ローマの平和(パックスロマーナ)は、約206年もの間続いたローマ帝国の黄金時代です。
18世紀のイギリスの歴史家であるエドワード・ギボンは『ローマ帝国衰亡史』のなかで、五賢帝の時代を「人類史上もっとも幸福な時代」と記しました。
当時のローマの人口は最大で7千万にも達したとされて、世界人口の1/3を占めていました。
パックスロマーナの時代は、政治情勢が安定し、地中海貿易、インド洋貿易(季節風貿易)が発展し、ローマの黄金時代を形成しました。
これに倣って、ある時代における強大な勢力による広域的な平和状態を「パクス=〇〇」と言葉を用いてあらわすようになりました。
パクス=〇〇の代表例 ( *「パクス」は、ローマ神話における平和と秩序の女神 )
- パクス・モンゴリカ(Pax Mongolica)
- モンゴル帝国の覇権による平和で安定した時代を指す
- パクス・アメリカーナ(Pax Americana)
- アメリカによる平和という意味
- パクス・ブリタニカ(Pax Britannica)
- イギリス帝国の最盛期である19世紀半ばごろから20世紀初頭までの期間を表した言葉
「パクス・アメリカーナ」、「パクス・ブリタニカ」がその例であり、各時代の覇権を象徴的に表す言葉として用いられています。
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ここから、パックスロマーナと黄金世代を支えた五賢帝について紹介します。
目次
パックスロマーナはローマの「黄金時代」
パックスロマーナは、ローマの「黄金時代」でした。
約200年以上、平和で安定した時代だったことからパックスロマーナは「奇跡」と表現されることもあります。
大規模な戦争などがそれほど起きなかったため、文化や芸術が発達して、ローマ文化は各地に浸透しました。
交通網が整備されて経済活動も活発化し、それに伴ってロンディウム(現ロンドン)、ルナティア(現パリ)、ウィンドボナ(現ウィーン)などの都市も建設されました。
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パックスロマーナが貿易に与えた影響
1世紀から2世紀頃、ローマ帝国を含めたユーラシア交易ネットワークは安定していました。
そのため、草原の道・オアシスの道・海の道といった交易ネットワークを通じて文物や人が盛んに行き来しておりました。
ローマの地中海での貿易は増加し、様々な物品が行き交いました。
スパイス、シルクや宝石などを得るために東へ赴く人が増え、地中海貿易で莫大な富を築いたローマ人も出てきました。
また、建築物や公衆浴場に足を運ぶ旅行客なども多かったそうです。
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このことから、ローマ帝国始まって以来の平和、安定、繁栄がもたらされ「黄金時代」と言われる由縁が分かりますね。
小規模な戦争は行っていた?
パックスロマーナは、安定した平和が保たれてたことは事実です。
しかし、小規模な戦争はたびたび起こっていました。
例を挙げると、
- ワトリング街道の戦い(西暦60年-61年)
- ユダヤ戦争 (西暦66年-73年)
- ローマ内戦(西暦68年-70年)
- グラウピウス山の戦い(西暦83年-84年)
- ダキア戦争(西暦101-102年、105年-106年)
- パルティア戦争(西暦39年-217年)
などの戦争が勃発していました。
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上記のような軍事衝突が起こっており、一度も戦争が起きてないということではなかったことが分かります。
ローマ風の都市の建設
戦争がなくなり、比較的穏やかな時代が訪れ公共事業が盛んになりました。
ロンディウム(現ロンドン)、ルテティア(現パリ)、ウィンドボナ(現ウィーン)などの現代を代表する都市が次々と建てられました。
初代皇帝アウグストゥスの腹心であったアグリッパは、パンテオン神殿やガルドン川に架かるポン・デュ・ガールなど多数の建築物を建造しました。
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大陸の反対側では中国・漢が覇権を築いていた
パックスロマーナの時代と重なるように、東アジアでは後漢が周辺地域を支配していました。
西暦97年に、和帝から西域都護に任命された班超が部下である甘英を大秦国(ローマ)に派遣。
中央アジアではこの時期のローマ帝国のコインが多く出土しています。
これは、漢やローマ帝国が交易の対価としてコインを使用しており、交易の中継地である中央アジアにコインが大量に流入していたことを示しています。
このことから、東西における貿易が発展していたことが分かります。
また、五賢帝の最後の一人マルクス・アウレリウス・アントニヌスは、中国に使者を送っています。
東西交渉まとめ
- ローマ帝国(大秦国 ) ← 後漢 ( 陸路 )
- 後漢の班超が部下の甘英をローマ帝国に派遣。
- ローマ帝国(大秦国) → 後漢 ( 海路 )
- 後漢の班超が部下の甘英をローマ帝国に派遣。
後漢では、和帝に西域都護として任命された班超の部下である甘英がローマ帝国(大秦国)に派遣されたよね。
だけど、地中海の航海が困難であったため条支国(シリア)まで至ったあと引き返したって耳にしたことがある!
