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【ドラニュース】投げたくても…カーブを投げられなかった板東英二「たったひとつの変化球」はルーキー時代に監督直伝2020年5月25日 11時31分
渋谷真コラム・龍の背に乗って[強竜列伝・板東英二]板東英二(1940~)はカーブを投げられない。 「数えるとき、こうして指を順に折っていくでしょ?ほら。中指と薬指が一緒に曲がるんです。これではカーブは投げたくても投げられなかったんです」。1で親指、2で人さし指。何度やっても、板東の3は同時に曲がる。ケガが原因ではなく、物心ついたときからそうだった。 4人きょうだいの末っ子として、旧満州に生まれた。終戦直前にソ連軍が侵攻。命からがら帰国した。一家を含む引き揚げ者が暮らしたのは、徳島県板東町(現鳴門市)にあった「板東俘虜収容所」。第1次世界大戦中に使用され、ドイツ兵捕虜が日本で初めての「第九」を演奏したことでも知られる。 徳島商では夏の甲子園で史上初の引き分け再試合を演じ、通算83奪三振は今も大会記録だ。その快投は、板東いわく「真っすぐだけ」でやってのけた。さすがにプロでは変化球が必要だが、カーブは無理。「たったひとつの変化球」として覚えたのがフォークだった。入団時の監督が杉下茂だったのが幸いした。神様直伝のフォークを瞬く間にものにした。 「僕は指も短いので苦労しましたけどね。必死にはさむ練習をしましたよ」。杉下に積極的に起用され、2年目の60年には早くも2桁勝利。翌61年には開幕投手を務めるなど、とんとん拍子にエースへの階段を上がっていった。 思い出深い白星は66年8月26日の巨人戦(後楽園)。8回2死二、三塁のピンチを1球で断ち切り、9回に味方打線が逆転した。このときに代打を送られており、裏の守りは他の投手が締めくくった。試合後に「生まれて初めて。ついてる」と破顔したが、それもそのはず。役割が細かく分担される今では珍しくないが、当時の「1球勝利」は希少価値。セ・リーグ初だった。もっともこれがシーズン13勝目。通算77勝で、2桁も5度記録した。「ついてる」だけの男ではなかった。 PR情報
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