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ブータン唯一の国際空港がある町パロで人気の観光地、タクツァン僧院Photo: Kelly Cheng / Getty Images

ブータン唯一の国際空港がある町パロで人気の観光地、タクツァン僧院
Photo: Kelly Cheng / Getty Images

ワシントン・ポスト(米国)

ワシントン・ポスト(米国)

Text by Joanna Slater

ヒマラヤの小国ブータンを旅行中、同国の新型コロナウイルス「感染者第1号」となったアメリカ人男性は、重篤に陥るも九死に一生を得た。奇跡の背景には、現地の医師らの手厚い看護、ブータン国王の格別な配慮、世界を股にかけた救出大作戦があった。

「幸福の国」の祈りが届いた


76歳のアメリカ人旅行者が、ブータン王国ののどかな首都ティンプーの病院に到着したのは3月初旬、冷涼な日だった。

きわめて奇妙な症状だった。患者は腹痛と息苦しさを訴えるも、血圧や心拍数などのバイタルは正常。ただしひとつだけ例外があった。血中酸素濃度が異様に低かったのだ。

診察した医師たちがモニターの故障を疑うほどだった。ひょっとして、と思った彼らは、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の検査をおこなった。

その患者、バート・ヒューイットはメリーランド州で年金生活を送る男性だった。大のハイキング好きの彼は、ブータン初の新型コロナウイルス感染症患者と確認された。

世界の屋根と言われるヒマラヤ山麓に78万人が寄り添って暮らす小国ブータンは、国民総生産(GNP)よりも「国民総幸福量(GNH)」を追求する国として知られる。

ブータンの首都ティンプー 
Photo: Andrew Stranovsky Photography / Getty Images


ヒューイットの予後はかんばしくなかった。彼は高血圧持ちのガン生還者で、脾臓摘出手術を受けており、免疫系統がダメージを受けていた。容体は急速に悪化した。

しかしそれを除けば、ヒューイットはことのほか幸運だったといえる。国民の敬愛を一身に受けるブータン国王から気遣ってもらったほか、生物学的封じ込めユニット付きジェット輸送機でアメリカに帰国できたのだ。

ブータンからアメリカまで約1万3000kmの長旅は困難極まり、マイク・ポンペオ国務長官がのちに言及して賛辞を送ったほどだった。それというのもヒューイットが、「率直に言って助かる見込みなし」とみなされた重篤患者だったためだ。

ヒューイットが死の淵から生還したことは、ブータン国民にとっても自慢の種だ。立憲君主制に移行して10年余りの若い民主国家は、いまも国王を崇拝する。

「陛下から、彼の世話をしっかりするように」と命じられたと、デチェン・ワンモ保健相は言う。「国じゅうが、バートのために祈りをささげていました」


ワンチュク国王が自ら陣頭指揮


ヒューイットの旅の始まりは2月半ばのこと。パートナーでロサンゼルス在住の心理学者サンディ・フィッシャー(59)と一緒に、インドとブータンを巡る旅程だった。

ふたりは1週間かけてインド北東部を流れるブラマプトラ川を船で下りながら、小さな村々に立ち寄った。川下り最終日の夜、船のスタッフが豪勢な晩餐会を用意したが、ヒューイットは食欲がまったくなく、一口も食べることができなかった。

その後、ヒューイットとフィッシャーは、延々と切れ目なく続くヒマラヤ山脈に向かって北へ飛び、ブータンへ。谷あいにある、この国唯一の国際空港に降り立った。

ヒューイットの胃の調子は悪くなるばかりで、息切れも感じていた。それでもふたりは、古都プナカまで足を延ばし、年に一度の祝祭で住民と交流した。そしてプナカの旅が終わった頃には、ヒューイットは歩くのもままならない状態になり、首都ティンプーの病院を訪れた。

当初、医師たちは食あたりを疑い、いったんはヒューイットを帰した。だが彼の症状は治まらず、3月4日、再び病院へ。24時間以内に答えは出た。新型コロナウイルスだった。

ブータンの保健当局にとって、これは恐れていた事態の到来だった。防疫官はすぐにヒューイットが接触した人々の追跡に取りかかった。ブータン国王ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュクも夜通し、感染経路追跡の陣頭指揮を執っていたと、デチェン・ワンモ保健相は述べる。

翌朝には、ヒューイットと直接接触があった73人が隔離施設に移された。間接接触者225人は、自宅隔離を言い渡された。インド北東部のアッサム州では、公衆衛生当局が600人近くを追跡。その中には川下り船の乗組員も含まれていた。

バート・ヒューイット(左)とサンディ・フィッシャーはインドとブータンを巡る旅に出かけたが…
Photo: Sandi Fischer.


