでした。
しかし、アウグストゥスが実質上の帝政をはじめてから、突出した力を持つ勢力へと成長を遂げました。
父は、元老院であるマルクス・コッケイウス・ネルウァと母はセルギア・プラウティッラであり、父は第3代皇帝カリグラ時代の補佐執政官を勤めていました。
都市ナルニには、ネルウァの銅像が掲げられているよ
ぽん太
maru
帝政内での振る舞い
ネルウァの記録はほとんど残っておらず、軍を指揮した記録や元老院で活躍した形跡もありません。
歴史の表舞台に立つのは、65年にネロ帝の暗殺を企てた陰謀をピソ阻止したことことから記載されています。
元老院から勲章されることが後々ローマ皇帝として、即位する第一歩となります。
同年、ネルウァは法務官に指名され宮殿内での地位を確かなものとしました。
また、後に皇帝となるウェスパシアヌスと親友の間柄でした。
そのため、67年におきたユダヤ戦争に出陣する際に、末っ子のドミティアヌスの育児をネルウァに頼んだというエピソードも残っています。
71年になり、ネルウァが35歳になる頃、親しい間柄であるウェスパシアヌスが皇帝となりました。
ネルウァは執政官に任命されて大きな権力を得ることになります。
maru
第14代皇帝であるハドリアヌスの時代には、第二次ユダヤ戦争が勃発したね!
ぽん太
ネルウァの皇帝即位のきっかけ
ネルウァの皇帝即位のきっかけとなったのが、第11代ローマ皇帝ドミティアヌスが暗殺されたことです。
この出来事が皇帝即位への契機となりました。
第11代ローマ皇帝ドミティアヌスが暗殺されたあと、元老院は急遽会議を開き全会一致でネルウァを皇帝とすると、宣言を出しました。
maru
ネルウァが皇帝として指示されたのは、養子がいなかったことと政治経験がある古議員だったので、臨時君主としては都合が良かったと言われています。
ネルウァは65歳であり非常に病弱で、食べ物を戻すこともよくあったとも言われてるよね!
ぽん太
ネルウァの内政
ネルウァが皇帝として即位すると、ドミティアヌスの強圧的な統治に対して、平穏な統治を勤めました。
まず、自分の治世において元老院議員を処刑することはしないと宣言し、ドミティアヌスによって不法に投獄されていた者や没収されていた金品や財産を全て持ち主に返還しました。
民衆への祝い金や貧困層に対する税金の特別免除など福祉政策を実施しました。
そのため、すぐに財政難に陥りドミティアヌスが建設した黄金の銅像や銀の銅像などを全て溶かし、金銀に戻したと言われています。
ネルウァは、元老院より個人的に仲の良い知人を手厚くもてなしたことで反ネルウァ派が形成されることになりました。
民衆からの支持を得ることはできましたが、元老院からの支持を集めることがなかなかできなかったと言われております。
maru
公共事業については、在位期間が2年間だったこともあり着工していた工事に資金を捻出しました。
第15代皇帝アントニヌス・ピウスも貧民救済を行ったよね!
ぽん太
ネルウァの晩年
軍に対してだけは思うように支持を得ることができませんでした。
ネルウァは、平穏な統治や救済などの政策行ったことで内乱の危機を防ぐことはできましたが、自らの発言力があまりにも弱いと感じ、次第に国家の重要な決断を避け始めました。
彼が即位する前に、反逆者の裁判を独断で行わないようにと元老院へ要請していたのですが後に元老院による密告者への処罰を許可しました。
その結果、元老院からの信頼も落ち始め、ネルウァの腹心であったセクストゥス・ユリウス・フロンティヌスは「これではドミティアヌスの強権支配が、ネルウァ帝の無秩序よりは良かった」と言葉を残しています。
maru
このことから、ネルウァが晩年に近くにつて内政が崩壊していたことが推測できます。
ネルウァ、暗殺事件とは?
ネルウァが61歳になる97年に、殺未遂事件が発生しました。
首謀者は処刑されましたが、ネルウァの健康状態が更に悪化する出来事となりました。
上記にも記した通り、ネルウァは子宝に恵まれていませんでした。
そのため、将軍や大名に仕える養子から後継者を選ぶことを決断しました。
当初、ネルウァが後継者として選んだのはイタリア本土生まれの、シリア属州総督マルクス・コルネリウス・ニグリヌス・クリアティウス・マテルヌスであったと考えられています。
しかし、軍や元老院は、軍団としての実績や民衆からも支持が十分にあるトラヤヌスを後継者にするよう訴えました。
maru
ネルウァ崩御とその後
ネルウァは62歳になる98年に脳卒中で倒れ、別荘で崩御しました。
元老院は直ちに、火葬されたネルウァを神格化する儀式を行い、トラヤヌスを新たな皇帝として迎えいれました。
トラヤヌスは軍団長としての実績も厚かったため、民衆も軍は熱狂して支持をしました。
[まとめ] 五賢帝時代の幕を開いたネルウァ
さいごにネルウァについてまとめました。
- およそ、200年間続く五賢帝時代の幕を開けた
- 貧困の市民への救済活動や平穏な統治をおこなった
- 即位時は、65歳であり非常に病弱であった
- 少人数の時には、活躍できるが国をまとめるリーダーシップの要素は持っていなかった
ネルウァは、貧困の市民への救済活動や平穏な統治をおこなった皇帝です。
1年3か月の短い治世の後、養子のトラヤヌスに帝位を譲りました。
世襲にたよらない五賢帝時代の幕を開けたことが高く評価されています。