ぽん太
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また、当時皇帝であったマルクス・アウレリウス・アントニヌは中国(後漢)に使者を送り、大秦国王安敦からの使者が来たと記録されています。
パックスロマーナはアウグストゥス(尊厳者)の即位から始まった
パックスロマーナの始まりとなる皇帝は、初代ローマ皇帝アウグストゥスです。
彼は、英雄カエサルの後継者であり、アクティウムの海戦に勝利し内乱の1世紀を集結させ、ローマ帝政を開始しました。
アウグストゥスは自己をプリンケプス(第一の市民)と自称し、「独裁なんてするつもりはない」と言って元老院と上手く政治を行ったと言われています。
対外的にはウォルス将軍率いるゲルマン人にトイトブルク森の戦いで破れ(9年)、ゲルマニアから撤退、以後ライン川・ドナウ川を北境としました。
ゲルマン人を国境で食い止めることが重要であることを認識したため、濠と物見やぐらをそなえた防塁、すなわちリメスを築きました。
東方はパルティアと講和し、ユーフラテス川をローマの東端としました。
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ローマの黄金時代を支えた五賢帝
およそ200年間続いたパックスロマーナの時代ですが、その中でも皇帝が優秀な人物を養子として相続させ、5代の名君が連続したローマ帝政の最盛期のことを五賢帝時代(96年〜180年)と呼びます。
五賢帝とは以下の5人を指します
- ネルウァ ( 在位期間 96年〜98年 )
- トラヤヌス ( 在位期間 98年〜117年 )
- ハドリアヌス ( 在位期間 117年〜138年 )
- アントニウス・ピウス( 在位期間 138年〜161年)
- マルクス・アウレリウス・アントニヌス( 在位期間161年〜180年 )
ぽん太
これから、五賢帝と呼ばれる名君について簡単に紹介するよ!
ネルウァ ( 在位 : 96年〜98年 )
68歳で病におかされていたが、元老院に推され皇帝となります。
元老院との調停に努め、国内の混乱をおさめました。
また、子供がおらず、軍の支持を得られなかったことから、当時軍に人気のあったゲルマニア総督のトラヤヌスを養子として、トラヤヌスに皇帝を譲ります。
世襲にたよらない五賢帝時代の幕を開けたことが評価されています。
トラヤヌス ( 在位: 98年〜117年 )
彼は寛容・質素な性格で軍・民ともに人気のあった人物で、ネルヴァの養子になると翌年即位しました。
また、元々軍人であったため、対外政策には守勢から攻勢に転じ、ブリタニア(ルーマニア)を征服しました。
一時的ではあったが、アルメニア・モロッコ・ブリテン島南部などを征服し、ローマ街道の総延長距離は15万キロメートルに及びました。
ハドリアヌス ( 在位: 117年〜138年 )
トラヤヌスの死後、元老院に推され即位。
内政を重視し、ローマの平和に勤めるとともに、帝国全土を二度巡回しました。
ブリタニア(現在のイギリス)に防壁を築きました。
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アントニヌス・ピウス(在位:138年~161年)
ハドリアヌスの養子となり、ハドリアヌスの死後即位。
彼は穏健で慈悲に富んだ人物とされています。
「先代のハドリアヌスが歩くのも不自由になった頃、体を支えてあげた」、「生まれつき思いやりのある人だった」などさまざまな理由が記録に残されています。
そのため、慈悲深い皇帝であったと言われています。
大きな戦争はおこなわず、大きな災厄もなく、当時の人々にしてみれば安定した良き時代だったと思われます。
ハドリアヌスの意向に従って、養子を取り、マルクス=アウレリウス=アントニウスとヴェルスに帝位を譲りました。
