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柄谷行人と韓国文学
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更新日:2020年2月22日
/ 新聞掲載日:2020年2月21日(第3328号)
柄谷行人と韓国文学 書評
「近代文学の終り」のインパクト
韓国文学界からのリアクションとともに論じる
柄谷行人と韓国文学著 者:ジョ・ヨンイル
出版社:インスクリプト
本書は、柄谷行人「近代文学の終り」(二〇〇四年)が韓国文学界に与えたインパクトやリアクションを論じた一冊である。「近代文学の終り」は、韓国の文芸誌『文学トンネ』(二〇〇四年冬号)に掲載されると大きな反響を呼んだ。「近代文学の終り」の根拠として、ほかならぬ韓国文学が言及されていたからである。
柄谷の「近代文学の終り」は日本でも賛否両論を巻き起こした。だが、ずっと柄谷を読んできた者からすれば特に衝撃はなかった。柄谷が「近代文学の終り」から出発した批評家であることは自明だったからだ。『日本近代文学の起源』は「終り」から系譜学的に見いだされた「起源」であるし、文芸時評集に『反文学論』と銘打つ批評家は、当初からすでにオワコンである近代文学の批判=吟味を行う存在だった。
本書は、韓国の文芸批評家であるジョ・ヨンイル(曺泳日)の第一評論集である(第三評論集『世界文学の構造』はすでに日本語訳がある)。ジョもまた「近代文学の終り」から出発した批評家だということだろう。高井修の「訳者あとがき」によれば、特に「国民作家」の黄晳暎を真っ向から批判した「第五章」は大反響だったようだ。だが、それは四〇万部のベストセラー『パリデギ―脱北少女の物語』を批判したからばかりではない。「ここで注目すべきなのは、ジョが、他ならぬ黄晳暎がその形成に関わったとも言える――文学者への創作支援金制度を作ったのは黄晳暎自身である…――韓国の三位一体の文学システム(国家による創作支援―教授となった作家による大学の文芸創作科での作家養成―一部大手出版社による作家の囲い込みと共有ならびに図書定価制を無視した割引による有名作家の優遇)を理論的に批判するだけでなく、自ら出版界に飛び込んで実践も始めたということだ」。韓国では宝くじの収益の一部が作家の創作支援金にあてられている。ジョにすれば、目前の韓国文学システムが、黄ら権威を保護優遇する「資本―国民―国家」の三位一体システム(柄谷)そのものなのだ。
したがって、「近代文学の終り」や中上健次の遺志を継いで実現した日韓文学シンポジウムでの柄谷の呼びかけは、本書の論じるように、概ね韓国側の反発を受けるか無視された。多くの文学者が、そのシステムにパラサイトしているからだ(日本での反応も似たりよったりだった)。だが、ジョが言うように、「柄谷が同シンポジウムで一貫して行なっていたのは両国の作家の親睦をはかることや出版産業の交流ではなく、近代文学批判とネーション批判であった」。すなわち、柄谷が呼びかけたのは、ネーション=ステート形成の装置だった「近代文学」を超える超国家的な連帯(ゲーテの「世界文学」にも似た)だった。それは「近代文学」の政治性に自覚的=批評的な文学者だけが可能にする。「近代文学の終り」とは、「終り」に直面したからこそ可能になる、「近代文学」に無自覚であることの「終り」だったのだ。
だが、韓国での無理解には日本とは決定的に異なった側面があった。本書第四章で論じられる「民族」の問題である。柄谷は、「民族解放」はブルジョア革命をはらんでいるので、韓国では左翼こそ「ネーション」を実現し、「民族」が革命性を帯びていたことは分かるが、今後それが外部に向けられれば帝国主義や排外主義になると警告した。だが、対する白楽晴は、「民族」や「ネーション」を重視し、それがなければ謝罪も不可能だとした加藤典洋『敗戦後論』の方を評価した。