ブータン人と国王から次々と見舞い品が


ヒューイットとフィッシャーは、先々代国王ジグミ・ドルジ・ワンチュクの名前を冠したティンプーの中核病院にある新病棟へ移された。現国王はヒューイットに、青いシルクのパジャマとベッドシーツを送った。

国王はふたりの健康状態を気にかけ、しきりに尋ねた。国王はフィッシャーに電話で、物理学の素養のあるヒューイットといつかブラックホールについて話をしたい、と述べたという。

「国王はすばらしい方でした。格別の配慮をくださり、とても親切に気遣ってくれました」と、フィッシャーは話す。彼女は、医師でもあるブータン首相ロテ・ツェリンからも電話を受けたという。

国民から敬愛されているブータン国王夫妻
Photo: Mark Cuthbert/UK Press via Getty Images


病院には、見知らぬ人々からの手紙や花が次々と届いた。ヒューイットの病室の窓からは、仏教徒のお祈りの白い旗が何十本もはためいているのが見えた。

医師と看護師の献身的な治療にもかかわらず、ヒューイットの容体はますます悪くなった。彼の肺のエックス線写真を見たとき、「ゾッとした」とフィッシャーは言う。

医師はヒューイットに、もう打てる手立ては人工呼吸器の装着しかないと告げた。ヒューイットが覚えているのはここまでだ。その後10日間の記憶はない。

ナイロビから飛んだチャーター機代は…


その頃、米メリーランドにいるヒューイットの子供たちは大騒ぎだった。長女は政府に助けを求め、父を無事に帰国させてほしいと直訴した。

国務省の医務官ウィリアム・ウォルターズは、フェニックス・エアに打診した。同社は医療救助の専門知識を持つ、民間チャーター機の運営会社だ。

生物学的封じ込め設備を搭載したジェット輸送機は、ブータンから最も近いところでケニアのナイロビにあった。この輸送機が、看護師と救急救命士を含むクルーを乗せてブータンに向かった。

フィッシャーは病院の窓越しに、ヒューイットが人工呼吸器を装着されたまま病院を出て、待機する救急車に乗せられる光景を見た。彼の姿を見るのはこれで最後かもしれない、と彼女は思った。

ヒューイットはチャーター機で帰国するため、ブータンの病院から救急車で搬送された
Photo: Sandi Fischer.


ジェット輸送機はインドのコルカタ、ドバイ、ギリシャのクレタ島、パリ、カナダのニューファンドランドに立ち寄って燃料を補給し、新しいクルーを乗せていった。

3月14日の早朝。ブータンを飛び立って30時間以上をかけて、ジェット機はメリーランド州に着陸した。ヒューイットはメリーランド大学メディカルセンターに搬送された。彼の長女がケアマネジメント部長として勤務している病院だ。

このパンデミックのなか、国務省はこれまで8万5000人以上のアメリカ人の帰国を助けたが、そのうち新型コロナ感染症患者は20人のみだった。日本に寄港中に集団感染を起こしたクルーズ客船「ダイヤモンド・プリンセス」の乗客14人と、その他6人である。

6人のケースはそれぞれに「特有の困難」があったが、ブータンから移送されたヒューイットの救出作戦が最もハードルが高かったと国務省のウォルターズは言う。ヒューイット以外の患者はナイジェリア、ジブチ、チャド、コンゴ共和国からだった。

ウォルターズによれば、このような医療救助費用は20万ドル(約2200万円)以上。患者の家族が負担する約束になっているという。

ブータンの医師のおかげで救われた


ヒューイットは10日間、人工呼吸器につながれていた。目覚めたとき、その場にいた医師からはこう言われた。

「ブータンの医師たちが試みた処置が何であれ、おそらくそのおかげであなたの命は救われたのです」

ヒューイットは初めのうち、ナースコールのボタンを押せないほど衰弱していたが、その後は本人も驚くほど急速に回復した。

ブータンを離れたとき、パスポート以外の所持品はすべて現地に置いてきたが、それらはバイオハザードバッグに密封されて戻ってきたという。

結局、フィッシャーも新型コロナの陽性反応が出たが、無症状のままで終わった。彼女は、ヒューイットからの感染が確認された唯一の患者だった。ふたりと接触したツアーガイドや運転手を含むブータン人はすべて陰性で、インドで接触した数名も陰性だった。

娘にパスポートを没収されそう!


5月初旬、ヒューイットは以前の日課だったエクササイズをこなせるまでに回復していた。自宅近くの森を通るアップダウンのある道を歩く約8kmのウォーキングだ。

フィッシャーはブータンで7週間を過ごしたあと、なんとかしてカリフォルニア州の自宅に戻ることができた。彼女とヒューイットはいま、毎朝の電話を欠かさず、連絡を取り合っている。

死を覚悟していたと語るヒューイットは、コロナから回復したことについて、まだうまく説明できずにいる。

「こうして生き延びることができたのは奇跡だと、いまも思っています」

根っからの楽天家であるヒューイットは、これまで旅行保険にも無関心だった。「今後はもう少し慎重にならないとね」と、彼は笑う。

とはいえ、当分の間はどんな旅行にも行けないようだ。パンデミックのせいではなく、「パスポートを取り上げると娘に脅されているからね」。

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