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マルクス・アウレリウス・アントニヌス(在位:161年~180年)
スペインの名門貴族の出身。
11歳にしてストア派の哲学者になり天才と評されます。
69年にルキウス=ウェルスが死ぬと単独で皇帝となり、「哲人皇帝」と称され、寛仁な性格で善政を敷きました。
パルティアやゲルマン人の侵入に悩まされ、ウィーンの陣中で病死します。
彼が歴代の賢帝の戒めを破り、不肖の息子コンモドゥスを帝位につけました。
コンモドゥスはネロ以来の暴君といわれ、ローマは再び混乱に陥りました。
また、ギリシア文化へ憧れの傾向があったため長年髭を伸ばし続けていました。
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パックスロマーナはいかに築かれたか
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約200年間の間続いた、パックスロマーナはいかにして築かれたのかについてご説明します。
「平和は大切」というプロパガンダが利用された
初代ローマ皇帝アウグストゥスが帝政を始めた頃は、戦争が絶えず行われていました。
戦争や内乱に明け暮れるローマ人は、聞いたことがない概念だったのかもしれません。
そのため、戦争をしない「平和」は大切だというプロバガンダが広まり、パックスロマーナの実現につながりました。
パックスロマーナが訪れる前の第5代皇帝であるネロ帝の治世は戦争反乱で明け暮れていたね。
ぽん太
民衆を手厚く尊重した
軍事力だけで国を統治することはできなかったため民衆を手厚く尊重しました。
パックスロマーナが始まる前の皇帝ドミティアヌスの統治が暴虐だったことも関係していると言われています。
ネルウァは、民衆への祝い金や貧困層に対する税金の特別免除など福祉政策を実施を行いました。
トラヤヌスは、頻繁に街中を歩くなどして、民衆に寄り添った統治を行い好意的に受け止められました。
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充実した公衆浴場
パックスロマーナ時代、水を多く使うことが富の象徴とされていました。
400以上もの公衆浴場があり、「温気浴室」「蒸気浴室」「熱気浴室」のほか、「マッサージ室」「プール」「運動場」「図書館」などの設備もついていました。
そのため、当時のローマ市民にとって、浴場は出会いの場であり、休養保養の場でありました。
公衆浴場は入浴目的以外にも使用されました。
公衆浴場のためにローマまで足を運ぶ旅行客もいました。
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様々な分野が発展した
パックスロマーナ時代は、比較的平和な時代が続きました。
そのため、文学や芸術、化学、農業などが発達しました。
世界遺産にも記録として残されている建築物が多く建築技術や幾何学などの学問も発展したと考えられています。
コロッセオなど娯楽事業に注力した
コロッセオなど多数の建造物が建てられ娯楽事業にも力を入れていました。
市民の生活が困らないよう多くの公共事業を行う建前として、娯楽事業の建物を多く建設したとも言われています。
まとめ
さいごにパックスロマーナの時代を以下にまとめました。
- およそ200年の間、平和が続いた
- ローマ帝国は、五賢帝時代が最盛期だった
- 世襲に頼らない政治を行った
- 小さい戦争はたびたび起こっていた
- 経済や文化、芸術の面でも大きく発展を遂げた
パックスロマーナは、最も幸福な時代と揶揄されるほど平和な時代でした。
当時発達した、学問や芸術、建築技術などは現代の社会にも参考になるほど洗練されていました。