このすれ違いは、だが単に文学システムの問題ではなく、いわば日本資本主義論争の問題だろう。絓秀実『天皇制の隠語』が喝破したように、柄谷の『起源』や「終り」は、労農派=一段階革命論的な文学の世界同時性の視点から論じられており、まずは(第一段階は)「民族」の重視という講座派=二段階革命論的な韓国側の視点と、連帯への戦略を共有できなかったのだ。韓国側からすれば、柄谷の「終り」が「民族」、すなわち「天皇制」の問題を都合よく「終」わらせ乗りこえてしまったように見えたのだろう。現在の日韓関係が、この両者の対立の延長上にあることは言うまでもない。(高井修訳)(なかじま・かずお=批評家)
柄谷の「近代文学の終り」は日本でも賛否両論を巻き起こした。だが、ずっと柄谷を読んできた者からすれば特に衝撃はなかった。柄谷が「近代文学の終り」から出発した批評家であることは自明だったからだ。『日本近代文学の起源』は「終り」から系譜学的に見いだされた「起源」であるし、文芸時評集に『反文学論』と銘打つ批評家は、当初からすでにオワコンである近代文学の批判=吟味を行う存在だった。
本書は、韓国の文芸批評家であるジョ・ヨンイル(曺泳日)の第一評論集である(第三評論集『世界文学の構造』はすでに日本語訳がある)。ジョもまた「近代文学の終り」から出発した批評家だということだろう。高井修の「訳者あとがき」によれば、特に「国民作家」の黄晳暎を真っ向から批判した「第五章」は大反響だったようだ。だが、それは四〇万部のベストセラー『パリデギ―脱北少女の物語』を批判したからばかりではない。「ここで注目すべきなのは、ジョが、他ならぬ黄晳暎がその形成に関わったとも言える――文学者への創作支援金制度を作ったのは黄晳暎自身である…――韓国の三位一体の文学システム(国家による創作支援―教授となった作家による大学の文芸創作科での作家養成―一部大手出版社による作家の囲い込みと共有ならびに図書定価制を無視した割引による有名作家の優遇)を理論的に批判するだけでなく、自ら出版界に飛び込んで実践も始めたということだ」。韓国では宝くじの収益の一部が作家の創作支援金にあてられている。ジョにすれば、目前の韓国文学システムが、黄ら権威を保護優遇する「資本―国民―国家」の三位一体システム(柄谷)そのものなのだ。
したがって、「近代文学の終り」や中上健次の遺志を継いで実現した日韓文学シンポジウムでの柄谷の呼びかけは、本書の論じるように、概ね韓国側の反発を受けるか無視された。多くの文学者が、そのシステムにパラサイトしているからだ(日本での反応も似たりよったりだった)。だが、ジョが言うように、「柄谷が同シンポジウムで一貫して行なっていたのは両国の作家の親睦をはかることや出版産業の交流ではなく、近代文学批判とネーション批判であった」。すなわち、柄谷が呼びかけたのは、ネーション=ステート形成の装置だった「近代文学」を超える超国家的な連帯(ゲーテの「世界文学」にも似た)だった。それは「近代文学」の政治性に自覚的=批評的な文学者だけが可能にする。「近代文学の終り」とは、「終り」に直面したからこそ可能になる、「近代文学」に無自覚であることの「終り」だったのだ。
だが、韓国での無理解には日本とは決定的に異なった側面があった。本書第四章で論じられる「民族」の問題である。柄谷は、「民族解放」はブルジョア革命をはらんでいるので、韓国では左翼こそ「ネーション」を実現し、「民族」が革命性を帯びていたことは分かるが、今後それが外部に向けられれば帝国主義や排外主義になると警告した。だが、対する白楽晴は、「民族」や「ネーション」を重視し、それがなければ謝罪も不可能だとした加藤典洋『敗戦後論』の方を評価した。
このすれ違いは、だが単に文学システムの問題ではなく、いわば日本資本主義論争の問題だろう。絓秀実『天皇制の隠語』が喝破したように、柄谷の『起源』や「終り」は、労農派=一段階革命論的な文学の世界同時性の視点から論じられており、まずは(第一段階は)「民族」の重視という講座派=二段階革命論的な韓国側の視点と、連帯への戦略を共有できなかったのだ。韓国側からすれば、柄谷の「終り」が「民族」、すなわち「天皇制」の問題を都合よく「終」わらせ乗りこえてしまったように見えたのだろう。現在の日韓関係が、この両者の対立の延長上にあることは言うまでもない。(高井修訳)(なかじま・かずお=批評家)
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